菩提樹・Lindenbaum・1

音楽大学の構内にある古びた講義棟の裏手にある、一本の大きなリンデンバウム(菩提樹)。その枝影で身体を休め、幹に背を預けて寄り掛かりながら空を見上げれば、冬場には殆ど太陽が顔を出さない灰色に覆われた厚い雲に、針金のような枝が黒いシルエットを描いている。頬を切る寒風が吹きぬければ吐き出す僅かな吐息も白く凍って天へと昇り、どこへ行くのだろうかとポケットに手を入れたままただぼんやりと眺めていた。


俺の周りで集い、賑やかに談笑したり議論を交し合うヴァイオリン科の仲間達の声をどこか遠くに聞きながら、心に響くのは優しく包み込むリンデンバウムの枝が囁く声。
「私のところへおいで、ここにお前の安らぎがある・・・」


嬉しい時も悲しい時も季節が巡っても心はリンデンの樹に言葉と想いを刻み、今は遠く離れてしまったあの場所から絶え間なく聞こえる声に耳を傾けながら、俺は夢を見るんだ。
懐かしい想い出を・・・数々の甘い夢を・・・・・・。

ギリシャ神話にも歌われる「結ばれる愛の樹」。
母なる樹がもたらしてくれる温かさと木陰に癒されながら思うのは、俺の安らぎ・・・君こそが俺のリンデンバウム(菩提樹)なのだと。





『なぁ、ヴィル。お前、まだそのアルバム渡してなかったのか?』
『えっ・・・何か言ったか?』
『おいおい・・・ひょとして目を開けたまま寝てたのか、珍しい奴だな。膝の上にあるそのアルバム・・・毎日持っているけど、一体いつになったらレンに渡すんだ?』
『あぁ・・・これか・・・・・・』


隣で座り込む仲間が俺の視界を塞ぐように正面から覗き込むと、俺の膝の上に乗せたままのアルバムを指差しつつポンポンと表紙を突付いた。ハッと我に返ったものの、まだ意識を引き戻しきれないままぼんやり呟けば苦笑気味に肩を小さく竦めて見せる。


『う〜ん、レンにというかカホコに直接渡したいんだけど、機会がなかなか無いんだよね』
『講義で一緒なんだからレンに声を掛ければいいじゃないか。それとも怖い〜見張り番がいるからか?』
『違うって。二人揃っている時に渡したいんだ、でないと意味がないから。だけど彼女はあくまでもお客様だから目立つ事は避けたいらしくてここへも来ないし、講義が終るとすぐカホコが待つところへ飛んでいくし。その割りに二人であちこち動き回っていて捕まらないんだ』


お前も大変だなという呑気な声を耳にしながら、そうなんだよと大きく相槌を打つ。
ひそりしたいのか、二人だけでいたいのか・・・恐らく両方だろうな。今はそっとしてやりたいと思うが、もしもこのまま渡せなかったら、カホコを可愛がっている義姉さんが烈火のごとく怒る事は間違い無い。愛が込められている分、怒られる自分の姿が容易に想像できるだけに、それだけは困ると顔を顰めて小さく溜息を吐いた。

夢では無いのだと、記憶と絆を蘇らせる確かなものをレンとカホコの二人に贈りたい気持は、俺も同じだから。


ボルドー色に艶光る皮張りの表紙を開くと、黒い台紙に飾られた数多くの写真たち。
最初のページには二人から当日受け取ったパーティーの招待状が添付されており、空いているスペースにはブルーとピンクの紙を切り抜いた小さな天使たちが、囲むように舞い踊っている。ページを繰れば気付かれないようにこっそり撮った、寛ぐ様子や楽しそうに談笑する自然なありのままの二人の姿。
そのまま綺麗に並べられているのもあれば、フォトフレームに飾られたように丸や四角にカットれていたり。

アルバムを彩るのは式の行われた教会やパーティーの行われたフランツ家の建物や内装、さり気なく置かれ飾られた調度品や花たち、メニュー表と共に会場に溢れる美味な料理や飲み物のボトルまで・・・・。そのものの形を蘇らすように丁寧に切り取られており、配置にもこだわって雑誌や写真集を見ているように仕上がったアルバムは、実際に空間へ身をおいた者だけでなく、初めて見る人々にも声まで聞こえそうな情景を詳細に与えてくれる。


順にページを捲ってゆき、一番最後には台紙の中央に大きく引き伸ばしたレンとカホコの写真。
義姉さんからブーケをもらって嬉しそうなカホコと、兄さんからブートニアを胸に刺してもらって照れくさそうだったレンが仲良く寄り添っていて、その見開きで対になるページには二人に贈る俺たちからの寄せ書き。
喜んでくれたらと・・・手に取って眺める二人の様子や笑顔を思い浮かべながら感謝と祈りを込めて、兄さんと義姉さんと俺の三人で作り上げた自信作だ。


『自分で作った完成度の素晴らしさに、手渡すのが惜しくなったのかと思ったぜ。それにしても良く出来てるよな、プロみたいだ。お前見かけによらず、こういう細かいの好きだもんな』
『見かけによらずとは失礼なっ・・・とは言っても殆ど、手伝ってくれた義姉さんが張り切っていたから・・・・・・』
『こうして見るとレンも、いつもとは別人だよな〜。あぁ〜あ、彼女の隣で幸せそうに笑っちゃって。しかし、このアルバムだけ見たら、誰の結婚パーティーの写真だか分からないぜ。お前の兄さんと義姉さん、殆どいなくてレンと彼女だけのベストショット満載だから、俺はてっきりレンの結婚パーティーかと思ったさ』
『みんなもそう言うよ、まぁパーティーもこのアルバムも予行練習だからいいんじゃないのか』


幸せそうに視線を交わして微笑む姿に、自然と頬が緩んで笑みが零れてくるのが分かる。それは俺だけではないようで、いつの間にか周りに集って覗き込む仲間達の顔も写真の中の二人と同じようになっているんだ。
正面から吹き抜ける寒風にいつもこの樹を振り返りたくなる俺の背中を、前に進めと押してくれるような・・・・。
リンデンバウムの樹に集うこの空間だけ、寒さを退ける温かさが溢れて俺達を包み込んでくれる・・・それは樹の力なのか、二人の想いのなせる技なのか。


『なぁヴィル・・・日本人のレンは若く見えるから、とても俺達と同じ年には見えないけど、年下に見えるこの彼女もやっぱり俺達と同じ年なのか? ヴァイオリンも弾くんだろう?』
『ハイスクールの同級生だから、レンや俺達と同じだよ。でもくれぐれもレンの前で、カホコの事を根掘り葉掘り聞くなよ〜タダでさえレンのやつピリピリ警戒しているんだから、火に油を注がないでくれよな』
『もちろんわかってるさ、一般的な質問をしただけだよ。あれっ・・・おいヴィル、噂をすれば何とやらだ。あそこにいるのはレンじゃないのか? 隣に写真の彼女も一緒だぜ』
『本当だ、ちょうど良いや。お〜いレン〜! カホコ〜!』


隣で一緒にアルバムを眺めていた仲間に肩を揺さぶられて指し示す手の先を追えば、芝生の先にある石畳を共にヴァイオリンケースを携えて歩くレンとカホコがいた。講義棟を出たという事は、ちょうど学長先生の研究室から出てきたところなのだろう。慌てて立ち上がると彼らに向かって大きく両手を振り、声を上げて呼びかけた。


レンがこちらを向いて思いっきり眉を潜めたのが遠めで分かかったが、カホコが嬉しそうに手を振り返してくれている。渋るレンの腕を軽く揺さぶりながら片手は俺たちの方を指し、見上げて首を傾げていのは、きっとこちらへ来ようと強請っているのだろう。レンはカホコのお願いに弱いから絶対に来るはずだ、そう思って周囲に目線で合図をすると皆で手を振りながら、俺は引寄せるように手と呼びかける声に精一杯力を込めた。






大学での午前中の講義とレッスンを終えるとすぐさま講義棟へ向かい、昼休みを香穂子と共に過ごす為に学長先生の研究室まで香穂子を迎えに行く。挨拶を兼ねて朝も彼女を託して送り届け、一日の終わりになれば再び迎えに行って共に家に帰る・・・それがここ数日の日課だ。広い敷地内に点在する建物を端から端まで駆け抜け行ったり来たりと、手間と時間は確かにかかるが不思議と苦ではなく、例え頬を切るような冷たい冬の風になぶられても、心も身体も軽く弾んで温かい。

香穂子が日本に帰るまであと残り僅かな幸せだとわかっているけれども、だからこそ一刻一秒を無駄にしたくなくて、心に強く留めておきたいのだと思う。


香穂子の手にはヴァイオリンケース。俺が講義をしている間にヴァイオリンのレッスンや音楽の話をしてもらった事、大学構内を散策したり学長先生の仕事も少し手伝った事など。離れていた時間をも共有して埋めるように、あった出来事をくるくる変わる表情で、楽しそうに夢中になって語っている。

そんな君を微笑んで見つめながらじっと黙って耳を傾ける俺に、一人で語り続ける君は突然ピタリと口を閉ざしてしまい、頬を染めつつおずおずと見上げてきた。


「・・・・・・私ばっかり話していて、蓮くん迷惑じゃない? うるさかったかな?」
「そんな事はない。香穂子の話をもっと聞きたいし、楽しそうな君をもっと見つめていたいと思う」
「もう・・・私だって蓮くんの話が聞きたいのに・・・・・」


そう言って香穂子はほんのり頬を染めて、見上げていた視線をプイと恥ずかしそうに拗ねるように逸らしてしまう。心を甘い糸で締め付けられるような心地良い痺れに身を委ねて熱さが満ちるのを感ながら、瞳を緩めて見つめ、こちらを向いてと穏やかに声を掛ける。


「香穂子、寒くはないか? 図書館やカフェかどこか中に入ろうか?」
「私は平気だよ、だって蓮くんがいてくれるから温かいもの。それよりもリンデンの葉を探したんだけど・・・なかなか見つからないもんだね。あ〜ぁ、蓮くんと一緒に見たかったのに・・・」
「インドにある常緑の菩提樹とは違い、ヨーロッパの街に多くある菩提樹は秋になれば全て落葉するんだ。今は冬だから難しいと思う。俺は植物にはあまり詳しくはないから、枝だけだとどれがリンデンバウムかそれすら分からなくて・・・君の役に立てずにすまないな」
「ううん、私こそ我侭言って付き合わせちゃってごめんね」


リンデンバウムの葉が見たいという香穂子の希望で、休み時間の度に広い大学構内を探し回っているのだが、冬真っ只中の季節だけあって、全ての樹が葉を綺麗さっぱり落としていた。やっぱり見つからないのかな〜と悲しそうにしょげ返る姿に胸が痛み、何とか見つけてやりたいと思うのだが・・・。俺を気遣いすまなそうに見上げる大きな揺れる瞳に自分を映して、そっと彼女の髪を包むように撫で下ろした。

謝らなければいけないのは俺の方だと、心の中では苦笑せずにはいられない。

闇雲に探しても時間だけが過ぎるのはわかっているけれども、こうして一緒に過ごす時間が楽しくて香穂子の希望を早く叶えてやりたいと思う反面、もう少しこの時間が続けばと思っているのだから・・・・・。


「どうしてそんなにリンデンの葉が見たいんだ?」
「日本では見たこと無いって言ったら、学長先生に薦められたの。葉っぱがハートの形をしているんでしょう? だから蓮くんと一緒に見たいなって思ったの」
「ハート型・・・確かにそう見えなくも無いが・・・・・・」


だからそんなにも、彼女は熱心にリンデンバウムの葉を探していたのか。
ハートの形をしている葉を俺と一緒に見たいのだと、純粋に向ける嬉しそうな笑みに、照れくさくなるほど真っ直ぐな愛の言葉が込めれられているのを、彼女は知っているのかいないのか。

あれ、そういえば言って無かったっけ?ときょとんと不思議そうに小首を傾ける姿が愛らしさを更に煽って、今更だが始めて聞いたとポツリと呟くしかできない。胸の中から溢れた熱さが身体中に溢れて、顔から火を噴出しそうな熱さを感じてしまい言葉を詰まらせる俺に、彼女はふふっと小さく笑って振り仰いだ。


「夏になると、甘くて良い香りのする小さな花が咲くんでしょう?」
「あぁ、特に朝が一番香りが強いんだ。正門から大講堂まで真っ直ぐ続くリンデンの並木道を歩くと、広い木陰と甘く爽やかな香りが包んでくれて、とても落ち着く」
「うわ〜素敵! いいな〜羨ましい。でも素敵なのはそれだけじゃないんだよね。ねぇ蓮くん、リンデンの花言葉って知ってる?」
「いや、知らないが・・・」
「とってもロマンチックなの、あのね・・・あっ! 蓮くん見てあそこ、私たちに手を振って呼んでいるのはヴィルさんだよ!」


話を振っただけで途中で切り上げてしまい、手を大きく振り返す香穂子。
喉に小骨が刺さったような感触を残しながら視線の先を追えば、俺達が歩く石畳の小道の向こう側に広がる講義棟裏の芝生にヴァイオリン科の面々集い、その中心で立ち上がりこちらへ来いと招くヴィルヘルムがいた。


香穂子と二人きりでいたいから本当はこのまま通り過ぎたいけれども、パーティー以来久しぶりに会えて嬉しそうな香穂子が、蓮くん行かないのと目を輝かせて聞いてくる。わざわざ二人揃って皆に冷やかされ、からかわれに行く事も無いだろうと心の中で思いながら眉をしかめるのだが、お友達は大切にしなくちゃ駄目なのっ!と頬を膨らましてメッと睨んできた。

思わず目を奪われ見開いたのは愛らしさに・・・というのもあるが、何よりも心から真っ直ぐ届けてくれる言葉と教えてくれたその意味と重みなのだと思う。そうだな・・・と瞳を伏せて呟き口元を緩ませると、歩く方向を変えて芝生に脚を踏み入れ、数歩先に歩いたところで彼女を振り返る。


「行こうか・・・彼らの元へ」
「うん!」
「そういえばヴィルヘルム以外は、まだ香穂子には紹介していなかったな」


ヴァイオリンケースを持っていない空いている片手を差し伸べ誘うと、嬉しそうにパッと花開いた満面の笑顔でかけ寄り俺の手をきゅっと握り締める。皆に自慢をすればこそ、隠す事などは一つもないのだから・・・。






レンがカホコを連れて現われると、ほらやっぱり来たと声があちらこちらからどよめきのように上がった。
数日前に三階の学長先生の部屋の窓から外を見ていたカホコへ皆で手を振ったら、その真下の部屋でレッスンをしていたレンが気付いて窓越しに俺達を思いっきり追い払った事もあり、賑やかな場所が苦手でタダでさえ警戒気味のレンが、まさか本当にやってくるとは思ってもみなかったようだ。

まぁ、俺も少し驚いたけれども・・・。

困った顔を見せる彼が珍しくてやり取りが微笑ましいのと、彼女にねだられれば逆らえないのは、男として良く分かる心境だからかも知れないな。それにしても、やっぱりとはどういうことなのだろうか。
周りの揃った反応に小さく漏れる笑いを必死に押さえる俺を、そんな事とは知らずに一体何の話をしていたのやらと不快そうに眉を寄せているレンに、口元をニッと歪めて悪戯っぽい瞳を向けた。


『やぁレン、カホコと一緒に来てくれたんだね。やっと会えて嬉しいよ、正直このまま素通りされるかと思ったんだ。だって、誰かさんが凄く怖い顔していたから』
『それは俺のことか?』
『誰もレンのことだとは言っていなけど、そうか、自覚はあるんだね・・・。毎日講義では顔をあわせているのに、何だか随分久しぶりな気がしないかい?』
『すまなかったな・・・。さっきそれで香穂子に怒られたんだ・・・友達は大事にしなければ駄目だと』


耳からすっと染み込んだ言葉は今まであまり聞き慣れずに馴染みが無かったけれども、一見簡単なようでいて実はとても難しいもの。彼らの間で交わされる言葉はいつもシンプルだけど、深く大切な意味がたくさん込められているのだろう。二人を見れば・・・醸し出す空気や伝わる想いを感じれば、俺にも分かる。

はにかんで苦笑しながらも、真っ直ぐ俺を見て心のままを伝えるレンの言葉が熱くくすぐったい。
動きを封じられたように目を見開く俺の前で、そうだろう?と隣のカホコへ視線を注いで微笑むと、彼女も嬉しそうに微笑を返して頷いていた。彼女の力なのか、それとも変わろうとするレンの力なのか・・・きっと互いの想いと力が向き合って重なっているからなんだろうな。ちょぴり羨ましいとさえ思う。


連られるように頬と瞳を緩めると、今度は笑顔でレンを振り仰いでいるカホコに視線を向けた。


『やぁカホコ、久しぶりだね。 この間は窓越しだったけど、今度はここで君に会えて嬉しいよ』
『ヴィルさん、こんにちは! こっそりだったんですけど気付かれちゃいましたね。学長先生の部屋とすぐ真下の部屋は、この溜まり場を覗くのに最適だって言ってたんですよ。皆さんの様子がとてもよく見えて自分もすぐ側にいるみたいに楽しそうで・・・あっ! いっけない・・・これ内緒だって言われてたのすっかり忘れてました』
『ははっ・・・心配しなくても平気だよ。いつも学長先生は隠れているつもりだろうけど、俺達はちゃんと知っているんだから。という事は、俺達の方が一枚上手だったかな』
『・・・・・・そうだったのか?』
『何だよ、ひょっとしてレンは気づいていなかったのか!? あんなに分かりやすいのに!?』


きょとんと目を丸くして不思議そうに問いかけるレンは、俺が本気で驚くと知るなり、悪かったなと頬を僅かに染めてむっと睨みながら口を噤んでしまう。その隣でもハッと口を押さえてどうしよう〜と瞳を歪ませるたカホコが慌て出し、私が言ったって内緒ですよと小声で囁き、人差し指を口に手を当てて肩を竦めながらこっそりと、シーッ!と内緒の仕草を俺やレン、それに見守る周りの仲間達へと向けた。

空間を切り取ったように一瞬静まり返ったのは、恐らく彼女が余りにも可愛かったから。
手放せないレンや、やらたレンや学長先生にライバル心を剥き出しにするイリーナ義姉さんの気持が良く分かる・・・彼女は無防備なところで心に飛び込みグッと掴んでくるんだ。
でも俺には、その時のレンの顔の方が数倍に面白くて価値があるものだったけれども・・・。


「えっ・・・・あっ・・・あの・・・」


一斉に大勢の視線が集まったカホコは急に緊張したようで、浮かべていた笑みがちょっとだけ強張り、一度は離していたレンの手を再びギュッと握り締めると、彼の背中にひょっこり隠れてしまう。
真っ赤に顔を染めながら端から見ても分かるくらいに強く繋いだ手を握りかえしていて、握り締められる手から不安と緊張がレンにも伝わったのか、大丈夫だから・・・そう瞳を緩めて穏やかに諭していた。

しかし彼女を紹介しようとするレンを引き止めて彼女は一歩前へ出ると、気持を落ち着けるために一度大きく深呼吸してしっかり周りを見渡し、ペコリと頭を下げた。


『は、始めまして・・・こっ、こんにちは。カホコ・・・カホコ・ヒノです。よろしくお願いします』


勇気を奮った彼女の挨拶に張り詰めた空気がふわりと和らぎ、やぁ! こんにちは!などと次々に声が上がりようやくカホコもホッと安心したのか、声に応えてはにかんだ笑みを振りまいたりドイツ語で返している。ホッと胸を撫で下ろして安堵しているのは俺だけではなく、もちろん彼女の傍らにいるレンも同じで、少しずつ溶け込んで輪の中へ入っていく彼女の様子を、愛しそうに目を細めて見守っていた。

芝生に転がったアルバムを拾い上げると付いた草を払い落とし、視線で合図をすると笑みを浮かべて頷くとレンと共に、賑やかになってゆく仲間たちの元へゆっくり歩み寄っていく。




「お前の安らぎはここにある・・・」
冷たい風が正面から吹き抜け身を竦ませるように瞳を閉じたその時、一度だけリンデンバウムに呼びかけられたが、俺はもう振り向かなかった。先程までは強く心に響いていたリンデンバウムの囁きが、何時の間にか声と姿を潜めていたと気が付くのはもう少し後の事・・・。