菩提樹・Lindenbaum・2

寒空の下にも関わらず、集う皆が冬枯れた芝生の上に輪になって一つに固まるように腰を下ろし、話や議論に興じている。ドイツ人の議論好きは有名で、人が集まりテーマが見つかると反対意見を戦わせ合いながら、数時間以上も延々と議論を続けるのだ。正直にYes・Noを言ってもいいし、きちんと反論する事が人間として認められている国なんだと、こういう場に居合わすたびに改めて思う。

香穂子を挟んで俺とヴィルヘルムが両隣に座り、白熱するあまりに早口でまくし立てられたり地方によって方言のあるドイツ語に、目をくるくるさせている彼女のサポートにまわる。通訳したり分かりやすく解説をしたり。

反論を戦わせる鋭い声が上がるたびにビクリと肩を大きく揺らして発言者の方を向き、大きな瞳を更に見開いて唖然と凝視している様子は、まるで大きな物音に驚く子犬のようで。議論が高じて喧嘩をしているとでも思ったのだろうか・・・零れそうになる小さな笑いを堪えながら、緩んだ瞳で隣の彼女に微笑を向けた。


「香穂子、何も心配はいらないから。彼らドイツ人の良い所は議論はしても喧嘩・・・つまり口論はしないという事。議論は勝ち負けではないから、本音をぶつけ合って反対意見を戦わせても決して気まずくなったり怒ったりしないんだ。議論が終れば誰もが皆、何事も無かったようにサッパリしている」
「そ、そうなの? 良かった〜。今にも掴みかかりそうな位もの凄い勢いでまくし立ているから、私はてっきり喧嘩しているのかと思っちゃったよ・・・」
「自分の考えだけだと一つの見方しか出来ないが、異なった意見を聞けばもう一つの見方を知る事が出来るだろう? お互いがそれを承知で自分の意見を表し他の人の意見も聞いて、それぞれがより新たなものを作り出す・・・それが議論なんだ」


胸に手を当てつつホッと安堵の吐息で撫で下ろし、不安そうに揺れていた香穂子の瞳がふわりと笑顔に変わる。香穂子を挟んで向こう隣にいるヴィルヘルムも、同じように微笑んで見守っていた。


『カホコ、辛いのは議論しようとワクワクしているのに、反対意見が出せなかった時なんだよ。そんな時に反対意見を出すヤツは、尊敬と感謝の視線を一身に浴びる英雄だね。それに、本音をぶつけて議論する事で本当の友達になれる事だってあるんだ』
『素敵ですね〜! ヴィルさんにもそんなお友達がいるんですか!?』
『カホコの隣の誰かさんは負けず嫌いだから、初めて会った時に俺が突っついたら、嬉しいぐらいに勢い良くムキになって反論してくれたよ。もう少しで本気で手が出そうなくらいに、議論が止まらなかったけど・・・」
「へ〜! 蓮くんが!?』
『・・・・・・余計な事は言わなくていい』


香穂子を挟んで悪戯っぽい瞳を向けてくるヴィルへむすっと膨れて睨みつけながらも、キラキラと期待と羨望の眼差しで俺を振り仰ぐ香穂子に照れくささを感じてしまい、次第に顔が熱くなっていくのが分かる。
最初はちょっと怖かったけど楽しくなってきたよと、嬉しそうに頬を緩める彼女の笑みにつられるように俺もヴィルも微笑を向けた。


やがて発言をする者に意見を求められるようになり、慌てて戸惑いつつも、しっかりと自らの意見を述べる香穂子。まだ慣れないドイツ語に身振り手振りを交えつつ、一生懸命語りかけ相手の意見を理解しようとする彼女の為にと、少しでも分からない仕草を見せればゆっくり噛み砕いて何度も丁寧に説明してくれる。

始めは怯えて緊張していたけれども「さすかレディーファーストの国だね、みんな紳士だよ」と、嬉しそうに頬を綻ばせていつしかすっかり輪の中に溶け込んでいた。

俺が意見を述べて議論を戦わせている間は、ヴィルヘルムが通訳やサポートをしてくれている。アドバイスを耳にしながらふむふむと小さく頷き、頑張れと言わんばかりに俺を見つめる香穂子の視線に、普段あまり参加しない議論にも次第に熱が籠っていく。彼女の前で言いくるめられる訳にはいかないから、理論に理論で返して相手を黙らせ・・・ホッと一息ついたところで、今度はそんな俺を黙らせようとヴィルが一言鋭く突いてくる。


忌々しく睨み返す俺の視線を彼は余裕の笑みで受け止め、俺が反論できずに唇を噛み締めるように押し黙るのをニヤリと口を歪めて笑みを向けてくるのだ。心の中で溜息やら舌打ちやら・・・言いくるめられて悔しさに溢れていると、、密かに火花を散らす俺達を何を言っているのだろうと言わんばかりに見上げていた香穂子が、首を傾けつつきょとんと意見を呟いた。

一瞬の静寂の後、喜びと期待で一気に場が沸く。

結局は最後に全て香穂子に持っていかれてしまい、彼女は何が何だが分からないまま、きょろきょろと周りを不思議そうに見渡すばかり。やがて俺や仲間達の温かい視線や声援を受けると、照れくさそうに膝の上できゅっと手を握り合わせながら、頬を染めてはにかんでいた。



皆を惹き付けつけ、いつでも輪の中心で光り輝く君・・・。
そんな君が誇らしいと同時に、愛しさが溢れそうな程に込み上げてきて。まるでずっと一緒に学んできた仲間のように温かく香穂子を迎えてくれるヴィルや仲間達に、心からの感謝を覚えずにはいられない。


感謝をするのは、俺たちの後方に佇む一本の大きなリンデンバウムの樹にも・・・・・。

そう思って肩越しに振り返ると、瞳を細めて見つめる俺の心にふと過ぎったのは、もう随分と聞かなくなって久しいリンデンバウムの枝葉が囁く声。だが「こちらへおいで・・・」と甘く痺れる媚薬のように常に引寄せられ、ずっと心に響いていたものとは違い、どこか温かく優しく祝福するようなものだった。

大きく枝葉を四方に伸ばしている姿は、腕を広げ差し伸べながら胸の中へと誘っているようにも思えて。
思い出すのは、身体を樹の幹に預けながら広い木陰に包まれ、枝葉の囁きが見せる温かな安らぎに遠く離れた君を想い重ねていた・・・あの頃の自分。

楽しげに議論を交わしヴァイオリンを奏でる仲間達を輪の外で眺めながら、この場に君がいてくれたならと、どんなにか強く願っただろうか。心の願いを俺はリンデンバウムの樹が見せる、甘い夢の中で叶えていた。
その夢が今は現実のものとなり、大切な君が幻ではなく触れれば確かな感触を持って俺の側にいる。


リンデンバウムの呼び声は、心の冬を迎えた者だけが聞こえるのかも知れないな・・・春を求めてさすらいの旅の果てに辿り着く場所。かつては俺もそうであったように、この樹に語りかけ夢を見る者は皆、冬を巡る旅人なのだ。

リンデンバウムの囁きが聞こえなくなったという事は、きっと俺の冬の旅は終ったのだろう。
俺はもう振り返らない・・・聞こえる事も無いだろう。
これから見るのは過去や想い出ではなく、希望と未来・・・君と共に歩く春の旅始まるのだから。