心の翼・12


打ち合わせとリハーサルを終えて楽屋に戻り、ドアをノックすると二人分の返事が同時に返ってきた。同じ楽屋を使っているヴィルヘルムのものと、学長先生の声・・・眉をしかめて互いに顔を見交わせている二人が目に浮かぶようだ。かつて何度もステージに立ち、音色を響かせた懐かしい場所に戻り、すっかり馴染んで時が戻ってしまったのだろうか。


ということは、このドアの向こうに香穂子もいるんだな。微かに聞こえる話し声から確かな気配と存在を感じるから。自然に綻ぶ心の頬の緩みを止められないまま、握り締めるドアノブにも力が籠もる。鼓動がドア越しに振動を伝わってしまうのではと思わず手放したが、苦笑して再び握り締めた。

俺が挑むべき物、そして君へ捧げる秘密の贈り物、想いの全てを伝えるにはまだ早いと焦りを覚えるが、久しぶりに会える嬉しさと喜びには敵わない。そう・・・新しい風を引き連れた君は、いつも突然俺の元へ舞い降り驚かせてくれた。心の弦を震わせ俺を奏でてくれるのは、いつだって君だけなのだから。

ドアの向こうにいる香穂子へ微笑みを向けながら、心のままにドアを開けた・・・君へ会う為に。





「香穂子・・・」


一番最初に俺の視界へ飛び込んだのは、やはり香穂子だった。楽屋の中央にしつらえられたテーブルを囲むように、他にはヴィルや学長先生夫妻もいたのに。絡まった互いの視線が引き寄せ合い、彼女だけに吸い寄せられる。

驚きに目を見開きふわりと椅子から立ち上がった香穂子も、見えない糸に引き寄せられるように、まっすぐ俺へと歩み寄ってきた。駆け寄って抱き締めたい衝動を、紙一重の理性で押さえる・・・そんな静けさと張り詰めた緊張感。だがいつもなら笑顔を満面に浮かべ子犬のように駆け寄ってくるのに、真っ直ぐ見つめる瞳は熱く、どこか切なげな光を宿していた。


話したいことがたくさんあったのに、ありすぎて胸が詰まり何から伝えて良いか分からない。熱く疼くもどかしい感情の渦に呑まれながら、たた俺も君も見つめ合っていて。数ヶ月も会えない日が続いていた事に比べたら、たった数日間は短いのに、本番前だから気が高まりやすくなっているのだろうか。いや・・・それもあるが、すぐ目の前に俺がいて君がいる、今はそれだけが大切な事。

当たり前のように思える事の難しさと大切さ、君の存在の大きさを知ったから。一度一度の出会いと触れ合い、一緒に過ごす時間が宝物に思えるようになったんだと思う。音色を聞き出会うたびに惹かれてゆく・・・優しく温かく、時には甘く締め付ける糸のように。高校時代の学内コンクールの時に感じたような新鮮な気持ちが、透き通った煌めきへと変わってゆくようだ。


「香穂子・・・すまない、待たせたな。学長先生と共に君がやってくると聞いた時には驚いたが、会えて嬉しい。客席で聴いてゆくのだろう? 今日は香穂子の為に最高の演奏をしよう」
「突然おじゃましてごめんね。どこへ行くのか私も知らなくて、ついさっき到着した時に初めて知ったの」
「そうだったのか、お互い学長先生に仕組まれたな。だが君を迎えに行く手間が省けた。荷物もまとめているようだし、送り届けてくれた学長先生には感謝しなくてはいけないな。君は一つ一つの思い出を大切に振り返りながら鞄へ詰めてゆくから、昨夜は荷造りが大変だったろう? 残り少ないが、これでやっと一緒にバカンスが過ごせる」
「あの蓮くん、そのことなんだけど・・・」
「香穂子、どうしたんだ?」


楽屋の隅にまとめられた大きなスーツケースと鞄、ヴァイオリンケースは、すぐに俺の所へ来る為だろう・・・そう思っていた。予定よりも早く一人でやってきてしまった香穂子は学長先生の家にレッスンを受けながらホームステイをしていたが、一緒に休暇を過ごすと決めた二人の約束の日が、ようやく待ち望んだ末にやって来るのだ。君も待ちきれなかったのだろうかと、これからの日々に想いを馳せ、旅支度が整った荷物に注いだ視線を戻す。待ちきれずに嬉しさを押さえきれないのは、きっと俺の方かも知れないな。


浮き立つ気持を託した俺の微笑みを受け止める香穂子は、驚き怯えるようにぴくりと肩を震わせた。何かを訴える切なげな眼差しで真っ直ぐ振り仰ぎ、雨が降り出しそうな空のようにくしゃりと顔を歪ませてしまう。頬を必死で堪えながらも、精一杯元気で明るい笑顔を向けようとするひたむきさが、言葉以上に強く想いや心の色を伝えてくる・・・喜びも、心の奥に隠した痛みさえも。押しつぶされるような苦しみと流れ込む熱い渦は、香穂子が抱えていたものだろうか。反らせずに見つめ合う視線の中で密かに耐えながら、香穂子の様子がおかしい事に気づき、全身を緊張が走った。


「違うの、蓮くん。ごめん・・・ごめんね、ごめんなさい・・・」
「香穂子、どうしたんだ、なぜ謝るんだ? すまない、話が良く分からないんだ」


両手をきゅっと握り締めると、力なく俯いた華奢な肩が微かに震え出す。そういえばいつもに比べて顔色も良くないし、少しやつれた気がするんだが・・・困ったな、事情が分からない。俺が一歩踏み出した所で、涙に混じった声が吐息と共に零れ落ちた。


「喧嘩した時に、怒って電話を先に切ったのも私だった。予定が詰まっているからって伸ばした約束の日よりも早く、蓮くんに謝りたくて先に一人で来たのも私・・・。それだけじゃなくてまた私が、蓮くんとの約束を破っちゃったの!」
「電話の時は俺がいけなかった、香穂子のせいじゃない。焦りや不安を君にぶつけるべきでは無かったのに、押さえ隠していても、結果そうなって君を傷つけてしまったのだから。一足早く動いてくれたお陰で、俺たちは仲直りも出来たし少し長く一緒に過ごせたじゃないか。だが、また・・・とは一体何があったんだ?」
「今度こそ裏切ったって思われても仕方ない、許して欲しいなんて厚かましくて言えない。勝手だって思うかも知れないけど、蓮くんを信じてるの・・・大好きだよ。蓮くんを悲しませちゃうのが辛くて、でも選択を迫られたらどうにも出来なくて・・・私が選んだの」


両サイドの髪がカーテンのように覆う表情をそっと覗き込めば、溢れる涙を零さないように大きく瞳を見開き、唇を噛みしめている。普段は決して人前では弱音を吐かず、笑顔を絶やさない香穂子がここまで思い乱れているのだ。彼女の身に、何か重要な決断を迫られる辛いことがあったに違いない。どんな結果であっても自分を信じて決めた意思だという強さと、俺を気遣ってくれている優しさは、紛れもなく香穂子のもの。それが俺とどう関わっているのか知りたいとのだが・・・。


落ち着いて着いて事情を話してくれないかと宥めだが、違う違うのと呟き駄々を捏ねる子供のように、ぶんぶん激しく頭を左右に振るばかり。赤い髪が肩の上で、パサパサと蝶のように跳ね踊る。とにかくまずは、香穂子を落ち着かせなければ。

頭を包み抱えね腰を捕らえ、温もりを伝えるように腕の中へ閉じ込めれば、服越しに触れ合う肌から伝わる浅く早い鼓動・・・それは声にならない香穂子の心の声。穏やかなリズムを誘うように、ゆっくり背中をポン・・・ポンと軽く叩きあやしてゆくと、ゆるゆる持ち上がった腕が絡みつき、指先に力が込められた。しがみつく俺の胸から、ごめんねというくぐもった呟きだけが聞こえてくる。


見守る人々の硬い表情から、俺のいない間に何かあった事だけは分かった。日本語の分かるヴィルなら俺たちの会話も聞いていただろうし、事情が聞けるかもしれない。すぐ近くに座っていた彼に視線を投げかけると、椅子から立ち上がり歩み寄りかけるが、学長先生に止められてしまった。日本語の内容が分からないながらも、流れや雰囲気で察知しているのだろう。他が立ち入るべきではない、そして香穂子が自ら伝えようとしている言葉を遮ってはいけないと、静かに首を振りながら伝えてくる。


彼らは皆、香穂子が悲しむ理由を知っているんだな・・・知らないのは俺一人か。
本当は誰よりも君を守りたいと、もう二度と悲しい想いをさせて泣かせまいと誓ったのに。
込み上げるやるせなさに溜息を吐きたい俺は、どんな表情をしているだろうか。


香穂子を抱き締める腕にも微かに力が籠もってしまい、慌てて緩め直しすと髪に指先を絡め、ゆっくりと撫で梳いてゆく。落ち着いてくれ、笑ってくれと心の中で呼びかけながら自分にも言い聞かせる。気持が良いと君が頬を綻ばしてくれるように、撫で梳いている俺も心地良いから。ずっと口を噤んでいた学長先生が、コホンと咳払いをして俺の名前を呼びかけてきた。


『レン、大事な演奏前に突然邪魔してすまなかったな』
『学長先生、それに奥様も・・・その、ご挨拶が遅くなってすみませんでした。俺がいなかった間に、何かあったんでしょうか?』
『・・・あぁ、昨夜ちいとばかしやっかいな事になってのう。レンが秘密に隠して事は知っておったが、直接会ってレンに言葉を伝えたいと、そうカホコが言うからワシの独断でここへ連れてきた。本当は君の師匠も一緒に演奏を聴きたがっておったが、レッスンが抜けられず残念がっておったよ。まぁあやつはいつでもレンの演奏は聴けるしのう』
『先生までいらっしゃる予定だったんですか・・・』
『音楽のことも二人のこれからのことも、それぞれに考えがあるじゃろうが、時の流れは早くときに悪戯じゃ。ゆっくりと君たちのペースでといきたいじゃろうが、悠長に構えていると激流に呑まれ溺れて、後悔することにもなりかねん』
『あの、どういう事でしょうか?』


少し離れたテーブルの向こうから真っ直ぐ見つめる光に射抜かれ、トクンと鼓動が大きく高鳴った。
ずっと感じていた見えない不安が暗雲となって立ちこめ、胸の中を覆い尽くしながら膨らんでゆく。かつて無いほど大きく鳴り響く警鐘につられて行動が駆けるが、今は何よりもまず香穂子が心配だと。そう心の中で自分に言い聞かせ落ち着きを取り戻そうと試みるが、収まるどころか呼吸さえも難しくなるばかりだ。

楽屋に入った瞬間、皆の空気が引き締まるのを感じた。俺たちが話している間も固唾を呑み、いつでも飛び出せるようにと、誰もが構えながら成り行きを見守っていたのを知っている。香穂子は小さく震え耐えながらも、必死に向こうとしている。もどかしく張り詰めた空気の中で、教えて欲しいのは俺の方だと眉を寄せるしかない。


「蓮くん、心配かけちゃってごめんね」
「香穂子・・・」


腕の中からようやく振り仰いだ瞳の真っ直ぐな輝きは、覚悟と決意を秘めた力強さを湛えていた。微笑む香穂子を見つめて腕を緩めると、言葉を続けようとしていた学長先生に呼ばれ共に視線を向ける。落ち着いたかねと穏やかに慈愛の眼差しを注ぐと、もう大丈夫です・・・自分で伝えますからと、そうドイツ語で応え、赤みの残る目元で笑みを浮かべていた。

俺の腕からするりと抜けだし、改めて正面に向き合う。瞳を閉じなら胸に手を当て、深呼吸をしながら自分の心と対話しているのだろう。開かれた瞳と絡めば自然と背筋が伸びるようだ。俺も不安を力に変えなければ。


「蓮くんびっくりしないでね。あのね、私・・・今夜の飛行機で日本へ帰るの・・・」
「帰るとは・・・まさか日本へ? ・・・っ、今夜なのか!? もう少し滞在できると聞いていたが、なぜ突然・・・・」


一瞬頭の中が真っ白く光り、呼吸も動きも止まる。何を言われているのか分からなくなり、見えなくなって。俺を呼ぶ香穂子の心配そうな声で我に返り、必死に自分を引き戻す。単語と単語が繋がり一つの意味として理解するのに、どれだけの時間がかかっただろうか。日本へ帰る・・・いずれ分かっていても、心構えもなく突然今夜だと告げられれば、にわかに信じがたい。いや、信じたくないと思っているんだ・・・香穂子が近くにいる事に慣れかけてしまい、いずれ帰るのだという事実を忘れかけていた自分に愕然とした。

驚くなと言われても無理な話だ。冗談だと、笑ってそう言って欲しいと切に願う。
言葉を無くして立ちつくす俺を心配そうに振り仰ぎながら、何度も俺の名前を呼び、手を握り締めてくれていた。
やはり本当なんだな・・・温かさと優しさが切なげな微笑に変わると、香穂子の瞳も戸惑い揺らめき出す。
いけない、君を泣かせたくない、笑って欲しいと願ったばかりじゃないか。


「昨夜、日本にいるお姉ちゃんから電話があったの。お母さんが事故にあって入院しちゃったって・・・すぐ帰ってきなさいって。ちゃんと横断歩道を青信号で渡っていたのに、急に曲がってきた信号無視のバイクに跳ねられたんだよ。お母さん何も悪くないのに・・・悔しい、痛かったろうな・・・」
「何だって! それで・・・お母さんの容態は?」
「跳ね飛ばされた先が、フカフカの植え込みだったから大けがせずに済んだみたい。電話の話では、腕と足の骨折だけだよ。頭は打っていないし、命に別状は無いって言ってた・・・それ聞いてほっと安心したの」
「そうか・・・良かったな、俺も心臓が握り潰された。いや、怪我をしたから良かったとは言いきれないが、とにかく無事で良かった。日本を離れているからすぐ駆けつけられないし、様子が分からず不安だろう? 香穂子が帰るのは、お母さんの為・・・なんだな。」


ずっと堪えていた瞳がくしゃりと歪み、ぐいと手の甲で涙を拭き取ると、雨上がりの青空のような笑みを浮かべて頷いた。俺に示した彼女の道、決めたことに後悔はしていないと伝える力強さが、厚く覆った雲間に光を灯す。
香穂子の方がずっと辛い筈なのに、突然の驚きで戸惑う俺の事を心配している。いつもそうだ、自分の事は後回しで周りのことを気にかけて・・・だから目が離せないし、大切にしたいと思う。握り締められていない方の手で頬を包み、しっとり吸い付く柔らかさを心地良く感じながら、優しく穏やかに、愛しさを込めて微笑みを注いだ。

君が俺にしてくれるような、伸びやかに伸ばし羽ばたける日だまりで、身も心も包み照らすように。


「香穂子の元気な笑顔で、きっとお母さんも喜ぶ。怪我は薬や時間が治療しても、心は心でないと癒せから。ご家族の支えになれるのは、香穂子だけだ・・・誰も変わりにはなれない。家族の絆は何よりも強くて、大きい。離れているから、大切さは実感している」
「帰ってきなさいって言われたときに私ね、すぐ返事が出来なかったの。家族と音楽どっちが大事なのかって、お姉ちゃんに怒られたよ。学長先生にも言ったんだけどね、どっちも大切だから選べないんだもの。怪我も心配だけど、蓮くんにも会えなくなっちゃう。お母さんは、帰って来ちゃ駄目、先生や蓮くんの所で音楽やってなさいって言ってたんだけど。でも今朝、帰るよって電話したの・・・お母さん、電話越しにごめんねって言いながら、ちょっと泣いてた」


きっと昨夜は眠れなかったのだろう、決断するまでにそうとう葛藤したに違いない。顔色の悪さも微かにやつれた頬が、全てを伝えていた。母親との会話を思い出したのか、くすんと鼻をすすり指先で目元の雫を拭っている。もしも俺だったらどうしていただろうか・・・きっと悩んだと思う、君と同じように。


「伝えるのが遅くなってごめんね。大事な演奏会だって聞いてたから、夜中に電話しちゃ悪いと思って朝まで待ってたの。演奏直前に動揺させたらどうしようって、すごく悩んだ。でも電話越しじゃなくてちゃんと蓮くんの目を見て、帰る前に心の底から私の想いを伝えたかったの」蓮くん、怒ってない? また約束破った私に呆れてない?」
「なぜ怒るんだ? ここで残ったら、俺は無理矢理にでも君を日本のご家族の元へ返していただろう。家族と大切にできない人は、他の人も幸せに出来ないと・・・俺は思う。優しい香穂子だから今の俺がいるし君がいる・・・たくさんの優しさと温かさをもらったんだ」
「蓮くん・・・!」


大きく見開かれた瞳に先程とは違う歓喜の潤みを滲ませ、ふわりと笑顔を浮かべて。羽のようにぴょんと飛びつき、胸へと顔を埋めしがみついてくる。愛しさに変わる無邪気さを、そのまま抱き締め返そうとした所で、楽屋の中へ他にもいたのだと今更思い出した。顔へ熱さが込み上げてきた今の俺は、きっと真っ赤な顔をしているのだろうな。

行き場を失った両手は、小さく咳払いをして香穂子の肩を掴み、みんなが見ているから・・・そう困ったように耳元で囁く。するとぱっと慌てて身体を離しきょろきょろ周囲を見渡すと、見守る視線を浴び耳まで茹でだこに染まってしまった。俺たちの会話をさりげなく学長先生に通訳していたヴィルを鋭く睨むが、しれっと視線を反らすところを見るとあまり効果は無いらしい。うんうんと、笑みを浮かべて小さく頷く学長先生が、静かに椅子から立ち上がった。


からかわれるのだろうかと身構えたが、予想に反して深々と下げられた白髪の頭。
時折少年のように無邪気で困った人だが、尊敬すべき偉大な人に頭を下げられては、戸惑うばかりだ。二人で驚き顔を見合わせると、俺も香穂子も慌ててテーブルを回り傍へ駆け寄って、頭を上げて下さいと頼み込む。

白髪が揺れてゆるゆると上がり、顔に刻まれた皺が深く刻まれると、俺と香穂子の手をそれぞれ取り握り締めてきた。ありがとう・・・そう微笑むと音色や心を奏でるように、俺たちの手を一つに重ね合わせる手が、大きくて温かい。


『すまんのう、レン。それにカホコも』
『・・・! 学長先生』
『ドイツでカホコを預かる保護者としても、我が儘を認める訳にいかなかった。子を持つ親としても、カホコや日本のご家族どちらの気持も痛いほど良く分かる。目の前だけの幸せに捕らわれていては、音楽を選ぶ道もこの先にある大きな幸せも、みすみす失う事になりかねん。まだ道は続く、終わった訳ではない・・・どんなに曲がりくねっていても、必ず互いの道は寄り添い交わりながら、叶える夢に向かっておるんじゃ。歩くことを諦めない限り』
『少し、香穂子と二人だけで話をする時間をもらえませんか?』
『あぁ、行っておいで。ただしホールからは出ないようにな。何か動きがあったら、携帯に連絡しよう』
『すみません、よろしくお願いします』


学長先生や隣で見守る夫人に楽屋での留守番を頼み、そういう訳だからとヴィルに一言伝え、鞄に入れたままだった携帯電話を取り出した。ポケットに入れると佇んだままの香穂子に、行こうか・・・そう言って手を差し伸べた。頷いて自然と収まる柔らかな手を握り締め、開けた楽屋のドアを開ける。俺たちの名を呼ばれて振り返れば、椅子から立ち上がりったヴィルが、駆け寄ろうとする身を留め乗り出していた。

心配ないから・・・そう肩越しに振り返り、見送る人たちに挨拶をして静かに扉を閉めてゆく。