心の翼・2

僅かな音を立てて押し開かれた玄関扉から身を滑らすように現れた月森を,夜の闇が優しく誘い、寝静まった家の人々の目に付かないように、そっとヴェールで覆い隠してくれる。緊張、興奮、微かな不安・・・駆け巡る様々な想い。本番を前日に控え夜も遅いというのにどうにも寝付けず、落ち着きたくて部屋の窓から星を眺めていたのだが、いつしか引寄せられるまま夜の散策へと繰り出していた。


空に向かう煙突と三角屋根、木枠の柱が彩る土壁には蔦の絡まる素朴な外観。曲作りのために泊り込むヴィルヘルムの家はかつて昔はプロイセン王家の宮殿だった事もあり、派手すぎず落ち着いたカントリーハウスの雰囲気を漂わせながらも規模は遥かに大きい。正面玄関から建物を伝い、裏手に広がる庭園へとまわるのにも気軽にというわけにはいかず、思いのほか時間と手間がかかる。


衝動のままに外へ出たものの、昼と夜では同じ景色でも印象が全く違う。忙しない街の中心から少し離れただけとは思えな静けさに、芝生を踏みしめる月森がふと立ち止まり背後を振り返った。まだ数メートルしか離れていないのに、建物がまるでそこには無かったかのように、周囲の自然と共に黒い闇の中へ姿を隠していた。


夜というのはこんなにも黒く静かだったろうか・・・。だが怖さはなく、どこまでも深い穏やかさが満ちていた。
人も木々も眠りに就く空間は、夜でも灯りの消えない日本と違い、自分以外の全てを包み込む。
いや・・・他の誰かから見たら、俺も夜の一部として取り込まれているのかも知れないな。

湖のほとりにあるからなのか。それとも長い歴史を閉じ込めてきた空間だから、どこか切り取られたように感じるのか。この街は一つの曲に対する解釈のように、いろいろな顔を持っていると思う。



夜の散策で頼りになる灯りは、空を覆う満天の星と緑の先に見える、星明りに照らされた湖面が放つ煌。
そして窓辺に浮かび上がる小さな赤い光り・・・俺の帰る場所。帰り道で迷わないように、自分の部屋のベッドサイドのランプだけをつけておいた目印は、心を照らす灯火のようで。暗闇の中では部屋の明かりも星の一つに見える。まるで笑顔を浮かべながら、お帰りなさいと出迎えてくれる香穂子の温かさのようだ。

庭から眺められる湖の景色が好きで、昼間は何度となく脚を運んだから、暗闇でも道のりはかろうじて分かる。
柔らかい芝生をゆっくり踏みしめる夜空には、手が届きそうな近さで輝く満天の星。余計なものが覆い隠されているから、見えるのは真っ直ぐな輝きだけだ。うだる暑さも灼熱も日差しも、夜になれば肌寒さを感じる涼しさに変わる。


なぜこんなにも落ち着かないのだろうか・・・自分でも抑えられないほどに。


星明りのシャワーを浴びるように振り仰ぎ、瞳を閉じる。大きく深呼吸して空気を吸い込めば、ずっと浅く早く駆け抜けていた鼓動が緩やかに落ち着いてくるように感じた。星は美しい・・・心が安らぐ。
一際輝く一等星が香穂子の瞳に似ているのは、それは輝きの中に、見えない一輪の花があるからだろう。
飾らないありのままの美しさと、前を向こうとする力が内側から溢れているから。



・・・・・・・・・・・!?


風の音に乗り名前を呼ばれたような気がして、はっと我に返った。辺りには誰もいない筈なのにと、一気に身体が緊張し、気配を感じ取ろうと全ての感覚が研ぎ澄まされる。芝生を踏みしめる音は背後からだ、だんだんこちらへ近付いてくる。それ以前に、夜更けに一人出歩いている俺の方こそ不審がられてしまうじゃないか。手に何かを持っているようだし、不審者だと狙い撃ちされたら冗談ではすまされない。このまま逃げるか相手を待ち受けるか、どうする?

緊張と焦りが混ざり、手の平に掻いた汗ごと拳を握り締めながら意を決して振り返った。


『・・・なんだ、君だったのか』
『レン! やっぱりレンだ、びっくりした〜。こんな夜更けに何しているんだい?』


しかし暗闇から姿を現したのは、ミネラルウォーターのボトルと、バゲットパンのサンドウィッチを手に持ったヴィルヘルムだった。最初は驚きに目を見開いていたが、偶然にも夜の散策相手に出会えた嬉しさを満面に浮かべて駆け寄ってきた。張り詰めていた緊張が一気に解けた安堵感で、崩れ落ちそうな身体を支えるのが必死だというのに。自分の立場は棚に上げるが、何をしているのか問いたいのは俺の方だ。


『眠れなかったから星を見ていたんだ。だが、余計に眠れなくなってしまったらしい。ヴィル、君はこんな夜更けに食事の時間か?』
『あぁ、腹が減って眠れなくなったから夜食を作ったんだ。キッチンで作った後にリビングへ行ったら、窓の外に人影があるじゃないか。侵入者か、それともお化けかと驚いたんだぜ。しかもよ〜く見たら部屋で休んでる筈のレンに似ているし』
『驚かせてすまなかった、これからは気をつける。部屋の窓から眺めていたが、物足りなくなったんだ』
『カホコ会いたさに、もう一人の分身がふわふわ彷徨っているのかと心配になって、捕まえに来たんだぜ。そしたら本物だった、良かったな』
『何が良かったのか、俺にはさっぱり分からないのだが』


何処までが冗談で本気なのか掴めずに、腕を組みながら眉を顰めて睨む月森を、ヴィルは気にした様子も無い。持っていたサンドイッチを口に咥えながら、夜目にも眩しい癖のあるブロンドの前髪を掻き揚げると芝生の上にペタリと座り込んだ。引き千切るように細長いパンをかじり、柔らかい芝生の上をポスポス叩いてくる。


これから部屋に戻ろうとしている俺に、ここへ座れと言いたいのだろうか。
庭のあちこちにあるベンチでなく、なぜ今ここで芝生の上に?

いくつもの疑問が気泡のように次々沸くが、星を見るんだろうとの一言に返しかけた踵を戻した。結局俺は押しに弱いのだなと小さく溜息を吐いて、にこにこと見上げるヴィルの隣へ腰を下ろした。


仕方なくだったのに、直接腰を下ろした芝生は脚で踏みしめるよりも柔らかく、質の良い絨毯のように埋まって心地良い。空を振り仰げば、立っていた時よりも座った今の方が、降り注ぐ星を近くに感じられるのが不思議だ。
夜空が大きな半円形のドームのようで、広さを感じながら小さな自分は宇宙の中央にいる気分になる。
そうか、彼はこれを見せたかったのか。


『星が溢れているな、今まで見えなかったものも見えてくるようだ。視点が変わっただけなのに、こんなにも広かったのかと』
『星空のピクニックみたいだろう? でもカホコじゃなくて俺と一緒なのは我慢してくれよな』
『食べているのは君だけだ。だが香穂子も同じ事を言いそうだ』


そう言うと屈託無く笑い、持っていたサンドイッチに大きな口をあけてかじりついた。こういう無邪気な発送は香穂子に似ているなと思う。俺が同じセリフを彼女に伝えたらどんな表情をするだろうかと、想いを馳せるだけでも心が弾む。ふいに緩む頬を引き締めると、隣に腰を下ろすヴィルが俺の考えを見透かしたように、悪戯な笑みを浮かべていた。


『本番前日にレンが眠れないのは珍しいな。コンディションを整えるのも大切だって、自分でも言っているのに。って言ってる俺も本当は眠れなかったんだ、腹いっぱいになれば眠れるかなって思ったんだ』
『君もか、そちらの方が珍しいな』
『あ! 俺だってこう見えても繊細でデリケートなんだぜ』
『自分でそう言っている人間ほど、あてにはならない』
『今日のレンは可愛くないぞ、あ〜言えばこう言って反論する・・・。まぁ、ここは議論好きの国だからいいけどな』


君に可愛いとは言われたくない、それにこれは議論じゃないだろうと。喉元まで突いて出た言葉を、これ以上は話が続かなくなるから何とか飲み下した。星を眺めながら話したいのは、もっと違う事だと思うから。俺が言い返すかと思って身構えていたヴィルは、流れた沈黙に拍子抜けしたものの、ふと表情を改めて真摯に星空を振り仰いだ。


『俺一人だけならいいけど、演奏に携わっているからには、レンの将来半分俺も背負っている訳だからな。緊張しているけどそれは不安や懸念といった悪いものじゃない、ピンと張り詰めたヴァイオリンのテンションみたいに心地良いものなんだ。嬉しさと興奮でドキドキしているんだぜ、クリスマスが待ち遠しくて眠れない子供みたいに』
『演奏家は緊張していなければ、最高の状態が出せないという。最も繊細な動きや感情のコントロールを可能にする。洗練された緊張は演奏者と聴衆の間には欠かせないものだ。失われれば彼らも離れてゆく・・・』


そうだな・・・と呟くヴィルが視線を戻して力強い笑みを向けた。
自分を張り詰めた弦に例えた彼は、今にも音が鳴り出そうなヴァイオリンのようだ。

演奏していて最も危険のは不注意な瞬間だ。心や身体を落ち着かせながらも良い緊張を保つのは難しい。だがこれから演奏をする人間が、今緊張をしているのを忘れたいようでは、舞台に上がる前に自分に真実を語っていない事になる。自分に対する緊張や無警戒は、良くも悪くも必ず演奏に現れる。


そう・・・強さも弱さも、喜びも悲しみも全てが俺自身なのだから、自分で決めつけて、心を窮屈にしてしまわないように。この場所、この瞬間に意識を意識を向けること。
音楽に対するその深い理解が、心を伝える温かみを生み出すんだ。


『俺は、レンとカホコからたくさんのものをもらったよ。だげどもらうばかりじゃない・・・与える事が対セルだって俺は君たちから教えてもらった。明日はレンに負けないイイ演奏をしてみせるよ。もちろん、伴奏が目立ち過ぎない程度にね』
『無理を言って頼んだのは俺の方だ。俺の方こそよろしく頼む、最高の演奏で応えよう・・・彼女に届けるために。だが二重奏の時に、突然姿を消さないと約束してくれ』
『心配しするなって、責任はちゃんと果たす。とはいえサッカー試合では、ハーフタイム終了のホイッスルが鳴るギリギリまで諦めないのが俺のポリシーだ。俺の代わりにカホコが演奏する壮大な計画は失敗したけど、いつか機会はあるだろうからな』


本当だろうかと不信感に眉を顰める月森に屈託なく笑うヴィルが、手に持っていたサンドイッチの残りを口に詰め込んだ。星空を仰ぎながらミネラルウオーターのボトルを天に掲げ、星空を仰ぎながら一気に飲み下し始めた。ボトルに映る星の煌きを、水の中に溶け込ませながら。

大きく息を吐くと立ち上がり、組んだ両手て思いっきり伸びをした。座ったまま見上げると、星を掴むように伸ばした大きな手が、もう少しで一番輝く星へ届きそうで届かない。


『さて腹もいっぱいになったし、そろそろ寝るか。レンも早く部屋に戻れよ、見回っている家のヤツに玄関閉め出されたら戻れなくなるからな』
『あぁ・・・すまない、良い気分転換ができた。もう少し星を眺めたら部屋に戻って休む。コンディションを整えるのも演奏家として大切だからな』


じゃぁまたなと、振り向く肩越しに手を振りながら、暗闇へ消えてゆく背を見送ると再び静寂がやってくる。
立ち上がって再び空を仰ぎそっと瞳を閉じれば、瞼の裏に満天の星空が広がった。
香穂子がくれる光りの欠片のように心を照らすこの輝きごと、穏やかな眠りを漂う君に届けよう。


香穂子は今頃眠っているだろうか・・・。
眠るのがもったいないくらいの豊かさ溢れる星座の海へ身を浸し、君と一緒に眺めたい。
星の奏でる音色を楽しんだり、俺たち二人だけの星が見つけられたら素敵だと思うから。
君と俺の歩む道にも、たくさんの星が敷き詰められているといい。




だが眠れない夜を過ごしていたのは、俺たちだけでなかったと知ったのは、もう少し後になってからだった。君も同じ時に、眠れぬ夜を過ごしていたのだと------------。