心の翼・3

小さなビストロへようこそと、自信溢れる笑顔で胸を張る香穂子が扉の前で部屋の中を指し示しながら、恭しくお辞儀をした。驚きに目を見開く学長と夫人を、待ちきれない様子で早く早くと急かすように、ダイニングのテーブルへと導いてくれる。視線を交わして笑みを零す二人も彼女に合わせ、お招きありがとうとそう言って見えないシルクハットを取る振りをしたり、ドレスの裾を摘む仕草をした。


ふわりと包む美味しそうな料理の香りと立ち上る湯気を胸一杯に吸い込めば、それだけで温かさが満ちあふれお腹がいっぱいになりそうだ。今日はキッチンから追い出されてしまったと言っていた妻もカホコの頑張りを目にし、両手を握り合わせながら目を細めている。


いつもの食卓に花やキャンドルが飾られ、飾り皿の上には形良く折り畳まれたナプキンが乗っていた。シルバーのワインクーラーには、たっぷりの氷と一緒に冷やされたワイン。今日のシェフとバトラーは私で、学長先生と奥様はゲストなのだと言うカホコを肩越しに振り返れば、嬉しそうに椅子の背を引いてくれた。腰を下ろしナプキンを膝にかけた所で渡されたのは、絵や模様で縁取られ描かれ遊び心に溢れているドイツ語で書かれた手書きのメニュー表。それだけではない・・・メニューの下にはささやかなメッセージも添えられていたのだ。


カホコのサプライズに心を震わせ、胸へ込み上げる温かな想い。ふいに心を揺さぶられ、伝わり満ちあふれる温かさに全身が包まれ浮かび上がる・・。これではレンも手放せない訳じゃなと、普段冷静な彼がどう目を見開いているのかを想像しただけでも頬が緩んでしまいそうじゃ。


『ヴァイオリンと同じく料理も上達したな。今日のカホコは、ビストロよりもマエストロと言った方が良いかのう』
『一日中ずっと音楽の事だけを考えていられる環境の、ありがたさを知りました。こんなに充実していたのは高校生以来棚って思うんです。それに音楽は楽器だけじゃない・・・学長先生夫妻やこの家が教えてくれたんです』


料理は音楽でハーモニーなのだとそう言うシェフも多いし、オーケストラやアンサンブルを作っていると共通点を見つけることもある。彼女が奏でれば身の代わりの何でもが音楽になってしまうのじゃな。ダイニングとキッチンの間を忙しく動き回る合間に頬を緩ませ伝えれば、ワインの瓶を抱きしめながら照れ臭そうに頬を染めた。


グラスに白ワインを注ぎながら、真っ直ぐ伝えてくれる瞳と想いがどんなにか嬉しかっただろうか。ゆっくりとグラスに満ちる輝きは彼女の光のようでもあり、そっと覗き込んだ自分の心に溢れる泉にも似ている。過去何人もこうして弟子たちを送り出すたびに感じるのは、教育者となった喜びや共に過ごした日々への感謝。ワシが数多くの弟子を取らないのには、レッスンへ当てる時間にもよるが、深い心の触れ合いから生まれる音を大切にしたいから。


心で奏でる想いが形となり、それが音楽になる・・・。


ヴァイオリンの弟子とは言わず我が家の娘になったらどうじゃと、本気で言いたい自分に苦笑してしまう。どうするかのう・・・と口元の皺を伸ばして弄び唸っていると、いつの間にか用意したデジタルカメラで記念撮影を始めておる。あと数日すればカホコ我が家を去り、残りの夏休みを過ごすために願っていたレンの家に行くのじゃから、これは最後の晩餐というにふさわしい。


ヴァイオリン演奏でテクニックを磨くには、頭を使いながら分析的に練習しなければならないし、そこにエネルギーを乗せるには、テクニックが身体に染みついた自然のもので無くてはならない。沸き上がった感情の高鳴る鼓動が響き渡ってこそ、演奏前代に活気が漲るんじゃ。どれか一つでも欠けてはいかん・・・三つが一つに合わさった時、初めて聴衆を自分の世界に巻き込む演奏が可能となる。


テクニック・エネルギー・感情・・・。カホコもレンも皆自分たちに足りないものを見つけ溶け合わし、大きな翼を育てておる。ワシらに出来るのは彼らが飛び立つに最高の風を送り、ポンと背中を押してやるだけじゃ。明日に残った収録の本番を控えたレンやヴィルたちこそ、彼女の温かな手料理でもてなされるべきじゃったろうに・・・残念じゃな。


透き通るグラスの中身をくゆらすようにゆったり回して弄びつつ思いにふけり、ふと気がつけば一足先にほろ酔い加減になったらしい。いかんいかん、楽しい宴はこれからなのに・・・エプロンを外した香穂子がようやく席に着き、三人で再びグラスを掲げて乾杯をした。

じゃがその分、ワシら夫婦とカホコだけの大切な時間が出来たんじゃから感謝せねばならんのう。
そう・・・全てが終わったら、今度は皆でグラスを傾ければ良いのじゃから。






温かい手料理でもてなされたその夜、寝静まったこのケストナー家に一本の電話が響き渡った。ベルの音はいつもと同じなのに、どこか急を知らせるサイレンのように見えない手が急かしてくる。夜十時以降は電話や演奏、ドアの開け閉めの他、大きな音を立ててはいけない約束がこの国にはある。それ以前に寝静まった所を起こされるのだから、法律云々よりも迷惑この上ない。少々機嫌が悪くなっても仕方がないじゃろう。


『誰じゃい、こんな夜更けに非常識な・・・・・・』

寝室の隅にある電話が鳴り微びく音に目が覚め、半身を起こして手を伸ばし、ベッドサイトにある小さなルームライトを点けた。暗闇に慣れた目にはほのかなオレンジ色さえも眩しく、一瞬目を瞑ってから光に慣らすようにゆっくりと瞼を開いてゆく。眠さに浮いた意識が落ち着いた所で枕元の時計を見れば、夜中の二時を回っていた。

ワシが取るからと小さな騒ぎに起き出した妻を休ませ、ゆるゆるとベッドから降りて電話へと向かう。寝室の隅にあるダークオークのチェストは闇にとけ込み、白い電話だけが光を放って存在を知らしめている。
眠い目をこすり、止まらない欠伸を噛みしめながら受話器を取れば、ドイツ語ではなく異国の言葉が聞こえてきた。


「Hellow」
「・・・・・・Hellow.Gutentag.Entschuldigen sie bitte・・・・。あの、すみません・・・香穂子、カホコ・ヒノを・・・」
「・・・・・・・?」


なおも続く言葉の意味は分からないが、レンやカホコが交わす二人の会話と似ているから、聞き慣れた響きのあるこの言葉が日本語だろうか。言葉の断片から聞こえるヒノカホコという名前やファミリーという言葉、どことなく似ている音の印象から察するに彼女の家族からのようじゃな。日本語とドイツ語、英語が入り交じる言葉で必死に何かを伝えようとしていた。いつもは互いに時差を考慮しているのに、よほど緊急な用事なのだろう・・・半日近い時差があるのじゃからお互いに辛い所じゃな。

休んでいていい・・・そう伝えた筈なのに、上着を羽織った妻が心配そうに隣へ佇み、成り行きを見守っている。
聞こえないようにと一瞬だけ通話口を手の平で塞ぎ、小さな声で囁いた。


『カホコの家族からのようじゃ』
『まぁ・・・! 急なご用事でしょうか』
『むぅ〜いつもよりせっぱ詰まった感じがするのう。代わりに用件を聞きたくても、ワシらではお手上げじゃ。寝ているところを申し訳ないがカホコを起こさねばならんのう』
『では私が行ってきますね。カホコさんのお部屋には電話がありませんから、この寝室へお連れしますわ。何だか胸の奥が騒ぐのです、何事も無いと良いのですが・・・』


少し待っていて欲しいとドイツ語で短く伝えると、了承の返事が返ってくる。保留音をかけて妻に迎えを頼むと、足早に扉の外へ消えていった。強く握りしめる受話器から漏れ聞こえる保留音のメロディーだけが、悪戯に張り詰めた静けさの中で大きく響き渡り、高鳴れとばかりに鼓動が共鳴し合う。アレグロの早さで刻む鼓動が握りしめた受話器から伝わりそうで、深く深呼吸すると電話の横へそっと静かに置いた。


妻も言ったが、妙に胸騒ぎと焦りを覚えるのは何故だろう・・・きっと、先方が焦っているからなのかも知れない。
不安は自分が作り出すものじゃと、生徒たちにも言い聞かせているではないか。
悪い内容では無かったのに、なぜか昼間見た夢が何かを知らせるメッセージのように蘇る。


手持ち無沙汰になる分どうにも落ち着かなくて、妻と一緒にカホコを迎えに行ければ、どんなにか良かっただろうと思う。とはいえ年若い娘が無防備に眠っているのじゃから、ワシが起こしに行くわけにもいかんからのう・・・。レンが知ったら不機嫌丸出しで睨むだろうし、ヴィルには冷やかされそうじゃわい。


そんな彼らのやりとりを思い浮かべるだけで安らぎを覚えるのじゃから不思議なものじゃ。閉ざされた寝室のドアが開くのを、夜の空気ごと拳を握りしめ、今か今かと見つめるしかなかった。