心の翼・5

ナイトテーブルの小さなオレンジ色だけが眠りの余韻を漂わせ、ほのかに照らしていた学長夫妻の寝室は、闇をも消し去る昼間のように煌々した灯りに包まれていた。ダークオークの深い木目と寝具やカーテンに至るまで統一された色合いは、ほっと寛げる空気を醸し出すのにどこかざわめきを隠せずにいる。それは再び心地良い眠りへと誘う穏やかさではなく、目覚めを促す為のものだ。


落ち着かせなければ・・・このまま一人にさせてはいけない。

日本にいる家族との電話が終わっても動けずにいる香穂子を、学長は自分の大きな翼で包むようにそっと肩を抱き、部屋の中央に置かれたベッドへと座らせた。溢れる寸前の涙を零さないように見開く、雫を湛えた大きな瞳。唇を噛みしめながらパジャマの裾を強く握りしめる手が、微かに震えていて・・・苦しいのは自分と戦っているからだと伝わってくる。

悲しさ、苦しさ、心残りな悔しさ、引き裂かれる心の痛みなど・・・。
零れる涙は言葉にならない想いの数々が、複雑に絡み合って表面に滲み出た心の熱いうねり。

香穂子の向かいで膝を突き見守っていた夫人も、静かに立ち上がると真ん中に挟むように隣へ腰を下ろした。強ばり震える拳に皺の刻まれた自分の両手を重ね包み込めば、香穂子の表情がくしゃりと歪み、堪えていた涙が一筋・・・また一筋と頬を伝ってゆく。


小さな子供にするように、ゆっくりあやしながらポンポンと背中を叩けば、しゃくり上げる呼吸を整えようやく顔を上げてくれた。うっすらと赤く染まる目元を指先でこすり、ごめんなさいとそう言って左右のワシらに向ける精一杯の笑顔。まだ強がって平気を装っているだけと分かっていても、胸の奥から込み上げる安堵感に、胸を撫で下ろさずにはいられない。


『すぐ帰って来いとは、一体何があったのか。ワシらにも訳を話してくれんかのう。上手く話そうと考えず、思いついたままで良いから。カホコの大学の夏休みは、まだたっぷり残っているんじゃろう? 講義の始まるぎりぎりまでドイツにいる希望を、親御さんも了承してくれた筈じゃ無かったのかね』
『それが、私も詳しく分からないんです。お母さん・・・事故で怪我しちゃったって・・・入院してるって・・・・・』
『何だって、それは大変じゃ! で、容態はどうなんじゃね?』
『命に別状無いって、電話くれたお姉ちゃんが言ってました。頭は打っていないし、腕の骨折と脚にちょこっとヒビが入っただけって。突然容態が変わることもあるから、念のために入院してるそうです。痛かったろうな・・・でも、無事で・・・良かった・・・・・・』


自分の心に向き合いながら、たどたどしくゆっくり言葉を紡ぐと、固く閉ざしていた両拳を開き胸に手を当てた。
瞳を閉じ、良かったと何度も繰り返し呟く吐息が震えているのは、助かった安堵感と、紙一重の恐怖感からなのじゃろう。


『歩行者用の横断歩道を自転車に乗って渡りかけた時に、信号を無視して急にカーブを曲がってきたオートバイにぶつかったそうです。お母さんはちゃんと青信号を確認してたし、何も悪くないのに・・・どうしてっ! 自転車は潰れたけど、跳ね飛ばされたお母さんが無事だったのは、道路脇の茂みや土がクッションになって助けてくれたのが幸運だったって言ってました』
『無事だと分かっても、実際にひと目会うまでは不安でしょうね。カホコさんが庭の花や緑を毎日大切にお世話してくれたから、彼らが守ってくれたんだと思うわ』
『お母さんは、自分の事は心配ないからドイツでヴァイオリンやってなさい、帰って来ちゃ駄目って言ってたそうです。嬉しい言葉だけど心配で胸が潰れそうに苦しくなる・・・今すぐ帰って、元気な姿をひと目会いたい・・・』
『カホコさん・・・』
『家の事や看病もあるから帰ってきなさい、家族と音楽どっちが大事なのかって・・・そう言われて私、すぐ答えられなかった。だってどっちも大切だもん、比べる何て出来ないよ!』
『そうじゃったのか。辛いことを聞いて、すまなかったのう。どちらかを選ばなくてはならんのは、酷な選択じゃ』


強く言い放った勢いで立ち上がると、腰掛けたベッドのスプリングが心の荒れを受け波を作り大きく揺れる。
母親を見舞うために日本へ帰れば、ワシのレッスンが受けられなくなるし、何よりレンと一緒に過ごせなくなる。
かといってこのままドイツに残れば、家族との間にしこりが残り、やがて心を蝕む大きな後悔となりかねん。


『でも、もう一人の私は違う。ドイツに来てから、ヴァイオリン弾くことや学長先生のレッスンが凄く楽しいし、自分の音楽が変わっていくのが分かるんです。喜んでいるヴァイオリンの声が聞こえるんですよ。先生にも奥様にも、蓮くんにも私のヴァイオリンをもっと聞いて欲しい。そう蓮くん・・・やっと一緒に過ごせるのに、やり残した事たくさんありすぎて、本当は帰りたくないんです。どうしたらいいか、自分でも分かりませんっ・・・!』
『落ち着きなさい、カホコ。しかしこのままドイツに残っては、きっといつか後悔する。まぁこのまま日本へ帰っても少なからず後悔するじゃろうが、味わう辛さはそれ以上じゃとワシは思う。きっと自分を責め続ける事になるじゃろう、レンとの絆にヒビを入れる事にもなりかねん。目先の幸福に捕らわれず、後悔しないために今できる最善の方法を取りなさい』


深呼吸をするカホコが落ち着いた頃を見計らい、座らんかねと。見上げたまま穏やかにそう言えば、小さく頷き再びポスンとベッドの淵へ腰を下ろした。切なげな笑みを浮かべながら宙を彷徨わせる手は、まるで彼女にしか見えないヴァイオリンを慈むように見えた。その手もやがて、膝の上できゅっと握られてしまう。


『一緒に夏休みを過ごせる約束の日当日に、これからすぐ帰るって言ったら、それこそ蓮くんに嫌われちゃう。今度こそ、謝っても許してもらえないかも・・・どうしよう。来た時と同じように、また私が約束破っちゃうから』
『日本にも帰りたい、ドイツにも残りたい・・・それは紛れもなくどちらもカホコの本心じゃ。心を引き裂かれる程にこの国での生活を大切に想ってくれるのは嬉しい。レンもきっと分かってくれる筈じゃ。彼も自分の家族を大切に想っているのだから』
『学長先生・・・・・・』


声を詰まらせながらじっとワシを見つめる瞳がじわりと潤みだすが、先程までの悲しみからとは違う輝きに感じる。雪の中から芽吹いた小さな花のように、ほんのり紅潮した目元のまま微笑みを浮かべていた。
彼女が気づかない・・・認めたくないと目を反らしているだけで本当は、既に心の中で答えが出ているんじゃ。


夜が明ければレンとヴィルがホールを使ってCDのレコーテングする、その本番が控えておる。
できればあと数日待って欲しかった。せめて一日だけでも先に伸びてくれたなら、レンとカホコが一緒に過ごせたのに。二人が待ち望んでいたのを知っているから過ごさせてやりたかったが、どんなに遅くとも最終便で帰国させなくてはならんじゃろう。

ドイツの保護者として預かる以上は、厳しいのを承知で責任を果たさなくてはいかんのが辛い所じゃな。カホコだけではない、ワシも言葉無く見守る妻も、選ばねばならぬ選択を前に心が引き裂かれおる。
レンを想うカホコの瞳を見つめ語りかけながら、別れを惜しむ妻や自分自身にも心へ問いかけ言い聞かせた。


『簡単に会える距離ではないが、またいつでも会えるじゃないか。世界は広いように見えて案外小さなもの何じゃよ。音楽が想いを結びつけてくれる、会いたい人の元へ飛んでゆける翼を作ってくれるんじゃ。レンだけでなく、ワシらもいつでもカホコが戻るのを待っておるぞ。どうするかね、このまま残っても何も言わんよ』
『・・・・・・帰ります、日本に。ごめんなさい・・・っ』
『よく決断したな、辛かったのう。だが忘れてはいかんぞ、これはさよならではなく“いってきます”なんじゃ。カホコはレンから託されたワシの弟子であり、ケストナー家の大切な家族で娘じゃからな』
『主人の言う通りよ。カホコさんが使っていたお部屋はあなたのものとして、いつでも使えるように大切にしておくわね。次に帰ってきたら“ただいま”と、そう言ってドアを開けてくれると嬉しいわ。お帰りなさいの言葉で私たちも待っているから』
『学長先生、奥様・・・』


感極まって左右交互に振り仰ぎ、ワシと妻の微笑みを受け止めるカホコにも、やがて温かな笑顔が浮かぶ。心を覆っていた厚い雲が少しずつ晴れてゆき、隙間から未来を照らす太陽が差し込むように。


『飛行機の手配やその他の手続きは、全てワシらに任せなさい。ただし、出来るだけ遅いゆっくりな便にしてくれんかのう。もしカホコが言いにくいのなら、ワシから事情をレンに説明しようか?』
『いえ、朝になったら私が自分で伝えます。例え会えなかったとしても、ちゃんと気持を伝えたいから。たくさんのありがとうと大好き、そしてごめんねを・・・』


まっすぐな光を宿してワシを見つめるカホコから鼓動へ直接伝わるのは、身の内に秘めたどんな困難にも負けないしなやかな強さ。命の煌めき・・・諦めず信じる強さが前に進み、夢を叶える力となるのじゃな。カホコだけではない、レンやヴィルの中にも同じ強さと輝きを感じる。
こんな時ばかりは若者たちが、羨ましいと思わずにいられない。

しかしちょっぴり困った様子で首を傾けると、腰掛けたベッドのリネンを指で弄びながら、そっとねだるように上目遣いで見上げてきた。


『あの・・・もしご存じでしたら、ヴィルさん家の電話番号を教えて頂けますか?』
『もちろん構わんが、ヴィルのやつにも連絡するのかね』
『蓮くんは演奏会の本番が近いから、曲作りの為にヴィルさんの家に泊まっているそうなんですよ。でも圏外なのか、携帯が繋がりにくくて。だからご迷惑でなければ、直接お家に電話かけたいんです』
『そうか・・・じゃが困ったな、誰も家におらんかも知れんのう。その・・・今日はレンとヴィルにとって将来を賭けた大きな舞台の本番なんじゃよ』
『えっ、今日!? どうして今まで黙っていたんですか! ってそれよりも、朝一番の電話は止めなくちゃ。本番前に動揺させちゃったら、きっと演奏に影響が出ちゃう・・・どうしよう。このまま黙って帰るしか無いのかな』
『黙っている方が、よほど彼を傷つけるじゃろう。レンだけでなく、カホコも傷つく。強いだけの人間がいないように弱いだけの人間もいない、彼の強さを信じよう。空港へ行く前に少し時間を作って欲しい、レンに・・・会いに行こう。電話でなく、会って直接伝えなさい』


辛いことや悲しみも全て自分の一部となる・・・一音一音に込めるヴァイオリンの旋律に姿を変えながら。
それはやがて大きな力となり、自分だけでなく周りや運命をも変えて、必ず願いを叶えるじゃろう。
だからこれで終わりだと、決して諦めないで欲しい。

仲の良い二人に喧嘩は想像つかないが、互いに熱く真っ直ぐな想いを秘めているからこそ、譲れずにぶつかり合う事もあるじゃろう。恋をしているなら尚更じゃな、意思を確認し合うのも時には必要じゃとワシは思う。
喧嘩を謝りたい一心ではるばる海を越えたカホコが先にやってきた所から、この夏の歯車がずれてしまったのじゃろうか。

途中で上手く噛み合わさったと思っても、最初がずれたままでは再び離れてしまう・・・まるで掛け違えられたボタンのように。だがボタンも歯車も互いが求め合う限り、再び出会い何度でも重なることが出来るんじゃよ。



我が家の生活でカホコが得たものや、その間曲の仕上げに集中していたレンが得た物はとても大きい・・・そう自分の心に言い聞かせながら。もしもワシとヴィルがあの食事の席で二人を引き離さなければ、カホコがこんなにも心を痛め、涙を流すことも無かったじゃろう。事情を知ればレンにも辛い想いをさせる事になる、自分のデビューとはいえ彼女に捧げる為にCDを作っていたのだから。
最初に言い出したヴィルは、自分は間違っていないと強気で言い張りそうじゃな。


心を占めるのは若い彼らへの罪悪感、後悔しているのはワシの方じゃないか。
演奏家として、一つの音楽大学を預かる教育者として、彼らにしてやれた事は何なのか。

都合良いと分かっているが、だからこそレンとカホコには後悔させたくない。音楽はどこでも出来るが、今この場所でしか奏でられない音があるし、この瞬間でしか伝えられない想いだってある。


『すまん、すまんのう・・・ワシらのせいじゃな』
『違います・・・学長先生は悪くないです。だから、顔を上げて下さい。私が大好きな、皺で隠れちゃう優しい瞳で、にっこり笑って下さい。ね?』
『ありがとう、カホコ。本当にレンは幸せ者じゃな、つくづくそう思うわい』


悲しみを分かち合えたらと思い、腕の中へ香穂子を抱き寄せあやしていたのに。いつの間にか逆にワシの方が宥められてしまったらしい。お髭がくすぐったいと、くすくす無邪気な笑みを零してじゃれる姿はいつもの明るい彼女だ。カホコを独り占めするものだから隣の妻も困ったように、少し羨ましそうに拗ねてワシらを見つめておる。そんな空気を察知したのか身動ぎするりと抜け出すと、今度は微笑んで腕を広げる妻の元へと飛び込んでいった。


クーン・・・・・・。


『・・・? ワルツの声がする』


どうしたの?と首を傾ける夫人から身体を離した香穂子が、声を聞き取ろうと眉を潜めきょろきょろと部屋に視線を巡らせる。幻聴かと思ったが確かに子犬は鳴いていて、ふいに沸き上がるくすぐったい感覚に、驚きの声を上げた学長が足下を見下ろせば、パジャマの裾を引っ張りじゃれつくチワワの子犬がそこにいた。


『おぉっ、ここにおったのか。遠くを探していたのに足下では、どうりで探せない訳じゃわい』


高いドアノブに飛びつくのは困難なのにと不思議に思ってドアを見れば、カホコたちが来た時の慌ただしさを伝えるように僅かに開け放たれたままだった。リビングの犬用ベッドで寝ていたはずのワルツは、二階にある寝室まではるばるやって来て、見つけた隙間から入り込んだらしい。


『小さな身体では階段を登り降りするのも一苦労で、滅多に寝室へはやってこないのに。動物は勘が鋭いから何かを敏感に察知したのかも知れんな』
『ワルツもカホコさんが心配になったんですよ、きっと。自分の身体よりも階段の方が高いのに、よくここまで頑張ったわね』
『もう〜っワルツってば! 階段から転がり落ちたら危ないじゃない、怪我したらどうするの! ・・・って本当は叱りたいけど、どうしてタイミング良く現れるかな〜この子は。嬉しくて涙が出ちゃうじゃない・・・』


嬉しそうに尻尾を振りながらカホコの足下へ駆け寄ると、自慢げに一声鳴いて呼びかけに応えるように顔を上げた。パジャマの裾へくるくるまとわりつき、膝に乗ろうとして一生懸命小さく飛び上がっている。驚きに目を見開く香穂子が、笑顔と泣き顔の混じった顔をくしゃりと歪ませ鼻をすすると、身を屈めて子犬を抱き上げた。
腰掛けていたベッドから立ち上がり、腕の中へ閉じ込めた子犬へ愛しそうにすり寄せる頬を、言葉の代わりにぺろぺろ舌で舐められ、くすぐったそうに笑いを零しながら。

犬の施設に三人で赴きカホコが見つけた子犬も、我が家へやってきた当初は心を閉ざしていたが、あの頃とは違い立派な姿を見せている。そう、これは・・・旅立ちという新たな巣立ちなんだと心に言い聞かせれば、切なさを纏いながらも温かさに自然と頬や瞳が緩んでゆくのを感じた。


『そうだ! ねぇワルツ、今日は私と一緒に寝ようか。良いですよね学長先生、奥様?』
『あぁ好きにするといい、まだ朝まではたっぷり時間があるからゆっくり休みなさい。ワルツもお行儀良くするんじゃぞ、レンに焼きもち焼かれんようにな』


悪戯っぽく微笑みを向けると、蓮くんと仲良しだもんね〜と、腕の中で大人しく収まる子犬へ愛らしく首を傾けた。お休みなさい・・・そう言って先程までの泣き顔が晴れた笑顔と共に深くお辞儀をすると、軽やかな足音がドアへと向かってゆく。ふと立ち止まり、肩越しに背後のワシらを振り返った一瞬の顔が、泣いているように見えたのは気のせだろうか。目を疑って瞬きをしたすぐ後には、元の笑顔に戻っていたから。


閉じられた寝室のドアの向こうに消えた姿を追うように、心に刻み名残を留めるように。
ベッドへ腰掛けたままいつまでも二人で見つめていた。
再び訪れた静寂は眠る前とは違い、ぽっかり穴が空いたように感じる。以前の生活に戻るだけなのだが、満たされた一部が欠けてゆくのは、やはり何度味わっても寂しいものじゃ。


さて、起きるかのう。これからやらねばならんことが、たくさんあるからな。
よいしょとかけ声をかけながら立ち上がると、腰に手を当ててゆっくり背を伸ばし逸らす。
ワシだけかと思ったが妻も一緒に起き出し、やることがあるからと身支度を始めた。


残り少ない時間で、ワシらは何ができるじゃろうか?
張り詰めた静かさの中に、激流の渦を秘めた短い夜。
それぞれの想いを胸に抱えたまま、忙しなさを隠し・・・穏やかに、時だけが変わらず刻んで過ぎてゆく。