白熱した議論が落ち着くと、まだ輪になったままでそれぞれが和やかに談笑し始めた。レンとカホコもそんな彼らを眺めながら微笑を交わして会話をしている・・・時折声を掛けてくる仲間達との会話も楽しみながら。俺は膝の上に乗せたままのアルバムを見下ろしつつ横目で彼らの様子を伺い、さてこれを何時渡そうかと指先でポンポンと叩き、リズムを取りながらタイミングを考えていた。

どうせなら渡す瞬間からアルバムの最後を飾る思い出の1ページとして、心の中の写真に残してやりたいから。


「蓮くん・・・私、蓮くんの事をジョークが通じなくて頭が固いよねって、もう言えなくなっちゃったよ・・・」
「香穂子・・・・・・」
「ち、違うの! ありがとうって感謝しているんだよ。蓮くんやヴィルさんのお手伝いがなければ、全然お話についていけなかった。だってジョークなのに分からなくていちいち聞き返すから、私一人でワンテンポ笑いがズレていたんだもの」
「香穂子、日本語でもそうだがジョークというものは、頭を巡らせないと分からないものだ。日常会話が少し出来ても、すぐに理解するまでには時間がかかる・・・気にする事はない」


二人に語り掛けていた仲間が去り会話が途切れたのを見計らって、彼らの方へ腰を向けた。困ったように眉を寄せるカホコをレンが宥めているのだが、俺は日本語も分かるから二人だけで交わされる日本語の会話に耳を澄ませば、本人達は深刻なんだろうけれども端から見ている俺には堪えきれずに、プッと噴出してしまった。
いきなり笑い出す俺をどうしたのかと不思議そうに見つめるレンとカホコに、いや・・・笑うつもりは無かったんだけどと曖昧に誤魔化して、目尻に滲んだ涙を指先で拭った。


『ははっ!日常会話が出来るからジョークも分かると思うのは、俺達のいけない所だな。かといって分からない顔をすると皆から丁寧に説明されてしまう・・・ジョークなのに。カホコも気を使って疲れたんじゃないのか?』
『そっ・・・そんな事ありませんよ! 皆さんとても親切で、お陰でとても楽しかったです』


ほんのり赤く顔を染めながらブンブンと慌てて首と手を振るところをみると、彼女も苦労したのだろう。ジョークはその時に笑うから面白いのであって、説明を聞くと楽しさが減ってしまう。皆が気遣うものだから、分からないなりにもこっそり周りを見渡しながら合わせて笑ったり、時には分からない仕草をみせたりと、彼女なりに一生懸命だったのを俺もレンも知っている。


『大丈夫だよカホコ。レンは君が心配するように、日本語と同じようにドイツ語が流暢に話せた今でも俺達のジョークには鈍いから。でも君ならきっとすぐに会話に溶け込んで、皆を楽しくさせてくれると俺は思うよ。レンの分までね』
『おい、どういうことだ』
『すぐそうやってムッと突っかかる所が可愛いって言ってるんだけど、まぁそれは置いといて。議論に勝ち負けは無いけれど、今日この場を一番盛り上げてくれて頑張った君に、俺からささやかなプレゼントがあるんだ』
『わ、私何もしていませんよ!』


何もしていないからと手や首をブンブン振り回しながら、頬をほんのり染めて照れだしているけれども、そんな事はない。君のお陰でどれ程この場や俺達が温かくなった事か。

レンもそう思うだろうと視線をやれば、どうやら同じ事を思っていたようで、あぁ・・・と深く頷き、ふわりと緩めた瞳をカホコにじっと注いでいる。やっと渡せる・・・そう思ってずっと膝の上に乗せていたボルドー色に艶光る革張りのアルバムを手に取り、そっと彼女の目の前に差し出した。

きょとんと不思議そうに受け取るカホコにふわりと微笑を向けると、大役を果たし終え軽くなった両手にポッカリ穴の開いたような寂しさを感じて軽く握り締め、コートのポケットに入れた。


『この間あった兄さんたちの結婚パーティーで写真。俺が撮った君たち二人のベストショットがたくさん収められている、特製メモリアルアルバムなんだ。三人で作ったんだけど、中でも義姉さんが一番張り切っていたよ』
『ありがとうございます! あの、さっそく見てもいいですか!』
『もちろんだとも、俺の自信作だ。ちなみにこれは予行練習、本番はもっと凄いものを作って見せるよ』
『予行練習?』
『そう、君たちの結婚式のね』
『・・・・・・!』


えっ!? け、結婚ってそんな・・・と。続く言葉を紡げずに口をパクパクさせている香穂子隣で、アルバム見たレンもあっと息を飲んで何かを思い出したらしく、大きく目を見張った後に眉が潜められた。


『レッスンの時間を割いてまで披露していたアルバムとは、ひょっとしてそれの事だったのか・・・』
『おっ、先生から聞いたのか? そうなんだよ。渡したかったんだけど、なかなか君たちが捕まらなくて。手に持っていると嬉しくてつい皆に見せびらかしたくなるから、まだ見ていないのは君たちだけなようなもんさ』


ちらりと互いに視線を交わしあい途端に二人揃って頬を染め出してしまうが、はにかみつつ嬉しそうに表紙を開いた次の瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれて輝きが増し、感嘆の声が溢れてきた。蓮くん見てみて!と興奮気味にレンの膝へも半分寄せるようにアルバムを差し出せば、肩を寄せて覗き込んでくる。


「うわ〜凄い、しかも綺麗! 写真集みたいだよ。可愛く写真が切り取って並べてあって、お花や料理とか部屋の内装まで写ってる。あの時は緊張して分からなかったけど、こうなってたんだね・・・」
「・・・何時の間に、こんな写真を撮られていたんだ?」
「ふふっ、何だか天羽ちゃんみだいだよね。蓮くんも私もいっぱい笑ってるね〜。あっ、私がブーケ持ちながら居眠りしている写真まであるよ! やだ・・・蓮くん見ちゃ駄目っ!」


自分の寝顔を見られたくないのか、真っ赤になって慌ててバッと写真を手で覆ってしまう。そんな彼女の手に重ねてクスクス小さく笑いながら、どけようとしている蓮の気をそらそうと必死な様子が微笑まして、つい自分の頬まで緩むのが止められない。それは他の仲間も同じなうようで、何時しか周りで談笑していた誰もが話を止め、俺と同じように二人を見守っていた。

周りの仲間達が注ぐ視線は気にも留めず、ゆっくりページを繰りながら一枚一枚吸い寄せられるように眺めている。二人肩を寄せ合い覗き込んで指を指し、夢中になって思い出話に花を咲かせながら・・・。


『そうだ忘れてた。レンにもあるんだ、はいこれ!』


そう言ってポケットから分厚い封筒を取り出しレンに手渡すと、中身を確認して訝しげに眉を潜めてくる。封筒の中身は、アルバムと同じ写真がそっくりそのままの形で入っていたのだ。もちろん、さっきの寝顔の写真もしっかり入っているぞ。


『・・・俺と香穂子の、この差は何なんだ?』
『レン・・・可愛らしいお手製アルバムを俺から貰って嬉しいか? 贈る俺は凄く楽しいけれど』
『・・・・・・いや、普通に写真のままで結構だ』
『貰ったこのアルバムは私と蓮くん二人のものだから、代表という事で今は私が預かっておくから。じゃぁ蓮くんは、私と一緒にその写真をアルバムに飾ろうね。新しいアルバム買って帰ろうよ!』
『そう! そうなんだよ、さすがカホコ。俺が言いたかったのはそれなんだ。二人だけのアルバムに飾って欲しくてね』


胸を張って自慢げに言い切ると、本当かよ〜取って付けじゃないのか〜と周りからどっと笑いが起こり、からかいの野次が飛んでくる。なんだよ信用無いな〜と少しだけ拗ねた仕草を見せれば更に場が沸き、賑やかな声を見渡して楽しそうに頬をほころばせていたカホコが、開いていたアルバムを静かに閉じた。


『もうすぐ帰らなくちゃいけないけど、ヴィルさんやここにいる皆さんのお陰で素敵な思い出ができました。ありがとうございます。アルバム、大切にしますね』
『良かったら、ウチにも遊びに来てくれよ。義姉さんがカホコに会いたがって、呼んで来いって煩いんだ。俺レンが大学にいる間はイリーナ義姉さんも君を預かりたいと言っているし、ヴァイオリンだけでなく女性同士気軽に、おしゃべりやら買い物やら・・・したい事も聞きたいこともあるだろう?』
『嬉しいです! 毎日学長先生にお世話になるのも、どうしようって気が引けていたから、凄く助かります。私もイリーナさんに会いたいから、お言葉に甘てお邪魔してもいいですか?』
『伝えておくよ。カホコの事が大好きだから、きっと小躍りして喜ぶだろうな』


胸の中に閉じ込めるようにぎゅっとアルバムを両手で抱き締めた。感極まっているのか僅かに震えて押し黙る小さな肩を、傍らに寄り添うレンが瞳と共にそっと包み込む。もうすぐ帰らなくては・・・そういった彼女の言葉を聞いたレンの手がピクリと震え、苦しげに瞳が歪んだのはほんの一瞬。幻かと思うほどに気付けば穏やかに見守る表情に戻っていた・・・。


『俺からも礼を言わせてくれ。香穂子を温かく迎えてくれて、ありがとう・・・』


心が溢れる真摯なレンの言葉を聞いて、集う仲間たちも皆どこかくすぐったそうにはにかんでいて。
ゆっくり顔を上げたカホコは、包まれた肩に手を重ねて解き外すとふわりと微笑みかけ、真っ直ぐ前を向いて集う仲間達を見渡した。彼と同じく、集い囲む一人一人の瞳としっかり合わせるように。


『ヴィルさんも皆さんも、本当にありがとうございました。素敵な皆さんに囲まれている蓮くんが楽しそうで、ちょっと羨ましかったけど、安心しました・・・とても嬉しかった。あ、あのっ・・・これからも蓮くんの事、よろしくお願いします!』


アルバムを抱き締めたままぺこりと頭を下げたカホコに、俺もレンも驚いたけれども。レンはそんな彼女を泣き出しそうに緩んだ瞳を細めながら見つめている。

温かい・・・な。

今までずっと乗せていたアルバムが無くなって軽くなった脚に寒風が吹きつけ、感じる冷たさに心までもが冷やされていくようだ。けれども僅かに残る温もりへと伝わってくる何かは、キャンドルの火が灯ったように優しく温かくて。それを絶やさないように、ポケットに仕舞っていた両手を出してそっと自分の脚の上に乗せた。





『二人で、大学の構内を散策していたのかい? 途中で呼び止めてすまなかったな』
『あぁ・・・香穂子が、リンデンバウムの葉が見たいと言うから、ここ数日ずっと探し回っていたんだ。だがさすがに季節が悪い・・・殆どが枯れて既に落葉してしまっていて、落ち葉すら見つからなくて』
『それで君たちが捕まらなかったのか』
『1枚くらいは残っているかと思ったんですが・・・駄目でした。せっかく学長先生に薦めてもらったから、蓮くんと見たかったのに・・・残念・・・』


肩を落とし、笑顔を曇らせてしゅんと悲しそうに項垂れるカホコを、隣で見守るレンの方が辛さに耐えるように瞳を歪ませつつも、宥めるように見つめている。リンデンバウム・・・その言葉を聞いてチクリと刺さるように感じた驚きが、収まっていた心に波風を起こして僅かにざわめいたけれど、軽く呼吸を整え波を鎮める。
しかしまぁ、何と言う偶然とタイミングだろうか。


つい先程まで樹が見せる甘い夢に浸っていた俺と、リンデンの樹の元に集まるヴァイオリンの仲間達。
それに俺だけではなく以前はレンも・・・・・。

きっと後ろにあるリンデンバウムの樹が引寄せてくれたのだと思わずにいられなくて、アルバムの端を両手で強く握り締めると、押し出されるように心から湧き出た温かさがじんわりと身体の中に伝わっていく。
まだ微かに残る小波を微笑みで隠して、悲しそうに揺らめく大きな瞳を覗き込んだ。


『どうしてカホコは、リンデンバウムの葉が見たかったんだ?』
『えっ!? どうしてって・・・・さっき蓮くんにもそれ質問されました。葉っぱが見たいってそんなに変なのかな〜。あの・・・えっと・・・日本にいる時に見たことが無かったって学長先生に言ったら、蓮くんと一緒に見てみなさいって・・・。葉っぱがハートの形をしているからって・・・だからその、私・・・・・』
『リンデンバウムは“恋人達を結ぶ樹”。花言葉は結ばれる愛、結婚、恋愛、夫婦愛・・・この大学は愛がいっぱいだとか、あの好々爺は嬉しそうに自慢してなかったかい?』
『あ、はい・・・。やだ・・・どうして分かったんですか!? もしかしてヴィルさんもこっそり覗いて見てました?』
『・・・香穂子が先程俺に言いかけていた花言葉とは、それだったのか・・・・・・』
『うん、そうなの・・・ヴィルさんたちに呼ばれてすっかり途中になってたよね、ごめんね蓮くん。本当は蓮くんだけにこっそり言おうと思ってたけど、こんなに大勢の前だと、さすがに私もちょっと恥ずかしい・・・かな』


困ったようにレンを見てへへっと小さく笑うと、顔だけでなく耳や首筋まで火を噴出しそうなほど真っ赤に染まってゆき、俯きながら恥ずかしそうにもじもじと手をいじり出してしまう。だから必死に探していたのか・・・と熱く呟くレンもそれ以降の言葉が紡げず、みるみるうちに頬を染め出し、隠すように口元を押さえてフイと顔を逸らしてしまった。

カマをかけた質問だったとはいえ、大きく瞳を見開いて驚く彼女の反応はまさに予想通りのもので。やっぱりあの爺さんは・・・と心の中では苦笑にも似た溜息が溢れてくる。

純粋な二人を励ましているのか、それとも煽っているのか。可愛いお願いに付き合って必死に駆け回って、レンも微笑ましいじゃないか・・・と、いつもみたいにこっそり覗いて楽しんでいのかも知れないな。
でもそういうあの爺さまも子供みたいに無邪気で純粋だから、俺達は怒るに怒れないんだ。


・・・ハート型、確かにそうだな。
大切なのは心。常に心と心の繋がりを求める事なのだと、リンデンバウムの葉が教えてくれていると俺は思う。


ふと見ればあちこちから湧き上がってゆく照れる二人をはやし立てる声に、この状況をどうにかしてくれと我慢の限界に達したらしいレンが、刺すように鋭い瞳で俺を射抜いている。
レンはともかくとして、さすがにこのままではカホコが可哀相だ・・・。

すっと片手を挙げて周りを見渡すと、水を打ったように一斉に皆がしんと静まり返った。
騒ぎが収まったのを確認すると小さく溜息を吐き、おずおずと瞳を上げたカホコと、彼女を庇い労わりつつ不機嫌丸出して俺を睨むレンに、すまなかったなと心からの謝罪を微笑みに乗せれば、ようやく二人の表情もふわりと緩み出す。


『カホコ、俺達の後ろにある一本の大きな樹もリンデンバウムだよ。残念ながら葉はないけれど』
『えっ・・・そうなんですか!?』
『各専攻ごとで学生達の集う溜まり場があって、音楽について語ったり演奏したり今みたいに議論したりするんだよ。俺達ヴァイオリン科はこの講義棟裏の緑地・・・一際大きなあのリンデンバウムが目印。大きく広がる枝葉が木陰を作ってくれて、とても良いんだ』
『あっ!それこの間、学長先生から聞きましたよ。でも樹が目印だって言うのは、今初めて知りました』
『じゃぁ、これもきっと君は知らないと思うけれど、レンはいつもその樹に寄り掛かっていたんだよ・・・』
『本当ですか!?』
『・・・ヴィルっ!』


そう言うとカホコはパッと花開く笑みを浮かべて嬉しそうに瞳を輝かせ、背後にそびえる大きなリンデンバウムの樹を振り返った。建物の二階は軽く越す高さと、広げた傘のように四方八方へと伸び広がる枝。今は枝のみだけれども、幹や枝の中では外の寒さを凌ぎながら、少し先の春に向けて準備をしているに違いない。

語ろうとする俺を静止をしようと声をあげ手を伸ばしかけたものの、空を掴むように握り締めるとそのままゆっくり引き戻していく。彼女を追って、俺もレンもリンデンバウムの樹に視線を向けた・・・それぞれの想いを胸に秘めて。


『二人とも、どうしてリンデンバウムが、結ばれる愛の樹と言われるか知ってるかい?』


話の続きを聞かせてくれと振り返ったカホコに穏やかな微笑を向けると、彼女はふるふると首を横に振り、レンは花言葉でさえ初めて知ったのだからと困ったように苦笑する。
それもそうか・・・まぁ、男で知っている方が珍しいかもしれないな。

花言葉はギリシャ神話からきているんだと二人に話をふると、興味深そうに身を乗り出すカホコとじっと真摯に聞き入るレンに、俺は花言葉にまつわる神話を語りはじめた・・・自らの心を開きながら探る思いで。



旅人に姿を変えたゼウスとヘルメスをもてなした貧しい老夫婦。
褒美は何がいいかとゼウスが訪ねると、今まで仲良く暮らしてきたから死によって離れることが無いようにと願った。何年も経って老夫婦が仲良く腰を下ろして話していると、お互いの身体から木の芽が吹き出して主人は樫の樹に、妻は菩提樹に姿を変えたのだという。



死が二人を分かつ事が無いように、ずっと寄り添いあって生きたいと願う想い。
俺もそうあれたらどんなにかいいだろうか。
菩提樹となった君の側で、俺も樫の樹に姿を変えられたなら・・・。


リンデンバウムの囁きは誰にでも聞こえるわけではない。
愛する人の側に側にいたいと、切実に強く願う純粋な気持。
あるいは、人生や恋に失望して人生の冬を旅す者を引寄せ、優しく傷を癒してくれるのだろう。
ただし温もりに包まれたまま偽りの幸せに留まるか、春を求めてまた厳しい旅を続けるかは旅人次第・・・。
樹がみせる幻想は甘美な麻薬にも似た危うさがあるが、希望を持って進む者にはどこまでも優しく温かく進む先を照らしてくれる。


『このリンデンバウムに呼びかけられた者は、樹に語りかけると心にある想い出や、願う甘い夢を見させてくれるんだ。不思議だろう? 君の隣の誰かさん、騒ぐ俺達から少し離れて見守るように腕を組んで樹にもたれながら・・・あるいは樹の根元で腰を下ろして本を読んでいたり。たまに遠い目をして何を夢に願い、木陰の安らぎに一体誰を想い重ねていたんだろうな』
『蓮くんが、あの樹で・・・・・・』
『“恋人達を結ぶ樹”、確かにそうかもしれないな。だって今、君たちはこうしてこの樹の元に一緒にいるじゃないか。樹に染み付いた想いが、遠く離れた君たちをこの地へと引寄せたのだと、俺は思うよ』
『・・・・・・ヴィルさんも、あのリンデンバウムの樹とお話しするんですか? 夢を・・・見るんですか?』
『さぁて、どうだろうか・・・夢を見たり見なかったり。それは、秘密』


自分の事を脇へ置き、俺の事を心配してくれいるのだろう。レンも彼女の言いたい事が分かるのか、昔を思い出しているのか、じっと黙って見守っている。切なそうに寄せる二人の瞳に微笑みのヴェールを被せて、これ以上は駄目だからと・・・そっと心を覆い隠した。


『そんなに悲しそうな顔をしないでくれ、俺は平気だから。だって君やレン、ここにいる仲間達や大切な家族がいるじゃないか・・・過去や幻には捕らわれないよ』
『香穂子、今この季節にリンデンバウムの葉が無いのは、きっと樹の精の計らいだ。君と次に会うきっかけを・・・約束を作ってくれたんだと思う。だから俺は約束しよう、緑の葉が多い茂る頃に再び必ず君に会うと。また二人で一緒に探そう、心の形をした葉を・・・俺達の想いの数だけたくさん』
『蓮くん・・・・・・ヴィルさんも・・・・・・』
『俺もそう思う、リンデンバウムは恋人たちを何度でも引寄せて結び付けてくれる筈さ。俺たちもいつでもこの木の下でカホコを待っているよ、ヴァイオリン科の仲間としてね』
『そうだよね。充分に幸せなのに、これ以上欲張っちゃいけないよね。後の楽しみもちゃんと取って置かなくちゃ』


両隣のレンと俺を交互に見て微笑み膝に乗せたアルバムを手に取ると、嬉しそうに頬を綻ばせてボルドー色に艶光る皮の表紙を大切そうに撫でている。彼女から生まれた笑顔は俺達に伝わり、そして集う仲間達へと心まで染み込み広がっていくようだ。


ここ最近、樹の側にいるのをめっきり見かけなくなったレンは、きっと冬の旅を終えたのだろう。
けれども俺はまだ旅人だから、もう少しだけ冬を巡る旅を続けるけれども、どうせなら春へと向かういろんな冬を見ておこうか・・・寒いだけが冬じゃないんだと、君たちが教えてくれたから。

さすらいの旅の果てに見つけるものは、シューベルトの歌曲「菩提樹」の旅人のように暗闇や絶望ではなく、希望や光り・・・未来なのだ。針金のような枝や幹の中でも芽吹きに供えて生命が絶えず育まれているように、春の来ない冬は無い。春を告げるイースターの頃には樹の芽吹きと共に、長い俺の旅もきっともうすぐ終るだろう・・・そうだといいと思う。


だから、君たちに春を呼ぶ手伝いをしてもらっても、いいだろうか・・・・・。


『そうだ、せっかく楽器も手元にあるようだし、君たちのヴァイオリンを聞かせてくれないか? 春を呼ぶ音色・・・俺が感じた想いを、皆にも届けてやって欲しい。三階の窓からこっそり覗いている好々爺も、聞きたがってうずうずしているみたいだし』
『えっ!? あ、学長先生だ、こんにちは〜』
『本当だ、何時の間に・・・。気付かなかった、あぁやっていつも覗いていたのか・・・』


ニヤリと口元を歪めて背後にそびえる講義棟を見上げれば、俺達のちょうど真上にあたる三階の部屋の窓から、学長先生が見下ろしていた。気付かれたと知るやパッと慌てて隠れてしまったけれど再び顔を覗かせて、元気に手を振り返す香穂子に小さく手を振ってくる。

皆も聞きたいだろう?と仲間達に聞けば、演奏を求める声があちらこちらから沸くように上がり、俺の隣にいた仲間も身を乗り出して、戸惑い気味の二人に声を掛けた。


『ヴィルが身振り手振りで君たちの演奏の様子や曲の雰囲気を実況してくれるのはいいんだけど、興奮気味で俺達にはもどかしくて・・・ヤツだけに楽しい思いをさせるのは、ちょっと悔しいしな。百聞は一見にしかずっていうし、レンたち二人の演奏を実際に俺も聞いてみたい』
『お前、俺が一人で二役頑張ってあんなに一生懸命説明したのに、てんで伝わらなかったのか!?』
『分かる訳ないだろう・・・モノマネにしたって似てやしなかったさ。ま、レンはレンだから誰にも真似は出来ないってところか、お前でもな』


そうだよな?と同意を求めればドッと笑い声が起こり、わざと大きくしょげて見せる俺の肩をポンポンと叩いて宥めてくる。レンとカホコも始めは眉を寄せて困っていたものの、隣で可笑しそうにクスクス笑いだし、周囲の期待に応えようと互いに視線を絡ませ合いがら意思確認をしていた。


「ねぇ、蓮くんどうしよう?」
「もし香穂子が良ければ、一曲披露しようか」
「嬉しい〜! 私はいつでも大歓迎だよ。じゃぁさっそく準備しなくちゃ」
 

ケースからヴァイオリンを取り出し調弦をすると、注目を浴びて照れくさそうにはにかみながら輪の中心へ立ち楽器を構える。瞳を見つめ合い、交し合う心と呼吸のようにピタリと重なり寄り添ったボウイングが、心の弦をも震わす温かな音色を生み出し、包み込んでゆく。
灰色に厚く覆われた冬の雲を突き抜け光を招き・・・冬の凍てつく寒さを和らげ、一足早い春を呼ぶように・・・。


じっと聞き入り見守る誰もが、この音色のように優しく温かで・・・。
風に凪いでさわりと揺れたリンデンバウムの枝が俺の心に囁く声も、嬉しそうに喜んでいる気がした。


そうか、きっと君も喜んでいてくれるんだよな。
心に湧き上がる温かさと緩む瞳と頬で視界の端に揺れる枝葉を捉えながら、そう思う。
リンデンバウムの樹の元で結ばれた恋人達の奏でる彼らの音楽は、透明で優しく空高く吸い込まれていき、君のいる天上へも届いているのだろうから。




リンデンバウムよどうか聞き届けて、見守っていて欲しい・・・俺が見る夢の分まで彼らの希望に変えて。
かつて樹に姿を変えた老夫婦がずっと共にと願い、添い遂げたように、君たち二人もこの先どんな事が起ころうとも、互いの心と身体が離れる事が無いようにと俺は願う・・・。


「結ばれる愛、恋愛、結婚、夫婦愛」。

樹は愛し合う二人を何度でも引寄せ合い、永久に結びつける。
俺の大切なレンとカホコへ、リンデンバウムの花言葉の祝福が訪れますように・・・絶える事なく永久に。



えっ、人の事より俺どうだって?
俺の事は心配ないさ、でも・・・そうだな。
まずは危なっかしいこの二人を、ちゃんと見届けてから・・・かな。











菩提樹・Lindenbaum・3