目に見えない、何か素敵なもの・2

大学構内にある講義棟は、灼熱の太陽が降り注ぐ夏の最中でも、暑さとは無縁の空間のように思う。
奥へ行くほどに広がる、深い緑に包まれているからだろうか。優しい木陰が作り出す静けさと、冬場は寒さで痛いと感じていた石造りの建物特有のひんやりとした空気が、今は逆に心地良い。
優しい木陰から吹き抜ける風が白い木枠の窓から入り込み、君がそっと俺の頬を包むように弄ってゆく。


『学長先生・・・どうでしょうか?』
『ふむ・・・いいんでないか』
『何か至らぬ点や、手直しが必要な箇所があったら教えて下さい』
『別にこれといっては、無いのう・・・』


グランドピアノの前に座る学長先生は、十数曲ある楽譜を一枚一枚丁寧に眺め、時には実際にヴァイオリンやピアノを奏で確かめながら、ふむふむ・・・と皺の寄った顎に指を添えながら頷いている。閉じた蓋の上に用意されているのは先生愛用のヴァイオリンが飴色の光りを放っていた。


手が止まるたび、何かを考えている仕草を見るたびに緊張が心のメーターを振り切り、とにかく心臓に悪い。
ピアノの隣へ用意してもらった椅子に座る俺は、膝の上に置いた汗の掻く両拳を握り締めていた。
今からこんなでどうするのだと自分で叱咤するが、下される審判を待つ気分に似ている。




アレンジと作曲の終った楽譜を持って、俺は講義棟の一室にある学長先生を訪れた。
お忙しい身もあるのだろうが神出鬼没と伺っていた通り、広い構内でこの人ほど探すのが難しい人物はいないだろう。心当たりの部屋を全て訪ねても不在で、周りの職員や教授達から、私たちの方が困っているのだと眉を顰めらる始末。人づてに話を聞きながら走り回り、気づけば出発地点である講義棟裏へ戻ってきていた。


なぜ俺はこんなに必死になって、あの人を探しているのだろうか・・・。


リンデンバウムの大きな幹に背を預け、暑さと汗で張り付いた前髪を掻き揚げつつ額を押さえた。
楽譜の入った分厚い大きな封筒をぼんやり眺めながら、出てくるのは木陰で一息つくどころか苦笑と溜息ばかり。こうまで姿を眩ましていると、わざと隠れているのではと思えてしまう。

ずっと探していた声に呼びかけられたのは、半ば諦めかけたまさにその時だった。
ハッ我に返り後ろの建物を振り仰げば、三階の窓辺から俺に手を振るのは白髪の老紳士。


-------学長先生、そこから動かないで下さい!


にこやかに手を振る人物に届くように強く叫ぶと、俺は返事を待たないまま背を向けて駆け出し、蔦の絡まり茂る大扉へと向かったのだ。それがつい数十分ほど前、探し始めてから実に半日近くが経過していた。
学長先生をやっと探し出せた事に満足してしまい、危うく当初の目的を忘れてしまうところだったけれども。


聞きたいことがあったんだ・・・教えてほしい事が。
ここに来れば何か答えが見えるかも知れないと、そう思ったから。




『ワシがあこれ口を出すと、これはレンの音楽ではなくなってしまう。それに音楽でなく学問として深く理論を追求しすぎると、楽しむ余裕が無くなる。今のワシに出来るのは、君の中にある可能性を引き出す、内面のケアだけじゃよ。何もそう深刻な顔をせんでも、悪いと言っているのでは無いから心配はいらない』
『すみません・・・。プロを目指すのに、いつまでも人を頼っていては駄目ですね』
『しかし、レンが自ら進んでワシを訪ねるなど珍しいな。完成した曲や編曲についてではなく、何か別な相談事があったんじゃないのかね』


そう言って俺の方へ向き直り、皺の奥にある瞳を細めて笑みを向けてくる。
やはりお見通しだったかと、込み上げつ熱さと共に、握る手の平へ汗が一気に噴出すのを感じた。


『・・・何故、分かったんですか?』
『ホッホッ。音楽には常に自信を持ち、全力で望む君の事じゃ。どんな大勝負な時でも、ワシに頼らず今まで自分の音楽を作ってきたではないか。楽譜や曲の完成度について意見を求めるなど、一見何気ないように思えるが、君にしてはちと弱気で珍しいと思ったんじゃよ。ワシに聞くまでも無く、満足した仕上がりなんじゃろう?』
『学長先生には、敵いません』
『初めからそう言ってくれれば良かったのじゃが・・・まぁ、君らしいな。どれ、ではゆっくり話を聞こうかの』


レンの作品が一足先に見れて嬉しいよと、穏やかに微笑を向けるとピアノ椅子から立ち上がり、譜面立てに置いていた楽譜の束を抱え持った。こちらおいでと視線を向けられ、隣にある続き部屋へと移動する学長先生の跡へ付いて行くと、風通しの良いソファーへと促される。失礼しますと頭を下げて腰を降ろすのを見届けた学長先生は、飲み物を用意するからと奥へと消えていった。


白い木枠の窓から吹き抜ける風が爽やかに通り抜けて、テーブルの上に置いた楽譜の束を静かに舞い躍らせる。カサカサと音を立てて飛び散ろうとする譜面を、慌てて身を乗り出し押さえて元通りにすれば、埋もれていた筈の楽譜がいつのまにか一番上に現われていた。

ふわりと優しい笑みで、俺の前に突然現われる君のように。
どんなに押さえていても込み上げてくる、君への想いのように・・・。


それは香穂子の為に、俺が自ら作った曲。



俺の想いの分身を見つめながらそっと譜面を撫でると、耳元で氷が触れ合う涼しげな歌が鳴り響く。
ふと手元を見れは、透明なグラスに注がれたアイスコーヒーが俺を呼んでいた。
覆う影に視線を上げれば、銀のトレイをテーブルに置いた学長先生が、俺の向かい側のソファーから身を乗り出すようにして、俺の手元を一緒に覗き込んでいる。


『レンはブラックで良かったかな?』
『はい、ありがとうございます』
『レンが思い詰めたり浮かない顔をするという事は、カホコと喧嘩でもしたのかね』
『いえ・・・喧嘩は、していません。むしろ、その逆だと思います』


ただ一歩間違えれば、喧嘩になる可能性もあるけれど・・・。


ほう?と不思議そうに皺に隠れた小さな目を見開くと、テーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスを手に取った。差してあったストローをわざわざ取り外して、直接グラスに口をつけている。豪快な飲みっぷりに暫し目を奪われていたが、俺もグラスを手に取り軽く中身をかき回した後に、ストローへ口をつけた。



いつもそうだ・・・俺が悩むのは香穂子の事だと、どうしてこの人は言わなくとも分かってしまうのだろう?
手に馴染むグラスの冷たさが喉へも通り抜けて、熱くなった心と顔が和らぎ、ホッと一息深呼吸が溢れてくる。


行動パターンを見破られているのか、端から見ても分かる程俺の顔に書いてあるのか・・・・。
本当の事だから反論する理由も無いが、本音をそのまま言い当てられれば少々照れ臭いのは確かだ。
深い洞察力が音楽にも現われる重ねた人生の差なら、当然俺には敵わない。


だがその分、言葉に上手く出来ない俺の言葉を汲み取ってくれるから、もどかしい想いも伝えやすくて。
だかこそ俺はここへ来たのではないか?
直接の答えでなくとも、先へと導く光りが欲しくて・・・分からない自分の事を教えて欲しかったから。



『学長先生は、相手を驚かせるために、秘密に事を運んで贈り物をした事がありますか?』
『サプライズかね、もちろんあるぞ。形があるもの無いもの・・・大切な人が驚き喜ぶ顔が見たくて贈った事もあるし、もらった事もある。受け取った瞬間の感動は、贈る側にとっても新鮮で心浮き立つものじゃ』
『香穂子はよく俺を驚かそうと、いろんなサプライズをしれくれます。ささやかなものから大きなものまで、驚きと共に嬉しさと喜びを伝えてくれるんです。だから俺も伝えたいんですが・・・難しいですね』
『今回のCDや曲がカホコへの贈り物だと、レンやヴィルヘルムから聞いていたが。ひょっとしてレンは初めてなのかね? 贈り物する為に、内緒の企みをするのは』
『はい・・・これ程大掛かりなものは初めてなので、正直よく分からないのです。俺も楽しみな反面、彼女を悲しませたり不安にさせたらと思うと・・・考えすぎて言いたい事を伝えらない』
『何処までを伝えてよいか分からなくて、心の糸が絡まっているのじゃな』



先日もいつもどおりに香穂子と電話で話をして、あっという間に時間が経ってしまった。日程の相談で電話がかかってきたのに他の話に夢中で、結局うやむやになってしまい、また連絡する事になったのだ。
良かったのか、残念のか・・・次も同じ繰り返しをするかも知れないのに。


今回こそはと思っても、どんなに考えていても。彼女が目の前に現われれば、どこかへ消え去ってしまう・・・夢中になってしまって、いつも後悔に襲われるんだ。


喜んでくれるだろうかと期待に胸が膨らむ一方で、楽しみにしている香穂子の期待を裏切って悲しませたくないという思いが激しくぶつかる。 早く伝えなければいけないのに、伝えられない事。
しかし、もう少し黙っておきたい事を君に伝えたくて、自分自身が堪らなくもどかしい。


ひと夏が潰れるわけじゃ無い・・・たった数週間だ。
会えなかった時間を考えれば、それでも俺たちには大きいものだから・・・。
彼女の為といいつつ、一番大きく揺さぶられているのは俺の方かも知れない。


込み上げる苦笑を漏らし、グラスをそっとテーブルに戻すと僅かに屈んだそのまま、まだ冷たさの残る手を脚の上で組んだ。ふわりと微笑む気配に視線を上げると、学長先生は予想外じゃのうと俺に驚きつつも、カホコはそういうのが好きそうじゃなと、彼女を思い浮かべながら嬉しそうに頬を綻ばせている。


『どんなに秘密に隠していても、いや・・・隠そうとすればする程に必ず相手には伝わるものじゃ。楽しそうなら、分からないなりに相手も楽しくなるし心も浮き立つ。自分が不安なら相手にも伝わり、些細な事さえ疑心暗鬼の目が大きく育つんじゃ。良くも悪くも、君にも経験があるじゃろう?』
『香穂子も嘘がつけない性格ですから、俺を驚かそうと何か隠しているのはすぐに分かるんです。妙にそわそわしたり、落ち着かなかったり・・・でも、不思議と嫌ではない。俺も気づいていない振りをして、気づけは一緒にわくわく胸を躍らせている。例え知っていても受け取った時に感じる嬉しさと愛しさは、言葉で言い表せません』


何も知らずに、心臓が止まる程の衝撃を受けた事もありますが・・・と。
想いを馳せつつそう伝えると、自然に頬と口元へ笑みが浮かんでくる。
彼女がくれた贈り物はいつまでも心に残って、俺を温かく幸せな気持にしてくれるんだ。

だからこそ、今度は俺が贈りたい。


『その楽曲は、レンが作ったものかね?』
『俺が作りました・・・香穂子に贈る為に。想いの全てを込めて完成した時は直ぐに届けたくて、逸る気持を抑えるのに必死でした。しかし一日経って冷静になると、急に不安が込み上げてきたんです。偉大な作曲家に比べれば、俺の作った曲など足元にも及ばない。本当に彼女が喜んでくれるのかどうか・・・』


開け放たれた窓から舞い込む風が、テーブルの上にある譜面を舞い躍らせる。
先程から主張するようにカサカサと語りかける譜面に、そうだった・・・君の事で来たんだよなと瞳を緩めて見つめれば、返事のようにピタリと鳴り止んだ。


『ワシも結婚したての若い頃、妻から曲をもらったんじゃ・・・懐かしいのう』
『学長先生の奥様も、楽器か何かをなさるのですか?』
『いや、妻は音楽を愛する、ごく普通の女性じゃよ。楽器は弾けないが、彼女の耳と感性は素晴らしいと思っとる。もらった曲は、妻がいつも口ずさんでいた名も無いメロディー・・・心に想った気持ちをそのまま音色に乗せた優しい歌。楽しそうに口ずさむ笑顔と音色が、ワシは大好きじゃった・・・』


浮べた微笑みのまま一番上に重ねられた楽譜に目を向けると、愛しみ慈しむような優しい表情へと変わってゆく。大切な人に想いを馳せているのだと一目で分かるのは、穏やかな心の波が俺にまで伝わり、温かな気持にさせてくれるからだろう。



香穂子を想っている時の俺も、今の学長先生のような表情をしているのだろうか?


どこか遠くを見つめる瞳が俺と交わり焦点が戻ると、静かに昔の思い出話を語り始めた。
俺と自分自身に語るように・・・心の中にある大切な宝物をそっと取り出すように。