心の翼・11 



自分の家か大学の構内と同じように、勝手知ったる様子で複雑な楽屋裏を迷うこと無く目的地へ進む学長と、途中で通りすがるスタッフたちが、驚きながらも喜びを露わにして挨拶をしている。ここは何をする場所だとバックステージツアーも兼ねて、時折後ろをついてくる香穂子を肩越しに振り返り説明するのも忘れずに。生の音が溢れる場所・・・目に映る物全てが輝く興味の対象となって胸が高鳴り、うっかりよそ見をしてはぐれそうになる香穂子を、後ろにいる夫人がやんわり気道修正をしていた。


蓮くんはここにいるんだね・・・。

プロへの階段を一歩進んだ彼が誇らしく思えると同時に、不安が込み上げ胸がキチリと音を立てて締め付けられた。予定を繰り上げこれから帰国しなくてはならない事実と私の気持ちを、どうやって蓮くんに伝えよう・・・彼に受け止めてもらえるだろうか。渡欧する前から今までも心配かけてばかりだったから、悲しませてしまうかも知れない。早く伝えなくてはいけないのに拒絶されるのが怖くて・・・帰りたくなくて、旅立つ直前を迎えてしまった。


目の前を歩く学長先生の向こう側から聞こえてきた忙しなく走る足音に、緊張が一気に高まり鼓動が弾け飛ぶ。
背負ったヴァイオリンケースのストラップを前で強く握り締めながら、ひょいと背中の脇から顔を出した目の間にいたのは蓮くんではなくヴィルヘルムさんだった。蓮くんじゃなかったと落胆する気持と、緊張がほっと解けてゆく二つの心に戸惑いながらも、複雑に混ざり合い自分の中でせめぎ合う。笑顔で挨拶を返したけれども一瞬ふわりと緩んだ瞳は、蓮くんが言うように勘の鋭い人だからきっと気づいたのかも知れない。





『学長先生に連絡を貰ったから、迎えに行こうとしていたんだ。楽屋裏と駐車場までは一本道だからすれ違う事は無いと思っていたけど、万が一直接客席へ行くとも限らないし。学長先生にとっては家みたいな場所だから、じっと待ってる筈はないよな。でも途中でカホコたちに会えて良かったよ』
『・・・家、ですか? どうりで迷わずに、スタスタと複雑な楽屋裏を歩いていた訳ですね。私なんて今どこに入るのか場所が掴めなくて、はぐれたら大変だって背中の後に着いて行きながら思ってました』
『大学で教鞭を執る前、まだヴァイオリニストとして現役で演奏活動をしていた頃には、このホールのステージに何度も立ったんじゃ。板付きのスタッフとも、レーベルのスタッフとも顔なじみじゃよ』


招かれた楽屋は支度用の鏡前や、白い壁や机囲まれたシンプルな内装の落ち着いたで、中央には応接用に数人がけのテーブルと椅子も用意されている。蓮くんとヴィルさんは二人で同じ楽屋を使っているそうだけれど、性格を現すかのように余計な物が無くすっきり片付いていた。鏡前の白いテーブル置かれた二つのヴァイオリンケースと鞄、ヴィルさんのケースの横には愛用のヴァイオリンが用意されていたけれど、蓮くんのヴァイオリンが見あたらない所を見ると、練習かリハーサルをしているのだろうか。


きょろきょろと周囲を見渡していると、目の前の白いテーブルから温かい湯気とコーヒーの香りが漂ってきた。何もないから簡単なもてなしですみませんと、学長先生や奥様へ詫びながら紙コップに注いだコーヒーを手渡し給仕している。たくさんお菓子を貰ったけど、本番前は俺もレンも食べないんだと困ったように微笑みながら、紙トレイの上に差し入れのクッキーやチョコレート、つまみのナッツ類などを綺麗に盛りつけていた。

これはお持ち帰り用だからとそう言って、大きめの紙ナプキンに包んだ菓子を私に託し、楽屋の隅へと立ち去っていく。本番を控えた大事な時にお邪魔しているだけでも申し訳ないのに、こんなにもてなされていいのかな? 

椅子から立ち上がり、楽屋の隅にあるケータリングのスペースへ駆け寄ると、コヒーの入ったポットを置いたヴィルさんに両肩を掴まれ、くるりと回れ右の背中を向けさせられてしまう。あれ?と思った時には、そのまま後ろから肩を押されていて、さっきまで座っていたテーブルに戻されてしまった。


『あのヴィルさん、どうかお構いなく・・・突然押しかけたのは私たちですし、お茶なら私が入れますから』
『俺は動いて世話をしている方が落ち着くから、カホコは気にしないで寛いでいてくれよな』
『そうじゃよカホコ、まぁ少しは落ち着きなさい。これから忙しくなることだし、一息つけるのは今のうちじゃよ』


さぁどうぞと引かれた椅子にぽすんと座るけれども、落ち着いている場合じゃないのにと、心の底ではしっくり落ち着けないでいた。本当に良いのかなと眉を寄せていると、すっかり寛ぐ学長先生が、美味しそうにコーヒーをすすりながらにこやかに宥めてきた。学長先生の隣に座って自分で注いだコーヒーを飲むヴィルさんも、そうそうと同意しながら深く何度も頷いている。


『焦っていたりぼんやりしていては、どんなに良いことや幸せがあっても見落としてしまう。まずはゆとりのある心を持つことが大事じゃよ』
『本当だ、美味しいです・・・ありがとうございます』
『そう言ってもらえて嬉しいよ。お茶は入れてもらうのが一番美味しいんだ。飲み終わって落ち着く頃には、レンもこの楽屋へ戻ってくるよ』

向かい側に座る学長先生が旨いぞと瞳で示すコーヒーに視線を注ぎ、ゆっくりと手に取った。そっとミルクを注いでスプーンで掻き回すと、優しい色になった濃いめの褐色から、入れ立ての深く優しい香りが漂ってくる。両手で包み持ったカップからじんわり伝わる熱さで身体を温めてから、口に運んだコーヒーをすすれば、ほっと安らげる吐息がお腹の中から溢れてくる。いつの間にか頬を緩ませている自分に気づくと、見守るみんなも同じように微笑みを浮かべていた。


『蓮くん、今どこにいるんですか?教えて下さい。私、すぐに伝えなくちゃいけない事があるんです』
『レンと二人で迎えに行く途中に、急にな打ち合わせだとかで連れて行かれたんだ・・・・すまいな。今頃オケと合わせていると思うんだけど。学長先生から連絡もらったときに、ちょうどレンも一緒にいたんだよ。でもカホコが電話に出られないようだったから変わってやれなくて、話が出来ずに残念がってた。レンから言付けを預かって入るんだ、俺が真っ先に迎えに入ってやれなくてすまない・・・だそうだよ』
『そうだったんですか・・・ありがとうございます。電話の時は以前ヴィルさんが持ってきてくれた蓮くんの楽譜を思い出しながら、ヴァイオリンを引いていたんです。あっでも、音は出していませんからね、弾く真似だけですから』
『それで学長先生はカホコのコンサートだって言ってたのか、なるほどな。俺も聞きたかった』
『ホッホッ、素敵な演奏じゃったわい。お前さんの大きな企み事に備えて、カホコも準備万端じゃよ。無意識に奏でたくなる程ヴァイオリンが好きで大切に想ってくれている・・・自分の身体の一部なのはワシも嬉しい』


思い出せば顔に熱さを感じてしまうほど照れ臭かったのに、笑う事もなく受け止めてくれる。ヴァイオリンが・・・音楽が好きな人たちに囲まれて幸せだなと思うし、ヴァイオリンの一部になれた自分はもっと嬉しい。もっと頑張ろうと思えて、きらきらした力が溢れてくるみたいだ。

思い出の曲たちを蓮くんと二人で音色を重ね、また新しい私たちがつくりたい・・・でも・・・。
蓮くんたちはこれから本番なのに、いつどうやって私が一緒に演奏するんだろうか?
そういえばこのホールでどんな演奏会が行われるのか、まだ何も聞いていないんだった。


これだけ大きな舞台で人がたくさん動いているのだから、プロのヴァイオリニストとしての将来がかかっているのは言われなくても強く感じる。ヴィルさんの分や考えだったとはいえ、蓮くんと二重奏の楽譜が私の手にあっただけでも諫める視線の強さに戸惑ったのに。演奏には真摯な蓮くんの舞台に勝手な事したら、どんな剣幕で怒るか想像しただけで怖くなる。帰国してしまっては、簡単に謝りに家を訪ねることも出来ないのだから。


『教えて欲しいんです。蓮くんたちが私に何かを内緒にしている事と、一緒に演奏するのがどう関わりがあるのか。待っているだけでなく、私も前に進むために知らなくちゃいけないの』
「分かった。蓮には内緒だと言われていたけれど、差し障りの無い程度だけ俺から話そう。一番肝心な所は本人が伝えるべき所だから、蓮から聞くといい」
「ヴィルさん、日本語・・・」


再び緊張で表情を硬くしてしまった香穂子が立ち上がってテーブルに身を乗り出し、必死な瞳でヴィルヘルムを振り仰いだ。意図を察知し、落ち着くようにと諭しながらブルーグリーンの瞳を優しく緩めると、椅子の背もたれに寄りかかっていた身体を起こし、組んでいた足を解いて姿勢を正す。大きな声を出してしまった事に気づいて顔を赤らめながら、いそいそと椅子に座り直すのを待ってから、テーブルの上に手を組み真摯な光で香穂子を見つめた。


彼の口から出たのは流ちょうな日本語だった。日本語も堪能なヴィルヘルムだが、月森には以前から自分だけでなく香穂子にも、語学とこの国に早く慣れるようにドイツ語で接するようにと言われている。本当に伝えたい心の全てを語るのに、まだ上手くドイツ語を操れない香穂子には、日本語の方がもどかしさに苦しまずにすむだろう。
それだけでなく、学長夫妻たちには内緒にしたい自分の心の内を語る時にも都合が良いから。

そう言ってヴィルヘルムがちらりと学長夫妻を見るが、気にせず話を続けてくれと視線で語りかけてきた。


「今日の演奏会のお客は、君たちだけだよ。だから何も心配する必要はないんだ」
「え、どういう事ですか?」
「CDの収録なんだよ・・・蓮のデビューCD。スタジオで半分録音を終えているんだけど、二重奏を中心にステージで奏でる生の響きを閉じ込めるのが残っている。本当はもっと早く取り終える予定だったんだけど、途中でコンディションが乱れたり予定が入ったりで伸びてしまったんだ。蓮が渡欧の日付を伸ばして欲しいと言っていたのも、ウチに泊まり込んだり忙しくて香穂子と会えなかったのもそのせいだったんだ・・・黙っててすまなかったな」
「CD・・・凄い!? ヴィルさんも協力している大事な演奏会ってCDの収録だったんですね。蓮くんのデビューがかかった大事なCDだったなんて、夢みたい。でも嬉しいことなのに・・・知らなかったのは私だけ、なんですね」


予想外の嬉しい知らせに胸が震えると同時に、誰よりも願っていた自分だけが知らなかったのが悲しくて。溢れた喜びが、切なげな微笑みに変わっていくのが分かる。でもようやく、点と点だったこれまでの出来事が、一本の線となって繋がったように思えた。目まぐるしく動く毎日の中で、練習や忙しさに忙殺されながら、私との予定が重なると分かっていてもギリギリまで調整をしてくれていたんだね。

途中で演奏のコンディションを崩したという時期が、こっそり渡欧した私を探していたのだと聞かされて、更に込み上げた熱さに胸が詰まり堪えた吐息が震えてくる。何があっても音楽を選ぶ蓮くんが、自分の将来がかかっている大切な演奏予定を、あの時は先に延ばしてまで探してくれていたなんて。

それなのに私は、約束を守らず勝手な事ばかりして心配かけっぱなしだった・・・。
蓮くんは、離れていても私のことをずっと信じて想ってくれていた。予定を早めて帰らなくちゃいけなくなったのは、誰のせいでもない。きっと不安な自分の事だけで精一杯だった、私への戒めなんだとそう思った。


立ち上がったヴィルさんが椅子を持って、テーブルの向かいから斜め前の角へと移動してくる。カタンと小さな音を立てて座ると、膝の上で拳を握りしめて耐える視線の先に、銀紙で包まれたチョコレートをポスンと置いた。つられて顔を上げれば、肩肘をテーブルにつきながらの、光を湛えた柔らかい瞳が微笑みかけている。


「演奏するのは二重奏だけでなく、君も良く知っているソロの曲などもあるんだ。俺が渡した蓮の楽譜たちを見て、香穂子も懐かしいと思っただろう? 出会ってから今までの思い出を、アルバムのように曲に重ねて連ねたのだと言っていたよ。何も知らない俺でさえ、君たち二人の様子が思い浮かんで照れ臭くなったさ」
「蓮くんも、同じように思ってくれていたんですね・・・」
「どうして伝えないのかと、香穂子と同じ質問を俺も蓮にしたんだ。ピアノ伴奏と二重奏の相手をする俺も運命共同体だからな。そうしたら誰よりも喜びを伝えたい相手だからこそ、不安定な状態でなく、きちんと形になってから知らせたかったんだと言っていた。それだけでなく、選曲や順番、編曲にもこだわった一枚のアルバムは、まさに蓮が香穂子に捧げる一枚だ。だからこそ、出来上がりまで秘密にしておきたかったんだと俺は思う」
「私の・・・為に?」


俺はプロポーズみたいだと思ったねとそう言って、頬を染めながら難しそうに眉を寄せ、私が手をつけずにいるチョコレートを摘み取り口に放り込んた。チョコレートどころではなく、押し寄せる驚きの渦に自分を支えるのが必死。半ば腰を浮かせて紙コップを取り寄せ、コーヒーを飲み干すのヴィルさんを待っていると、ふぅっと深い息を吐いて向き直った。


「もう分かっただろう? ピアノ伴奏は俺で問題なくても、二重奏を奏でる相手は俺じゃない。蓮もそれが分かっているから、心と脳裏で響く理想・・・つまり君の音色と現実の違いに苦しんでいたんだ。技術的に問題なくても、心が籠もらなければ空っぽの器と同じ、それは俺たちが望む最高の演奏じゃない」
「だっ、駄目です! 蓮くんと合奏出来るのは嬉しいですけど、もしも私の演奏が一緒に収録されたら、月森蓮のヴァイオリンに傷がついちゃいますよ!」
「分かってないのは香穂子の方だ。蓮のヴァイオリンに必要なのは、君だよ。そもそもCD作らないかとスカウトされたのはコンクール云々の演奏じゃなく、運河沿いの公園で休日に演奏してた時だっていうじゃないか。海へと繋がる河の傍で、香穂子を想いながら奏でていたんだろう。君を想う心が優しく甘い音色になり、翼となって海を越えてゆくんだ・・・遠い日本や世界中に。素敵な事だと思わないかい?」


手や顔をばたつかせて拒否をする私の中へ、ストンと染み込む透明な雫が煌めきとなって広がっていった。
必死になったせいなのか、じんわり込み上げてきた照れ臭さのせいなのか、顔に感じる熱さはきっと私の頬を赤く染めているんだろうと思う。私もその翼になって一緒に飛びたい、翼を休める場所でありたい・・・生まれる夢が私の中で新たな翼となりふわりと広がってゆく。


曲を使うか使わないかは上の人たちの判断だから、二人だけで楽しめばいいさと。
そう悪戯な笑みを浮かべるヴィルさんは、一体どこまで根回しをしているのだろうか。
スタッフさんみんなを丸め込んだ大事になっているのを、蓮くんも知らないなんて後で驚くだろうな。
なぜだろう、でもきっと上手くいくよって思うの。

会話が分からないながらも見守っている学長先生と奥様と目が合えば、優しく微笑み返してくれるのは、自然と頬が緩んでいる私を映しているのだと感じた。


「学長先生から簡単にだけど話は聞いたよ。事故にあったお母さんが無事で良かった。香穂子・・・今夜の最終便で帰るんだってな。突然で驚いたよ、でも蓮にはまだ伝えていないんだろう? 朝からの様子を見ていれば分かる」
「はい、そうなんです・・・これから伝えます。蓮くんきっとびっくりすると思う。勝手に早く来たのに、予定より先に帰っちゃうんだもの。悲しませたり、呆れられたらどうしよう」
「家族を大切にしている蓮なら、香穂子の気持は分かってくれるさ。何かあったら、俺がヤツの首根っこヒッ捕まえて、日本に連れて帰るから任せておけって。一晩随分悩んだんだろう? 良く決めたな・・・偉いぞ」
「ヴィルさん・・・。」


くしゃりと涙で歪む瞳や頬を堪えていると、頭の上に優しい笑顔で手をポスンと乗せてきた。大きく包むような手の温さに、今まで上手く伝えきれなくてもどかしかった想いが、少しずつ解けるようで涙が溢れそうになる。
でもぎゅっ閉じていた瞳を開けると見守るヴィルさんの方が、微笑みながらもどこか堪えるように辛そうな顔をしている事に気がついた。大丈夫ですか?と呼びかけると、乗せていた手を離して切なげに微笑み瞳を揺らす。

遠くを見ていて、悲しそう・・・。


「昔をちょっとだけ思い出したんだ。香穂子は、無事でよかったな・・・」
「あっ! 無くなった留学中の恋人さん・・・その、ごめんなさい!」


ピアノの勉強のためモスクワの音楽院に留学していた恋人が、バカンス帰国中に事故に巻き込まれて無くなったこと・・・ずっと今でも恋人を大切に想っている事。深い悲しみの底から這い上がったのはまだ新しい記憶なのだと、蓮くんやヴィルさん本人から聞いていたのに、辛いことを思い出させてしまったんだ。重ねている心の傷を私が開いたも同じだと思うほどに、胸へ痛みが突き刺さる。それなのにこの人は、どうして私や蓮くんに優しいのだろう。


ごめんなさいと頭を下げて謝る香穂子に、ヴィルヘルムは驚いて目を見開く。
わしわしとクセのあるブロンドの髪の毛を掻き毟り、頭を上げてくれとすまなそうに微笑みかけた。


「香穂子が謝ることは一つも無いんだ。本当なら俺が気を使わなくちゃいけないのに、心配かけてすまないな。離れた異国の地での出来事には、どうしても敏感に反応してしまうんだ・・・家族や恋人、友人や恩師など大切な人なら余計に。蓮もこの辺りはいつになっても俺を気遣って、周りに神経を尖られてくれている。いつまでたっても強くなれないな」
「ヴィルさんは強いです。辛いことを抱えて大切にしながらも、乗り越えた今があるじゃないですか。悲しみや弱さを知っている人は、強くて優しい心を持っているって思います。私も蓮くんも頑張れたのは、ヴィルさんみたいに支えてくれる人がいたからですよ。私だったらきっと壊れて立ち直れない・・・ヴァイオリン、弾けないと思うから」
「ありがとう、香穂子。だけどまだまだ乗り越えていない、深い森の中を進んでいる最中さ。正直言うと、香穂子が渡欧したり帰国する時も、心臓が潰れそうに緊張するんだぜ。どうして蓮が普通でいられるのか、不思議なくらいだ」


言葉は重いのに、向ける表情はくったくなく明るい笑みを浮かべて、私の気持ちを軽くしようとしてくれているのが分かった。これが学長先生たちに聞かれたくない俺の内緒話さと、横目で視線を送りながら、手の平を添えてこっそり声を潜めてくる。性格は違えども高い技術や家の環境、抱えてきた想いが似ているからこそ、国が違えど分かり合える事があるのだろう。互いに刺激し合い支えられる友人がいる蓮くんが、こんな時ばかりは羨ましいと思った。


「前に進むきっかけを作ってくれたのは、蓮や君だよ。似ている物や共感するものが多くて、君たちに自分を重ねているのかもしれないな。傍で見ていてヤキモキもするし、励ましたくもなる。離れていても競い合い、想いと絆を深め合う君たちが、ずっと手を取り合って一緒にいられる日を見届けるのが、俺の使命だと思っているよ。いや・・・罪滅ぼしかな。勝手なようけど、そうする事で壁を乗り越えられる・・・吹っ切れる。もういいよって、彼女が空から微笑んでくれるような気がするんだ」
「私、ヴィルさんや彼女さんの分まで頑張ります。絶対に負けません!」
「おいおい・・。蓮にも香穂子にも前に言ったと思うけど、俺の幸せは自分で掴むから、香穂子たちは自分たちの事だけを見ていろよな。迷惑だって蓮や香穂子に眉をしかめられても、俺は自分の意思で勝手にお節介しているんだから、これからも止めないぞ」
「はい!」


瞳に滲んだ涙を手の甲でぐいと拭い去ると、精一杯の笑顔で返事をした。

幸せとは、生きることの喜びで心が満たされている状態なのだと思う。
私も幸せを掴みたい・・・蓮くんにも、遙か遠くの空を見つめているヴィルさんにも、みんなにも掴んで欲しいから、その為の努力は惜しまない。幸せの価値は人それぞれだから計ることは出来ないけれども、心が気持ち良いと思わなければ、きっとヴァイオリンも悲しむから。



コンコン・・・楽屋のドアをノックする音が響き、タイミング良く学長先生とヴィルヘルムが同時に返事をした。僅かな空白の後で静かに扉が開かれ、姿を現したのはヴァイオリンを持った月森だった。


「香穂子、来てたのか。待たせてすまなかったな」
「蓮くん・・・」


香穂子だけを捕らえた瞳の驚きは、やがて嬉しさと喜びに変わり、緩む視線を反らせぬまま真っ直ぐテーブルへと向かってゆく。柔らかさの変化は別人のようだと、学長やヴィルヘルムは眉を寄せつつ月森を見ていて、夫人は再会を喜ぶ月森と香穂子を交互に眺めながら頬を綻ばせている。歩み寄っていく足も自然と早くなり、吸い寄せられるように椅子から立ち上がった香穂子も一歩ずつ近づいてゆく。


向き合って見つめ合ったまま、ただじっと見つめ合っていて。
何から伝えようとあれこれ考え苦しい不安は、琥珀の瞳に吸い込まれ、熱く疼く心の炎が静かに焼き消してくれた。