目に見えない、何か素敵なもの・5
大丈夫、その悲しみは続かない。降り止まない雨が無いように・・・止まらない涙が無いように。
それは何度も自分の心へ言い聞かせ、遠く離れた君へ届けた言葉。
俺がドイツに渡って暫くしてからは声や連絡を交し合う回数も徐々に減ってゆき、季節の節目ごとの手紙やメールのやり取りだけで、一時は連絡が途絶えかけた・・・そんな時期もあったけれど。
今では少し前までなら考えられないくらい頻繁に、香穂子とメールや電話でやり取りを交わすようになった。
共に側で過ごした高校時代と同じような気軽さが、俺たちの心の中に戻りつつある。
会えなかった時間を埋めるように濃密な一冬を共に過ごしてから、俺たちの中で何かが少しずつ変わったのだと思う。距離や時差、忙しさを理由にしたり意地になったり。見えない壁を作っていたのは物理的な距離ではなく俺たち自身だったのだと気づいたからだろうか。
躊躇っているのも、誤魔化しているのも、ややこしくして迷っているのも、みんな自分。
出口のない迷路が無いように、それは俺たちの心が作り出していたものなのだから。
香穂子から電話がかかってくるのは、いつも決まってこちらの夜が更ける時間帯。受話器の向こうの君は夜明けを迎えていて、俺は月や星と共に朝を待つ。朝と夜の交わりの中で俺たちは電話越しの逢瀬を重ねるんだ。
ふと見た窓の外は夜闇が深まって、月明かりも輝きを増しているようだ。だが君の見る空は、だんだん朝日が昇って明るくなっているのだろうな。こうして君と話しをしてていると、家を飛び出せばすぐ会えるように思えて、違う環境にいる現実に引き戻され戸惑ってしまう事もある。持ち直した受話器をそっと耳に押し当て、優しい響きを君ごと俺の中に閉じ込めた。
「ねぇ蓮くん。夕方くらいに私のウチに電話してくれた? ごめんね、私バイトに行ってて帰りが遅かったの。あっ、ちなみに夕方って私の時間だからね」
「あぁ・・・二度ほど電話したんだが、留守にしていると香穂子のお母さんが教えてくれた。明日にでももう一度俺からかけ直すと伝えていたんだが、わざわざ君の方からすまなかったな」
「そんなこと無いよ、だってそのお陰で蓮くんとお話が出来るんだもの。ねぇ、何か用事があったの? ひょっとして夏休みの事?」
「いや・・・特に用事という訳ではないんだ。その・・・君は今何をしているだろうかと、そう思ったら香穂子の声が聞きたくなってしまって。理由は無いんだが・・・迷惑だったろうか」
想う言葉を詰まらせつつもやっと紡ぎ出すと、一気に額へ汗が噴出してくるのが分かる。
受話器の向こうで、香穂子が驚きに息を飲む気配が伝わってきた。
用が無くても香穂子に電話をしろ・・・。
昨夜ヴィルヘルムに言われた言葉を思い出し、俺は講義の空き時間を使ってさっそく電話をかける事にした。
言われたからするのではなく、俺が香穂子の声を聞きたいと思ったから。どこか躊躇い戸惑う気持ちを抱えた背中を押してもらえたからだと思う。
向かったのは、多くの学生が集うメンザ(学生食堂)のロビーにある公衆電話。シンプルなメタリックシルバーのボディーに赤い受話器がついていて、日本と同じようにコインかカードで通話が出来る。数台ある公衆電話には他にも数人の学生が話に興じていて多少の賑やかさがあるが、こればかりは場所的に仕方が無い。
日本との時差を考えると、俺から香穂子へ迷惑がかからないように電話をかけるには、午前中から午後の遅くならない時間までになってしまう。のんびりゆっくりという雰囲気とは程遠いが、香穂子に早起きをさせてしまうよりは良いだろうとそう思ったのだが・・・。香穂子は出かけて留守だと母親から伝えられ、時間を置いて二度もかけてしまったものだから余計に恐縮されてしまった。
彼女の髪を思わせる赤い受話器を手に持ち耳に押し当てて、数字のボタンを押しながら心臓が聞こえてきそうだったのに。
そうあまり何度もかけては迷惑だろうと明日に出直す事にしたのだが、気負っていただけに、君がいなかったのが予想以上に答えている自分に苦笑してしまう。
俺の声が聞きたくなった・・・恋しくなったのだと。
香穂子はたびたび甘えるようにこっそりと、受話器の耳元で囁きながら電話をかけてくるけれど。
俺が留守をしたりしてすれ違うたびに、君もこんな気分を感じていたのだろうか。
いつものように話す内容や用事が決まっていれば何ともないのに、ただ電話をかけるというだけの俺は、初めて君に電話をした時と同じくらい鼓動が高鳴っていたんだ。こんな事は随分と久しぶりだったから。
迷惑じゃないだろうか・・・本当に君は喜んでくれるだろうかと不安ばかりで。
さなぎが蝶になるように。そんな俺の不安を力に変えたのは香穂子の泣き出しそうな吐息と、満面に咲いた笑顔を思わせる声音だった。
「駄目じゃないよ、どうして突然の電話が迷惑だなんて思うの? どうしよう・・・蓮くんから電話もらえるのって初めてじゃないのに、嬉しくて嬉しくて涙が出ちゃいそうだよ。やだ私ったら、涙脆くなったのかな・・・」
「香穂子・・・」
「近くなったなって・・・昔みたいに戻ったなって思ったの。高校生の頃は良く気軽に携帯で電話し合ってたじゃない、今何しているの?って私からだったり蓮くんからもしてくれたよね・・・覚えてる?」
「もちろん覚えているよ。他愛も無い話をした後に“おやすみ”と、必ず君がキスの音を贈ってくれたな。何でもない時間と会話がとても温かくて、心地良い幸せな眠りと夢路に誘ってくれた」
そうだね・・・とクスリと小さく漏れる笑みが俺の耳をくすぐり、広がる温かさに頬も瞳も緩んでゆく。俺の吐息を受け止める君が受話器越しに擦り寄ってくるのを、壁に寄り掛かかりつつ瞳を閉じて心の腕で抱き寄せた。
俺たちだけの世界に漂い出す空気に浸りながらも、目を開ければ抱き締められないもどかしさに眉を顰めるしかない。
だが寂しさが教えてくれる、普段何気なく過ごしてきた日々の幸せを。
何も思わずに過ごしてきた平凡な日は、君のいない悲しみの中で振り返ったら、それは全て幸せの日々だった。いつでも電話をして、聞きたい時に声を交し合って他愛もない会話をする・・・。距離を越えて大切な人を最も近くで感じられる今のひと時は、まさにダイヤや金貨よりも尊い心の中の宝物だ。
何も考えていなくとも、君の声を聞けば話したいことはいくらでも溢れて尽きる事は無い。香穂子も喜んでくれたし、昨夜ヴィルの言っていた通りだ。浮かべた微笑を窓の外へ向けて遠くを見つめながら、心の中で背中を押してくれた彼に感謝を込めた。
「あぁ〜あ。蓮くんから電話がかかってくるってわかってたら、バイト入れなかったのにな・・・ちょっと残念」
「そんな事を言っているが、バイトが楽しくて仕方が無いんだろう。どんなに隠していても、俺には分かる・・・。調子はどうだ、だいぶ仕事には慣れたのか?」
「へへっ、やっぱり蓮くんには分かっちゃうんだね。講義やレッスンに重ならないように週末が中心なんだけど、たまに平日の夜にもポコッと入ったりするの。春先から始めたからもう数ヶ月経つかなぁ、仕事が自分のモノになった感じがして楽しくなってきたよ」
香穂子は大学の長い休みを俺のいるドイツで過ごすべく、渡欧費用を稼ぐ為に大学の傍らアルバイトに精を出しているという。俺から週末に電話をかけても繋がりにくくなったのは、そのせいもあるんだ。忙しいながらも毎日が充実しているようで、耳に届く声からも生き生きとした輝きや表情が伝わってくる。君が楽しいと、俺まで元気になってくる・・・俺も頑張らねばと思えた。
「蓮くんも、大学とかレッスンとかコンクールとか、いろいろ忙しいんでしょう? 私以上に大変なのに大丈夫って優しく言うから余計に心配なんだけど。でも最近はとっても楽しそうだなって思うの。私も感じる空気や口調でちゃんと分かるんだよ。ねぇねぇ、何か良い事あったでしょう?」
「やはり隠していても、お互い分かってしまうんだな。まだ周りに秘密だけれども、良い事があったのは確かだ。俺にとっても、恐らく君にとっても。いや正確にはこれからだから、現在進行形だろうか」
「えーっ分かんないよ、もの凄く気になっちゃう・・・。内緒だなんて言わないで、こっそり教えて教えて!」
君を驚かせたい、まだ少し秘密にしておきたいから。
まずは君の話を聞かせてくれないか・・・君の声が聞きたくて電話をしたのだからと。身を乗り出す香穂子を穏やかにやんわりと宥め、真摯な想いを伝えれば、僅かに拗ねたけれどもやがて弾むような声音に変わった。
「今ブライダルハウスって流行なんだけど、綺麗な庭付きの一軒家で美味しい料理と一緒に、ゲストを自宅に招いた感じでささやかにおもてなしするの。私はそこの結婚式のパーティーで、ヴァイオリンの演奏をするんだよ。楽しんでもらえる雰囲気を作るBGMだったり、もちろん皆の前で曲を披露して小さなコンサートを開いたりいろいろ・・・。ねぇ蓮くん、安心した?」
「何故?」
「いらっしゃいませー!っていう接客だと、心配するかなって思ったの。だって蓮くん寂しがり屋ですぐに焼もちやくから。高校の時に一度だけ私がファーストフードでバイトした事があったじゃない。結局はすぐに辞めちゃったけど、毎日様子を見に通ってくれたんだよね。照れ臭かったけど、あの時は嬉しかったな〜」
「なっ・・・! あれは、その・・・・・」
内心の心配をしっかり見抜かれて急に熱が顔に噴出し、焦りで言葉を詰まらせる俺を予想していたのか。
ピアノもカルテットのメンバーも、ブライダルの周りのスタッフはみんな女性で良い人たちばかりだよと。手に取るように見えているのか、俺を宥めるように受話器の向こうで悪戯っぽくクスリと笑った。そう思うと益々照れ臭くなってしまい、君から見えていないのに、つい口元を手で覆い隠し、赤くなっているであろう顔を反らす。
確かに・・・香穂子の言う通りだ。俺の元へ来る旅費や貯金の為にバイトをしてくれるのは嬉しいが大学の授業や音楽と両立できるのか、音楽がおろそかにならないか・・・どんな職種で環境なのか。
そして何よりも大きいのは俺自身の焼きもち。接客なら当然笑顔なわけで、どんな時もくじけず真っ直ぐな彼女の笑顔に多くの男が引寄せられ、変な輩が声をかけたら・・・など。初めは心配のあまりに、様子を見にこっそり日本へ帰ろうかと本気で考えたりもした程だ。大学の先生に紹介してもらった音楽に関わる仕事だと聞いて、ホッと胸を撫で下ろしたのはいうまでもない。
「空いた時間でヴァイオリンの練習が出来るし、私のヴァイオリンを聴いてもらえる。新郎新婦さんだけじゃなくて、参加しているみんなに幸せな記憶を作る手伝いが出来るんだよ。これはね、とっても素敵な仕事だなって思うの・・・凄く楽しいよ。何と言ってもお給料が凄く良いんだよ、おいしい事尽くしってこういうのを言うのかな」
「楽しいだけでなく、素敵だからこそ本当に役立っているのだろうな」
「音色は一瞬でも二人にとっては一生の思い出に残るから私も真剣だし、頑張らなくちゃいけないことが沢山。音楽でお金を貰うって大変だけど、遣り甲斐あって楽しいね」
「プロでなくとも、身近な人の為に精一杯奏でられればいいという、香穂子らしい仕事だな。君は俺より一歩先に夢へと進んでいる・・・俺も負けていられないな」
この数ヶ月で旅費と滞在費は充分稼いだのだと、自慢げな笑顔で胸を張る姿が目の前にふわりと浮かび上がる。後は将来の為に貯金をするのだと言った香穂子は、何の為だと思う?と甘えるように質問をしてきた。
もしたらと一瞬答えが脳裏に過ぎったが、言いたそうにしている彼女へ譲ろうと気づかない振りをすれば、予想通りに、けれども胸を熱く打つ言葉が返ってくる。
私が蓮くんの側に行く為に・・・ずっと一緒に過ごせるようにと。
「冬に蓮くんの所へ行ったら、ヴィルさんのお兄さんの結婚パーティーで一緒に演奏したじゃない。あの時の感動が忘れられなかったの。幸せになって欲しいなって思いながらえんそうしているんだけど、私の方が幸せを分けてもらっているんだよ。いつかは自分もって、夢を描かせてくれるからかな? 夢のきっかけをくれたのは蓮くんだよ、ありがとう」
君も夢を見ているんだな、生きて思い描く夢を・・・。
俺たちの描くその夢の先が一つに繋がっているのが、道の遠くに灯る明かりで分かる。
君が見た夢で俺は更に大きな夢を見ることが出来るから・・・いつか必ず形にして胸の中の想いごと届けよう。
俺からも、ありがとう------。
微笑みに乗せてそう言うと、きょとんと不思議そうに返してくるけれど。でももうすぐテストが始まるから、バイトも控えなくちゃいけないの・・・と、突然思い出したようにしょげてしまった。テストが終れば夏休みだろう?と宥めれば、たちどころに元気を取り戻して目を輝かせ、身を乗り出してくる。
「夏のドイツは初めてだよ。冬はこの前行ったし、春はこっそりその後で蓮くんのお誕生日に内緒で行ったし」
「あのサプライズは驚きで心臓が止まるかと思った。だが今までの中で、最高の誕生日プレゼントだった」
「蓮くんが驚いてくれたなら、成功かな? 春は白アスパラが美味しかったな〜」
「白アスパラはドイツでは春を告げる食材なんだ。心地良い風、柔らかな日差し・・・君と共に心が春を連れてやってきた」
「じゃぁ今度は私が夏を届けに行くからね。学長先生にヴァイオリンの演奏をを見てもらう事になったの。冬よりもずっと長く一緒にいられるね。テストが終ったら、直ぐにドイツへ飛んでいっても良いでしょう?」
「香穂子・・・・実は、その日程なんだが・・・・・・」
「蓮くん、どうしたの?」
嬉しさにはしゃぐ香穂子の気分に水をさすかもしれないし、もしかしたら怒ってしまうかもしれない。
嬉しさと悲しさは、どうして交互にやってくるのだろうか。
浮き立った分だけ落ち込む事になったとしても、その先にあるもっと大きな幸せを届ける為に、言い出すチャンスは今しかない。飛行機の日程だってある、何時までも黙っていられないのだから。
一度受話器を軽く離し、大きく深呼吸すると再び耳に当てた。走り出す鼓動を押さえるように受話器を強く握り締めれば、手の平へ汗が一気に噴出してくるのを感じる。緊張する俺の気配を感じ取ったのか、互いを包む宵闇に包まれる沈黙に、香穂子も一緒に息をつめて俺の一言を待っていた。