未来への鍵・10



打ち合わせが終わったら真っ直ぐこの場所に行け・・・香穂子に会える、彼女のヴァイオリンが聞けるからと。先に自由時間を満喫している筈のヴィルヘルムから、携帯で知らされた場所に辿り着きいた先は、自宅から近い港を望む山の手。ヨーロッパの郊外にあるウイークエンドハウスを模した、閑静な邸宅レストランだった。ディスプレイに表示された住所や名前と表札を照らし合わせ、間違いがないことを確認すると、指示通りに来た旨を手短に返信し、携帯をポケットに閉まった。


臨海公園でヴァイオリンを弾いていたヴィルヘルムは、偶然通りかかった香穂子に会ったらしい。俺がタクシーの移動途中に香穂子を見かけ、追いかけたものの見失ってしまった・・・その後くらいなのだろう。今日の午後から会える予定だったが、急にバイトが入ったと電話で声を交わしたのが今朝だった。君に会えない日がもう一日続くのかと、心の底では寂しく思っていただけに、友人のささやかな気遣いに感謝せずにはいられない。


香穂子が音大に通いながら、パーティーや挙式でヴァイオリンを奏でるアルバイトをしている、そのゲストハウスが確かこの場所だ。生演奏にこだわりを持ち、時にはサロンコンサートも行うほど、質の高い演奏を聞かせてくれるのだと。空いた時間には練習も出来るし、ソロやアンサンブルなどいろいろな経験も出来る。それだけでなく、パーティーが終わった後には、余ったケーキを食べられるのが楽しみだと言っていたのを思い出す。


いつもは閉ざされているであろう黒いアイアン製の門は解放され、ウエルカムのボードとピンクと白の花で作られたリースが飾られている。明るい石造りの壁にひっそり立てかけられた小さな看板には、今日がブライダルフェアである事を告げており、数組のカップルが出入りをしたり、中から賑やかな宴の様子が漏れ聞こえてきて・・・。だが、一人では照れ臭さに気後れしてしまい、なかなか一歩を踏み出すことができない。

第一に何と言えばいいのだろう。見学に来たと伝えたばかりに、資料を渡され担当者が付いてしまっては・・・困る。ここは正直に、演奏を聞きに来たと言うのが一番良いかも知れないな。


ご自由にどうぞと書かれているのだし、こんな機会でなければ彼女の仕事ぶりを直接見ることもないだろう。門の前に佇み迷う間に、一体今まで何組のカップルが通り過ぎて行っただろうか。石造りの階段を上った先にある邸宅の玄関、その横には緑溢れるガーデンへ続く小道が延びており、奥から微かに響いてきたのはヴァイオリンの音色。耳にすっと馴染む心地良い音色は、どんな微かな囁きでも聞き逃すことはない。そう・・・ずっと求め続けていた、愛しい音色なのだから。


「この音色は・・・香穂子だ」


迷うことなど無いんだ、最初から答えは決まっているだろう? 香穂子のヴァイオリンを聞くために・・・香穂子に会いたくてここへ来た、立ち止まっている時間も無いんだ。一つ深い呼吸をして気分を落ち着かせれば・・・ほら、煌めく優しい音色が微笑みを浮かべ、俺に手の差し伸べこっちだよと誘っている。今会いに行こう、君の元へ。心の中で呼びかけるとヴァイオリンケースをしっかり持ち直し、アーチ型をした石造りのゲートをくぐり抜けた。






重厚な木戸を開いた中には大理石のエントランスホールが広がり、優雅なアーチを描く階段の下には大きな花のアレンジメントが飾られている。天井には上品な輝きを放つ、クリスタルのワイヤーシャンデリア。外観だけでなく内部もヨーロッパ直輸入の家具や調度品でしつらえらえてあり、品の良さを漂わせる細部までこだわりが感じられる。

数組のカップルが階段に立ち、プランナーから説明を受けているのは、きっと絶好の撮影スポットだからなのだろう。香穂子が白いドレスを纏ってこの階段に立ったら・・・どこで撮っても絵になるからと、いろいろな場所でカメラをねだりそうだな。聞こえてくる説明を何気なく耳にしながら、つい想いを馳せていた自分の口元が、いつの間にか笑みを浮かべているのに気付き慌てて引き締めた。


予想通りに受付で封筒に入った厚めの資料を手渡されてしまい、手に感じる重みが少しだけ嬉しいような、困ったくすぐったい気分にさせてくれる。最新のカタログには、ヴァイオリンを奏でる香穂子が映っているらしい。見たいと本人に頼んだが、恥ずかしがって結局送ってはくれなかったな。

俺の手にそのカタログがあると知ったら、きっと真っ赤に頬を染めながら駆け寄り、俺の手から必死に奪おうとするのだろう。君がいる場所を知れば、もっと近くに感じられる気がするんだ。それだけでなく俺たちの将来のためにも、その・・・いつか必要になるかもしれないだろう?


もらった封筒からスケジュール表を出して眺めると、ガーデンのパビヨンにて模擬挙式、ヴァイオリンの生演奏と書かれている。ヴァイオリニストの名前は書かれていないが、きっとこれが香穂子に違いない。先ほどはガーデンから香穂子のヴァイオリンが聞こえてきたから、庭に出れば会えるだろう。だがその庭へはどう出たら良いのだろう。
踵を返してもう一度エントランスホールに戻り、スタッフの誰かに訪ねようと周囲を見渡していると、黒のスーツを身に纏ってインカムを身に着けた女性が気づき、足早にやってくる。


「こんにちは、何かお探しですか?」 
「すみません、ガーデンへの行き方を教えて頂けますか? レストランや婚礼の見学ではなく、香穂・・・いや、こちらで友人がヴァイオリンを弾くというので聞きに来たんです」
「ヴァイオリンケースを持っているって事は、日野さんのお友達ね。今日はお友達が聞きに来るかもって言っていたから、待っていたのよ。もうすぐ庭で模擬挙式と、ガーデンパーティーが始まるから案内するわね。 日本語を話す外国人のお兄さんも来るかもって聞いていたけど、お一人かしら?」
「えぇ、俺一人ですが・・・」


エントランスホールにいたスタッフへ機敏に指示を出すと、一歩先に進み肩越しに俺を振り返り、こちらへと廊下の奥を示した。後について行くと人混みを抜けたところで表情を柔らかいものに変え、もしかしてあなたが日野さんの大切な人、月森蓮くんね?と訪ねてくる。はいと返事をしたものの、俺を大切な人だと言っていた事も認めていると気づき、頬へ熱が込み上げてきた。香穂子は日頃、俺の事を何と皆に伝えているのだろうか・・・俺を信じ自信を持って大切な人だと胸を張る、その真っ直ぐな想いが嬉しくもあり、ちょっぴり照れ臭い。


素直な所は二人とも良く似ているわねと、小さく零れた笑みに視線を向ければ、ガーデンへ続く扉を開きながら困ったように微笑んでいる。その意味を問いかけようとしたところで、重厚な木の扉が開かれ眩しさに細めた。目が慣れてくると、扉の向こうに溢れるのは、広大な庭へ満ちる光と緑と花の香り。庭師によって整えられたイングリッシュガーデンの小道を、柔らかい芝生を踏みしめながら歩いてゆけば、ヴァイオリンの音色と、歓声が少しずつ近付いてきた。この光の先に、君はいるんだな。


「留学先から帰ってくるんだって、日野さん嬉しそうにしていたのよ。私は彼女の上司をしているんだけど、お休み希望はしっかり聞いていたのに・・・急な演奏を頼んでごめんなさいね。今日は午後から二人で会う予定だったんでしょう? どうしても他に、代役のヴァイオリニストが立てられなかったの」
「どうか、気にしないで下さい。そのお陰で俺は、彼女のヴァイオリンが聞けるんですから」
「ありがとう・・・本当はね、これから幸せの一歩を考える、多くの人たちが集まるブライダルフェアだからこそ、彼女の温かく優しい音色を聞いて欲しかった。日野さんがパーティーでヴァイオリン弾くとね、みんなが楽しそうな笑顔になるの。いつもパーティーの最後にワルツを弾くんだけど、打ち合わせもしてないのに新郎新婦が踊り出すのよ」
「俺が留学している国では、結婚式の最後に新郎新婦がワルツを踊るんです。渡欧したときに、向こうのパーティーで一緒に奏でた事もありました」
「じゃぁ月森くんのお陰なのね。踊り方なんて分からないながらも、リズムに乗って楽しそうに踊る・・・身体が自然と動いちゃうのよね。幸せだったというお手紙をもらったり、口コミで評判を呼んでご指名が来るほどなのよ」


香穂子の音色は優しい心を素直に表すから、真っ直ぐ心に届くし温かい・・・幸せが幸せを呼び、大きく膨らむ光景が目に浮かぶようだ。 つるバラのアーチには秋に咲くバラが花を咲かせ、甘い香りを漂わせていた。緑のアプローチを抜けた先に広がるのは、街中であることを忘れるほどの静けさを湛えた緑溢れるガーデン。一際眩しい白さを放つ、大きな白いテントのパビヨン・ドゥ・ノーチェス・・・婚礼パビリオンに響く、厳かでで優美なヴァイオリンの調べに、視線も心も吸い寄せられ時が止まる。見つけた、やっと会えた・・・君に。


「祭壇の隣にいるヴァイオリニストが見えるかしら? 音色で分かると思うけど、あそこで一人奏でているのが日野さんよ」


白いガーデンテントの奥にある石造りの祭壇には、金の十字架が据えられて、大切な人に見守られながら幸福な未来を願うセレモニー祭壇の脇でヴァイオリンを奏でているのは、白いブラウスに黒のロングスカートという、式用の衣装に身を包んだ香穂子だった。香穂子のヴァイオリンに乗せてソプラノシンガーが賛美歌を歌い、祝福をする・・・。優しい木漏れ日が彼女の音色に溶け合い、温かな眼差しとなって新郎新婦へと注がれていた。


遠く海を離れた留学先で、何よりも欲しいと願ったのは香穂子の温もりと笑顔、そしてヴァイオリンの音色だった。離れていた時間を埋めるように、語りかけてくる音色にじっと耳を澄ませば、心の氷が溶けて温もりが宿るのを感じる。君が目の前にいる・・・すぐ傍で音色が奏でられ、真っ直ぐ届く音色に叶う幸せは無い。


二人で歩み出す特別なこの日に、変わらぬ愛を形に出来たらどんなに素敵だろう。これから始まる新しい日々の中、どんな時も互いを信じ続けることは、何にも勝る心強さに違いない。光と花びらのシャワー、幸せの第一章を奏でる君の笑顔とヴァイオリン・・・夢を描くひとときが胸の奥が熱く震わせた。鞄の中にしまってある二枚のCDも、早く香穂子の元へ行きたいと俺を急かし、小さく身動ぎ出す。


だから俺も君への想いを誓おう。確かな言葉と腕の温もりとヴァイオリンで、どんな時も二人の想いを支えられるように。白いガーデンテントのパビヨンからゲストが去ると、ヴァイオリンを持った香穂子が、花びらの絨毯と戯れ話しかけるように、ゆっくり歩み寄ってきた。いってらっしゃいと笑顔で見送るプランナーに礼を言い、一歩一歩近付く度に喜びと嬉しさと緊張が混ざり合い、鼓動が駆け出しそうになる。


電話では何度も声を交わしていたのに、直接会うのは夏のバカンス以来だな。こんな時も、久しぶり・・・と言うべきなのだろうか。だがきっと瞳が交われば、沸き上がる熱い想いが溢れてしまい、何も言葉にならなくなると分かっていた。空高く澄み渡る青空から吹き抜ける、冷たい秋風が敷き詰められた花びらを舞い踊らせる。ふわりと立ち上る甘い香りに包まれ微笑む香穂子が、足下から視線を上げると少し先に佇む俺に気付き、驚きに目を見開いた。


「ただいま、香穂子」
「蓮くん・・・・! どうしてここに・・・・」
「ヴィルが教えてくれたんだ。ここに来れば香穂子のヴァイオリンが聞けるから、会いに行けと。良い演奏だったな」
「あっ、そうだった。バイトに来る前に臨海公園に寄ったら、ヴァイオリン弾くヴィルさんに会って、誰でも自由に入れる今日のブライダルフェアの事を伝えたの。そっか・・・ヴィルさん、蓮くんに伝えてくれたんだね」
「本当は昼間、臨海公園の近くで香穂子を見かけたんだが、タクシーで移動途中だったから見失ってしまった。もう会えないかと思っていたが、会えて良かった。今朝も電話で話したから、久しぶりというのは変な気もするが・・・暫く会わない間に、綺麗になったな」
「蓮くん・・・。蓮くん、おかえりなさいっ・・・・!」


吸い寄せられる視線のまま、互いを求めて引き寄せ合う。香穂子は片手でヴァイオリンと弓を抱え、長いスカートの裾を摘みながら・・・俺も真っ直ぐ駆け寄り、足下へ鞄とヴァイオリンケースを置いた。楽器を持っているのと人前という事もあり、懐へ飛び込みたいのを寸前で堪えた香穂子の瞳が、俺を映すとくしゃりと歪み見る間に潤みを湛えてゆく。背を抱き締めようと伸ばしかけた手を引き戻し、微笑みを注ぎながら指を這わせ、指先で目尻と頬を伝う光の軌跡涙を拭う。両手で包み込み、抱き締める変わりにそっと身を屈め、額を触れ合わせた。