目に見えない、何か素敵なもの・6

受話器の向こうからパラパラと手帳を捲る音が聞こえると、試験の終了日を告げて、この翌日から旅立ちたいのだと希望を告げてくる。一日も早く香穂子に会えるのは俺も嬉しい、俺だってそう望んでいるんだ。
だが・・・その日付をカレンダーと照らし合わせて、眉を顰めた。胸に走った嫌な予想通り、レコーディングの為にスタジオへ籠らなければいけない日程と、見事に重なっている。

沈黙に圧されるように受話器を強く握り締め、声を絞り出した。


「・・・すまない。渡欧の予定を、少し伸ばしてもらえないだろうか?」
『え? もしかして今回は会えないって事?』
「違うんだ、全く会えないという事じゃない。二週間・・・いや、出来れば一ヶ月程遅らせて欲しい」

『一ヶ月って、どうして突然そんなに・・・夏休みが終っちゃうじゃない!? ずっと前から話をしてたし、蓮くん何も言わないから、てっきり私もそのつもりで楽しみにしていたんだよ』


驚きのあまり受話器から飛び出したのかと思う程、荒げて大きくなった彼女の声が俺の耳を切り裂いた。
鈍い疼きと籠る耳鳴りに思わず受話器を少しだけ離してしまい、遠く聞こえる「蓮くん!」と呼びかける声のする方をじっと見つめ、再び静かに耳へとあてる。


香穂子の大学のテストが終ったらすぐに会おう約束は、冬に会った時から交わしていたし、その約束の日まで一ヶ月を切っている。どうして今頃に突然という、信じられない彼女の意見は当然だ。しかも数日や1週間とは訳が違い、一ヶ月の延期は果てしなく長い。

予定では二〜三週間程らしいが、俺も初めてだからスケジュールが読めないというのもある。俺も一刻も早く会いたいから直ぐにと言いたかったが、こればかりは俺一人でどうにかなる問題では無いし、何があるか分からない。やはりもう少し遅らせて欲しいと何度も後で予定を変えたら、それこそ彼女を裏切る事になってしまう・・・だから余裕を持って一ヶ月。この時点で待ち望んでいた心を既に一回裏切ったのだと想うと、胸に痛みが走る。


本当は出来上がる喜びから君と喜びを分かち合いたいのだが、伝えるにはまだ早い。
早いというよりも、ここまで来たら今更・・・と思われてしまうようで、伝える機会を逃したと言ってもいいだろう。

CDのレコーディングをするスタジオは、住んでいるベルリンから少し離れた街にある為、仕上げまでの数週間はスタジオに籠らなければならない。その他にブックレットの編集や撮影など・・・側にいながら黙っているには余りにもやる事が大掛かりで多すぎた。早々に気付かれるのは時間の問題だし、途中からでは余計に話がこじれる可能性が高い。最初にかけ違えられたボタンのせいで、全ての歯車がかみ合わずにずれてしまいそうだ。


だがそれ以上は強く食い付こうとはせず、心配そうに声を和らげて聞いてきた。
ぶつけたい寂しさと悲しさを必死に奥へと隠しながら・・・自分よりも俺を気遣って。


『ねぇ蓮くん何かあったの? 予定を一ヶ月も延ばすなんて、よっぽど大変な事が起きてるんじゃない? 大丈夫? 私が遊びに行っても平気なの?』
「・・・ちようどその頃、少し音楽の関係で予定が立て込んでしまったんだ。恐らくは家を空ける事になると思う。折角きてもらっても、香穂子を残して一人にさせてしまうだろう。君にもしもの事があったら心配だ」
『・・・本当に、理由はそれだけ?』
「それだけ、とは?」
『うぅん・・・何でもないの、気にしないで。私なら平気だよ、一人でもちゃんと蓮くんの家で留守番出来るから。空港までのお迎えも心配しないでね。合鍵貰ってあるし、道も分かるからタクシーで辿り着けると思うの』
「いや、そういう事ではなく・・・」
『同じ待つなら離れて待っているよりも、蓮くんに近い場所で待っていたいの・・・駄目?』


言葉の最後は切なげな甘い吐息となって空気を震わし、大きな潤む瞳で振り仰ぐ彼女の願いが、真っ直ぐ俺に届いてきた。香穂子は何か気付いているのかもしれない・・・不安になっているのかも知れない。
隠す程に相手には伝わるもの・・・そんな学長先生の言葉が脳裏を過ぎり、鼓動が大きく跳ね上がった。


俺まで不安になっては駄目だ。胸の中に湧いた不安、それは俺自身が作った一部。
不安を敵にするともっと大きくなって俺たちを苦しめ、必ず君にも伝わってしまうから。

この腕に抱き寄せずにはいられないのに、目の前の君は俺が描く幻でしかなくて。
同じように君の前にも、幻の俺がいるのだろうか。
君を不安にさせて悲しませている俺は、一体どんな姿なのだろう・・・今と同じ表情をしているのだろうか


声は側に聞こえて呼吸も気配も感じるのに、近いようで果てしなく遠い距離がこんな時ばかりもどかしく思う。
側にいれば言葉に出来ない想いも、直接腕と温もりで君に伝えられるのに。
宙を虚しく掴んだ手をそっと開くと、小さな温もりの欠片を感じた。

それは空間を越えてやってきた、君の想いの欠片。
見つめた手の平を壊さないように優しく握り締めると、心へ溶かすように瞳を閉じて胸へと押し当てた。



俺の誕生日に何の前触れも無く、突然ドイツまでやってきた過去があるから、来ると言ったら一人でも来るだろう。初めてでは無いのだし、なによしも一度決めたら何があろうとも前へ突き進む行動力があるから。
開けていた家に戻って見れば、君が待っていたという事態も考えられなくも無い。
俺だって、今すぐに君に会いたいんだ。近くにいられたら・・・君の待つ家に帰れたらどんなにか幸せかと思う。

行きたい時に行き、会いたい時に会いたい人に会える。
たったそれだけなのに、どうしてこんなにも難しいのだろうか。
多くのものを超えて手に入れる自由は貴重だからこそ、喜びもひとしおで感謝したいと思うのだろう。


何か言わなくてはいけないのに俺も君も、言葉が見つからずきっかけも掴めない。
受話器越しに微かに聞こえる呼吸を感じながら、お互いに相手の言葉を待っている。相手を気遣うといえば聞こえが良いが、いつまでもこうしているのは、自分から言い出す勇気が足りなくて、弱いからなんだ。
そんな長い沈黙を守っていた香穂子が、弾けるようにクスリと笑った。


『なーんてね!』
「香穂子?」
『分かったよ、本当に一ヶ月でいいの? 私はいつでも良いから、蓮くんの都合に合わせるよ』
「・・・何も聞かないのか? 君からは何も言わないのか?」
『ふふっ、聞いて欲しいなんて変な蓮くん。後ろめたい隠し事に耐え切れなくなった人みたいだよ〜。それにね、詳しく理由を聞いたら教えてくれるの? 直ぐに会いたいって言ったら、すぐに会える?』
「それは・・・・・・・」


まさにその通りだ。秘密にしたいし直ぐには会えない・・・本当だからこそ言えなくて。
受話器を持つ手に汗が滲みながら、声を詰まらすことしか出来ない。

聞こえる声音は跳ねるように軽やかだが、あえて明るく振舞っているのが痛々しいほどに分かる。
言葉は想いを正直に語っていて、微笑みのオブラートに包まれてはいるものの、俺へと鋭く向けられいた。
約束が伸びたのと、はぐらかされるように理由知らされない両方が不安の芽となり、少なからず心に傷を負わせてしまったのだ。苦しさに耐え切れず、嘘をつけなくてつい口に出してしまった迂闊さを、深く後悔した。


『困らせて、ごめんね。浮気してるんじゃないかって心配したって言ったら、蓮くんびっくりする?』
「なっ!そんな筈はないだろう。俺の音色が向かうのも、見つめているのも・・・俺が欲しいのは、香穂子だけだ」
『ありがとう・・・すごく嬉しい。真っ直ぐ言われると何か、照れちゃうね・・・。本当はね、ちょっとショックで寂しかったけど大丈夫、信じてるから』


待ちに待ち望んだ日だと言うのに、理由も聞かず反論するでもなく。ふわりと笑っている香穂子が聞き訳が良すぎるように思えて、逆に不安になってしまう。強く反論された方が良かったと思う俺の我侭さに、心の中で矛盾を感じるが、彼女が壊れてしまうよりはずっといい。感情を表に出さず悲しみを奥に秘め隠すのは、そうとう辛い時だと決まっていたから・・・。聞こえる笑顔の向こうでどんな顔をしているのか、見えない悔しさに拳を強く握り締めた。


『蓮くん忙しいんでしょう。大学の勉強とかレッスンとかコンクールとか、プロへ向けての活動とかそれから・・・。本当はこの夏休みだって蓮くんにとって大事な時期だって分かってる、私と遊んでいる場合じゃないって。一緒にいたいって無理をお願いしているのは、私なんだし。蓮くんが無理しちゃうのは嫌だもん』
「一緒に過ごしたいのは香穂子だけじゃなく、俺の望みでもあるんだ」
『翼になっても重荷にはなりたくないんだよ。でも苦しそうとか、思い詰めた感じじゃないから、ホッとしているっていうのもあるかな。蓮くん気付いてた? 冬に会う前までくらいとは違う感じがするもの。ゆとりが出てきたっていうか・・・忙しそうだけど、充実してて楽しいでしょう。だって生き生きしているもの』


そう言われて俺は驚きに軽く目を見開き、香穂子の声が聞こえる受話器に視線を注いだ。
君が充実した日々を送って楽しいのが俺にも感じるように、やはり何も言わなくても分かるものなんだなと。
どんなに隠していても良くも悪くも感情は伝わるのだと、学長先生が仰っていた通りだ。

俺が楽しければ何故かと分からないなりに君も楽しくて、不安になれば更に大きな影となって君を襲うのだろう。
ならは俺は夢を見続けなければいけないな。生きて思い描く夢を・・・君にも感じてもらえるように。


「寂しい想いをさせてしまって、すまない・・・。君の期待を裏切った結果になったな」
『期待が大きかった分悲しいのは確かだけど、会うのが少し遅くなっただけじゃない。今まで数年も会えずに我慢してきたんだよ。それに比べたら、たった数ヶ月なんてあっと言う間だもん。あまり考えたくないけど、また予定が変わるようなら早めに言ってよね。飛行機のキャンセル料や手配とか、バイトの予定もあるから。予定が伸びた分、しっかりヴァイオリンも練習してバイトも入れて稼がなくちゃ』


振り切るように明るく弾ける笑顔の君が、苦しげに眉を寄せる俺の前にふわりと現われた。また難しい顔してるでしょうと悪戯っぽく見上げてくるが、目元が薄っすら赤く、聞こえる吐息に涙の香りが漂っているのを感じた。
泣いているのかと言ったら、強がる君の心を余計に傷つけてしまうだろうか。
薄っすらと光る目尻の雫を指先で拭い去りたくても、目の前に君がいない・・・。

香穂子・・・と優しく呼びかけると何かを響きから感じ取ったのか、話題を急に変えて飛びついてきた。


『蓮くん、一人でもちゃんとご飯食べてる? いくら国民性とはいえ、夜にパンとハムだけって絶対に寂しいと思うの、夜は温かいものを食べなくちゃ! 最近料理を頑張ってるんだけど、レパートリーが増えたから楽しみにしててね。大きな家に一人でも、部屋の掃除やお庭の手入もたまにはしなくちゃ駄目だよ』

「料理の苦手な俺にも出来るようにと、香穂子が送ってくれたレシピで休日には作っているよ。君の美味しさには叶わないが・・・やはり君の手料理が楽しみだな。それに一緒に庭へ植えた種が芽を出して、随分大きくなった。香穂子来る頃には、綺麗な花を咲かせているだろう」
『本当!? じゃぁ今度、蓮くんの手料理が食べたいな。お花も世話してくれてすごく嬉しい。いっぱい咲くと良いよね〜楽しみがいっぱい増えたよ』
「それに少し前まで海外公演に来ていた母が、俺のいるドイツの家に暫く滞在していたんだ。父も出張があって立ち寄ったし、久しぶりに家族が揃ったんだ。不器用な息子が料理をしたうえに花を育てていると、両親が驚いていた。これも香穂子のお陰だな、ありがとう。日本だとなかなか揃わないのに、不思議な感じがした」

『そう・・・良かった。一家団欒ができたんだね』


ふわりと俺をつつむ温かさと優しさは、心の底からの君の想い。

どんなに辛くても寂しくても滅多に弱音を吐かずに、明るく真っ直ぐな姿は周囲の誰もが彼女に励まされた。
一人が平気な人などいる筈が無いのに・・・寂しくて辛い時こそ誰かに支えて欲しいと思うのに。
大丈夫だと見せる笑顔を信じて、その影で人知れず零していた涙にずっと気付けずにいたんだ。
それなのに俺は、いつも君に甘えてしまう・・・今も。


君に伝えなければ。
全てはまだ伝えられないけれど、俺を信じて待っていてくれる想いに応える為に。
このままでは、きっと笑顔で電話を切った後に人知れず涙を流すだろうから。
君を悲しませたくない・・・一人で泣かせたくはないんだ。


大切なのはどうなるかよりも、どうしたいか。
将来や身の回りのこと・・・夢を描きながら自分の想いを大切にしよう。
その想いが人生をつくってゆくのだから。


「香穂子、聞いて欲しい事があるんだ」
『どうしたの、急に改まって』
「今は全てを伝えられないが、君に届けたいものがある。だがそれはとても大きなものだから、香穂子だけでなくて、他の多くの皆にも秘密にしなくてはならないんだ。それにこの先暫く、連絡がつきにくくなるかも知れない」
『私への贈り物って何? 今回の日程の延期に関係あるの?』
「俺の夢と君の夢を一つにしたものを、形にしている。夢が叶わない殆どの理由は思っているだけで行動しないか、あるいは直ぐに諦めてしまうから。それを実現させる為に具体的に行動して、そして途中で諦めなければ夢は叶う。俺は諦めない、もうすぐだから。だから香穂子も一緒に夢を見て欲しい、生きて思い描く夢を」
『・・・っ! 蓮くん・・・・・』
「プレゼントが完成したら想いのリボンをかけて、直ぐに君へ届けよう・・・俺が直接」


どうか悲しまないで・・・不安に支配されないで。
焦りと不安を覚えた時こそ、耐えなければ。耐えて耐えぬいて、共に信じて待とう。

瞳を緩めて優しく語りかけると、空気が震えて微かな嗚咽が漏れ聞こえてくる。
受話器を離し口元を手で押さえながら、泣いているのを悟らせないようにと必死に堪えているのだろう。


涙は種、空から降る雨と同じ光り輝く魔法の雫。
いつの日か日差しの中たくさんの花を咲かせる為の種だから、心の中に大きな花畑を作ろう。
嬉しい時や寂しい時、泣きたい時には思いっきり泣いてしまった方がいい。
うれしい時にいっぱい君が笑えるように。


但し一人では泣かせない。君の雨を俺も一緒に受け止めよう。
どんなに焦って心を曇らせたとしても、自分の力だけで花は咲かす事ができない。
君と一緒だから、地中に眠る種のように俺たちの花は必ずそこに咲くのだから。