一つのヴァイオリンのように・7
弓とヴァイオリン・・・。
一つのものを分かち合ったもののように、ずっと互いに寄り添う存在でいたいのだと、君たちはきっとそう思っているのかも知れない。もちろん間違っていないしとても大切な事だ。
だが君たちにはもっと深いところでしっかりと心を結び付けて欲しいから、それだけではもったいなくて。
ただ音を奏でるだではないヴァイオリンと私たちの関係に隠された深い意味を知り、ヴァイオリニストとして誇りを持って欲しい。
私たちヴァイオリニストの手には、凄い力が託されておるのじゃ。
残念ながら多くの者がまだ知らないこの手について、まずは君たちに話すとしようかの。
自分の手をみてごらん・・・そう言うとじっと手を眺め出したレンとカホコさん。私も彼らに合わせるように一緒になって、もはや楽器の一部のなった自分の手を広げ眺めながら指の先まで慈しみを注いだ。
指の間から見える二人は恐らくまだ何の事だか分からないようで、しげしげといろんな角度から眉を寄せて眺めていたが、やがて見飽きたのか。カホコさんは自分のだけではなく、隣にいるレンの手まで眺めて大きい手だね〜と言いながら、楽しそうに自分の手と並べたり合わせたりして比べ出した。私を気にしつつもそんな無邪気な彼女にレンも楽しそうで、一応見ない振りをしているが、緩む頬が止められない。
『ヴァイオリンを奏でる私たちの手・・・弓を持つ右手は身体の中にある意思やエネルギーを伝えて曲に動きを与え、弦を抑える左では感情を生み出し表情を与えていく・・・。演奏は独自の世界を形作る為の作業じゃ。君たちヴァイオリニストの手には、小さな世界を創造するだけの働きが与えられておる』
『ちいさな・・・世界?』
『そうじゃ。その世界は弾き手によっては小さいままじゃろうが、もっと大きく広がる事だって出来る。新しい音の生命を生み出し続ける世界は無限の広がりをみせているんじゃよ・・・ヴァイオリンの先端にあるこの渦巻きに象徴されているようにな』
手から視線を上げて不思議そうに首を傾けるカホコさんに笑みを向けると、膝の上に置いていたヴァイオリンを持ち、ネックの先端にある渦巻き模様を二人に見せるように傾けた。
「本当だ・・・確かに渦巻き! 今まで考えた事も無かったよ。ねぇ、蓮くんは知ってた?」
「いや・・・俺もだ。いつも見ている筈なのに、知っていると思っていたのに、まだまだ俺が知らない事がたくさんある。ヴァイオリンとは本当に奥が深くて不思議だな」
目を輝かせて興奮気味に身を乗り出しながら、じっとネックの先端にある渦巻き模様を見つめるカホコさんを穏やかに見守りつつ、レンも同じように驚きを隠せないでいるようだ。
『ところで先程、ヴァイオリンには女性の本質を、弓には男性の本質を持ち合わせている、という話をしたな?』
『えぇ、ヴァイオリンは人間と同じなのだと・・・・・・』
『神は新しい生命の誕生を、男性と女性というような組合わせを作ってそれに託した。ヴァイオリンと弓を一人で持ち、音の生命を生み出し続ける私たちは、神の存在に共通する働きを持ち合わせていると・・・そうは思わないかね?』
『・・・・・・!』
私たちヴァイオリニスト一人一人が世界の創造主なのだと・・・スケールの大きな話だが、音が生み出す世界が無限の広がりをみせるように、私たちもまた大きな存在であると。
立てるように持ち上げていた楽器を脚の上に戻しそう告げると、二人とも息を詰めて打たれたように目を大きく見開き、再び自分たちの出をじっと見つめだした。
君たちの手はただ音を奏でるだけでは無い、世界を作り出す手なのだから。
深呼吸するようにゆっくり息を吐きながら、レンが噛み締めるようにゆっくりと開いた手の平を握り締めた。
彼の手が掴んだもの・・・。手の平に灯った光りにぎゅっと詰まっていたのは、きっと新たに生まれた生命の輝き、夢や希望、そしてヴァイオリニストとしての更なる誇りなのだろう。カホコさんも両手の平を胸に押し当て、想いを胸に閉じ込めるようにしながら瞳を閉じて、手の平に灯った光が全身に行き渡るのを感じているようだ。
穏やかに優しく・・・我が子を慈しむようにヴァイオリンの先端にある渦巻きを撫でさすると、ふと視線を上げたレンとカホコさんに微笑みかけた。弓とヴァイオリンを見せながら既に知っているだろう事もそうで無い事も、まるで初めて楽器に触れる時の様に丁寧に説明をしてゆく。だが彼らは、私の話にじっと真摯に耳を傾けてくれていた。
『ヴァイオリン本体の機能は音を生むものじゃが、弦が弛んでいては音が生み出せない。弓が下ろされ楽器の中の空気は振動が伝わるのを待っておる・・・互いのテンションの高まりを通して、その動きを現実の生命あるものへと繋ぐのが弦の役割。この生むという機能が、新たな生命を生み出す女性との共通点なのじゃと、ワシは思う。そして弓はギリシャ語で“bios”、生命という言葉に繋がりを持つのを知っておるかな?』
ふるふると首を横に振るカホコさんと、そういえば以前どこかで聞いた事が・・・と記憶の引き出しを必死に漁っているのか眉を潜めながらポソリと呟くレン。こういう事じゃよ・・・とそう言って私はソファーから立ち上がり、手にしていた楽器を構えるとそっと弓を乗せた。
緩やかに空を切る右手の弓、それを受け止める弦と押さえる左手が互いに支え呼びかけ合うように音色を紡ぎ出すと、私の手から生まれ出た音たちが空間に羽ばたきながら、二人を包み込み満ち広がっていく。
瞬きも忘れて奏でる音色に聴き入り、私を見つめる二人に語りかけるように、優しく穏やかに・・・そして私を照らし包むこの陽射しのような温かさで。
優しく穏やかなフレーズが余韻となって響く中、大きく弧を描いた弓を構えた楽器ごと静かに下ろした。
ヴァイオリンをテーブルに置いて再びソファーに腰を下ろすと、まずはレンの瞳と同じ目線の高さに合わせ、奥に潜む言葉以上に強く語る意思を探るように覗き込みながら呼びかけた。ハッして我に返った彼に落ち着いてもらおうと目元緩めると、ホッした空気が伝わってくる。
『さて話は変わるが、この先レンが目指すものは何かね?』
『プロのヴァイオリニストになる事です。世界中の人に俺の音楽を知って欲しい・・・音楽の楽しみを、感じた優しさや温かさを伝えたい。俺の隣にいる、香穂子の分まで』
「蓮くん・・・・・・」
私の瞳を射抜く透き通る輝きに溢れた光を受け止めると、熱に浮かされたような潤みかけた瞳でレンを見つめていたカホコさんが、ポツリと吐息で囁いた。どうやら彼の意思は私だけでなく彼女にもしっかり届いたようじゃな。では次にカホコ・・・と言って大きな瞳に目線を合わせながら奥にある彼女の意思を探り出す。
『カホコはどうだい? 君の目指すものは何だね?』
『私は・・・大切な人の側で奏でられればそれでいい。私の音色を・・・私の事を好きだと言ってくれる人の為に、その人の側でヴァイオリンを弾きたいんです。彼がいつでも戻って、大空へ羽ばたく羽根を休める事の出来る家・・心の居場所でありたいなって思うから。それは私の居場所でもあるんです』
目元と頬を赤く染めて膝の上に置いた両手をキュッと強く握り締めながら、私を真っ直ぐに見つめて胸に宿る想いを必死に言葉に現しているカホコさん。彼女の意思と想いを直接隣で聞いていたレンは、思わず乗り出しかけた身を堪えながら熱い眼差しで見つめていた。互いにちらりと視線を交わして絡め合い、最初は僅かに頬を染めてはにかんでいたけれどもやがて微笑みに変わり、表情から溢れふわりと漂い広がってくる。そんな彼らが伝え合う心の温かさが私にまで伝わり、心地良い振動となって私の心の弦を震わしてゆくようだ。
『レンにはレンの進むべき道があるように、カホコにはカホコの進むべき道がある。一見互いが持つわ区割りは違うように見えるが、君たちが伝え合い感じた想いのように、決して離れた別次元のものでは無い』
『俺達の右手と左手のように・・・弓とヴァイオリンのように、二人がお互い力を合わせることで初めて、それぞれの力が大いに発揮できるのですね』
『ヴァイオリンはワシらの分身じゃ。レンが世界へ向ける意思や情熱をカホコが受け止め、それに感情を与えていく・・・優しさであったり温かさ、安らぎだったり。ピンと張られた弦のテンションを例えるならば君たちの想いや音楽に向ける情熱・・・そして生命の輝きなのじゃと思う』
『レッスンの時に先生が俺に、このままでは大切なヴァイオリンと音色を奏でられないと注意を促したのは、そういう意味だったのですね。側にいるだけでない、俺達自身がヴァイオリンになるという事の意味がようやく分かりました』
穏やかな表情と声音でそう私に答えるレンは、傍らで自分を真っ直ぐ見上げているカホコさんへも、そうだろう?と言葉を乗せて意見を求めれは、彼女も嬉しそうに力いっぱい頷いた。
『ただ側にいるだけでは駄目なんじゃよ。例え両手に一つ手にしていても、弓とヴァイオリンの間に一体感がかけている状況を良く見かける。何か違う・・・物足りないと感じる演奏に、君たちも出会った事はあるじゃろう?
のびのびとした弓使いが、返答の無い楽器の上でただ行われている演奏じゃ。弓とヴァイオリンが一つに溶け合わず、別々に動いている演奏は見ても聞いても幸せになれない』
『学長先生、一つに解け合うにはどうしたらいいんですか? 幸せな演奏って、何ですか?』
『カホコ、残念じゃがそれはワシには答えられん。カホコ自身で・・・そしてレンと一緒に考えてごらん。ワシに言えるのは、自分やあるいはお互いが共に幸せだと感じれば、自ずと回りも同じように感じる筈じゃから』
急に不安になったのだろうか? それとも前へ進もうとする彼女の強い力なのか。
さっきまでの嬉しそうな表情を曇らせてしまい膝を包み握り締めるように僅かに身を乗り出して、縋るように熱く問いかけてきたカホコさんに、私は静かに首を横に振った。
なに、心配は要らないさね・・・そう言ってテーブルを挟んで向こう側へ座る彼女へと届かない手の代りに、見えない心の手で宥めるようにそっと頭を包み込むと、隣にいるレンによろしく頼むよと呼びかけた。
座ってただ寄り添っているだけなのにまるで優しく肩を抱いているような彼は、真摯に見守っていた瞳を私に向けて、はいと力強い返事と共に深く頷きつつ口元を緩ませた。
君たちなら大丈夫じゃ、だからぜひ・・・・・・。
『君たちにはヴァイオリニストとして、一つのヴァイオリンを奏でて欲しい。一つに解け合い、幸せを与える音色を・・・。そして君たち自身も手にする楽器と同じく、一つのヴァイオリンとなるようにとワシは祈っておる。レン、カホコ、君たちならきっとヴァイオリンになれる筈じゃ。無限の可能性を秘めたその手で、君たちの作り出した世界をワシに見せて欲しい』
『一つの・・・ヴァイオリン・・・。私たちの手が作り出す世界・・・』
自らの心に刻み込もうと、改めて言い聞かせるようなカホコさんにそうじゃと静かに頷けば、テーブルの上に置かれた私のヴァイオリンに吸い寄せられ、語りかける言葉をじっと受け止めているようで。そっと手を開き自分の手の平を慈しみを込めて見つめる彼女へ、カホコ・・・とレンが優しく呼びかければ、ふと顔を上げたカホコさんとレンも互いに浮かべる表情で言葉と意思を交し合い、ふわりと微笑んだ。
テーブルに置かれた私のヴァイオリンからは、私を呼んでいる声が聞こえてきて、心に直接届く声に静かに耳を傾ければ、私の心も浮き立ち頬や口元も自然に緩んでいくのが分かる。そうか・・・お前たちも嬉しいのか。
ポッと生まれた小さな灯が、二人の微笑で大きく明るい輝きへと変わりだしてゆく。
溢れるまばゆいばかりの輝きに宿るのは、愛しさと揺ぎ無い自信、そしてヴァイオリニストであることの誇り。
私・・・と少しはにかみながら俯き気味にポツリと呟いたカホコさんが、膝の上に開いたまま置いていた両手をキュッと握り締めると、強く意思を宿した瞳が振り仰ぎ、私を真っ直ぐに射抜いた。
『学長先生が席を外されていた時に蓮くんにも言ったんですけど・・・私、今日ここに来てに良かったです。本当はちょっと不安で迷ってたんですよ。でも、そんな事全然無かった・・・・だって蓮くんが楽しそうに音楽やっている場所だもの』
『カホコに気に入ってもらえて、ワシも嬉しい』
『これから私のやりたい事・・・やらなくちゃいけない事、目指すもの、私と蓮くんがどうあればいいのか・・・。ずっと迷ってぼんやりしていた全部に答えが出て、厚い雲に覆われた心の中がすっきり青空になりました。学長先生、ありがとうございます
『ワシは絡まった心の糸を解す手伝いをしただけじゃ。答えは元から君の中にあったのじゃから・・・。ワシではなく、頑張ったのは君たち二人じゃよ』
『私、もっと頑張ります。ヴァイオリンもそれ以外も、自分自身がもっともっと胸を張って輝けるように。だって、どっちかが緩んでいちゃ駄目だもん』
そう言うとあれ?何か違うな〜と眉を寄せつつしきりに首を捻りながら考え出すが、やがて何か思い出したのか、パッと花開いた笑顔で手の平をポンと叩いた。
「私だけじゃないんだよね、一人だけで突っ走ってもいけないから・・・そうだ! 一緒に頑張ろうね、蓮くん!」
「あぁ・・・俺も香穂子に負けないように頑張らなくてはいけないな。俺が弓なら香穂子はヴァイオリン・・・二人で共に奏でよう、音楽も未来も。楽器と同じくお互いに最高の状態に高めたテンションで」
「うん! 私たちのこの手で、私たちだけの大きな大〜きな世界を作ろうね」
約束します、見ていて下さい・・・と。
輝きに溢れ力強く答える二人に、ずっと久しく感じて無かった、懐かしい胸の高まりと熱さが込み上げてくる。
ヴァイオリニストとして生涯現役でいる事も出来たが、指導者になった自分を悔いた事は一度も無い。なぜなら、こうして私の全てを伝えて未来を託せる若者に出会える事が、何よりもの喜びだからだ。
--------ありがとう。
そう湧き上がる心のまま喜びと熱さを笑みに変えながら、彼らに向かって精一杯両手を差し出すと、二人ともソファーから腰を浮かせて私の方に身を乗り出してきた。座った向きと同じまま私の正面の手を・・・レンは僅かに驚きつつも少しはにかんだように右手を、カホコさんは嬉しそうに浮かべた笑みを深いものにして左手を握り締めてくる。
今繋がれた、音の世界を無限に生み出し続けるヴァイオリニストたちの手・・・。
生み出すのは音だけではなく、そこから生まれるものもまた、無限の可能性を秘めているのだと思う。
両手でしっかり包み込み、強く握り締められる手の平から伝わる温もりが私の手を通して彼らの想いを伝えてくれるようだ。両手のそれをゆっくりと近づけてゆき、レンとカホコさんと私と三人分の想いを合わせるように、真ん中で一つに重ね合わせた。
君たちが今抱いた想いと今日の日を、忘れないで欲しい・・・これからもずっと。
『では君たち二人の未来を祝して、私から1曲披露させてもらおうかの』
一つに重なった三人分の手をゆっくりと解き離し、再びソファーを立ち上がって置いていたヴァイオリンを手にすると、テーブルとソファーの間を抜け出て窓を瀬にするように立つ。白い木枠の窓から差し込む陽射しをスポットライトに浴びながら彼らに向かって深く一礼すると、嬉しそうに顔を綻ばせ満面の笑みのカホコさんと、同じように頬を緩めつつも期待と興奮を抑えられないレンが、揃ってパチパチと拍手の声援を贈ってくれている。
どんな大きなホールに集う満員の観衆の声援に勝るとも劣らない、いやそれ以上の力強い応援を受けて呼吸を整えると私は楽器を構え、静かに瞳を閉じて弓を乗せた。
私が奏でるヴァイオリンのように一つに解け合って欲しい・・・。
君たち自身の音楽も、君たち二人のあり方も。
この音色が、君たちが生み出す新しい世界を照らし導く道標となるように、想いと祈りを込めて奏でよう。