未来への鍵・11



目の前に広がるのは、果てしなく広がる空と心癒される緑の木々。ガーデンのパヴィヨンへと続く、バージンロード両脇の椅子に飾られた、清らかな白い花とグリーンが甘い香りを放ち俺たちを包み込む。木漏れ日から差し込む太陽の光がシャワーとなって降り注ぎ、祝福のそよ風が頬をくすぐるガーデン・・・多くの恋人たちが永遠の愛を誓う場所。石畳を彩るフラワーシャワーの絨毯に君と佇めば、想い描いていた通りの優しく温かな時間がここにある。


香穂子の頬を両手で包んだまま、触れ合わせていた額を僅かに離せば、楽しげな吐息が唇を振わせ小さく背伸びをした。身を屈めたままの俺の額にこつんと額を触れ合わせた香穂子は、小鳥のようにさえずりながら甘えて擦り寄ってくる。くすぐったい吐息と悪戯な額が離れたと思ったら、蓮くんあのね・・・と内緒話のように囁き、息を潜めて輝く悪戯な瞳。君の声が届くようにもっと身を屈めれば、つま先立ちでめいっぱい背伸びをした唇が、柔らかな温もりを額に届けてくれた。


はにかむ君の頬が薄い桃色に染まってゆくように、額へキスをしたのだと気付いた俺の顔へも、同じ熱がじんわり込み上げるのを感じた。だが周囲に人がいるのを思い出したらしく、慌ててきょろきょろ周囲を見渡すと、ヴァイオリンを抱き締め恥ずかしそうに俯いてしまう。ふいうちに俺を驚かそうとしたのに、逆に恥ずかしさで真っ赤になってしまうなんて君らしいな。

俺の背中で君を隠しているから心配しなくていい・・・誰にも見えないから。穏やかに諭しながらも、跳ねる自分の鼓動を押さえるのに必死で。俺の心を捕らえて放さない、くるくる変わる魅力的な表情一つ一つが愛しくて堪らない・・・そう思えた。


ありがとう、香穂子・・・微笑みのそよ風に乗せて微笑むと、潤む瞳と真っ赤な顔で小さく振り仰ぐ。交わる眼差しが木漏れ日に溶けて、やがて柔らかに綻ぶ笑顔に変わった。


「もう少し早く来ていれば香穂子の演奏をたくさん聴けたのに、途中からになってしまって残念だ・・・。まぁ俺が、照れ臭さに入り口でためらっていた僅かな時間がいけなかったんだが。だが少しでも、君の演奏が聴けて良かった。ヴァイオリンを弾く度に、香穂子の音色を思いだしていたから。やはり、直接音色を感じられる幸せに勝る物はないな」
「私の出番は、まだもうちょっとあるの。この模擬挙式の後に、このガーデンと白いテントのパヴィヨンが、デザートブッフェのパーティー会場に変わるんだよ。私は歓談しているみんなへ、音楽でおもてなしをする為にヴァイオリン弾くの。蓮くん、この後時間はまだ平気?」
「あぁ、今日の予定は全て終わったから後は空いているんだ。もし良ければ、もう少しここで香穂子のヴァイオリンを聞いていたいんだが・・・邪魔になってしまうだろうか」
「ん〜平気だと思うよ、後でチーフに相談してみるね。ふふっ、嬉しいなぁ。やっぱり電話だけじゃものたりなくて、蓮くんに会ったら話したいことがたくさんあったの。それに私も、蓮くんのヴァイオリンが聞きたいな」


ヴァイオリンを小脇に抱えた香穂子が、押さえきれない喜びのまま飛びつくように、俺の両手を包みきゅっと握り締めた。嬉しそうに笑みを綻ばせながら振り仰ぐ眼差しを受け止めると、感じる確かな温もりが、足りなかったパズルのピースとなって埋まり、心も身体も満たされる。君がいれば他には何もいらない・・・と照れ臭い言葉が浮かぶほどに、たった一人のかけがえ無い君が、俺の中で大きく膨らみ溢れてしまうんだ。このまま君を抱き締められたら、どんなにか良いだろう・・・だが今は我慢だ。


「あれ? 蓮くん、脇に抱えているピンク色の大きな封筒はなぁに?」
「あぁこれか。見学だと受付で伝えたら、貸し切り制の邸宅レストランとブライダルフェアの資料を手渡されてしまった。確かパンフレットには、ヴァイオリンを弾いている香穂子が映っているんだったな。見たいと思っていたから、ちょうど良かった」
「やっ・・・恥ずかしいから、蓮くんは見ちゃ駄目っ! それ私によこして!」
「どうして恥ずかしがるんだ、香穂子がヴァイオリニストとして認められた証だろう? それに・・・その、いつか来る、俺たちの将来にも必要だと思うんだが・・・駄目だろうか」
「も、もう〜蓮くん、それ反則だよ」


小脇に抱えていた封筒に視線を止めた香穂子は、中身がパンフレットだと知り、茹で蛸に染まった顔で必死に腕を伸ばしてくる。だが俺が交わす方が早く、見ては駄目だと泣きそうな顔で奪おうと必死だ。ヴァイオリンを持っているのだから、大人しくして欲しいと、諫めれば悔しそうに唇を噛みしめ、しぶしぶ動きを止めてくれる。やっと静かになったな・・・小さく安堵の溜息零し真っ直ぐ瞳を射貫き、心の奥まで見つめれば、大きな瞳を見開き息を詰めて。君と二人で眺めたい・・・俺たちの未来のために、そう真摯に想いを伝えると、香穂子の頬がみるまに赤く染まってゆき、見えない湯気を立ち上らせてしまった。

ヴァイオリンを前に抱き締めながら、色づく頬で恥ずかしそうに俯き小さく頷く・・・。もじもじと手を弄りながら照れ臭さを堪える君を見て、プロポーズにも等しい事を言ってしまった自分に気付いたが、どうやらもう遅いらしい。どこまでも高く広がる空から吹き抜ける秋風だけが、頬の火照りを冷ましてくれた。


「日野さんお疲れ様、素敵な演奏だったわ。ふふっ、模擬挙式のモデルな新郎新婦よりも、あなたたちの方が主役みたいね」
「ち、チーフ! 見てたんですか・・・やだもう、恥ずかしいなぁ」
「あなたは、先程の・・・」
「蓮くん、チーフを知ってるの?」
「あ、いや・・・知り合いではないが、エントランスホールからガーデンまで案内してくれたんだ。香穂子の上司なんだろう? 向こうは俺の名前も知っていた、あなたが日野さんの大切な人の月森蓮くんねと・・・。君はどう俺の事を話しているのかと、さすがに照れ臭かった・・・」
「え、そうだったの!? もう〜チーフったら意地悪なんだから、何もそのまんま蓮くんに伝えなくてもいいのに〜」


やはり君が言ったのかと・・・予想通りな答えに嬉しいやら、照れ臭いやら。熱くなる頬を隠すように口に手を当て、ふいと視線を逸らし、零れる溜息を隠した。黒のスーツに通信用の小型インカムを耳に付け、髪をきりりと束ねた女性がやってくると、香穂子はぷぅっと頬を膨らまして拗ねている。俺たちの目の前までやってきて小さく笑みを零したのは、拗ねた君へなのか。それとも拗ねた君も可愛らしいと想いながら、目を奪われていた俺へ向けられたものなのか・・・。我に返り小さく咳払いをすると、香穂子が改めて俺を紹介してくれた。


「蓮くん紹介するね。こちらは私の上司のウエディングプランナーさんでね、私たち演奏家もとりまとめてくれているの。新郎新婦さんとの打ち合わせだけじゃなくて、パーティーの運営責任者もしているんだよ。ステージでいう所のステージマネージャさんみたいな人かな。チーフはね、ちゃきちゃきしたキャリアウーマンに見えるけど、元ヴァイオリニストなの。芸大を主席で卒業しているし、国際コンクールで何度か優勝しているなんて凄いよね。ここにいるのがもったいないって思うの」
「あら、元っていうのは、正解じゃないのよね。仕事があるから活動の時間が短くなったけれど、今でも弾いているわよ。仲間のライブに呼ばれれば、サポートとして参加しているし音楽から離れた訳じゃないしね。私は私の意志でこの道に惚れ込んで選んだんだから、悔いは無いわよ。音楽を愛した人間はどんな形であれ、音楽から一生離れられるわけが無いじゃない」


蓮くんは知ってる?と香穂子が告げた一人の女性ヴァイオリニストの名前に、記憶の糸が結びつく・・・思いだした。確か俺たちがまだ星奏学院に通っていた頃、難関と呼ばれた国際コンクールで、日本人として初めて優勝をした人物だ。その後もいくつかの国際コンクールでタイトルを取り、世界で最も注目されていたヴァイオリニストだったはず。それが突然世界の表舞台から姿を消したのは、若くして結婚や出産というプライベートな事がきっかけだったようだが・・・。

それまで作り上げてきた自分の殻を、惜しげもなく脱ぎ捨ててしまえるほどの、何かに出会ったのだろう。新たな道を進む、自信に満ち溢れた輝きと強さが教えてくれる。


「数年前、日本で行われた国際コンクール入賞者のガラコンサートを、俺も聞きに行きました。あなたの演奏を、今でも覚えています。この邸宅レストランが音楽に力を入れている事や、演奏家の質の高さ、生演奏の温かさに定評があるのは、あなたの指導があったからなんですね」
「ふふっ、そんな大げさなものじゃないわよ。私の力なんてちっぽけなものだけど、日野さんやみんなの力があるから良いステージができるのよね。私にはかけがえのない人と、絶対に守りたい小さな命があるのよ。彼らの笑顔を守るために私が音楽で出来ることはなんだろうって・・・考えたの。出した答えはプロとして世界を飛び回る事じゃなくて、彼らの傍で幸せを音楽で運ぶこと。このお店私が結婚式した場所なんだけど、旦那以来の一目惚れだったわ〜。私のステージはここって想えたの」


音楽に関わる人間は専門実技の先生との師弟関係や、同門の学生同士の上下関係などから、礼儀作法やコミュニケーションの取り方をしっかりたたき込まれている。また何時間も時間をかけて練習しなければいけない世界なので、人知れず忍耐力や集中力を養っている。音楽から来るひらめきや、センスの良さもあるため、音楽以外の世界でも力を発揮することが多いそうだ。


逆に音楽とは無縁の所からやってきて有名な音楽家になる人もいるわよねと、隣に佇みじっと耳を傾ける香穂子に視線を向け、慈しみに満ちた優しい微笑みを注ぐ。大きな瞳を見開き、きょとんと不思議そうに聞いているが、香穂子は自分の事だと気が付いているだろうか。惜しげもなく殻を破り違う道を進むのも才能なら、音楽と関わりない世界から飛び込んだ君は、演奏家に必要な大切なものをたくさん持っていた。

だがどんな才能あっても、それを磨き続けていく努力が無くては輝くことはない。素人だった君が立派な音楽家になったように、何かに対してして努力を重ね、道を進み続ける事こそ最大の才能だと俺は思う。


「さ、私の話はこの辺でお終い。私が見つけた本当のステージはここだけど、日野さんが目指すべきステージはここじゃないでしょう? もっと別の、大きくて大切なステージがあるはずよ」
「え・・・!?」
「目指した道の行き先は、自分にしか分からないの。でも自分で自分を評価しちゃ駄目よ、可能性は無限大なんだからね。ね? 月森くんも、そう思うでしょう?」
「そうですね、俺も・・・そう思います。だが、決めるのは彼女です」
「蓮くん、私・・・・」


静かに、真っ直ぐ瞳を見つめて告げた俺に、香穂子は驚きに目を見開きじっと受け止めていた。きゅっと唇を噛みしめ、呟いた言葉の先を必死に言葉にしようと紡いでいる。すぐに答えが欲しいんじゃないんだ、どうか焦らないで欲しい。


今、香穂子が立つステージは、木漏れ日のシャワーが降り注ぎ、どこまでも青空が高く澄み渡る柔らかな芝生の舞台。
君が立ちたいと願う本当のステージは、大切な人の傍でいつでも奏でること・・・いつかは俺の傍で。そう伝えてくれたのは渡欧したときだったな。だがそれで本当に良いのだろうか、君はこんなにも皆から愛されているのに。

俺も・・・誰もが彼女のヴァイオリンを愛しいと想い、大きな世界と舞台へ羽ばたく事を願っている。けれど本当に奏でたいと願う、自分だけのステージを決めるのは彼女だ。どんな場所でも音楽は出来るが、心が伴わなければ俺が望む音色・・・彼女らしい自由で温かな音色が生まれないだろう。


「日野さん、この後はガーデンパーティーでも一曲弾いていくのよね。そうだ! 月森くん、良かったらあなたも一緒にヴァイオリン弾いていかない? せっかく楽器を持っているんだし。あっ! こういう頼み方は良くないわよね」
「いや、その・・・」
「もしこの後時間があったら、日野さんと一緒にヴァイオリンを弾いて頂けないかしら。ブライダルフェアにいらしてるゲストも、きっと喜んでくれるわ。サロンの責任者として、ヴァイオリニストの月森蓮さんに、是非ともお願いしたいの」
「いえ・・・ですが、俺はここのスタッフではありませんし・・・ここは香穂子のステージです」
「何を求めているかを素早く察知し、希望を叶えるべく動くのが、プランナーの仕事なのよ。この邸宅レストランは貸し切りのアットホームな雰囲気だけじゃなくて、生演奏をコンサートとして楽しみにするゲストが多いの。特に、日野さんの演奏をね。それに二人で演奏したいのは、他の誰よりも日野さん本人の願いでもあるから・・・ね?」
「ち、チーフ! も、も〜今日のチーフは意地悪ですよ。私が困ること知ってて、想っていること全部言うんですから」
「あら、日野さん困るの? パーティーに、ひらめきとサプライズはつきものじゃない」
「そういうの、行き当たりばったりっていうんですっ。無茶なお願いして蓮くんが困ると、私も困っちゃいますっ!」


ぷぅと頬を膨らませて睨む香穂子に、チーフと呼ばれた女性は、悪びれもせず悪戯に肩を竦めて見せた。だがすぐに瞳を優しく緩め目線を合わせると、穏やかに諭すように微笑みかける。隠しても音色は正直だから分かるのよ、私だって音楽をやっているから分かるもの・・・と。はっと息をのんで動きを止めた香穂子の、強気に保っていた瞳がじんわりと潤みだしてゆく。

どんなに言葉で繕っていても、隠しきれない想いは音色が語っている。
だからこそ人の心に真っ直ぐ届き、どんなに離れていても、心を震わせるんだ・・・海を越えて俺に届くように。


「カルテットや挙式よりも、新郎新婦たちがガーデンで、みんなと寛ぐ時に奏でる音色の方が優しく温かいんだもの。一人で弾いているはずなのに、心に響くのは二人分の音なのよ。温かくて優しくて・・・重なる心と幸せは、たくさんの幸せを連れてくるのよね。優しくされると、他の誰かにも笑顔で優しくしたくなるように、音楽も一緒だと私は思うわ」
「一人なのに、二人分の・・・音? それって私の音に蓮くんがいるって事ですか?」
「あなたたちが生み出す音楽の素敵な奇跡を、この目で見たいなって思ったの。人は誰でが心の中に幸せをの鍵を持っているのよ、その事に気が付かないだけ。日野さんの明るいヴァイオリンの音色は、みんなの心を開く鍵なのよ。だからほら見て、演奏が終わった後のゲストが、素敵な笑顔をしているでしょう?」


ほら見てと誘われて見渡す広いガーデンには、光に溶けた優しい音色の余韻が満ちて、誰もが笑顔を浮かべていた。俺の堅く閉ざした心の扉も、君が開けてくれたんだったな。空が高く青いことも、世界が音楽で満ち溢れていることも、道端にある小さなものに幸せがあることも・・・みんな君が教えてくれたんだ。君の音色は心の鍵、確かにそうだと俺も想う。宝の箱を開く鍵でもあり、鍵そのものが大切な宝物なのだから。

俺の心にもあるのだろうか、君の心を開くその鍵が。あるのなら、音色に変えて君に届けたい・・・一緒に扉を開こう。
きっと扉の向こうには新しい世界が広がり、どこまでも高く羽ばたいてゆけると思うから。


「・・・俺に出来ることがあったら、手伝わせて下さい」
「蓮くん!」
「香穂子と一緒のステージに、立ちたいんです。香穂子の音色が皆の心を開く鍵であるのなら、俺は彼女の心を開く鍵でありたい。俺にもその鍵があるのなら・・・香穂子と二人なら、きっと多くの人の心を開けられると・・・そう思います」


真っ直ぐ告げた俺に、ありがとうと笑みを浮かべると、ジャケットのポケットから取り出した紙に、ペンで何かを書き記している。書き終わって一緒に取り出したカードホルダーへ戻すと、手渡されたのは黒いストラップの付いた透明なカードホルダー。今日の日付と責任者のサインが入っており、表にはバックステージパスと書かれた、従業員用のランヤードタグだった。
これを付けていれば一日、香穂子と裏でも一緒にいられる・・・。


そういう訳で二人ともよろしくねと、笑顔を向けて颯爽と踵を返し、人混み消えていった黒いスーツの背。隣で言葉無く佇んでいた香穂子と見送ると、一つ大きく呼吸をしてから向き直った。もしかして、勝手に返事をしたから怒っているのだろうか。
すまない・・・そう言いかけた俺の言葉を遮るように、ヴァイオリンを抱えたままの香穂子が、懐まで歩み寄り、胸の中へポスンと頭を預けてきた。小さく震える肩に鼓動が跳ね、苦しさに眉を寄せて耐えながらも、そっと抱き包み彼女の言葉を待った。


「・・・ありがとう、蓮くん。蓮くん突然なお願いで困るかと思って心配してたの。ふふっ、さすがにチーフの耳はごまかせないよね。本当は一緒に演奏したかった・・・ずっと願っていたんだもの。同じステージで一緒に演奏できるのが、凄く嬉しいの・・・ありがとう」
「香穂子・・・」


やがて聞こえてきたのは、ありがとうの言葉。目を見張る俺に、目元を赤く染めた香穂子がちょこんと振り仰ぎ、精一杯の笑顔で想いを言葉に託しくれた。その言葉を伝えたいのは、俺の方だ・・・だからなんどでも伝えよう。
ここにいてくれてありがとう。一緒に奏でる機会をくれてありがとう。俺の心に、幸せをありがとう・・・と想いを込めて。