心の翼・4

小さくドアをノックしたけれども予想通り中からの返事はなく、音を立てないよう静かに部屋のドアを開ければ、差し込む灯りの先にあるベッドの上で丸くなる香穂子がいる。少し開けはなったまま、廊下からの灯りだけを頼りに学長夫人がベッドの枕元へ歩み寄り膝をつくと、あどけない寝顔に微笑みかけ肩を優しく揺さぶった。


『カホコさん、カホコさん』
「ん〜っ・・・・・・」


耳元で語りかける母のような温かい声に包まれて、笑みを浮かべたままころりと寝返りを打った香穂子がシーツの中でもそもそと身じろぎ始めた。シーツから腕を出し、ぼんやりと開かれたまだ半分閉じたままの目で、欠伸をかみ殺しながら指先でこすっている。

大切な人と夢の中で会っていたのだと分かる幸せそうな寝顔は起こすのに忍びないが、家族からの電話ならば仕方がない。ベッドの淵に腰を下ろし、口元を緩めそう思いながら頬を包んだ夫人が愛しそうに見守っていた。
側にある温もりを求めようと伸ばされた手を掴めば、きゅっと力が込められ、小さな子供に心からきゅっと掴まれたようになる。


『カホコさん、起きてくださいな』
「・・・ん、ん〜っ・・・蓮くん・・・あともうちょっとだけ寝かせて・・・・・・」
『カホコさん?』
「〜っ! お、奥様!」


すまなそうに微笑む学長先生の奥様がベッドの枕元で屈みながら覗き込んでいるのに気づき、眠さと夢の狭間で蕩けていた瞳がぱっちり目覚めた。何か言おうと開き書けた唇は驚きに固まり息を呑み、握っていた手を慌てて離し飛び起きるとベッドの上に座り込む。顔から噴き出す熱さごと閉じ込めるように口元を手で塞ぐけれど、驚きに飛び跳ねた高鳴る鼓動が止まらない。

私、今変なこと口走らなかった・・・? 蓮くんの名前を呼んだ気がするんだけど・・・。

夢とか気のせいなら良いんだけど、やっぱり聞かれちゃったかな。どうしよう、凄く恥ずかしいかも。
毛布みたいに温かくて、腕の中にいるみたいに心地良くて。眠っている所を優しく起こしてくれるのは、海を越えた異国の地で蓮くんだけだと思ったから、つい・・・いつもみたいに無意識に名前を呼んでしまった。それに夢を見ていたからだろうか。

寝起きや動揺のあまり言葉が上手く紡げなくて、日本語とドイツ語が混乱してしまう。落ち着いてと自分に言い聞かせ、膝の上でパジャマの裾を握り締めながらそっと上目遣いに仰ぎ見た。


『あ、あの〜奥様。私、さっき寝言とか言ってませんでした?』
『いいえ、ぐっすり眠っていらしたわよ。そうね、あるとすれば小さな欠伸がとっても可愛らしいかった事かしらね』
『そ、そうですか・・・何でもないんです、すみません』


日本語だったけど、うっかり呼んでしまった蓮くんの名前や、夢と現実の差に驚きを隠せなかったのは伝わっていたのに。ここは何も言わず気づかぬふりをした方が良いだろうと、優しい気遣いが嬉しかった。熱い頬を覚ましたくてピタピタとはたき、ほっと胸を撫で下ろし一息吐くとベッドサイドのテーブルへ腕を伸ばす。小さな灯りを点れば、ほのかなオレンジ色の光が穏やかさの中に張り詰めた緊張の表情を映してくれた。

朝が来て寝過ごしたのかと部屋を見渡したけれどまだ暗闇に包まれたままで、時計は深夜の二時過ぎを示していた。寝過ごしたんじゃない、じゃぁなんでこんな時間に起こされたんだろう。


『寝ている所を起こしてごめんなさいね。カホコさんへ、お電話が入っているの』
『私に・・・ですか?』
『日本のご家族からのようね。私たちが直接用件を聞く訳にいかないし、日本語は分かりにくくて。この部屋には電話がないから、私たちの寝室まで来てくれないしら。今待ってもらっているの』
『あっ、はい! すぐに行きます。私の方こそご迷惑をかけてすみません、時差を考えるようにってちゃんと伝えてあったのに』
『きっと急なご用事なのかも知れないわ。電話を取った主人も、少し焦っているみたいだと言っていたの』
『えっ・・・!?』


トクン・・・。


何だろう今、びっくりした時みたいに心臓が飛び跳ねた。高鳴る鼓動と共に、生まれた小さな不安もだんだん大きく膨らんでゆく。どうしたの、大丈夫だよ・・・お願いだから治まって! 
パジャマの上に軽く上着を羽織り、座り込んだまま胸をかき合わせながら両手で自分を抱きしめると、立ち上がろうとした奥様がそっと私を抱きしめてくれた。きっと久しぶりに声を聞きたくなったのよ・・・心配ないわと微笑みながら囁く呪文のように。


行かなくちゃ、電話に出なくちゃ。誰なんだろう、お姉ちゃんかな・・・お母さんかな。
でも行っちゃ駄目だと心の中からもう一人の私の声がするの、どうしてだろう。
大丈夫だよね、だって明後日になればやっと蓮くんと一緒に残りの夏休みを過ごせるんだもの。


ポン・・・ポンと緩やかな速度であやし穏やかな呼吸を導きながら、背中で軽やかにリズムを刻む柔らかい手。
母のような温かさに包まれながら肩先へ顔を埋め、瞳を閉じて深く深呼吸すれば、訳もなく込み上げる苦しさが静まり心がだんだん軽くなっていくのを感じた。





奥様に付き添われながら廊下の突き当たりにある学長先生の寝室に入ると、部屋の隅にある夜に溶けこんだ濃い木目のローボードの前で学長先生が待っていた。私が使っている部屋よりも少し広めで、薄闇の中でも分かる品の良いアンティークの家具が、静けさと穏やかさを醸し出しているような空気が満ちている。ベッドサイドのオレンジ色によってほのかに照らされた薄明かりの中で、白い電話機が凜とした存在感と光を放っていた。


言葉なくじっと見つめながら渡された受話器を強く握りしめ、すみません・・・そう行って深々と下げた頭にふわりと乗ったのは、ヴァイオリンやピアノを奏でる温かい手。奥様と同じようにポンポン叩きながら心配せんで良いと、そう瞳や頬を緩められれば、泣きそうに揺れ動く心を引き締め笑顔を向けた。

目線での合図に受話器を耳に当てたまま小さく頷けば、緊張とは無縁の軽やかで楽しげな保留音がそっと解除され、懐かしい声が届いてくる。


「もしもし・・・っ、お姉ちゃん!? ちょっと〜こっち今夜中なんだから、電話するときに時差を考えてって言ったじゃない! お世話になってる先生たちに迷惑かけちゃうよ。大きな物音を立てたり、話し声も良くないっていう法律があるんだからね。ちょっと待ってて・・・」


家族からだと言われたように、電話の向こうにいたのは日本にいる姉だった。私から家族へ電話をかけることはたびたびあっても、向こうからかけてくるのは滅多に無かったように思う。国際通話が苦手な両親の代理として、私に連絡と取るように渋々急かされたのだろうか。きっとメッセンジャーな姉の背後にも両親がいて、言葉を伝えようと電話口のやりとりが交わされているのかも知れない。

驚きのあまり勢いよく受話器へ食いついていたのをハッと我に返って気づき、慌てて通話口を手の平で塞いだ。背後で見守ってくれている学長先生と奥様を肩越しに振り返り、押さえた小声で囁きかけた。


『日本にいる家族・・・私の姉からでした。この国にある法律だって時差だって知っている筈なのに・・・すみません。後できつく言っておきます』
『急な用事なら、静かな時間の約束や時差は関係ない。カホコだってレンと話したいとき、そう思うじゃろう? 久しぶりなのなら積もる話しもあるじゃろうから、ゆっく話すといい。ワシらは部屋を出て席を外そうか?』
『いえ、大丈夫です。手短にすませますね』


保留音をかけずに手で塞いだままでは塞ぎきれず、こちらの会話筒抜けだろうけど、それでも良いかと思った。
私だって寝ているところを起こされ、ちょっぴり不機嫌なのだから。巻き添えになった学長先生と奥様は、もっと辛いに違いない。膨らました頬で唇を尖らせながら、通話口を塞いでいた手を離し、再び受話器を耳に押し当てる。

お待たせ・・・そう言うと聞き慣れた日本語の安心からなのか、小さな溜息が漏れ聞こえてくる。珍しさに目を丸くしていたのも束の間、海を隔てた電話越しの空気がやけにざわめいているのを感じた。落ち着いて聞いてねと私を諭す姉の方に同じ言葉を返したい、それほどに必死に感情を抑えているのが伝わる。
おさまりかけた鼓動が高鳴りだし、胸が苦しく押しつぶされてゆく・・・どうしたの、何かあったの? 

深呼吸した後に告げられた姉の言葉に、時間も呼吸も思考が全て一瞬止まった。


「えっ!? それどういう事、本当なの? でも、無事なんでしょう?」
『カホコ、日本で何があったんじゃ』
『カホコさん・・・』


驚きの声を上げて固まった私に一歩近づいた二人が、背後で心配そうに眉を寄せながら息を潜めている。真っ白に霞む意識の中で浅く早く、上手く紡げない呼吸を繋ぎ止めながら意識を奮い立たせ、肩越しに振り向いた。けれども、海を越えて届く受話器の向こうの声も必死に私を呼び戻そうとして引き裂かれてしまいそう。何か私を支える物が・・・すがる物が欲しくて電話の置かれたローボードに手をつき、今にも崩れ落ちそうな力の抜けかけた膝を叱咤した。


ちょっと待ってよ、お姉ちゃん。そんな、すぐって言われても・・・私だって今凄く大事な時期なんだよ。分かってるけど・・・でもっ・・・! うん・・・今は遅いから、また朝になったら電話するね・・・うん、じゃぁね」


静かに重く受話器を戻すと頭がやけに重たくて、自然と項垂れたまま握りしめた手を離すことが出来なかった。小刻みに震え出す肩は、心の揺れがそのまま現れた証。様子がおかしいとさすがに気づいた学長先生たちに、呼ばれた声さえ最初は耳に届かなかった。


『カホコ、どうしたんじゃね・・・』
『・・・・・・』
『カホコ?』


ヴェールのように髪が覆い隠す俯いた表情を、首を巡らせ前から覗き込んだ学長先生が、受話器を持ったままの手に重ね包んだ。反対側から肩を抱かれる温もりは、奥様のもの・・・。あれほど自分の力では剥がれなかった手が、じんわり染み込む温かさで氷を溶かすようそっと静かに引き離されてゆく。
すがる物を求めて強く手を握り返し、溢れる涙をこぼさないように目を大きく見開きながら、真っ直ぐ振り仰いだ。


『私、帰らなくちゃ・・・今すぐに』
『何だって、どういう事じゃ!』
『すぐ日本に帰ってきなさいって・・・もうちょっと待って欲しいって言ったけど、駄目だって言うんです』
『訳を教えてくれんかのう。その、ワシらも驚いて上手く状況が把握できないんじゃ』




蓮くん・・・・・・・!
私の心の声が、どうかあなたへ今すぐに届いて欲しい。
何も考えられないほど強く抱きしめて欲しい。




切れるほど強く震える唇を噛みしめ、堪えるしかなかった。
押さえきれない雫が見開かれた瞳から溢れ、頬を一筋・・・また一筋と伝ってゆく-------。