心の翼・7

月森が楽屋を出たタイミングを見計らったように、学長がよこした電話は、いつもながら心臓に良くないものだった。
これからすぐに香穂子が帰国する・・・。ヴァカンスが終われば日本に帰ると分かっていても、予告もなしに突然早まるのは、穏やかな中に突然投げ込まれた衝撃のようであまりにも強い。大きなうねりとなった波に攫われ飲み込まれてしまいそうになる。


よりによって、どうして今日なんだ・・・。


頭をくしゃりと掻きむしったまま、机に突っ伏したいやるせなさを堪えるヴィルヘルムは、携帯を耳に当てたまま深く溜息を吐いた。通話口から漏れ聞こえるだろうが、この状況なら仕方ない・・・そう思うしか冷静でいられないから。
他の人から見ればささやかだけども、海を越えてひとときの逢瀬を交わす恋人たちには大きな問題だ。彼は表面上はあくまでも冷静に振る舞い、ヴァイオリンを奏でるだろう。恐らく黙って内々にしまい込むからこそ、見えない心の内の荒れようが手に取るように目に浮かぶんだ。


受話器の向こうに聞こえる会話に意識を向けながらも、ヴィルヘルムの注意と視線は、楽屋の扉にじっと注がれていた。この会話の途中で突然扉が開かれ、ステージの様子を見る為に楽屋を出た月森が戻ってくるのでは・・・。
もしかしたら扉の外に既にいて、ドアノブを握りしめながら中の様子を伺っているかも知れない。
そう思うと携帯を握りしめる手の平や押し当てる耳に熱が籠もり、じっとり汗ばむのを感じる。


『えっ、これからみんなで演奏を聴きに来るって!? ちょっと待ってくれよ・・・みんなって、学長先生と奥様と、ひょっとしてカホコもか!?』
『あぁ、そうじゃよ。空港へ送り届ける前に立ち寄るから、直接話をさせてやりたい。時間の許す限り、客席で演奏をきかせてやりたいと思っておる・・・』
『学長先生それじゃぁ、今までレンがカホコに内緒にしてた意味が無いじゃないかっ!』


思わず大きな声で叫び、椅子から立ち上がってしまった。静かな楽屋にガタリと響いた椅子の音と、反響する自分の声に驚きとっさに口を手で塞ぐ。誰もいないと思っていても、弾けた鼓動は早駆けしたまま止まらない。ドアの外を伺うようにじっと身を凝らし、数歩近づいて・・・人の気配や変化のない事にホッと安堵に胸を撫で下ろした。

自然と潜まる声は、ピンと張り詰めた緊張感を漂わせるピアニッシュモのように。小さく密やかだけれども、何かを生み出す直前の静けさと熱を孕んでいる。


それはまた突然な・・・馴染みのレーベルだから学長先生は挨拶も兼ねてこっそり聞きに来ると予想はしていたけど、まさかカホコまでとは。全て形になる前に贈る相手に届けるだけでなく、帰り際の挨拶になるなんて。
携帯電話超しに感じる珍しく元気の無い学長から、香穂子の様子まで伝わってくる。友人としても動揺は隠せないのだからレンが知ったらどうなるのだろうか。

だけど音楽とカホコを信じて何よりも大切にしているから、ここ一番大事な時に乱れるやつじゃない事は俺が知ってる。今日はホールを使った響きの中で音を録るから、まさにカホコの為の演奏会だな。
演奏会・・・・? そうだ、良いことを思いついたぞ。今こそアレを実行すべきじゃないのか!?


『なぁ学長先生、カホコはすぐ近くにいるかい?』
『ワシはトイレの中からこっそり携帯電話をかけておると言ったじゃろう。カホコなら部屋で荷造りをしておるよ』
『じゃぁすぐトイレから出て、カホコに伝えてくれよ。以前俺が渡したレンの楽譜、まだ覚えているかいって。今日俺たちが、これから弾くやつなんだけど。いつでもすぐヴァイオリンで弾けるように、思いだして欲しいんだ』
『・・・楽譜? お前さんが余計な気を回してちょっかい出したせいで、香穂子が元気をなくしたんじゃろう? 懲りずにまた何か企んでおるのかね、レンに怒られても知らんぞ』


眉を寄せて困った声がやんわり諫るが、悪戯を思いついた子供のように瞳を輝かすヴィルヘルムは、嬉々として楽屋内を歩きまわる。先程までの不安は思いついた計画によって、一瞬のうちにどこかへ消えてしまったようだ。


『レンやカホコにそれぞれ信じる道があるように、俺も描く夢や願いの為に自分を信じて動くんだ。全ての道が、必ずこの音の先で交わるはずだから。二度目のチャンスが巡ってきたって事は、今がその時って事だろう?』
『止めても無駄じゃろうな・・・仕方ないのう。カホコだけでなく、後でワシからも担当者に話しておこう。実際に使うかは別として、二人にとっては良い思い出になるじゃろうから。・・・おっといかん、ドアをノックされておるわい』


ではまた後でなと、素早くまくし立てて。企みを察知してくれたらしく楽しげに声音が弾む学長が、にやりとした笑みを残し電話が切れた。電話の向こうから聞こえてきたドアを強く叩く音と、心配そうに声をかける二人分の声は、きっと奥様とカホコだろうか。ずっと閉じこもったまま空かないトイレの扉を巡り、中と外で慌てる様子が目に浮かび、悪いと思いつつも笑いが込み上げてしまう。


『・・・おっっと、立ちくらみか』


頭の中にぼうっと真っ白いもやがかかり、時の流れが止まったような放心状態に襲われた。
たった数分間の電話なのに、一曲分を奏でた以上にずいぶんと精神力を使った気がする・・・だがこうしてはいられない。携帯電話を折りたたみ胸ポケットへしまうと、ヴィルは鏡の中にいる自分を見つめ、両手の平で頬を叩いた。


よし、気合い入ったぞ。
ステージで音出しをしているレンの所へ行かなくては。


そしてレーベルのプロデユーサーにこっそり話をして、レンとカホコが二人で音を重ねる時間を作ってもらおう。
レンが二重奏を一緒に奏でる相手は俺じゃなくてカホコなんだ、思い出の曲たちなら尚更だろう?
二人の音色が重なるからこそ温かに彩り輝き、曲と演奏者の心に命が吹き込まれるんだ。
レンだってそれが最初から分かっていたから、音の理想と現実の狭間で悩んでいたんだろうし。例え外せない選曲だったとしても、アヴェマリアはともかくとして、男同士で愛の挨拶奏でるのは俺だって遠慮したい。


鞄の中にしまっておいたピアノ伴奏の譜面を取り出し、パラパラと中身を開いてゆく。俺の変わりにカホコが演奏してくれたらピアノ伴奏に徹しようと思い、独自にアレンジした二重奏曲用の伴奏譜。でもきっとこれは必要ないかも知れないな・・・二人で重ねる想いの音に、誰も入り込り込んではいけないと思うから。


再び鞄の中に譜面を押し込むと、踵を返して楽屋を飛び出した。白い壁が広がる舞台裏の狭い廊下を駆けて抜舞台袖に入れば、辺りが薄暗くなり空気もひんやりしたものへと変わる。忙しなく動くスタッフに挨拶をして袖口からステージを覗けば、中央で月森の奏でる音がホールの空間に満ち溢れていた。


舞台袖からは見守ることは出来ても、声をかけるには距離が少し遠い・・・もっと近くに。
ならばと再び駆け出し、ロビーへと続く扉を開けて客席へと向かった。深い木目とビロード張りの扉を押し開き、素早く身体を滑り込ませると、ヴィルはきょろきょろと客席を見渡し月森の姿を探し始める。赤い絨毯が敷き詰められた細い通路を抜け下りステージ前まで駆け寄り、めいいっぱい首を持ち上げ見上げれば、プロデューサーと何やら話し込んでいるようだ。

話が終わるまでここで待っていよう。とはいえ、その僅かな間をも無駄には出来ない。レンとカホコの為に、俺が・・・いや、俺たちがこれらどう動くかを考えなくては。背をステージの高い壁に預け、飲み込まれそうに広い客席を仰ぎながら降り注ぐ眩しい天井の照明に目を細めつつ、すぐ真上で聞こえる会話に耳を澄ませた。





* * * * 




「香穂子・・・?」


ふと演奏の手を止めた月森が、周囲を伺うようにぐるりと見渡した。楽器を肩から下ろし、暫しステージの上で佇む彼を、舞台下で作業していたスタッフがどうしたのかと不思議そうに声をかけてくる。何でもありませんと答え、楽器を構え直したものの弓を乗せる直前で再び降ろし、溜息のように息を深く吐いた。


今、香穂子が呼ぶ声が聞こえた・・・すぐ近くで。
気のせいか? いや、確かに聞こえたんだ。

だが広いステージには自分しかおらず、客席を見渡しても沢山の機材と、忙しなくスタッフや打ち合わせに余念のないレーベルのプロデユーサーしかいない。ここに彼女はいないのに、夢の中で聞いた声と同じく、切なげに訴え泣きそうな声が胸に直接響くんだ。


耳に馴染み、心に真っ直ぐ届く君の想い。大好きだよという言葉が、胸に沸く温かさを俺に伝えながら。
閉じた瞳に浮かぶ君はなぜ、微笑みながらも溢れる涙を零しているのだろう・・・。
重要なメッセージが込められているのだろうが、分からないもどかしさが苦しさとなるばかりだ。

俺の心が自分の半身でもある香穂子の心に共鳴して、強く響いてくるのを感じる。
考え過ぎなら良いのだが、意思とは無関係な所でかつてない程の警告を伝えてくるんだ。出来る事ならすぐに声を聞き駆けつけたい。心配性だねと君は困ったように笑うかも知れないが、笑顔の君を確かな存在として感じたい・・・抱きしめたい。強く抱きしめれば、この不安が収まるだろうか・・・心に秘めた君の声を聞かせてくれるだろうか。


『・・・ン、レン』
『・・・・・・!』


誰だ、俺を呼ぶのは・・・今度は本物の声だ。

ふと我に返り声のした方に視線を巡らせると、スーツを着た年若い男性が、ステージに向かって客席を駆け下りてくるのが見える。携帯電話とパスケースを首からぶら下げ、小脇に譜面や書類の束を抱えて。足取り軽くステージ脇の階段を駆け上ると、息も乱れさせず親しみやすい笑顔を見せる。運河沿いの公園で演奏していた俺を見つけてくれた、クラシック界では名を馳せたレーベルのプロデユーサーだった。


若いといっても俺よりは遙かに年上であり、現役時代のヴァイオリニストだった学長先生とも仕事面で面識や信頼があるという。いつも演奏を聞きに来てくれたその人物は、今は仕事の関係で楽器は休日の趣味になってしまったけどねと。屈託無く笑っていたが音楽の知識も豊富で、演奏の合間によく話しを交わしていた。制作というサイドからでも音楽にかける情熱は、演奏者と変わりないとそう思う。

音楽を作る上で、自分を高めて信用できる人物に出会える幸運・・・これも音楽が結びつけてくれた縁なのだろう。


『やぁレン、今日は宜しく頼むよ。スタッフはいつでも準備万端さ、君の音を最高の形で納めてみせるよ。ヴィルは一緒じゃないのかい?』
『えぇ・・・彼は楽屋にいると思います。すみません、ステージでもう少し音出しをさせて頂いても良いでしょうか。少し練習をしておきたいんです』
『あぁ構わないよ、本番まで時間があるから好きに使ってくれ。練習の音を録音したいなら、客席後方にいる音響スタッフに遠慮無く声をかけていいから。あ、何なら照明もつけて、演奏会の雰囲気出してみるかい? 将来立つステージの予行練習も兼ねて』
『いえ・・・そこまでは。ありがとうございます』
『運河沿いの公園で奏でていたように、リラックスして。周りの難しい事は考えずに俺たちに任せて、音色を届けたい大切な人を想いながら、自分の音楽だけを見つめて欲しい。仕事とはいえ、レンのヴァイオリンが凄く楽しみなんだ』


くるりと振り向き客席後方に合図すると、音響のスタッフが立ち上がり大きく両手を振っている。打ち合わせがあるからまた後でとそう言い残し、人懐こい少年のような笑顔で軽やかにステージ袖へと駆け抜けていった。
いつも駆け回っているのは、まるで香穂子と一緒だな。思考の全てが香穂子に行き着く自分に気づき、頬が緩むと同時に顔に、熱さが込み上げた。でも、この感覚も不思議と悪くはないと思えてくる。


「・・・・・・?」


ヴァイオリンを構え直したところで、立ち去った筈のプロデユーサーが舞台袖ギリギリの所まで姿を現し、何かを必死に合図を送ってくるのが見えた。声は出さずにゼスチャーだけだが、どうやらステージの下を見ろと言っているようだ。一体何があるのかとステージの際まで歩み寄り、下をそっと覗いた月森が微かに目を見開く。


『どうしたんだ、ヴィルヘルム。こんな所に立ちすくんだままで』
『へっ!?』


楽屋にいるはずのヴィルヘルムが背中を預けて腕を組み、難しい顔で思案していた。呼びかけると、驚いたようにびくりと肩を震わせた・・・驚いたのはこちらだというのに。話しやすいようにと膝を折ってしゃがみ込み、ステージ下にいるヴィルヘルムに視線を近づけた。真意を探るようにじっと瞳の奥を見据えると、明らかに隠しきれない動揺が伝わる、ぎこちない笑顔。企み事かと思ったが、いつもならもっと堂々と仕掛けてくるから違うのだろうか。

香穂子に手渡された楽譜の件もあるし、油断がならない。
だが楽しそうだった香穂子を想うと、怒ることも出来なくて、感謝をせずにはいられないんだ。


『何かあったのか? ホールの響きを確認するには、良い場所とは思えないが』
『話が終わるまで待っていようと思ったら、すっかり考え事してしてたよ。その、さっき学長先生から俺の携帯に電話があったんだ。後で俺たちの演奏を聴きに来るそうだよ』
『学長先生が・・・お一人でか?』
『いや・・・その実は、他にもいるんだ。奥様と・・・あと、驚かないで聞いてくれ』


珍しく言い淀むヴィルヘルムは、落ち着くんだと俺に言い聞かし、なかなか焦らして次の言葉に進まない。早くと急かすように鋭く睨み付けると、渋々ながらに口を開いた。構えて冷静さを必要とするほど、重要な人物が来るのだろうか。まさか香穂子が?そんな予感が脳裏を過ぎ、軽く頭を振ったものの、耳に届いた言葉はまさに的を射たものだった。


『カホコも一緒に来るんだ。安心してくれ、子犬のワルツは家で留守番だから』
『何だって・・・香穂子が!? 本当なのか』
『生の演奏を聴ける良い機会だし、直接話をさせてやりたいって言ってた。俺もそう思う、良い機会じゃないか。生の演奏に叶う感動はない。間接的に伝えるよりも、ぐっと心が籠もる筈だ。大きなホール貸し切りで、カホコの為だけに奏でるレンの演奏会だと想えばいいじゃないか。何なら時間を貰って、既に取り終えた曲も演奏するかい?』


これは何の偶然なんだろうか。しかし直接話をしたいとはどういう事だろう・・・話ならこの後いくらでも出来るのに。
彼女もヴァイオリニストだ、演奏でステージに立つ機会もあるから勉強を兼ねてという事だろうか?

ならば良いのだが・・・なぜだろう、鼓動がやけに早駆けしているのは。
ヴィルのいう通りに、側で全てを奏でて伝えられるのが一番良い方法だと俺も想う。考えなかった訳でもない・・・だがそれは、プロのヴァイオリニストとしてステージを持った時に、埋まった客席の中の一番良い席で、彼女に聞いて貰いたかったから。



香穂子が、聞きに来てくれるのか。
少々予想外な展開だが、どんな時も前を向いていた、君の強さに負けてはいけないな。
不安やプレッシャーに怯え、震えるのが弱いのではない。それを隠そうとするのが弱いんだ。


そうだな、ありのままの自分で俺の音を奏でよう・・・君に想いを届けるために。