心の翼・8
ハンドバックを肩にかけてヴァイオリンケースを背負い、脇には腰丈まである大きなスーツケース。すっかり旅立ちの準備をすませて現れた私を、学長先生と奥様が開いた玄関の扉の前で出迎えてくれた。車に積み込むからと重いスーツケースを受け取ってくれた学長先生にお礼を述べ、扉の外へ出て待つと、重い木の扉がゆっくりと閉じられカチンという硬い金属音が響き渡った。
何度となく聞いていた筈の鍵の閉まる音に、思わず一歩前に出てしまったのは、さようならと言われたみたいで切なくて・・・待ってと呼び止めたかったのかも知れない。でも違うよね、学長先生も奥様も言ってくれたじゃない。
ただいまと、今度はそう言って戻る私の家なんだから元気を出さなくちゃ駄目だよ。
『カホコ、忘れ物は無いかのう? 荷造りの時間も少なくて慌ただしかったから、もしも後で何か気づいたら連絡をしなさい』
『ありがとうございます、荷物はこれで全部です。もしあったとしても、預かっていてくれませんか? 私がまたすぐにここへ帰ってこられるように』
『あぁ分かった、カホコの言う通りにしよう。預かるワシらが手放せなくなりそうじゃ』
『この前の冬に初めて、留学している蓮くんの所へ来たのはちょうどクリスマスだったんですよ。やっぱり荷物がたくさん増えちゃって・・・一つ一つ思い出をふり返っていたら、なかなか荷造りが進まなくて蓮くんを困らせちゃったんです。だから今回は大きなスーツケースで来たのに、短い間だったけど、やっぱり荷物が増えちゃいました』
『詰め込みきれないカホコの思い出が鞄から零れ落ちて、この家のあちらこちらに残っておるぞ』
『このお家や街や音色、過ごした時間ごと切り取って鞄に詰められたら素敵ですよね』
『それこそ大きすぎて、小さな鞄には入りきらんじゃろうな。じゃが心の鞄には、まだまだたくさん入るじゃろう』
カホコの忘れ物は、ワシら夫婦にとっては大切な置き土産で宝物じゃよと。そう言って皺の刻まれた目を細めながら、頭を包むようにポンと手を乗せて笑ってくれた。スーツケースを引きながら先導する学長先生の後に付いて、奥様と並びながら手入れの行き届いた前庭を通り過ぎ、つるバラの茂る黒いアーチを潜り抜ける。初めてこの家に来たときには、ただ蓮くんに会いたい想いが大きかったから。来た時と同じ道を同じように三人で逆に辿る日が来るなんて・・・それがこんなに淋しくなるなんて考えもしなかった。
赤茶色の石が敷き詰められた細い小道に出ると、カートのタイヤがカラコロと歌い出し、両脇に咲き乱れる花の香りに包まれた。頭でなく心で感じれば、彼らの声がほら・・・聞こえてくるでしょう?
庭に茂るリンデンバウムの大木や広々とした芝生の緑たち、咲き乱れる花や裏庭のベンチやブランコたちまでが、風に乗って温かな言葉をかけてくれているのが分かるの。
みんな、ありがとう・・・・また来るからね。微笑みを浮かべてくるりと周囲を見渡し、心の中で語りかければ、頬をなぶり身体を通り抜ける風が優しく私を取り巻いてゆく。隣に並んで歩く奥様がにこにこと楽しそうなのが、まさか私がいろんなものへ語りかけるように、よそ見をしているからだとは思わなくて。肩越しに振り返った学長先生に笑われて初めて気づき、恥ずかしさで顔へ熱が集まってしまう。
『カホコさん、日本のご家族には、これから帰る事を連絡をしたの?』
『・・・はい。最終便の飛行機で戻ると、電話に出たお姉ちゃんに今朝伝えました。迷う私を叱り飛ばして、すぐに帰ってこいって言ったのはお姉ちゃんなのに・・・ごめんねって謝ってました。・・・らしくないっていうか、調子狂っちゃいますよね。帰るって決めたのは自分なのに、決心が揺らぎそうになりました。あっ・・・その。昨夜からずっとバタバタしちゃって、最初から最後までご迷惑かけてばかりですみませんでした!』
『余計な事は考えられない位の忙しさで良かったと思っているの。束の間とはいえ、別れの淋しさが紛れるわ』
『そうじゃよ、カホコが謝る事は何一つだって無いんじゃ。むしろ感謝を述べなくてはいかんのはワシら夫婦の方じゃからのう。カホコはこの家に、音楽と笑顔と温もりに包まれた優しさをもたらしてくれた・・・ありがとう』
『学長先生に奥様まで! 照れ臭いじゃないですか・・・その。私からも、ありがとうございます』
気が緩むと涙や切なさが込み上げそうになるのを、へへっと強気な笑みで誤魔化しながら、肩にかけたヴァイオリンケースのストラップをぎゅっと握りしめた。これ以上、優しい人たちを心配させてはいけないから、元気良く笑顔でいようって決めたんだもの。
母親が怪我をして入院したから、すぐに日本に帰ってきなさいと。お姉ちゃんから電話があったのは、深夜とも早朝とも付かない時間。別れを惜しみつつ過ごした短い最後の夜が明ければ、荷造りや出国の手続きに向けての慌ただしさが待っていた。
それでも残された時間は大切にしようと、三人でいつもと変わらず朝食を取り、午前中にはヴァイオリンのレッスンもして。子犬のワルツを連れて散歩に出かけながら、この街の景色を心に焼きつけ、胸一杯に吸い込んだ空気を記憶と身体の中へ閉じ込めてきた。あえて忙しさから切り離した時間がより一層温かく、冬の日だまりのように感じて手放せない。このままの日々が続けばいいのに・・・帰り道を辿る足取りの重さに、どれほどそう思っただろうか。
だけど現実に戻れば、誰もが家中を駆け回る賑やかさと、忙しない足音に包まれてしまう。迷惑をかけてしまったと謝る私に、学長先生や奥様は、笑顔で励ましてくれた。私だけの願いでなく、みんなのものだと交わす言葉や触れ合う互いの仕草で伝わり、思い出すだけでも胸を震わす熱さが瞳の奥から溢れてきそうになる。
赤茶色の細い石畳が終わりを告げると道が二手に分かれ、左に曲がれば車の止まっているガレージへ、反対へ曲がれば通りに面した門へと続く。左折してガレージへと向かい、黒のBMWのトランクを開けている学長先生に駆け寄り、重そうに抱えるスーツケースを一緒に持ち上げた。額を手で拭いながら、ふぅ〜と息を吐く学長先生を見つめていると、心配そうな視線に気づき、どうしんたんじゃねと楽しげに瞳を緩めてくる。
今は元気そうだけど、だって朝から様子が変だったんだもの。
『ところで学長先生、お腹の具合は本当に大丈夫ですか?』
『は!? お腹とな?』
『今朝ず〜っと長い間、トイレに籠もりっぱなしだったし。出たと思ったらまた入って出てこないから・・・心配してたんですよ。もしかして、私が作った昨日の夕食に、変なものを出していたらどうしよう・・・本当にごめんなさいっ!』
『いやっ・・・・その。カホコほら、顔を上げて笑ってくれんかのう?』
泣きそうに瞳を揺らめす香穂子がぺこりと深く頭を下げると、学長が急に慌てだした。
トイレへ籠もっていたのは香穂子に聞かれないように、こっそり電話をかけるためだと本当の理由が言えないのが辛い所だ。我ながら良い場所だと思ったのに、やはり家のどこにも姿が見え無いのは不審がられてしまう。しかも朝の慌ただしい時間に、誰もが使う公共のスペースを占拠していたのだから。
二人からドアを叩かれ、どうやって開けようかと・・・あの一瞬に巡った葛藤と気まずさは一言で現しきれん。
とっさに腹痛を装ったが心配そうな香穂子と、真意を見抜いて呆れ諫める妻との板挟み。今度から内緒の電話は庭の隅ですると使用かのう。
まだお腹痛いですか? 気持悪い所は無いですか? お薬飲みましたか?と。かいがいしく気遣う香穂子に笑みを向けながら、内心では動揺を隠せずにいると気づいているのは、長年連れ添った夫人だけじゃろう。そう思いながら学長は、両手を握りしめて耐える香穂子を宥め、一歩下がらせてからトランクの蓋を閉めた。
『もうすっかり平気だから安心してくれ、そもそもカホコのせいではないのだから。いや・・・その、何じゃ。カホコの思っているのとは逆で、ここ最近便秘気味でのう。ちょっと詰まっておったんじゃよ』
『えっ・・・・・!?』
『頑張ったから、お腹も気持も軽くてスッキリ爽快じゃ』
『あなたっ! カホコさんの前ではしたないですわよ! 一つの大学を預かる、教育者の台詞じゃありません』
『おっ、すまんのう。誰にも心当たりがあるじゃろうて、人間にとっては大事なことなんじゃが・・・のう?』
ぴしゃりと厳しく諫める奥様の声に、しゅんと小さく肩を丸める姿が可愛らしい。香穂子の強ばった頬と瞳も次第に緩み、くすくすと笑い声が聞こえてくる。にこやかな笑みを湛えたまま、そう・・・そうれで良いのじゃと一人納得したように、うんうんと何度も頷く学長にきょとんと目をまるくするばかりで。隣へ佇む夫人へ視線を送れば、やれやれと呆れながらも、笑顔が見れて良かったと慈しみを溢れさせた笑みを向けてくる。
一つから二つ、そして三つに増えた笑顔の輪を受け継ぎ、また一つへと重ねるように。
『さぁ、レンのいる所へ行こうかのう。時間の許す限り二人で過ごしなさい・・・と言いってもあまり長いものではないが。こうしている時間も惜しいじゃろう、荷物も積んだことだし車に乗り込みなさい。おや?今、犬の鳴き声がしたんじゃが空耳じゃろうか?』
「そういえばって・・・え、ワルツ!? どうしてここにいるの? さっきリビングのゲージの中に入れた筈なのに」
車のドアを開けようとした所で、後ろから脚に何かが飛びかかってきた。聞き覚えのある甲高い子犬の鳴き声に振り返ると、家の中で留守番している筈のチワワの子犬が私を振り仰ぎ吠え立ててる。気づいた事が嬉しいのか尻尾を振って、小さな身体で何度も何度もジャンプを繰り返して。足下にじゃれつきながら抱いて欲しいとせがみ、一生懸命脚に前足をかけてよじ登ろうとしていた。
さっきまではゲージの寝床の中で大人しくしていたのに、いつの間にか外へ抜け出したのだろうか。
散歩で二人っきりになった時に語りかけるように、叱る声は、思わず日本語になってしまう。
そんな言葉の意味を、学長先生たちは何となく察してくれたみたいだった。
「もう〜っ、勝手に抜け出しちゃ駄目でしょう? ワルツは今日はお留守番なの』
『動物はワシら人間が思う以上に勘が鋭いのじゃろうな。レンが演奏する場へは連れて行けないから、仕方がないが留守番させて、そっと静かに留守番させるつもりじゃったのに。別れを惜しみたいのはワルツも一緒何じゃろう。彼なりに気づいたのかもしれん・・・カホコが大好きじゃから、自分も一緒に行くのだと』
『ひょっとしたら留守番を嫌がる・・・というよりも、また置いて行かれるとそう思ったのかも知れませんわね。昔の傷がようやく癒えたのに・・・だかこそ必死だったのかしら』
『え、そんな!? 置いていく・・・私がこの子を!?』
違う、違うの・・・と驚きに目を見開いて叫び返し、とっさにしゃがみ腕を伸ばした。
施設から引き取ってきた時に、私が逆戻りさせてしまうの? 違うとそう言っても、この子に伝わるだろうか。
待ちきれなさを弾けさせて嬉しそうにピョンと飛び込む小さな身体を、しっかりと抱え込み腕の中に抱き上げた。
「・・・っワルツの事は大好きだよ、とっても大切なお友達だもの。それは今でもこれからもずっと変わらないよ。でもね、一緒に連れて行けないの。ワルツのいる場所は学長先生のお家でしょう? このお家の子供なんだから・・・私と日本へは帰れないんだよ。こらっ! お散歩みたいに鞄の中へ入ろうとしても駄目。ね? お願いだから分かって?」
籐で編まれた底の広い、大きな鞄に入れて散歩に歩き疲れたワルツを運んでいたから、鞄に入れば一緒に連れ行ってくれると思ったのだろう。腕の中で身動ぎ、肩に背負ったハンドバッグに飛びつこうと、短い前足を必死にばたつかせてくる。大人しくしてと宥めて、うずくまるように身体で閉じ込めて頬をすり寄せながら、大好きだよと何度も何度も呪文のように繰り返した。
「もう〜っワルツが言う事聞かないと私、帰れないじゃない・・・帰りたくないのを我慢してるのにっ。私だって本当はずっと一緒にいたい・・・このまま連れて行っちゃいたいんだよ。さよならじゃなくて、行ってきますなんだからワルツにもまた会えるんだよ」
一度関を切った熱い想いと潤みは止まることが無く、一つまた一つ大粒の雫となって瞳から溢れてゆく。頬に光る雫が伝う度に、小さな舌が無邪気にぺろぺろと舐めるくすぐったさを感じた。あれ程じだばたと腕の中で暴れていたのに、気づけば大人しくなっていて。子犬を抱きしめたまま声を抑えることも忘れ、泣きじゃくる私をあやそうと顔を伸ばして頬や目尻を舐めてくれていた。
「くすぐったいよ・・・ワルツ」
目の前に掲げて顔を近づけ、精一杯の笑顔を向けると、尻尾を振りながらぺろりと私の鼻先を舐めてくる。
良かった、元気になって・・・慰められているのは私の方だね。
凜としたつぶらな瞳から伝わる言葉を心で感じれば、直接響いてきたのはワルツの言葉だろうか。
きっとそうに違いない。
犬たちが預けられている施設で出会い、たった一匹だけ元気の無かった姿は、その時の自分を見ているようだった。渡欧直前に蓮くんと電話越しに喧嘩をしてしましい、それでも会いたくて謝りたくて先に来てしまった自分に。
けれども心の準備が整わないと言い訳をしながら葛藤し、すぐに会えずにすれ違いだけが続いていたあの頃。
蓮くんに私を見つけて欲しかった願いをいつしか重ねながら、この子犬が元気になることで自分も元気を貰っていた。
こんなにも腕の中の艶やかな毛並みが心地良くて、小さいけれども確かに脈打つ鼓動が愛しく温かいのは・・・。
一歩踏み出した新しい世界で、共に成長する喜びを感じた大切なパートナーだったからだと思う。
別れが身を引き裂かれそうなのは、友達でもあり子供のような存在だからかも知れない。
ケストナー家に引き取られても警戒心を解かず、決して人前ではご飯を食べようとしなかったワルツへ、初めは部屋の電気を暗くしてそっとご飯のお皿を部屋に置き、外から様子を見守っていた。それが私たちがいる前でもご飯を食べられるようになり、無邪気に部屋の中を駆け回るようになって・・・・。
毎日起こる小さな出来事一つ一つ、あなたの成長が私に大きな喜びをくれたの。
強い気持、優しい気持ち、感謝の気持・・・私に大切なことを教えてくれたんだよ。
だから勇気が出せたし、蓮くんとも仲直り出来て頑張れた。日本ではペットを飼っていないから嬉しかったと言うのも有るけど、こんなに心強い存在だったんだね。
犬にも人にも平等なこの国の環境だからこそ、出来た触れあいだったのかも知れない。
「元気に育ってくれて、ありがとう・・・私と出会ってくれてありがとう。大好きだよ、ワルツ」
抱きしめたまま声を上げて泣きじゃくる私の背中が、羽のような広い温もりに包まれ、穏やかな呼吸と同じ早さで導くようにポン・・・ポンと叩いてくれる。悲しい想いをしている私を、蓮くんがこうして癒してくれたな・・・そう懐かしく思いを馳せながらゆるゆる顔を上げれば、学長先生が地面に膝を付いて抱きかかえてくれていた。
『カホコが感じている、たくさんの小さなありがとうは、やがて大きな幸せになるじゃろう。忘れてはいかん、信じる強さが願いを叶えるんじゃ。今までもそうして前に進み続け、小さな願いたちを叶えてきたじゃろう?』
『はい・・・』
『残念じゃが、ワルツには戻って貰わねばならんのう。この子にも強くなって欲しい、幸せになって欲しいと思う。悲しみや寂しさも幸せの一部だと、きっと分かってくれる筈じゃ。カホコが一生懸命伝えてくれたから・・・。またこの家に戻ってきた時に、見違える程立派になった姿に驚くかもしれん。のう、ワルツ?』
『私も、負けてはいられませんね。ワルツにも、蓮くんにも』
抱きしめて離さない子供をそっと母親から引きはがすように、辛そうに眉を寄せた学長先生が私の腕の中からチワワの子犬を抱き上げた。激しく身動ぎ吠えるワルツの頭や背中を撫でながら背を向け、リビングのゲージへ戻すべく赤茶色の細い石畳を辿り、家に戻っていく。
待ってと一瞬踏み出しかけた脚を留め、見えなくなるまで見送る私の意識を引き戻したのは、車へ誘う奥様の声だった。
『主人もすぐ戻るでしょうから、車に乗って待っていましょう? ・・・カホコさん?』
『・・・あっ、すみません。そうですねよ・・・今行きます!』
涙で滲んだ目元を手の甲でぐいと拭うと、スカートに付いた土を払い、鞄とヴァイオリンケースを背負い直して車に向かった。特に会話もせずにただ沈黙だけが流れる中、乗り心地の良い後部座席に座って待ちながら一体どれくらいの時間が経っただろうか。運転席のドアが忙しなくバタンと閉まる音に、ぼんやり家の方を眺めていた視線を車内に戻す。さぁ出発じゃと後部座席を振り向き元気よく拳を上げる学長先生が、エンジンをかけて滑るように車が走り出した。
『やれやれ、やっとワルツが大人しくなったわい。さぁ、名残惜しいがそろそろレンやヴィルの待つ所へ行こうかのう。レンにはまだ、帰ることは話していないんじゃろう?』
『はい・・・朝はやっぱり本番前だし、良くないかなと思って。でも、これから話したら余計に直前ですよね・・・どうしよう。でも直接会って伝えたかったんです』
『そうそう、ヴィルヘルムから伝言じゃ。以前ヤツがカホコにレンの楽譜を渡した事があったじゃろう。あの曲たちを覚えているかと言っておった。いつでもすぐヴァイオリンで弾けるように思いだして欲しいそうじゃよ』
ハンドルを握る学長先生は、前を向きながらも後ろに座る私に語りかけてきた。楽譜と聞いて忘れるわけも無く、目の前の運転席の背もたれに飛びつき、首を巡らせて前を覗き込んだ。
『もちろん覚えてます! この曲を一緒に弾けば蓮くんが喜ぶって言ってたんです、私にとっても大切な思い出が詰まった曲でしたから、何度も何度も繰り返し練習しました。譜面は私の中にしっかり収まってますから、楽譜無しでも弾けますよ、任せてください!』
『それは頼もしいな、後でこっそりヴィルに伝えておこう、きっと小躍りして喜ぶわい。また何か企んでおるらしいのう。じゃがここは、あやつの企画に乗るのも楽しいかも知れんな』
『良いんですか? 蓮くんに怒られちゃいますよ。私も、今度こそ嫌われちゃったらどうしよう』
『蓮がカホコを嫌うなど、天地がひっくり返ってもありえんよ。何かあっても、音楽とカホコの手だけは絶対に離さない男じゃ。な〜に、ワシらが付いておるから、安心しなさい』
赤信号で車が止まった隙に、後ろを振り返り、ニヤリと悪戯な笑みを向けてくる。
本当はとっても心強い二人だけど、ほんのちょっとだけ心配なのは内緒ね。
一度蓮くんに、内緒で楽譜を持っている事が見つかって怒られちゃったから・・・。
もう気まずい辛さや、仲直りできない切なさはもうたくさんだって思うの。
でも、みんなが私たちのために、動いてくれているんだね。そう想ったら感謝と嬉しさと、どうして他人の為にこんなにも一生懸命なんだろうって、胸の底から熱いものが込み上げて来た。
蓮くんがいるところと言っていたけど、どこへ行くんだろう?
車は近代的なビル群と並木道が連なる通り抜け、街中の見慣れた中心地へと進んでゆく・・・。