『ワシが若い頃は世の中の情勢も厳しく、ワシ自身も今ほど豊かでは無かった。楽器というのは維持に思いの他に手間とお金がかかるものじゃ。苦労した時代もあったが、そんな中でも二人の時間と音楽があれば、幸せじゃった。いつもワシの側にいて演奏を聞いてくれたり、影に日向にと支え手伝ってくれたりしながら、妻は見よう見真似で、少しずつ覚えたのじゃろうな』


曲をもらったのは、ヴァイオリニストとして駆け出し始めたちょうどその頃だという。
楽典の知識も乏しく楽器が弾けるでも無い妻が、どうやって曲を形に残したか分かるかね?と問いかけられ、答えが分からない俺は黙って首を横に振った。


『ワシに気づかれないようにと、出掛けた隙を見計らって毎日コツコツと書き進めておったらしい。その頃の妻はいつにも増してご機嫌で・・・何かあったのかと気にならなかったと言えば嘘になるかの。ある日忘れ物を取りに戻った時に、ワシは偶然見てしまったのだよ』
『奥様が譜面を書いている所をですか?』
『あぁ・・・そうじゃ。彼女はワシのピアノ前に座っていて、自分の歌声とピアノを照らし合わせながら音を拾っておったんじゃ。人差し指でいろんな音を一音一音鳴らして、あれでもないこれでもないと首を捻りながら確かめて。そして手拍子を叩きながら歌ってリズムを取り、音を譜面に書き込んでおった。音を探し当てた時にパッと輝いた嬉しそうな表情は、数十年経った今でも忘れられん』


こんなふうにね・・・とそう言うと、俺に向かって見せた人差し指をテーブルの端へ、そっと乗せた。
一音歌っては鍵盤に見立てたテーブルを指で押さえ、また歌っては押さえ・・・・の繰り返し。
歌声に合わせ楽しげに肩を揺らしながら手拍子を打ち、でもゆっくりと確実に・・・音符を調べる為にリズムを取ってゆく。


『一人で音楽を楽しんでいるのだと、ずっと思っておった・・・それだけでもワシは幸せじゃった。じゃが妻から一枚の五線譜を差し出された時に初めて、ワシの為に作られたものだと知ったよ。真っ白い紙に引かれた五本の線から彼女の手作りで・・・不揃いだけど丁寧に書かれた音符たち』


俺の譜面を見つめながら昨日の事の様に思い出しているのか、僅かに瞳が潤んでいるように見える。
時を越えて俺を包む温かさが心を震わせ、熱い波紋が広がってゆくようだ。
学長先生が感じた嬉しさと喜びは、一体どれ程のものだったろうか。


温かい音楽と優しい光りに溢れた光景が目に浮かんで・・・胸が詰まった。

静かに語る昔語りに呼吸も忘れて聞入りながら、揺さぶられそうで・・・引きずられそうで。
唇を強く噛み締め、膝の上に置いた両拳を強く握り締めた。
耐えていないと、みっともないくらいに熱さが潤んできそうだったから。


『拙く・・・決して上手いとは言えないけれども、書き込まれた音符の一つに、想いと言葉がたっぷり込められている。だからワシに伝えてくるんじゃ・・・年十年たった今でも褪せる事無く。彼女の曲に敵うものは、この世にだれもおらんと、ワシは思っているよ。一生の宝物じゃ!』


レン・・・と呼びかけられ、僅かに俯いていた顔を上げれば、目の前には優しく諭すような微笑み。
なぜ学長先生が、大切に心に仕舞ってある昔の想い出を俺に聞かせてくれたのか・・・やっと気が付いた。
同時に思うのは、もしも俺の立場だったら・・・君だったら。

今の自分に重ねられるだろうか・・・。
君にも、俺が感じた同じ想いを届けられるだろうか?


『カホコが欲しいのは、上手い曲でも綺麗な楽譜でもない。レンの想い、君自身じゃとワシは思う。レンもそう思ったらから、最後は自分の言葉と音色で届けたかったのではないかね?』
『はい。香穂子が届けてくれた音色と想いから、今の俺たちが始まった。今度は俺が彼女に届けたいんです、新たな俺たちを始める為に』
『レンが不安になれば、カホコも不安になる。大切なのは楽しむ事・・・もっと夢を見なさい』
『夢・・・ですか?』
『眠ってから見る夢もあるが、生きて思い描く夢の方がいいのう。贈り物を渡す時の自分や大切な人の笑顔、あるいは自分が貰う立場だったらと。自ずと、相手の為に取るべき道が見えてくる・・・今のままでいいんじゃよ』


皺に隠れた瞳の奥を真っ直ぐに見詰めると、学長先生が緩めた頬で静かに、けれども大きく頷いた。
これでいいのだと言われる安心感が、心と身体の強張りを解いてゆく。
いや・・・きっと言って欲しかったんだと思う。気づけは俺も一緒に、微笑を浮べていた。


『ピアノの伴奏やヴァイオリンの二重奏は、ヴィルヘルムが引き受けてくれたんじゃろう?』
『はい。無理を承知で頼んだのに、快く引き受けてくれました。いろいろと力になってもらい、感謝しています』
『レンは良い人材を見つけたな。ヴァイオリン科にいるのが不思議なくらいだと、ピアノ科の講師たちが密かに専攻変えを持ちかけておるしの。あやつも人気者じゃな。ヴィルに言わせて見れば“反抗期の賜物だ”と言っておったが、根本的に音楽が好きなんじゃろう』
『音楽に対する想いも人柄も・・・彼ならば一緒に作れると思ったんです。ヴァイオリンだけでなくピアニストとしても通用する程、技術も表現力も素晴らしい』
『伴奏というのは独奏と違って難しい。名脇役でありながら、時には主奏と同等の役割を演じる事もある。共に同じ音楽を作り出す共同作業だから、心の通ったもの同士でないとなかなか上手くいかんものじゃ。人柄によるものも大きいが、音楽や抱えるものがレンと似ている』


似ているといわれ、そんな筈は無いと声には出さず瞬時に心の中で反発した。
だが無性にくすぐったい熱さが込み上げてくるのは、どこか嬉しいと喜んでいるのだろうか。
クスクス漏れ聞こえる声は、言葉を詰まらせる俺の反応を楽しんでいるようにも見えて、益々顔に熱が集まる。

居た堪れない沈黙と熱さに、テーブルに置かれた飲みかけのアイスコーヒーを手に取った。


『心に同じものを持つ者は引寄せ合い、自然と集まるものじゃ。ヴィルだけでなく、街中で演奏するレンが馴染みの聴衆からもらった、一枚の名刺のように。あのレーベルは昔から世話になっておっての、実はワシは何度か面識があるんじゃ。縁とは不思議・・・だが偶然ではなく、これは必然なのじゃろう』
『心の底から音楽を愛し、真剣に楽しんでいる方だと思います。世界中に音楽を広めるのが仕事なのだと言ってました。俺が知ってる、音楽の妖精に似ています』
『ほほう・・・するとレンは、音楽の妖精に見初められた訳か。そんな君も多くの人に音楽を広め、心を届けようとする妖精の一人かも知れんな。皆同じように夢を見て追い求めている・・・彼らとならば、きっと良い作品が出来上がるとワシも信じておる』


空になったグラスを掲げて中の氷を眺めていた学長先生が、見てごらんと瞳を緩めて俺に差し出してくる。
持っていたグラスをテーブルに戻すと、そのまま身を乗り出して中身に目を凝らした。

こんなふうにね・・・と言われたものは、グラスの底で光り輝きを放つ、ひときわ大きな氷の塊り。
一つ一つ別々だった氷たちが、溶ける過程で一つに寄り集まったもの。
山のように折り重なって透き通る、綺麗な氷の彫刻だった。


『どんな小さなものでも自分の役割を自覚する時に、初めて人は幸せになれる。だから誰もが皆、夢を見るんじゃよ。見た夢や幸せは大きな力となり、形となって相手にも伝わるんじゃ。夢を見るのは人にとって必要不可欠な大切な事であり、幸せな状態だとワシは想う。レンは誰の為に夢を見るかね?』
『俺が夢を見るのは香穂子の為です。眠ってから見る夢も、生きて思い描く夢も・・・』
『それが君の役割じゃよ。渡すまでに育てたこの時間ごと、きっとカホコへ伝わるじゃろう。だからこそ、秘密の贈り物は大きな喜びをもたらす。気持の込められた手作りである程にな』



夢を見ること-------。

この世界を・・・俺の中の世界を幸せにしたいと思ったら、目を閉じるだけで良かった。
笑顔の君が現われて、思い出と共に響く優しい声に耳を傾けながら、苦しみも悲しみも何も無い温かさに包まれて。

たが目を閉じるだけでは駄目なんだ。俺一人が眠ってから見る夢だけでは。
本当に俺たちが見なければならないのは、生きて思い描く夢でなくてはならないから。

君が安らかで幸せな夢を見る為に。




窓から舞い込んだ一陣の夏風に煽られ、飛ばされかけた楽譜たちを、学長先生が綺麗に揃えて俺の方に向きを変えてくれる。まるではしゃぎ出す彼らをあやすように、一緒に笑い語りかけながら・・・。


『渡欧の予定が延びて残念なのは君たちだけではないぞ。ワシだって同じじゃ。香穂子のヴァイオリンを聞かせてもらう約束をしてるからのう。ワシが一日も早くカホコに会えるように、レンには頑張ってもらわねばの』
『自分の全てを出し切り、頑張ります』


ソファーから腰を浮かせて身を乗り出し、差し出された楽譜の厚い束を受け取った。

重なった手と指先が、俺に託すもの。
温かさと希望を、しっかり受け取るように触れる指先へ力を込めた。












目に見えない、何か素敵なもの・3