目に見えない、何か素敵なもの・4
学長先生を探すのに半日かけて広い大学構内を駆け回った末に、辿り着いた講義棟。
やっと目的を果たし、話しを終えた頃にはすっかり日が沈んでいた。
丁重に頭を下げて部屋を辞すと、振り返った扉の向こうに広がるのは漆黒の闇。
昼間でも薄暗いから夜の暗さは容易に想像がついていたのだが、やはり早めに切り上げるんだったと。
俺を包む重さに僅かばかりの後悔が込み上げて、一瞬踏み出す足が留まった。
遅くまで学生会の仕事で残るヴィルヘルムに、何度となく隠れて脅かされたという経験が大きいのかも知れないが・・・。香穂子に言ったら笑われそうだから、絶対に内緒だけれども。
元は離宮だったのをそのまま使用している為、暗闇や静けさの質、深さといった何もかもが他とは違う空間に思える。夜は暗いもの・・・当たり前の事なのだが、夜でも街や室内が煌々と明るい日本から渡った当初は、慣れるまでに随分かかったものだ。日常の生活の中にもそんな意識が今でもあるから、この講義棟内に電灯は少ない。暗闇はどこまでも漆黒で、夜が更ける程に増す静けさは石造りの冷たさを伴って、俺を包み込む。
ぼんやりと照らされる宮殿のような装飾の中、カツンカツン・・・と長い回廊に響くのは俺の足音だけ。
ほの明るいライトの脇を通り抜けるたびに光りが揺れて、足元に伸びた影が大きく揺らめいた。
そのままでも充分にアトラクションになると思うから、今度有料で講義棟を一般公開しようと。学生組織の幹部会議の議題にかけたヴィルが、皆が納得しつつも速攻で却下されたと拗ねていたのを思い出す。
怖いわけではないが意識しなくとも緊張してしまうのは、建物や空間に長い年月積み重なった歴史と様々な想いがあるからだろうか。香穂子なら絶対に一人では歩けないだろうなと思いを馳せつつ、安らかに穏やかに・・・とまではいかなそうだと、楽譜の束が入った書類ケースを抱え直しながら苦笑した。
回廊の窓から見下ろせる中庭の噴水だけが煌きを放っていて、ほっと心に安らぎをもたらしてくれる。
今夜は月が明るいのだろう・・・そうだ、近道をしようか。
学長室は口の字型の構造になっている講義棟の、正面入口とは対角に当たる正反対に位置している。
三階から入口の大扉に辿り着く方法は、真っ暗で長い回廊を建物半分歩いて階段を降りるか、先に階段を降りて中庭を通り抜けるかの二通りだ。暗闇の中をひたすら歩くよりは、月明かりに照らされた中庭を通り抜ける方がずっといい。通用扉が開いていないリスクがあるが、その時は諦めて引き返すまでだ。
くるりと踵を返すと俺は、中庭へ降りる為に学長室の側にあった階段へと向かった。
中庭へと続く重厚な扉の前に辿り着き、装飾が施されたドアノブをゆっくり押し開くと。外とは思えない眩しさが飛び込んできて思わず目を細めた。暗闇に慣れてしまった目が明るさを認識するまで時間がかかったが、一体これではどちらが外で、どちらが室内なのか・・・。外の方が明るいなんて逆もいいところだなと思いながら、知らないうちに今まで息を詰めていたらしく、心と表情がほっと緩むのが分かる。
空気に溢れて噴水の水音が賑やかに響く中庭は、建物内とは全く違う柔らかい雰囲気を醸し出していた。
優しい月明かりを浴びて輝く噴水は、楽しげに水飛沫を舞い踊らせ、水面に映る大きな月へと降り注いでゆく。
雫はまるで歌うように・・・月へと語りかけるように。
この中庭の別名が月の庭と呼ばれる所以は、ここから来ていたのだな。
足早に通り過ぎるつもりだったのに気がつけば魅入られてしまい、つい立ち止まって眺めていた。
離宮として使われていた頃には、恋人達が夜毎にひっそり逢瀬を交わしす場所だったのだろうかと、想いを馳せずにはいられない。昼間と違う印象を受けるのは、誰もいない中で噴水も月も本当の姿を現し、彼らだけの時間を満喫しているのだろう。
綺麗だな・・・。
静かな音色を奏でたくなる、そんな気分になってくるようだ。
・・・・・・!?
噴水の水飛沫に混じって聞こえてきた別の音に耳を済ませると、俺は反射的に身を硬くした。
カツカツと慌しく駆ける音はやがて中庭へ向けて大きく近づいてくる・・・こんな遅い時間に誰だろうか。
レッスンや個人練習をする学生や教授達でも、とうの前に帰宅している時間なのに。
俺がやってきた反対側・・・正面入口に続く扉に目を凝らすと、闇の中から一人影がシルエットとなって現われる。光りへと足を踏み出した途端にあっと思うよりも早く、俺を認めた相手から呼びかけられた。
『レン! レンじゃないか!』
『・・・その声はヴィルか? こんなに遅くまで残って、どうしたんだ?』
『俺は学生会の用事があってね。良かった・・・ちゃんと人がいて良かった・・・』
『は!?』
『いや・・・ね、いつもは誰もいないのに噴水の側に人が佇んでいるのが見えたから、驚いちゃったのさ。ほら、俺ってこう見えても小心者だからさ』
『・・・・・・・・・?』
闇に包まれた黒いシルエットが月明かりに照らされると、現われたのはヴィルヘルムだった。噴水の元に佇む俺に駆け寄ると黙って眉を潜めた俺に、元気一杯といわんばかりの満面な笑みを向けてくる。
どこが小心者なんだか・・・それに君の家だってここと同じようなものだろう?
まぁ家と他の場所は違うのかも知れないが・・・と、言いかけた言葉の数々を口に出さずに心へ飲み込んだ。
『なぁレン、学長先生見なかったか? あのじーさん、朝からちっとも捕まらないんだ。こっちは急ぎの書類にサインが欲しくて走り回ってんのに・・・。ひょっとして、隠れて俺からわざと逃げてんのか?』
『まだ見つかってなかったのか? 学長先生なら今さっきまで、俺が三階の部屋で話していたんだ・・・すまなかったな。俺も半日探し回って、すっかり遅くなってしまった』
『何!? レンはもう捕まえたのか!? くわ〜っ先を越されたか・・・でもお前も苦労したんだな』
もうくたくただよ・・・と噴水の敷石にどっかり腰を下ろしたヴィルは、項垂れるように切れた息を整えている。
君の苦労がようやく分かったよと言えば頭を上げて渋く顔を歪ませながら、学生会の執行部に一番求められるのは体力と根気強さなんだと、笑えるようで笑えない冗談を言ってのけた。
ファータを追って学園中を駆け回っていた香穂子似ているが、それにしてもあの神出鬼没な先生を日々捕まえるのは、さぞ大変な事だろう。今日一日を思い返すと、彼に同情せずにはいられなかった。
『これに学長のサインを貰わないと、帰れないんだ。俺たちは練習だってあるのに・・・また時間を潰したさ。あのじーさんのせいで、明日から大学の学生が動かなくなっても、俺はもう知らないぞっ!』
半ばやけになりながら、ひらひらはためかせる数枚の書類は、施設の使用許可や大学自治の運営に関するものらしい。大学の学長であると同時に、音楽界に権威のある方をじいさん呼ばわりできるは、きっとヴィルヘルムだけだろう。書類の下に既に書かれているサインは、学生組織の会長を務める彼本人のものだった。
昔から大学では学生自治の姿勢が強く、学生組織が及ぼす力は教授や職員達よりも遥かに大きい。
かつて大学は治外法権を持っており、学生が軽犯罪を犯した場合には大学が管理する学生牢へと投獄されたと聞く。現在は閉鎖されて展示のみになっているが、壁には暇を持て余した「囚人」たちによる落書きがびっしり埋まっていて、いっそ芸術的でさえあったのを覚えている。
普段は忘れて気づかないが、こう見えても偉かったのだなと、忙しさを垣間見るたびにふと思い出す。
学長先生といい、ヴィルといい・・・力を発揮しつつも自然体で気づかせないところが、彼らの素晴らしいところだと俺は思う。出会う人々に恵まれた俺は、きっと運が良かったのだな。
どうか次でチェックメイトになりますように・・・と。
ぶつぶつ呟きながら天を仰ぐ姿に、捕まると良いなと微笑みに乗せて語りかけた。
俺以上に捕まらないのは、無邪気な妖精がさらにそのまた妖精を捕まえようとしているのだからだろうな。
『俺が今さっき部屋を出たばかりだから、恐らくまだいらっしゃるだろう。秘密の抜け道が無ければの話だが』
『それ絶対ありそうだ、日本でいうニンジャ屋敷みたなやつ。とにかく道が二通りあるから万が一すれ違わないとも限らないし、早めに急いだ方が良さそうだな』
体力を回復して立ち上がったヴィルは、さてもう一頑張り!と言いながら思いっきり伸びをする。
しかし走り出そうと一歩を踏み出した瞬間、手元に持っていた楽譜の束を思い出し、慌てて引き止めた。
『急いでいるところをすまない。楽譜が出来たんだ、ピアノ伴奏とヴァイオリン二重奏・・これで全曲分。荷物になってしまうが、今手渡しても構わないだろうか?』
『楽譜? あぁ、もちろんだとも。ようやく完成したんだな、お疲れ様・・・いや、俺もレンもこれからだな。さっそく今夜から譜読みをさせてもらうよ、近いうちに合わせよう。・・・で、学長先生は何て言ってたんだい?』
『別に何も。いいんじゃないかの一言だった』
『だろうな、俺もそう予想していたよ。でも朝よりすっきりさっぱりした顔しているから、話は聞いてもらえたようだな。レンの相談事が何だったのかは、今度じっくり教えてもらうとしようか。どうだい、迷いは晴れたかい?』
両手で手渡した楽譜の束を受け取ると、再び噴水の敷石に腰を下ろし、ケースを開けて中身を確認する。
開けた瞬間瞬間喜びに目を輝かせながら、膝の上に取り出した楽譜を置いて一枚一枚丁寧に捲っていた。
相変わらず細かくて丁寧な仕事振りだな・・・と、こういうのは性格が出るなとしみじみ呟きながら。
数刻前の出来事を思い返すように自分にも言い聞かしてポツリと呟くと、手を止めて俺を見上げてくる。
初めはきょとんと見開いていた瞳も、やがて真剣な色に変わってゆく。
『・・・夢を見ろと言われた』
『夢?』
『生きて思い描く夢を・・・それが力になるのだと。現実と足元にばかり目がいっていた今の俺に、一番足りなかったものかもしれないな。同じ夢を見るものは、自然に集まるのだとも言っていた。ヴィル・・・君も、夢を見ているのだろうか? あっ・・・その、突然変な質問をしてすまない』
『う〜ん、夢ねぇ・・・。ベッドに潜ると爆睡だから、眠ってからの夢は最近めっきり見なくなったけど・・・』
夢は見ているか・・・君の夢は何かと改めて聞くのも変な話だと思い、口に出してからしまったと慌ててしまう。
だがからかう素振りや嫌な顔一つせず、眉を寄せて難しそうな表情をしながら真剣に考え込んでいた。
言葉の一言を無駄に流さず、ちゃんと受け止め返してくれる誠実さが、信頼できると心に思わせるのだろう。
『朝起きてからはいっぱい見ているよ。音楽や自分の将来の事、もちろんレンとカホコの事も。後は兄さん夫婦に赤ちゃんが生まれる事かな。俺もとうとうオジサンだ』
『ゲオルクさんとイリーナさん子供が出来たのか、おめでとう。香穂子にも伝えておこう、きっと彼女も喜ぶ』
『予定ではちょうどクリスマス頃なんだ。義姉さんは暫くの間、音楽を休業中。だからヴァカンスは、元々どこへも行かないつもりだったんだ。みんな家にいるのに、俺だけ遊んでいたら後でどやされるし。レンに声をかけてもらって逆に予定が入ったから、俺としては助かったけどね』
『今年のクリスマスのフランツ家は、賑やかになりそうだな』
立ってないで座れよと隣を示し促され、ありがとうとそう言って心と瞳を緩めると、俺も噴水の敷石へ隣へ並ぶように静かに腰を下ろした。急がなくて良いのかとの言葉に、少しだけならとの返事が返ってくる。
ここで張っていれば万が一部屋を出たとしても、回廊や正面玄関を見渡せるからだという。
『聖なる御子の誕生だと、今から初孫の嬉しさで親父やお袋たちの方が騒いでいるよ。レンも遊びに来いよな』
『ヴィル・・・君はどうなんだ?』
『俺? 甥っ子だったら一緒にサッカーやるんだ。姪っ子だったら・・・どうしよう俺、嫁に出す時泣いちゃうかも。それ以前に寂しくて学校へ送り出せるかどうか・・・』
『まるで父親のようだな』
両手をわななかせて泣きそうに詰め寄るヴィルの仕草に、大げさなとつい笑みが零れると、俺に連られるように噴出し肩を揺らして笑い出した。膝に広げていた楽譜の束を脚の上で揃えてからしまうと、大きく深呼吸してケースをじっと眺める・・・想いを込めるように優しい瞳で。
『どちらにせよ、俺のヴァイオリンやピアノを聴いてもらいたいな・・・一緒に楽しめたらいい。待っている間も楽しくて幸せにしてくれる、それが俺の夢かな。ささやかでちょっと手を伸ばせば届くものでも、少しずつ積み重なっていくうちに、いつか壮大で大きな夢へ手が届くんだ。今度は俺も・・・って』
『君の夢とは?』
『それはまだレンに内緒! 大切な人が思い描く夢を受けて、俺もまた夢を見る。俺が見る夢で、他の誰かがまた夢を見てくれたら素敵だと思わないかい? だからレンとカホコが二人で見る夢を、俺にも夢を見させてくれよな・・・生きて思い描く夢を』
笑みを浮かべてポンと勢い良く俺の肩を叩く、それはまるで励ましの言葉のようで。
突然変わった話題についてゆけず、俺の事を言っているのだと気づくのに少しの時間がかかった。
目を丸くして呆気に取られた俺の隣から立ち上がると、慌しく風のように走り去ってしまう。だが暗闇に溶け込むギリギリの境界線で立ち止まり、振り返って俺を真っ直ぐ見つめてくる。少し離れた所にいる俺に聞こえるようにと、大きな声で叫びながら。
『レーン!』
『何だ』
『用が無くとも、ちゃんとカホコに電話しろよ!』
『・・・用が無くても?』
『レン・・・お前きっかけがないと、自分から進んで連絡しないだろう?』
言われずとも電話はしている・・・と反論したいところだが、なぜ分かったのだろうと密かに鼓動が飛び跳ねて全身が熱くなるのを感じる。本当の事なのでぐっと拳を握り締めて平静を装うものの視線は正直に睨んでいたようで。相変わらずハラハラする程不器用だなと困ったように笑い出すヴィルは、ふわりとブルーグリーンの瞳を緩ませた。
『話すことなんて考えなくても、声を聞いたらいくらでも出てくるもんさ。君の声が聞きたくなったからって・・・伝えるといい。相手にとってはサプライズの贈り物さ、レンが贈ろうとしている曲と同じようにね。レンだって、カホコからそう言われたら嬉しいだろう?』
『そうだな、日本とは時差があるから、明日の昼辺りにでも電話してみるよ』
『・・・やけに素直だなって・・・おっと。話し込んでる場合じゃないな、また学長に逃げられてしまう。レンの突込みが入らないうちに失礼するよ。じゃぁなレン、また明日。気をつけて帰れよ』
そう言って悪戯っぽく笑うとじゃぁと片手を挙げてくるり踵を返し、俺がやってきた中庭奥の通用扉を開けた。
閉じらる扉と共に漆黒の闇に溶けてゆく背を見送ると、今度は俺が正面玄関へと続く通用扉へと向かう。
細工の施された重厚なドアを少し押し開いたところで肩越しに振り返り、歌うように水飛沫を吹き上げ続ける噴水をもう一度眺めた。そのまま天を振り仰げば、たった一つなのに季節や時間、眺める場所や俺の心模様によって、違った表情を見せる月・・・。鏡のように晴れ渡った満月の黄色い光りが、語るように俺を照らす。
天に昇る月だって、水面に姿を映し溶け込ませて地上に降りる事が出来る・・・愛しい人に会って語らう為に。
遠い月に出来るのならば、天よりも君と近い距離にいる俺にだって出来るはずなんだ。
実際には手に入らない月の影とは違うのだから。
頑なにならず、見方や考え方を変えれば案外簡単なのかも知れない。
人は誰もが夢を見て、追い求めることが出来る。
香穂子・・・君は今どんな夢を見ているのだろうか?
君の声が聞きたい・・・話したい。
その事にきっかけや理由なんて要らないんだな。
この夜空の下で、きっと俺たちは繋がっている・・・元気を出してと。
見上げる月や噴水の煌く雫たちが、優しく俺に語りかけてくれている。
人生に大切な言葉は、夜に紛れて語り継がれるのだろう。
恋も悩みも全てを包み込む夜に、俺たちは守られているのだから・・・。