心の翼・6

-------蓮くん・・・・・・・・!



香穂子の呼ぶ声に導かれ、俺がやってきたのは何もないどこまでも真っ暗な闇の中。
その中でポツンと灯る小さな光は、置いて行かれた子供のようにしゃがみ込んでいた彼女だった。
両腕で自分を抱きしめながら俯き、華奢な肩を震わせている。声を潜め、人知れず泣いていたのだと一目で分かった。どうかしたのか? なぜ泣いているんだ?

声をかけて手を伸ばすけれども、求める指先は届かず、温もりに触れる事は叶わない。
俺が感じるもどかしさと同時に、胸の中へ流れ込んでくる切ないほどの痛みは、心に秘めた君の声なのか。
立ち上がった香穂子は、大きな瞳から溢れる涙を零しながらも、精一杯笑顔を浮かべて俺を振り仰ぐ。

だがほっと安堵したのも束の間で、振り切るように急に背を向けてしまった。
そのまま遠くへ駆け出し闇へ溶けこんで、俺の目の前からいなくなってしまったんだ。
まるで手の平で溶ける淡雪のように、消える間際に温かな想いと、ほのかに灯る言葉の光を俺の胸へ託して。

何も見えない、真っ暗な闇に残った俺は一人。
待ってくれ、どこへ行くんだ? 香穂子!


「・・・・・・・香穂子っ!」


自分の叫んだ声で目を覚ました瞬間に襲いかかったのは、早駆けする鼓動と、浅く早い呼吸の苦しさだった。
押しつぶされそうな気怠い身体を叱咤して、胸を押さえながらゆっくり上半身をベッドに起こした。暫くして呼吸が落ち着けば、ぼんやり霞む視界が焦点を結び、いつも見慣れた寝室の風景が映し出されてゆく。

シンプルだが品のある落ち着いた家具や内装の部屋は、俺の家ではなく、曲作りの間泊まり込んでいるヴィルヘルムの家の客間。動揺のあまり、一瞬ここがどこかさえも分からなかったなんて、俺はどうかしている。


ぼんやりとベッドに座り込んだままの月森が周囲を見渡し、窓から差し込む朝日の眩しさに目を細めた。
前髪を掻き上げつつ額を押さえ、肘を脚に乗せて屈み込み、ほっと安堵するように項垂れる。
前髪が表情を隠した中からは、消え入りそうな呟きと一緒に深い溜息が零れてきた。


「夢・・・だったのか、良かった」


夢の中では暗闇に迷っていたのに、いつの間にか朝になっていたようだ。開けない夜は無いという事だろうか。
夢で良かった・・・と思う。しかしなぜあんな夢を見たのだろう、香穂子がいなくなる夢を。
手放したくない君への想いや、全てを賭けた収録の本番を控えた朝だから、不安や緊張が現れたものだと思いたい。夢にしてはリアルな感触を思い出し、目の前に両手をゆっくり広げれば、微かに震え上手く力が入らない。

いや、違う・・・彼女は助けを求めていたんだ。
今も残る胸の痛みは、苦しみや悲しみを抱えた見えない心の叫び。
俺を心配させないように大丈夫だよと、笑顔で隠していたのだから。


そうだ、香穂子の声を聞こう。無事でいる事が分かれば・・・そう思って枕元の携帯電話を手にしたが、普通ならまだ眠っている朝早い時間帯だった。君の声が聞きたかったと、そう伝える為にわざわざ起こすのも忍びない。

携帯電話を握りしめ、祈るように額へ押し当てると、落ち着かせるために深呼吸を一つ吐いた。
仕方が無いか・・・今すぐの電話は諦めよう。もう少し時間が経ってから連絡すれば良いのだし。
ナイトテーブルに置いてあったミネラルウォーターのボトルを手に取り、喉の渇きを癒そうと僅かな残りを飲み干
した。

ベッドから起き上がり、窓辺に歩み寄ってカーテンを開けると、窓越しに広い庭の緑が鮮やかに栄えていた。
花や植木をたくさん積んだ緑色の荷車たちが、広い芝生を移動してゆくのが見える。ドイツの朝は早いと言うが、花や植木の手入れをする専用の庭師はとりわけ早いようだ。日の出直後だというのに人々はもう活動を始めている。 目覚めの悪い夢のせいで早く起きてしまったが、再び眠るには寝過ごしそうで微妙な時間だな。
朝から音を出すために、このままコンディションを整えるのも良いかもしれない。


白く透明な光がゆっくりと夜の青を覆ってゆく、夜と朝が溶け合う神々しく幻想的な光景。
この朝日が心の闇をも溶かしてくれるようで、洗われる光に身を委ねながら、祈らずにはいられなかった。

香穂子に、何も無ければ良いのだが・・・。
名を呼び想いを馳せるたびに、胸は甘く締め付けられ、押し開いたカーテンにすがるように強く握りしめた。




* * * *





CDに納める曲の構成や内容に合わせ、スタジオとホールを使っての収録が半分ずつ。ピアノ伴奏と合わせる独奏は既に終わっており、残りはコンサートホールを使用してのオーケストラとの競演や、ヴァイオリンの二重奏などの録音だった。街中の中心地にあって、最も美しいとされる広場に聳えるコンサートホール。歴史あるたたずまいに調和する近代建築は音響効果も素晴らしく、実力派のオーケストラたちが数多くの公演を行っている。

ステージの後ろまで客席が取り囲むワイン畑の客席。舞台に立って眺める客席は見渡す限り広く、装飾が施された天井を振り仰げば、太陽のように輝く大きな照明に目を細めてしまう。二階三階と細い円を縁取り描いており、アーナは聴衆との距離も違い。

一歩を踏み出したばかり・・・まだ駆け出してもいない俺がたとえ収録といえども、世界で名を馳せる舞台に立てるとは思わなかった。いつかヴァイオリニストとして、聴衆の埋まったこのホールに音色を響かせたいと思う。
その時は一番最高の席で、君に聞いてもらいたい。


『なぁレン、寝起きが悪かったのか? 夜中に何かあったのか? それとも、ウチの朝食にレンの好物なヨーグルトが無かったから拗ねてんのか?』
『・・・・・・・・・』
『大事な日だってのに、朝から機嫌悪くて何も喋らないんだもんな。俺と心が通わないと、いい音楽出来ないぞ。ヴァイオリンを演奏するのに、余分な力があってはいけない。それはレンだって知ってるだろう? しかめっ面は最も要らないエネルギーだ』
『別に、俺はいつもと変わらない。ヴィル、集中したいんだ・・・頼むから静かにしてくれ』


控え室でヴァイオリンの用意をして弓に松脂を滑らせている月森を、くせのあるブロンドの髪が栄える黒のシャツ姿のヴィルヘルムが睨むように見守っていた。少し離れた所にある椅子にまたがって座り、背もたれに肘をつきながら頬を膨らませて。襟元を寛げた白いシャツに黒のパンツというシンプルな服装の月森が、声のした方を見ずに鋭く言い放てば、反抗するようにガタガタと椅子の脚を揺らし鳴らしてくる。

椅子が小さく見えるほどの大柄な男がするには、あまりにも子供っぽい行為も、彼がやると妙に馴染むから不思議だ。とはいえいい加減にしてもらいたいと、俺の我慢にも限界がある。
瞳を閉じてこめかみを震わせる溜息に、口を尖らせながらも、渋々ながらに椅子を落ち着かせて座り直した。


本番前の緊張とは違う、何か別の張り詰めた気が満ちていると、ヴィルは月森を眺めがながらそう思った。
昨夜散歩の途中で庭で会った時も緊張していたが、その中にも穏やかさはあったのに、一晩開けた朝から不機嫌そうに眉を顰めている。

月森が心を乱すのは音楽と香穂子の事しかないから、きっとどちらかに違いない。
本番には全力で挑むから音楽面に何かあったとは考えにくいし、となると予想では香穂子絡みか。

何に経過して手身構えているのだろうかと、あれこれ訪ねるのに内々に抱えてしまう月森は何も言わないから、余計に心配で仕方がないのだ。黙っていても、何かあったと思いっきり顔に書いてあるのだから。
だからこそ、地雷と踏むと分かっていても、聞かずにはいられなかった。


『ひょっとして、夜のうちにカホコと何かあったのか? また喧嘩したんじゃないだろうな。あっ・・・! 大事な朝に電話で声が聞けなかったから、しょげてるとか。だったら今これから・・・』
『いかげんにしてくれ』
『そんなに怒らなくてもいいじゃないか。何一人でカリカリしてんだよ、レンらしくないな。音楽は一人で作るものじゃないんだぞ。俺だって伴奏やら二重奏の相手や、いろいろ片棒担いでんだ、一緒に良い物作りたいんだよ。それに多くのスタッフだっている』
『すまなかった。その・・・朝夢を見たんだ。あまり良いものでは無かったから、気になってしまっているだけだ』


弓をテーブルに置き、座っている椅子の向きを変えると、離れた所から真っ直ぐ見つめているヴィルヘルムの強い視線を受け止めた。確かに彼の言うとおりだ、今の俺は自分しか見えていなかった。些細な事で大きく心が揺らぐ俺とは違い、どんな時でも冷静に真っ直ぐで広く物事を見ている。


『んで、どんな夢なんだ?』
『興味本位で聞くのは止めてくれ。口に出したら、現実になりそうで怖い』
『悪い夢は人に話すと良い物に変わると言うだろう? 所詮夢は夢、結果を作り出すのは自分じゃないか。出口の無い迷路なんてない。それは自分が作り出したものだから。ためらっているのも、誤魔化しているのも、ややこしているのもみんな俺たち自身なんだ』
『・・・・・・・・・・・・』
『心に抱えたままでは、いつか大きく膨らんで溢れるぞ。自分を歪めて壊すことになる。打ち勝つためにもすっきり吐き出して、良い演奏しようぜ』


今日何度目かの溜息を吐くと、幸せが逃げるから早く息を吸って取り戻すんだと。ゼスチャーで急かしながら、真剣な顔で食いついてくる。どこまで本気なのか、その可笑しさについ硬かった心や頬が緩んでしまう。


『・・・香穂子が泣いている夢をみた。だが弱いところは見せまいと、精一杯笑顔を浮かべていた。抱きしめたいのに触れることは出来なくて。そのまま俺の目の前からいなくなってしまった・・・そんな夢だ』
『そう・・・だったのか、確かに後味悪いな。しかもその本人に想いを伝える大切な演奏の前だってのに。今日の演奏に関わるものでなくて良かったな・・・と言いたいところだが、レンにとっては自分の事以上に大事だよな』
『緊張や不安の表れかもしれない・・・そう言い聞かせていたんだ。思い出しただけでも、目覚めたときの苦しさや鼓動の早さが蘇ってくる、今でも忘れられない。むしの知らせというのもある、彼女に何も無ければ良いが』
『気にしすぎるのも、良くないぞ。心配性だねって、元気なカホコに笑われるぞ』
『むしろ、その方がありがたい』


異国の言葉で、自分の感情を全て表現するのは難しい。自嘲気味に微笑み、手の平を目の前に広げて眺めた。
ヴァイオリンを奏で、曲に命を吹き込む手・・・。
音量を操る右腕で願望や自由といったエネルギーを送り、音楽を形作る左手で理性や感情を伝える。
力強く、だがしなやかに。目覚めたばかりの朝は微かに震えていたが、今はしっかりと強さが宿っている。

決意や想いなど・・・握りしめた拳の中に集めたものを、空へ解き放つようにゆっくり開いて。
もう迷いは無いと言えば嘘になるが、今できる精一杯の力を出し尽くしたい・・・そして君に伝えたい。一歩を踏み出し、音色の先にあるものを掴むために。


月森が椅子から立ち上がってヴァイオリンを手にすると、表情が変わってゆくのを言葉無くじっと見守っていたヴィルも、後ろ向きに座っていた椅子をまたいで立ち上がり、駆け寄ってきた。


『レン、どこへ行くんだ!?』
『ステージを見てくる、許可がもらえれば少し音出しをしておきたいんだ。客席からの響きも確認しておきたい。今の俺に出来るのは、最高の演奏をして応える事だから』
『あっ・・・なら俺もって、いや何でもない。ついでに外の空気でも吸って、気分転換もしたらどうだ。時間までには戻って来いよな』
『あぁ・・・すまないな』


楽屋のドアを開けながら肩越しに振り返ると、どこかぎこちなく笑みを浮かべ、行ってこいと手を振っている。
じゃぁまた後で、そう言い残して後ろ手にパタンと扉を閉めると、見送ったヴィルヘルムが一人楽屋に残された。


先程まで月森が座っていた椅子に座ると、もどかし気に深く溜息をつき、ワシワシと頭を掻きむしる。
あれこれ心配して構うより今は一人で集中した方が良いと、そう思ったから・・・彼ならきっと平気だと信じよう。
一波乱ありそうな予感がするだけに、レンの方が心配だ。一人で空回りしているのは、実は俺の方じゃないのか? 

まぁあれこれ悩んでいても仕方がない、俺も音出しをするかと立ち上がった所で、シャツの胸ポケットに入れていた携帯電話がバイブレータの振動音を伝えた。指先で摘みディスプレイを表示させると、反射的に顔を顰めてしまう。この電話の主は良いタイミングなのか悪いタイミングなのか、相変わらず狙ったように現れるんだな。
通話ボタンを押して耳に当てれば、やぁヴィルヘルム・・・と、どこかのんびりとした老紳士の声が聞こえてくる。


『Guten morgen. 学長先生。ひょっとして朝っぱらから、いつもみたいに俺たちの事こっそり覗いてたんじゃないだろうな〜?』


頬を膨らまして拗ねれば、何の事だね?と電話越しの学長は驚いて目を丸くしている。学生組織の会長を務めているし、個人的に親しい間柄だから直々に電話を貰うことも珍しくないが、妙に勘の鋭い所があるから侮れない。
まさか、これから演奏を聴きに来ると言うんじゃないだろうな。余計に緊張するじゃないかと、眉を顰める自分の顔が向かいの鏡に映っている。


『え、レン? 俺は今楽屋にいるんだけど・・・ここにはいないよ。ステージを見てくるって、ちょうど出て行った所なんだ。もう〜朝から大変だったんだからって・・・え!? どうしてレンがいないのが、そっちにとってタイミング良いんだよ。内緒話か? 良くないぜ、そういうの・・・で、一体何の話なんだ?』


本人のいないところで内緒話は駄目だと言っておきながら、今度は何の企みなのかと湧き出す興味に勝てず、身を乗り出してしまう自分がいる。これじゃぁ結局は俺も、じーさんと同じだな。やれやれ・・・と呆れた声が聞こえけたれど、この際気にしないでおこう。

携帯電話は、普通の電話よりも周辺の音を拾いやすい。犬の鳴き声が聞こえるという事は自宅なんだろうな、だけど電話向こうが妙にざわついている気がするのは何故だろう。何かあったのかと問えば、実はこっそりトイレに隠れて携帯電話をかけているのだという。こっちはカホコにも内緒なんじゃと押さえた声で伝えてくる・・・籠もっている時間にも限界があるのだと。

学長先生らしいというか、それはそうだなと半ば呆れて返事をしたが、急に改まった口調に自然と背筋が引き締まった。


『-----! 何だって、それ本当なのか? カホコが今日これから帰国するって・・・レンは、レンはこの事知ってるのか!?』


我を忘れて叫んだ大きな声が静かな楽屋に響渡り、はっと慌てて口を押さえ周囲を見渡した。誰もいない・・・まだレンが戻っていない事に、ホッと安堵の溜息を吐いて再び携帯電話を耳に当てた。カホコ本人が伝えていなければ恐らくまだ知らない筈じゃと、力なく呟く声には、急な別れに隠しきれない悲しみが押さえきれずに溢れている。新たな隠し事に浮き立っていた心は瞬時に緊張が走り、追い立てられるような動機が高まってきた。

常に本心は隠しておちゃらけた仮面を被っている学長が、ここまで寂しさを露わにするのは珍しい。短い間でも一緒に暮らしていただけに、本人もそうとうショックなのだろう。動揺しているのは、俺だって同じだ。


『そんな重大な事を、どうしてレンじゃなくてまず俺に知らせようと思ったんだよ、じーさんは。普通レンに伝えるべきじゃないのか?』


じーさん言うなと諫める声が聞こえてくるが、お叱りはそれ以上続くことは無かった。もっとも正当な質問だったから。暫く続いた沈黙の後で、彼にとって大切な演奏の前に動揺させたくなかったと、苦しそうに息を吐きながら伝えてくる。じゃぁ俺なら動揺しても良いのかと、そう突っ込みたくなるのをぐっと堪えたのは、悩んだ末の決断だったのだと分かるから。今ここで支えられるのは俺しかいないと、信じてもらっているからなのだと・・・・・・。


そうか、だからレンは朝から・・・いや、彼は寝ている間に夢を見たと言っていたな。ということは、香穂子から直接話を聞いたのでは無いのだろう。深く繋がった心が、意識とは違うところで互いに伝え合い察知していたんだ。


どうやってレンに伝えたら良いんだ・・・演奏の終わるまで黙っているか、そうしたらカホコはレンが知らない間に日本へ帰国してしまう。伝えてしまえば動揺と衝撃は目に見えている、どちらをとっても避けては通れない。
これは思ったよりも根が深くて、やっかいなことになりそうだな。
唇を強く噛み、耐えるように拳を握り締めるしかなかった。