心の翼・10



『やぁレン、ステージからわざわざ降りてきてもらってすまないね。リハーサルは終了かい?』
『ステージを使わせて下さってありがとうございます。集中して、つい予定時間を過ぎてしまいましたが・・・』


ステージでの音出しを終えた月森が、舞台脇に設けられていた階段から客席に下り、後方にいるプロデューサーへと向かって行く。スコアを広げながら音響スタッフと打ち合わせ中らしく、ペンを片手に熱心に議論を交わし合っていた。つい先程までの演奏を聴いて、新たな意見が出たのだろう。気づいたプロデューサーが少し待つように言い残してその場を離れると、邪魔をしないように傍で話が終わるのを待っている月森の元へ足早に歩み寄ってきた。


『レンが納得出来る演奏をして欲しいから、時間の事は気にしないでくれ。身体が温まった本番ではもっと凄い演奏になるんだろうな。CDに納める曲を生の演奏でいち早く聞けるのだから、これは役得というものかな。仕事を抜きにして、純粋に君の演奏が楽しみだよ。そういえば、学長先生が聞きにいらっしゃるんだって?』
『はい、奥様ともう一人・・・ヴァイオリンを学びに下宿している学生を連れて』
学長先生に会うのも久しぶりだな、相変わらずお茶目なんだろうな〜あの人は』
『えぇ、恐らく以前も今も変わっていないと・・・思います』
『そうそう
ヴィルから聞いているよ、先生と一緒に来る彼女はレンの大切な人なんだろう? くれぐれも粗相の無いようにと、彼から厳重に言いつかっているからね』
『・・・そうですか、すみません・・・・・・』


からかうように悪戯な眼差しを向ける青年に、月森は頬を赤らめて照れ臭そうに口籠もってしまう。香穂子が大切なのは本当の事だが、ヴィルヘルムは俺の知らない間に一体何を吹き込んでいたのか。恥ずかしさだけでなく、すぐにでも捕まえて問い質したい怒りや焦りなど・・・いろんな感情が交ざって熱さを生み出すんだ。

大学の責任者というだけでなく、今の音楽界で名を残すヴァイオリニストだから、レーベルとの絡みで面識があるのだろうと思っていた。だが人と人との縁というのは、音楽で結ばれた見えない繋がりがあるらしい。俺たちと同じ音楽大学の卒業生で、学生時代は学長先生の元で学んだヴァイオリン専攻だったと聞き、一つの目的で俺たちが集まれた理由が分かった気がした。初めての仕事が、学長先生が現役として最後のCD作品収録だったと、懐かしげに語ってくれた。


挨拶と一緒に楽屋へ戻る旨を伝えると、じゃぁまた後で!と爽やかな笑みに見送られた。よろしくお願いしますと、目の前のプロデューサーの青年やスタッフに礼をして背を向けた。客席前方に備えられた階段を登り、照明の灯った広いステージから一歩舞台袖に入れば、広がるのは暗転した闇。次第に目が慣れてくると、ステージの上に立って演奏するのは自分一人でも、見えない暗闇の中で多くの人が動いているのが見えてくる。


ざわめきに包まれ、忙しなく行き交う街中や市場のように活気溢れる熱気。借りている劇場のスタッフや、レコーディングに携わるレーベルや事務所のスタッフまで。声を掛け合い忙しなく駆け回りながらも、誰もが生き生きと輝いている・・・仕事に誇りを持つプロフェッショナルの集団。俺などはまだまだ、彼らの前では小さな存在だな。これだけ多くの人たちに支えられているのは、逆を言えば俺が彼らを支るという事になる・・・俺のこのヴァイオリンで。

手の中にあるヴァイオリンが重さを増し、熱く疼いてくるようだ。音楽以外のことは考えず、ただ純粋に奏でる想いはこれからも変わらない。だが純粋さだけでなく多くを背負う覚悟が常にいる、それがプロとの境目なのだろう。

人にぶつからないよう注意を払いながら舞台袖を抜けると、楽屋へと続く細い廊下に出た。やっと静かな空間に出てホッと息を吐き、白い壁に囲まれた中を歩いていると、すれ違うスタッフたちが次々に挨拶や声を気軽にかけてくれる。


『やぁ調子はどうだい? さっき袖から聞かせてもらったけど、いい演奏だったよ。何かこう、胸の奥がじーんと熱くなるような・・・震えるような。演奏聞くのに夢中になって、お陰ですっかり仕事の手が止まっちまった』
『ありがとう・・・ございます』


今日は宜しく頼むよと快活な笑顔で去っていく、黒いTシャツ姿の大きな背中を見送り、手の中にあるヴァイオリンを握り締めた。見知らぬ人に突然声をかけられ、あからさま緊張していたのだが、不思議と温かさに包まれ心の底から力が漲ってくるのを感じた。

想いの連鎖・・・この力が演奏に込められ、奏でる音を聞いた誰かがまた感じてくれたいいと思う。

今日は持てる力の全てで最高の演奏をしよう。支えてくれる仲間の為に、自分の為に、そして誰よりも届けたい香穂子の為に。



しかし、ヴィルヘルムは一体どこへ行ってしまったんだ?

学長先生と香穂子が演奏を聴きに来るとそう伝言を残した後も、スタッフと何やら入念に打ち合わせをしている姿をステージから見かけた。一人であちこち駆け回っているのが気になる・・・諦めていないと以前言っていたように、やはり楽譜の件を引きずって何かを企んでいるのだろうか。いや、本番を控えているのは俺と同じ。今は姿を見せない所をみると、どこか別の場所で音出しをしているのかも知れない。


あれこれ考えを巡らせながら舞台裏の細い通路を歩いていると、向こう側から勢い良く走ってくる人影が見えた。俺の名を呼び手を振ってくるのは、クセのあるブロンドの髪に黒いシャツと細身のパンツの大柄な人物。こんな狭い通路で危ないじゃないかと、探していたヴィルヘルムに当人に眉を寄せ溜息を吐き、跳ね飛ばされないように端へ寄った。


『お〜い、レン! これから楽屋へ戻るのかい?』
『・・・ヴィル、楽屋裏で走るのは止めてくれ。こちらは楽器を持っているんだ。大きな機材も行き交っているのだから、ぶつかったら危ないだろう』

『すまない・・・うわっとと、行き過ぎた!』


俺の前を勢い良く通り過ぎてしまい、何とか減速して少し先に止まると再び小走りに戻ってくる。溜息を吐き渋い顔で睨む月森を気にせず、走ってきた息を切らすこともなく爽やかな笑顔を浮かべている。



『ステージでのリハは終了? レンはこれから楽屋へ戻るのかい?』
『あぁ、そのつもりだ。少し休憩してから、君と合わせようかと思っているんだが、良いだろうか』
『もちろんだとも、でもちょっと待ってくれよな。話をしなくちゃいけない所が、あと数カ所有るんだ』
『ヴィル・・・今朝からいつになく忙しないな、君は。家を出る前からどこか落ち尽きなく、そわそわしていた。楽屋へ入ってからは更に落ち着き無く、どこかへふらりと消えてはこうして舞台裏を走り回っている。君の余裕ぶりは分かるが、本番前なんだ。少しは落ち着いたらどうだ』
『すまないな、その・・・ちょっといろいろ個人的な用事があって。あと気分転換に、ホールの探検とかも』
『君が落ち着けない程に緊張しているなんて、珍しいな』
『俺だって緊張するときはあるさ。特に自分よりも、人の為に何か重大な事がかかっている時にはね』


まさか二重奏の楽譜の一件のように、懲りずに何か企んでいるのではないだろうな。
香穂子を巻き込むことで、彼女が悲しい想いをするのだけは避けたいんだ。真摯に瞳の奥を見据えながらそう言うと、ヴィルヘルムは誤魔化すようにヘラリと笑う・・・これは絶対に何かを隠しているな、油断がならない。
手の内を相手に見せてして安心させても、奥の手は絶対に見せずに最後まで隠し通す。無邪気な悪巧みが得意、そんな男だ。

俺や香穂子の為に動いているのが分かるから、本当は嬉しさを感じて強く諫められずにいる。深く知りすぎた事で逆に香穂子を傷つけてしまったように、誰かを傷づける二の舞はしたくないと思うから。まさか香穂子をだけでなく、もしかしたらスタッフ全員を巻き込もうとしているのではと心配の種は尽きない。一人の力で動かすにはあまりにも大きなものなのに、一体何をどうするつもりなのか・・・彼は俺たちに何をさせたいのか。


だがそれとCDの収録とは話が別だろう。
ヴィルの代理で香穂子をと彼が願っていても、上が動くとは想えない。

お節介も良いが、君だって自分の事があるだろう。
自分の事を放ってでも、君も香穂子は他人の為に一生懸命なんだな。



瞳の奥にある真実を探るべく、じっと見つめたまま一歩を踏み出せば、珍しく押されて一歩後ずさった。
問い詰めようとしたところで、張り詰めた緊張の糸をプツンと断ち切る携帯電話の音が鳴り響く。


『おっとすまないな。携帯電話が鳴っているから、ちょっと待っててくれ』


攻める訳ではないが、二度も続けばまたか・・・と溜息が吐きたくなるのは仕方無いと思う。確か楽屋でもこんなタイミングで電話がかかってきたな。狙ったかのようにかけてくるのは、やはり学長先生だろうか。助かったと言わんばかりに嬉しそうな笑みを瞳に浮かべ、ヴィルはシャツの胸ポケットから携帯電話をつまみ出した。


『学長先生、もう着いたのか〜早いな。で、今どこにいるんだい? コンサートホールの関係者用駐車場に車を止めている・・・って、どうしてそんなにヒソヒソ声なんだよ、え?カホコの邪魔をしたくないからって? 寝てるのか?』


傍にいては会話が聞こえて話しずらいだろうから、2〜3歩離れた壁際で待っていると、聞こえてくる会話の相手はどうやら予想通りだったようだ。香穂子が傍にいるのなら、一言だけでも会話をさせてもらおうかと想ったが、出られない状況ならば仕方がない。そうか・・・君が、俺のすぐ近くにいるんだな。通話の向こうにいる君の気配を感じ取ろうと、いつしか俺の神経の全てはヴィルと学長先生の会話に注がれていた。


『車の中からすぐに動けないって事かい・・・は?カホコの演奏中だから、すぐに来なくて良いってどういう事だよ学長先生。そっちの状況良く分からないんだけど、俺たち音出しが終わってようやく一息ついたんだ。これから駐車場へ迎えに行くよ。じゃ〜また後で』


通話が終わり、ふーっと息を深く吐いたヴィルが、折り畳んだ携帯電話を胸ポケットに戻した。会話の内容が俺にも分かるようにと、わざと復唱しながら話していた事に礼を言うと、予想外だったのか驚きに軽く目を見開いた。別に大したことじゃないさと、指先で鼻をこすりながら照れ臭そうにはかむ姿に、つられて俺の頬まで緩むようだ。ふいと逸らしていた顔を戻せば先程までの落ち着き無さは影を潜め、真摯な光を宿し真っ直ぐ見つめてくる。


『今の聞いていただろう? 学長先生とカホコたちが来たみたいだ、もう少し遅いかと思っていたけど、意外と早かったな。まぁその分、二人でゆっくり話しも出来るだろうから』
『・・・・・・・?』
『あっいや・・・何でもない、俺からネタバレは禁止なの。本人が直接言うっていうから、気になるだろうけどここは何も言わず我慢してくれよな。何があってもカホコを信じてくれ、俺が言えるのはそれだけだ』
『分かった、今は何も聞かずにいよう』
『ありがとう、レンも一緒にカホコを迎えに行くだろう?』
『あぁ、できればそうさせてもらいたい。彼女に会うのも声を聞くのも久しぶりだから、とても嬉しい。すぐ行くのか? 楽器をもったままだから、一度楽屋に置いてこようと思うんだが・・・』
『そうだな、俺もそうした方がいいと思うぞ。片手が塞がっていてはせっかく久しぶりの逢瀬に、感動の再会で抱き締めることも出来ないだろうからな』


腕を組みつつ俺の楽器をしげしげと眺めたヴィルは、自分の考えに一人でうんうんと頷いている。俺だってさすがに人前では慎むと反論しかけたが、実際に会ったらどうなるか分からない。踵を返し楽屋へ行こうと肩越しに振り返るヴィルに喉元でぐっと飲み込むが、頬が自然に緩むのはそうなりそうな自分がいるから。忠告確かに受け取ったと、そう言って数歩進んた廊下の角を曲がりかけたその時、聞き覚えのある誰かに大きな声で呼び止められた。


「・・・・・・・?」


振り返ると俺が来た道・・・ステージの舞台袖に続く背後からレーベルのプロデューサーが、スーツのジャケットを靡かせながら勢いよく走って来るのが見える。急な用事か打ち合わせだろうかと、顔を見合わせている俺たちの目の前で止まり、ネクタイを軽く緩め切れた息を整えていた。



『レンもヴィルも、二人とも揃っているなんてちょうど良かった。レンに少し話があるんだけど、いいかな?』
『俺に・・・ですか?』
『最後にオケと合わせる協奏曲についてなんだけど、俺の指揮者とコンマスが君の意見を聞きたいらしくて。ちょっとだけ打ち合わせをしたいんだけど、ステージまで戻ってもらえないかな。ヴァイオリンも持っているなんてラッキーだ、スコアは俺が持っているから楽器と一緒にそのまま来てくれると嬉しいな』
『・・・分かりました、すぐに行きます』
『ヴィル、すまないがレンを借りるよ。学長先生に宜しく伝えておいてくれ。そうだ、さっきの件はOKだよ。使う使わないは別として時間は取れるから、というより個人的に楽しみなんだ』
『しーっ! しーっ、内緒なの!』
『おっ、すまない』


口に人差し指を当ててシーッと音を手ながら身を乗り出し、必死に内緒を伝えるヴィルに、プロデューサーもしまったと言わんばかりに慌てて口を押さえてしまう。
二人とも気まずそうに肩を竦め、ぎこちない作り笑いを浮かべてこっそり俺を見るのは、同じ企みを共有しているからなのだろう。まさか、あり得ないと思っていた人物まで彼の悪戯に荷担するとは・・・。

睨む事しか出来ないが、同じ波長を持っているからこそ、こうして一つの音楽をつくる目的のもとに集まれたのだろうと思う。何が起こるのか全く予想つかないが、もう俺が止めても無駄なのだろう。ならばあえて流れに乗るしかないのもしれないな、もしかしたら香穂子も彼らの仲間になって、一緒に胸を躍らせているのかも知れないから。


『すまないがヴィル、少し時間がかかるかも知れない。香穂子を頼む。俺が直接迎えに行ってやれなくてすまないと、そう伝えてくれ。用事が済んだらすぐに楽屋へ戻るから』

『こっちは任せておいてくれよな、楽屋で待っているから。納得いく仕上がりになるように、しっかりレンの音楽を伝えて来いよ!』
『あぁ、行ってくる』



行こうかと誘われ、見送られながら再びステージに向かって踵を返す。香穂子がすぐ近くまで来ていながら、真っ先に迎えてやれない切なさは、無性に振り返りたい衝動に駆られる。後ろ髪を引かれる想いとはこういう事なんだろうな。だが俺がやるべき事は音楽だ、進むべき道を見失っては駄目だと意を決して前を向く。




月森たちがステージへ戻っていく背中を見送ったヴィルヘルムが、行ってこいと手を振りながらニヤリと悪戯な笑みを浮かべた。会えずに寂しい想いをしているだろう月森を思うと気の毒だが、内緒で香穂子と計画を立てるには今しかチャンスがないのだから。楽屋へ行く必要が無くなったから、ここは直接俺が駐車場へ向かおう。

学長先生にとってここは馴染みのあるホールだから、もしかしたら迎えを待たず先に来てしまうかもしれない。すれ違わないようにしっかりルートを描きながら、先回りをしなくては。

そう思ったら身体はすぐに動き始め、楽屋裏を駆け抜け階段を駆け下りてゆく。