心の翼・1

演奏に大切なのはエネルギー、テクニック、感情という三つのバランスであり、どれが突出しても欠けてもいかん。テクニックを磨くには頭を使いながら分析的に練習しなければならないし、そこにエネルギーを乗せるには身体に染み付いたテクニックが必要じゃ。さらに感情の鼓動が響き渡れば、聴衆は素晴らしい演奏と呼び、音の世界へ取り込まれ呪文にかかったように魅入られる。一人の生徒を育てる中で、三つのバランスを整えてやるのは教師として一つの目標であり、生徒に自覚させることも重要な課題といえよう。

生徒から演奏家、あるいは教育者へ進む過程を一言で現すならば「果てしなき道」じゃろう。始めのうちは様々な制約や障害に苦しみ、自分の中で葛藤を抱えるかもしれない。しかし人間として成長する為にどれも必要なものであり、避けては通れん道じゃと思う。

レンとカホコは、まさにその果てしなき道を歩んでおる。
いや・・・理想を追い求めているのは若い彼らだけでなく、かつては演奏家として・・・今は教育者となった私も同じ。教育者は仕事を通じて、自らの感性を極限にまで高める事が出来るんじゃ。




喧嘩をしたレンに謝りたくて突然一人でドイツにやってきた香穂子を、テーゲル空港まで迎えに行ったのがつい昨日の事のようじゃな。ホームステイをするこのケストナー家での生活も、あと僅かだと思うと寂しさが込み上げてくる。言葉や生活習慣の違いに慣れないもどかしさや、レンに会えない寂しさに何度彼女は一人潰されそうになっただろう。人前では明るく振舞っていても、心が張り裂けそうになっていたのをヴァイオリンが語っていた。

壁を作るのは周りでなく自分なのだと、君は独りじゃないと諭した時、初めて周りが見れていなかった自分に気づいたと言っていた。迷いの霧が晴れたのか、大粒の涙が洗い流してくれたのか・・・その時を境に、薄い殻を破ったようにカホコの輝きが増したように思う。どこかぎこちなかったワシら夫婦との間も、見えない僅かの溝が埋まり、真っ直ぐ進む力は音色となって現れた。


せっかく夏のドイツにきたのだからとサマーコンサートや避暑地を訪ねたり、街の至るところに潜む音楽たちを見つけたり。互いに言葉を選び教えあいながら、少しずつ意思の疎通を計る。思えば理解してもらいたいと、こんなにも真剣に相手と言葉に向き合ったのは随分久しぶりだった。その成果が実を結び、いつでも笑い声と温かさが溢れる空間が出来たのじゃ。


一人で寂しかろうと遊び相手に引き取った子犬も、今ではカホコ同様大切な家族の一員になった。
子供の成長というのは、大人の想像を遥かに超えて早いものじゃ。彼らの内面が変化するのを緩やかなペースで見守るのは、地中に眠る種が小さな芽となって顔を出すのに似ていて。だからこそ、花を咲かせた喜びには格別な愛しさが増す。それだけではない、迷子のカホコはワシら夫婦へ希望を届ける音楽の天使だったのかも知れんな。





『・・・せんんせい、学長先生? ケストナー先生!』
『あなた、起きて下さいな』
『・・・・・・・・』


遠くからの呼びかけに引寄せられ、ふわりと急速に意識が浮上した。薄っすらと目を開けると目の前には大きな瞳でじっと見つめるカホコが、やっと起きたと笑みを綻ばせていた。その隣には困った顔で佇む妻の姿も。

練習室に面した裏庭のベンチに座りながら、いつの間にか眠ってしまったようじゃ。高かった陽射しは薄っすら弱まりオレンジ色に傾きかけていて、時間の経過を知らせてくれる。どうやら二人でワシを迎えに来たらしい。


『仲が良いのう〜二人で迎えに来てくれたのか』
『えぇ。カホコさんだけですと、あなたが引き止めて話し込んでしまうでしょう? なかなか戻って来ないんですのも。二人だけで楽しまず、私もお話に混ぜて頂きたいと思いまして』
『レッスンが終って姿が見えなくなったと思ったら、ここにいたんですね。学長先生、いくら夏でもお庭で昼寝をしたら風邪引いちゃいますよ。陽射しが強いから、日射病になったら大変です』
『香穂子の練習を聞いていたら、すっかり心地良く眠ってしまった。な〜に、壁を覆う白い花たちが守ってくれるから平気じゃ』
『学長先生と奥様のお気に入りの場所ですよね。私も綺麗なお庭の中で、花に覆われた壁際のベンチが一番好きです。心の中に音楽が溢れてくるの、透明でキラキラしたものが。キラキラといえば、ドイツの夏は日が長いですね。もう夜なのにまだ薄明るい!』


そう言ったカホコは、ワシの足元の木陰に丸くなっていたチワワの子犬を胸に抱き上げた。大人しく眠っていたが、カホコが来たと気づいて目を覚まし、腕の中で嬉しそうにはしゃぎながら頬を舐め回し一生懸命だ。くすぐったいよ・・・と笑みを零しながら、愛しそうに頬をすり寄せているカホコを妻と二人で見つめていると、まだ夢の続きのような気がしてくる。なぜ今頃、夢をみたのだろう・・・。


ベンチに座ったままでいるワシの側に寄り添う妻が、どうかしたのかと心配そうに訪ねてくる。遠くを彷徨う瞳をしていたのだろうか、それとも苦しそうだったのだろうか・・・。無意識の中に現れた本音は自分で知る事が出来ない。幸せだと思ったのだとそう言って頬を緩め、ゆっくりベンチから立ち上がった。夢を見たのだとは言えなかった。しかも、何かの予感や前兆の知らせだと思ったなどとは。


レンとヴィルが今取り組んでいるレコーディングが終れば、カホコはレンの家に帰ってしまう・・・夏が終われば日本に戻ってしまうから。あるべき場所へ戻る、その寂しさが見せた名残惜しさにきっと違いない。じゃから心の底に湧いた不安は、受け止めた笑顔で吹き払おう。


『ところでどうしたんじゃ、二人してワシに用事があったのか?』


交互に眺めると二人は示し合わせた内緒話のように顔を寄せ、小さな少女のように微笑みを交し合う。嬉しそうに目を輝かせたカホコが足元にワルツを下ろすと、今度はワシに飛びつき腕を掴んでくる。


『お夕食の用意が出来たから呼びに来たんです。学長先生、料理が冷めないうちに早く早く〜!』
『お〜お〜。この老いぼれを、そう急かさんでくれ』
『今日はご馳走ですわよ、カホコさんが日本の料理を作ってくれたんですから』
『それは楽しみじゃな。どれ、早く行こうかの。カホコの手料理は妻と同じくらいに大好きじゃ、レンには申し訳ないのう』
『蓮くんもお夕飯に招待しようと思ったんですけど、今泊り込みで音楽作っているから忙しいみたいで。久しぶりに作った日本食だけでも、届けてあげたかったなぁ・・・せっかく鳥のから揚げ作ったのに』


残念そうに眉を寄せているカホコを真ん中にして、ワシと妻で両隣を囲みながら、オレンジ色の夕日に包まれた庭を横切り玄関えと向かう。日本にいる母親に電話して作り方を聞いたのだと、身振り手振りを交えて話す彼女とこうして三人、一緒に歩けるのもあと何日あるのだろう。だからこそ妻も、残り少ない時間を刻み込もうと一緒に来てくれたのかも知れないな。

今まで何人もの弟子や学生が我が家へ下宿していたが、こんなにも心に溶け込み家族でいてくれたのは、カホコ一人だとそう思う。奏でるヴァイオリンの音だけではなく、彼女自身に不思議な力があるのじゃろう。育て守っていたつもりが、いつの間にか導かれていたのだから・・・。


『急がずとも、レンは後でたくさんカホコを独り占めできるのだから良いじゃろう。今はワシら夫婦に、ちいとばかし譲ってくれんかのう』
『そうですわね、家族がいなくなるのは寂しいですわ』
『』大丈夫ですよ! 蓮くんのお家に行っても、レッスンだってありますし学長先生の家には遊びに来ますから、心配しないで下さいね、私だって会えなくなるのは寂しいです。今度は蓮くんと二人で一緒に来ますね』
『カホコ一人だけでも良いぞ。そうじゃ! 週末は泊りがけでこちらにくるのはどうじゃ?』
『あなた・・・我がまま言ってはいけませんよ。レンさんだってカホコさんが心配なんですから。二人ともずっと耐えてきたんです、離れがたい想いは私たち以上ですわ』
『ワシら夫婦には息子はおるが娘はいないんじゃ・・・。音楽の指導者ではあるが、嫁に出す気持というのはこのようなものかと思えてくる。じゃからつい、レンに厳しく当たりたくなるんじゃな・・・そうか、そうか』
『よ、嫁!? 学長先生ったら、大げさです! 暮らす家が二人きりに変わるだけ・・・って、えっとその』


火を噴き真っ赤に染めた顔で慌て出し、もじもじと手を弄り出すカホコにワシも笑みを零していて。両脇をきょろきょろ振り仰ぎながら困ったように頬を膨らませていたけれど、いつしか連られて楽しげな笑みを浮べ出した。黄昏時の寂しさを優しく包み込む、オレンジ色の温かさがゆっくり心へ満ち溢れ互いに響きあう・・・まるで音楽のようじゃな。


表情、言葉、音楽など・・・人の外面は内面が形をもって現れたものじゃ。外と中の二つを上手く結びつける事で、はじめて人を惹き付ける音が生まれ出てくるから、音楽を変化させるには奏者の内面を自分と一緒になって成長させる必要がある。技術だけでなく一人の人間として捉え、全体を見つめながら人としての行き方を導く事が真の教育だと、たくさんの巣立った教え子達にワシは学んだ。

レンからも、カホコからも。そう・・・彼らに教えられ、高められているのはワシの方なんじゃ。

裏庭から家の壁伝いに正面へとまわり、あっという間に辿り着いた玄関に名残惜しさえ感じてしまう。扉へと駆け寄ったカホコが足元に子犬を下ろし、スカートの裾を揺らしながらくるりと振り返った。


『いろいろあったけど、この一ヶ月間、学長先生の家にお世話になれて良かったって思います。もしも皆の反対を押し切って蓮くんと一緒にいたら広い世界を見る事は出来なかったし、信じる事も出来なかったから。この先自分がどうしたいかをはっきり描く事ができたのは、学長先生や奥様のお陰だなって思います。最初は一人ぼっちで寂しいと思っていたけど違ってた・・・学長先生の言った通りでしたね』
『ワシの?』
『壁を作るのは周りじゃなく自分だって、一人じゃないって。このケストナー家は私の家です、学長先生と奥様はドイツのお父さんとお母さんですって、今では胸張ってみんなに自慢できますよ。ご近所のおじさまやおばさまや子供達、インビスのおじさん。ヴィルさんやゲオルクさんにイリーナさん、ジーナにワルツに・・・そして一番大切な蓮くんにも!』


揺ぎ無い真っ直ぐな瞳の輝きに捕らえられ、言葉にならない熱い震えが心の底から湧き上がって来る・・・この想いは何なのだろうか。隣にいた妻が驚きに息を呑む気配を感じて伺うと、前で手を握り合わせながら小さく震える溜息をそっと吐いてた。


『カホコさん・・・ありがとう。私達にとっても、あなたは我が家の大切な娘よ。いつでも帰ってこれるように、部屋はそのままにしておくわね』
『おじいさん、おばあさんに孫娘という感じじゃがのう〜』


カホコへ贈る為にレコーディングは秘密にしたいといっていたレンの希望や、音楽に集中させたい環境の配慮もあり、あえて二人を別々に引き離した。心を鬼にする厳しい選択だったが、ヴィルの意見にワシも賛成じゃったから。長い間離れてる辛さは音楽家として身を持って知っているから、例え一ヶ月でも長く遠い時間だったに違いない。


必死に探した末にようやく再会しながらも、共に行くことが出来なかったあの日。帰るレンの背中を見送った後にずっと部屋に籠ってしまい、翌朝に目元が赤かったのは人知れず涙を流していたのじゃろう。二人とも隠してる心の中では、どんなにかワシらを怨んだことだろうか。揺るがない信念と絆で信じあい、僅かの時間を見つけて仲睦まじく寄り添う姿に、ずっと後悔の念に捕らわれていた・・・。レンが聞いたら怒るだろうが、泣かせてしまったワシを許してくれるか?


柔らかい温もりを感じて隣を見ると、そっと手を握り締めて微笑む妻と視線が重なった。言葉に出さずともワシの気持を察してくれているのだな・・・心の底で刺さっ氷の棘がゆっくり溶かされてゆくようじゃ。別れではなく巣立ちなのだと分かっていても、名残惜しくて手放したくない想い。


------彼女のヴァイオリンは、もっと伸びるはずです。


大学では教育者となった弟子が指導にあっているから、レンは同じ系列の孫弟子にあたる。ヴィルの兄のゲオルクや義姉のイリーナ以来、直接の弟子はもう取る事もないだとうと想っていたが、大学の学長室にやってきたレンに頼まれ、カホコのレッスン引き受けることになった。直接の指導を望むものは後を絶たず、他の学生にはあからさまな自己中心的な欲に嫌悪感を抱くものもおる。

カホコの音楽に興味があったというのもあるが、レンだけは違っておった。苦しみを受け止める覚悟で純粋に音楽と高みを望み、本当ならば自分が・・・という願いを抑えての真摯さに心を打たたのが大きい。
だからこそレンには夢を叶え道標となって欲しいし、二人共に羽ばたいて欲しいと思う。

暗闇に迷い途方にくれる子供達の姿は、もうどこにもいない。




荒削りだが人を惹き付けてやまない音色を磨き上げる楽しみが、いつしか彼女の音色を楽しんでいて。溢れる笑顔と温かさに、家族と呼べる絆を築くには過ごす時間の長さは問題でなかったようじゃ。


さぁどうぞとドアを開け、ワシら老夫婦を手招く先からは、出来立ての料理の香りが誘うように漂ってくる。
日が長く続く夏のように、このときがいつまでも続けば良いと願いながら・・・・・瞳を閉じて香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

夢が語ったのは例え何かの知らせだったとしても、今だけはこの瞬間の幸せを刻み込む為に、心の全てを傾けよう。