心の翼・9



学長がハンドルを握る車が走るのは、菩提樹の下いう名前のように菩提樹の並木が絵画ように続く、ウンターデン・リンデンという大通り。窓に張り付き流れるの外を眺める香穂子は、この辺りには大きな劇場やコンサートホール、博物館もたくさんあったなと記憶を辿っていた。中心地のフリードリッヒ通りと交差するところには、高級感溢れるホテルやショップが集まっている。そこを東へ入ると、中世から抜け出したような雰囲気を漂わせる古くからの広場が見えた。


ハンドルを握る学長先生の運転が丁寧なのに加えて、ドイツが誇る高級車BMWの乗り心地は最適だ。多くの車が行き交い、通りは騒々しさに包まれているのだろうけれど、車内は静かで振動さえも感じない。蓮くんに連れて行ってもらったり、地図を片手に子犬のワルツと一緒に自分の足でも歩いた街並みが、映画のように窓へ映っている。


どこに行くんだろう・・・蓮くんはどこにいるの?


快適な車内の筈なのに、心はざわめき落ち着かない。目的地は分からないけれども、だんだんと胸の鼓動が高鳴って演奏前のステージにいるみたいに緊張してくるから、きっと近くに来ているんだと思う。これから日本へ帰ること、伝えなくちゃ。会いたいのに、でも会ってしまったら帰れなくなりそうな不安が心を締め付けるの。

短いバカンスだったな・・・でも凄く楽しかった。そう想いながら視線を車内へ戻すと、膝の上に組み合わせた手をきゅっと握りしめた。気が緩むと泣きたくなってしまうから、楽しいことを考えよう。

寂しさが教えてくれるの、普段気づかずに過ごしてきた幸せを。何とも思わずに過ごしてきた平凡な毎日こそが、悲しみや寂しさの中で振り返ったら幸せな日々だった。大丈夫だよね、どんなに厚い曇に覆われていても雨が降っていても、その向こうには必ず青空が待っているのだから。


『学長先生、これからどこに行くんですか?』
『もうすぐじゃよ・・・ほれ見えてきた。あの奥に見える白い建物にレンやヴィルたちがおる』
『二つの大聖堂や神殿みたいなホールが向こうに見える綺麗な広場は、ジャンダルメンマルクトですよね。前に蓮くんと行ったことがあります。広場や建物のライトアップされた夜景が凄く綺麗でした』
『そうじゃ、最も美しいと言われる広場じゃよ。夜景デートとは羨ましいのう〜。この辺りは昔フランスからの移民が多く暮らしていたから、二つの国の大聖堂があるんじゃ。フランス語から派生した方言もこの街には多く残っておるしのう。正面にあるギリシャ神殿風な建物が、コンサートホールのコンツェルトハウスじゃよ』


俯いた視線を上げてフロントガラスの中央にあるバックミラーを見ると、鏡越しに学長先生が目が合った一瞬だけにやりと笑い、外を見るように合図を送ってくる。格子模様の石畳が美しい広場の正面奥に聳える、ギリシャ神殿風な白い建物。入り口へと続く大きな大きな階段の前を車が横切れば、屋根や階段の両脇にはは音楽の神々の彫像が並んでいるのが見えた。

このホールには蓮くんに連れられて、何度かヴァイオリニストの演奏会や、ここを拠点に活動する有名なオーケストラのコンサートを聴きに来たことがあったから。

最高の音響効果を備えた由緒ある舞台、そして音楽に親しんでいるからこそ厳しい耳を持つ聴衆たち・・・一度は立ちたいと願う舞台だと、蓮くんが誓うように言っていたのを思い出す。車は正面玄関前をゆっくり横切っているのだけど、演奏会があるにしては人の姿が無く静まりかえっているのが不思議に感じた。コンサートは夜に行われることが多いから、まだ昼過ぎの早い時間だからかも知れないよね。


広場の正面を横切った車は元の通りへと戻り、建物の裏手へと進んでゆく。関係者用の裏口へと直接行かずに、わざわざ私に見せるために遠回りをしたのだろうか。きっと学長先生は蓮くんやヴィルさんたちが、何をしようとしているのか知っているんだ・・・。蓮くんが私に教えてくれないのは関係ないからではなくその逆で、最も関わりがあるからなのかなと最近思うようになった。気のせいかも知れないけどそう考えるだけで、心が浮き立ち踊ってくる。

私もこっそり内緒のサプライズを仕掛けることが良くあるから分かるもの、だから無理に詮索しちゃいけないのかな・・・お楽しみにしとこうなかと。でもあなたの心ごと知りたい想いは止まらない。楽譜を貰ったときに蓮くんには内緒だと言っていたヴィルさんのように、学長先生も蓮くんに内緒で動いてくれているのだろう。

それでも遠回しに私に教えてくれるのは知らなくちゃいけないから、必要だからだと思う。頑張っている蓮くんの姿や音楽に触れて、私も羽ばたくために。


目を閉じ手の平を胸に当てれば、たまごのような光る固まりを守る大きな羽が見える。トクントクンと脈打つ鼓動を感じながら、心の中にしまっておいた楽譜を取り出し、大切に開いてゆく。蓮くんに内緒だと、そう言ってヴィルさんからこっそり託されたヴァイオリンの二重奏の楽譜たち。蓮くんのアレンジが入っている手書きの楽譜に触れる指先は温かく、想いのカプセルとなった音符が奏でられるたびに空へ・・・私の心の中へと鮮やかに弾け、満ち溢れていった。


初めて一緒に弾いた高校生だった私たち、そして新たに重ねた今の私たちも。ヴァイオリンが歌えば記憶や思い出が、鮮やかな音色とその時感じたときめきと共に蘇ってくるの。音色と心が紡ぐのは新たな想いでだけでなく、未来への道。大丈夫、私はいつでも弾けるよ。車の中だから今すぐ楽器で音が出せなくても、見えないもう一つのヴァイオリンが、手の中にあるもの。

右手に持った弓を弦に乗せると・・・ほら、聞こえてくるの。
私の音色ともう一つ、蓮くんが重ねる優しく甘いヴァイオリンの響きが。


大きく息を吸って、吐いて・・・また吸って。


私の呼吸を乗せた弓と一つなったら、自然と呼吸を始めたヴァイオリンが歌い出すの。
ヴァイオリンと人間の呼吸は深い関係があるのだと、レッスンで学長先生が言っていた。
歌手が歌を歌うような息継ぎだけでなく、心や体が重く窮屈さを感じた時に呼吸は大きな助けとなり、魂を活気づけて解放してくれるのだと。

------良いかねカホコ。例え右腕が軽く自由に動いても、酸素が足りなくて心と身体そのものが元気無いようでは、その右腕すら使い物にならんのじゃ。ただボウイングで弓を動かせば良いという訳ではない。
-------呼吸・・・ですか?
-------英語のinspirationには芸術家や音楽家に必要な「霊感」という意味だけでなく、「息を吸う」意味がある。aspirationには「吸気」とともに、それによって高められる「熱意」の意味もあるんじゃよ。反対に身体が沈んでしまう絶望には、「息を吐く」out-brethという表現が用いられる。呼吸と感情の表現には深い関わりがあるんじゃ・・・。


呼吸は、重みに屈することなく天にまて高めようとす営み。
吐いた息を深く吸い込めば、心や身体が生み出す音色が羽ばたき、重く沈んでいた絶望が希望へと変わる。


音色も時間も心ごと全てを一つに重ねれば、ぴったりはまった感覚と生まれるもう一つの音色が心地良く響き渡る。大きな翼となって、高く高く空へと羽ばたくんだよ。もっと重ねていたい・・・感じていたい、このまま翼を得て大空高く羽ばたければ、いつでもあなたの元へ飛んでゆけるよね。




『・・・カホコ、カホコ』
『へっ!?』
『演奏中に呼びかけてすまんのう。さぁ着いたぞ、降りる支度をしなさい』
『あ、えっと・・・すみませんでした!』


呼びかけられ我に帰れば、車はいつの間にか薄暗い駐車場へ止まっていた。さっき正面から見たホールの、裏口か地下になるんだろうか。振動もなく静に止まったエンジンと、冷房が切れてほんのり暑さが漂う車内。見えないヴァイオリンを弾き始めた私の演奏が、きり良いところで落ち着くまでずっと待っていてくれたみたい。
どうしよう・・・凄く恥ずかしいよ。

火を噴き出しそうな程の熱さを頬や耳に感じながら、隣にいる奥様や運転席に座る学長先生に、ごめんなさいと何度も頭を下げた。けれども迷惑かけてばかりですねとしょげる私に、二人はいつものように優しかった。正面から裏へ回るのにはそれほど時間がかからないはずだから、一体どれくらい待っていてくれたんだろうかと、そう考えるだけでも照れ臭くなってしまう。


『ほっほっ、気にすることはない。良い演奏を聴かせてもらったわい』
『そうですわね、車の中で小さなコンサートですわ』
『もう、からかわないで下さい〜。コンサートといっても、弾く真似だけで音は出ていないですよ』
『左手の動きと右手のボウイング、カホコが歌う楽しげな表情で、何の曲かはおよそ分かる。それにカホコが届けようとしている想いが、ワシらの心に直接音色を響かせてくれた。だから演奏が聞こえたんじゃ』
『嘘じゃないわよ。最初はアヴェマリアね、その後はカンタービレ。その後に二曲続いて最後は合いの挨拶・・・素敵な二重奏だったわ。どう、当たりでしょう?』
『・・・凄い、あたりです』


火照りの残る頬で小さく頷くと、素敵な演奏をありがとうとそう言って、お二人が私に拍手を送ってくれた。
微笑みに見守られながら、もじもじと手をいじりながらはにかむ胸の中で、羽に包まれた卵がトクンと大きく脈打つ。うして分かったのか不思議だけれども、やっぱりこのお二人には敵わないなって思う。それと同時に込み上げる嬉しさが、温かく広がる日だまりとなって私を包み込んだ。胸の中心でじ〜んと熱く震えるのは、心の場所がここにあるよと教えてくれているみたい。


パチンとシートベルトを外す音が、背もたれの向こうにある運転席から聞こえてくる。
脱いでいたジャケットを羽織って身支度を始めた学長先生が、座席越しに後ろを振り返った。


『さぁ車から降りようか。さっき携帯で連絡したら、レンやヴィルたちもちょうど落ち着いたところらしい。荷物はすまないが残さず全部持って行ってくれんかのう。万が一車内を荒らされないとも限らん。大切なものは手放してはいけない・・・つねに目の届くところに置き、注意を払わねばならん』
『何があってもヴァイオリンだけは守ります、手放しません。私の心、蓮くんと繋ぐ大切な絆ですから』


真っ直ぐ見つめる学長先生の、背後にあるバックミラーに映る私が力強い笑みを湛えていた。
蓮とも良い音色が重なるじゃろう、ヴィルヘルムの企みも成功じゃなと。じっと視線を受け止めてい瞳を緩め、悪戯な笑顔で伸ばした腕で、私の膝にある手へ重ね乗せた。そして驚きに目を見開く私の手に重なったもう一つの手は、隣にいた奥様のもの。皺の刻まれた二つの手に握りしめられ、温かさと一緒に力が流れ込んでくる。


落ち込んでいるときや悲しいとき、寂しいときに心の中を探してみよう。
自分にとって大切なものが見つかるはずだから。




ドアを開けて外に出ると、後部にあるトランクから私のスーツケースを出し、鞄とヴァイオリンケースを持って。
自分の家のように勝手知ったる様子で関係者用入り口から入り、先へ進む学長先生の後をはぐれないように着いていった。


これが舞台裏なんだ・・・ここに蓮くんがいるんだね。
見るもの全てが珍しくきょろきょろすしている前方から、忙しない足音が聞こえてくる。
学長先生の背中で見えないけど誰だろう。蓮くんが、来たのかな?


蓮くん会ったら何から説明しよう、どう話そう。
会いたくて声が聞きたいと、一晩ずっと願っていたのに・・・本当に話したい事は、他にもたくさんあるのに。


トクン・・・・・・。


おさまって・・・静かにして、お願いだから。
穏やかに収まっていた鼓動が再びトクンと大きく飛び跳ね、一瞬込み上げた苦しさに手の平で胸を押さえた。