子犬のワルツ・7

せっかく早めにドイツへ来てくれたが、香穂子に内緒の大きな仕事を終えてるまでは、彼女とは一緒に暮らさずに別々の家で生活をする事になった。俺も君も今やるべき事に集中する為にと、彼女は学長先生の家へお世話になっている。周囲が示した条件に最初は辛い選択と思ったが、元はと言えば自分たちが招いた諸々の事だ。それに会いたい時に直ぐ君に会いに行けるし、海を隔てているのではなく同じ街にいるのだから充分に幸せだと思う。

長所に目を向ければきっと嫌な事なんて無くなると、前向きな光りを灯す彼女の瞳と言葉を胸に受け止めた。
お互いだけでなく周りからも支え、支えられながら生きている俺たち。
自分の為に、君の為に、他の誰かの為にもっともっと強くなろうと・・・二人で誓いを交わして。


今では忙しい時間の合間を見つけては俺から会いに訪ねたり、香穂子から会いに来てくれたり待ち合わせをしたりなど・・・まるで高校時代に戻ったような日々だ。

一人の時間が二人の時間をもっと嬉しくしてくれた。寂しかった分、大好きな君と過ごす時間の喜びが大きくなるのだ。その喜びを糧に目標に向けて集中できるし、もっと強くなれるのだから。いつもあれこれと望み欲しがってしまうけれど、一番の幸せは今ここで君と一緒にいられる事だと教えてくれる。





連絡を貰っていた時間ぴったりに呼び鈴が鳴ったから、誰が来るかは分かっていた。玄関扉の覗き穴いっぱいに現われた笑顔に、思わず頬が緩むのを止められない。俺がここから最初に見るのを分かっているのか、カメラ目線のように真っ直ぐ俺を捕らえ瞳で語りかけている。見えてる?との声が聞こえてきそうだ。
逸る気持で扉を開けば「遊びに来ちゃった」と、嬉しさを抑えきれずにはしゃぐ香穂子が佇んでいた。


学長先生夫妻がプレゼントした、籐で編まれた大きめの手提げ鞄を肩にかけているという事は、子犬の散歩も兼ねているのだろう。二人きりになれると思っていたのに・・・と少し気持が挫けるのは、この子犬と俺の相性が今一つ合わないと最近になって知ったからだ。香穂子は俺が猫のようだから犬と猫で合わないのかなと、不思議そうに首を傾げているが、そう簡単な問題ではなさそうだ。
機嫌を損ねる思い当たる節が無いだけに、仲良くして欲しい彼女の希望があっても対処の仕様が無い。

ワンと咆えた犬の甲高い鳴き声に月森が眉を潜めると、苦笑を浮かべる香穂子が鞄の取っ手を片方広げ、すまなそうにそっと中身を差し出し見せてくる。


「えっと〜ごめんね蓮くん、今日はこの子も一緒なんだよ。蓮くんのところなら一緒に連れて行けって、学長先生に言われたの。さっワルツ、こんにちはのご挨拶しようね?」


何故俺の家に行くのなら、子犬も連れて行かなくてはならないのだろうか?
香穂子にはやらた懐いて俺には全くなのを、ヴィルや学長先生だって知っている筈なのに・・・。
また何かの企みだと薄々気づくが、真意の程までは掴めず心に靄がかかるばかりだ。


肩にかけていた手提げ鞄を覗き込むと、予想通りにチワワの子犬がひょっこり頭を覗かせた。
しかし月森の顔を見るなり賑やかに吠え立て、どこか落ち着き無く機嫌の悪い子犬に、半ば呆れ気味の香穂子も困り果てている。どうやらここまで来る道中も大変だったらしい。首輪に付けたリードを引かずに鞄に入れて運んでいるのは、強制連行ともいえる最終手段のようだ。


「蓮くんの家まで何度もこっそり散歩に来た時は、とってもいい子だったんだよ。そりゃ、帰りに疲れて寝ちゃう事もあったけど。なのに今日に限ってはぐずったり拗ねたり、ちっとも動いてくれないの。鞄の中に入れたらやたら暴れるし・・・行きたく無いのかな? でもね、置いてくよって怒ると、ウルウルして泣きそうになるんだよ」
「そうか・・・大変だったな」
「嫌な事ばかりじゃないんだよ。この子のお陰で街に馴染めているのが嬉しいの。ドイツの街には犬を連れた人がたくさんいるでしょう? 私一人だけで歩いているとただの観光客だけど、この子がいるだけで雰囲気が違うんだよ。暮らしている街の人になったみたい」


いつになく甘えん坊で困っちゃうと、頬を膨らましているのは香穂子も子犬も同じで。そんな二人に俺の方が困ってしまう。慣れない環境に戸惑っているのもあるだろうが、恐らく彼も行きたくなかったのだろう。
学長先生の言い付けとはいえ気の毒に・・・と思わずにいられない。俺が訪ねると避けるように庭へ姿を眩ましてしまうから、人間と同じでその辺りは面白いなと思う。


だが・・・蓮くんが暮らすこの街に私も早く馴染みたいのと、そう言って真っ直ぐ見上げる瞳の輝きが俺を射抜いた。光りが伝える熱さと彼女の意思・・・そして想いが俺の中を駆け巡り一つとなって、呼吸と動きを一瞬止める。真摯さの後にふわりと優しい笑みを浮かべると、翼の生えた蝶のように足取り軽く駆け出してゆく。
一歩一歩、自分の意思で前を歩いている君が、俺と同じ場所を目指しているのだと・・・。
勝手知ったる家の中を先にリビングの中へ消えてゆく背を見つめながら、愛しさと眩しさに眼を細めた。


僅かに遅れてリビングへ脚を踏み入れれば、肩にかけていた鞄を床へ下ろし、両手を大きく広げて何度も深呼吸をしていた。美味しい〜と頬を綻ばせながら、部屋の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
何をしているんだと訪ねると、蓮くんを心とお腹一杯に吸い込んでるのと照れもせずに返して来た。

森林浴より気持ち良くて美味しいよと、嬉しそうに微笑む君が鼓動を高鳴らせ熱さを生む。相変わらず君は思いもよらない行動で、ふいに俺を熱く戸惑わせてくれるんだ。


「学長先生のお宅も快適だけど、やっぱり蓮くんのお家が一番だな。蓮くんの香りというか・・・どこにいても蓮くんが感じられるから、抱き締められているみたいでとっても落ち着くの。自分の家に帰って来たみたいだよ」
「お帰り・・・と言うのはもう少し先だけれども、香穂子と一緒にここで過ごすのは久しぶりだな。お世話になっている学長先生のお宅へ、君を帰さなくてはならないのが残念だ」
「蓮くんの家の空気を、丸ごと風船に詰めて持って帰りたいな。それでね私の部屋に解き放つの。いつでも蓮くんの気配を感じていられるし、同じ空間で繋がっているみたいでしょう?」
「ならば俺は、この部屋を香穂子で満たしたい・・・いつでも君の全てを感じていられるように・・・」


身振り手振りで無邪気に笑う香穂子を、手を伸ばせは届く距離で見守りながら、優しい琥珀の瞳で見つめる月森。心の弦に触れた想いが熱さとなり視線が甘く絡むと、伸ばした腕が互いを求めて引寄せ合う。だがそのままゆっくりと顔が近付き唇が重なりかけた所で、二人だけの世界・・・甘い空気を阻むものが現われた。

そう・・・部屋を駆け回っていた子犬が足元で甲高く咆え立てながら、月森と香穂子の間を割るように飛び込んできたのだ。しかも香穂子を背に庇うように、小さな身体で一生懸命背の高い月森を見上げ威嚇しながら。


またか・・・いつも俺が香穂子に触れようとすると、咆えて邪魔をするんだな。


眉を潜めて心の中で呟き、気付かれないように溜息を吐くと、抱き締めていた腕を解いて解放する。蓮くんごめんねと必死に謝る香穂子に気にしないでいいからと、頬を優しく包んで揺らいだ瞳を慰めた。一度や二度じゃないから予想がついていたが・・・こう何度では挫けそうになってしまう。


「もう〜ワルツってば! ここは蓮くんのお家なんだから、大人しくしてなくちゃ駄目でしょう? 仲良くして欲しいのに、どうしていつもいつも意地悪するの? 私の大切な場所なの・・・お願い。言う事聞かないと、もう一緒にお散歩連れて行かないよ」


香穂子は慌てて尚も吠え立てる事を止めない子犬を抱き上げ、床にぺたりと座ると膝に乗せた。顔を両手で鋏みながらメッ!と叱る様子は真剣なのだが、隣に腰を下ろして見守る俺にはそんな君も可愛らしい。
言葉の一つ一つ真っ直ぐな告白に聞こえてしまい、次第に熱さを感じる俺の顔。
きっと赤くなっているだろうから・・・見られないように口元を手で覆い隠して視線を反らした。


膝に乗った途端に態度を変えて大人しくなってしまい、嬉しそうに尻尾を振りご機嫌なのが、犬に馴染みの無い俺にでも分かる。犬と言うより甘えて擦り寄る子猫のようだ。彼女の膝は柔らかくて温かく心地が良いから、甘えたくなる気持も分かる。だが・・・あからさまに激しい独占欲は子犬と言えども面白く無いのは確かだ。
もしかしてと、嫌な予感が脳裏を掠めた。


「香穂子・・・そのチワワの子犬は、ひょっとしてオスなのか?」
「うん! 蓮くん凄い〜良く分かったね、その通り。ワルツは男の子なの、元気一杯でしょう? 将来は蓮くんみたく素敵で優しい紳士になろうねって、いつも話しかけているんだよ」


力いっぱい頷いた香穂子は、ねーっ?と小首を傾げて子犬へ相槌を求めるように、膝の上にある小さな頭を撫でながら子犬と戯れている。溢れる溜息を押さえ切れなかった俺に「女の子なら良かったの?」と、きょとんと不思議そうに見上げてきた。いや、そういう問題じゃないんだが・・・。

俺のようにとの気持は嬉しいが、子犬にとっては迷惑かもしれないな。
香穂子の事が大好きなその子犬に、俺がどれ程好きなのかと言い聞かせているようなものだから・・・。
照れ臭さに込み上げる熱さを頬に感じながらも、懐かない原因の一つはそれじゃないかとは、さすがに言い出せなかった。


今は膝の上で大人しくなっているが、俺が下手に手を出したら噛み付かれてしまいそうだ。あからさまに馴染む様子が見られず、必死に吠え立てる姿には警戒心というより敵意が剥き出しにさえ思うのは・・・なるほど。大好きな香穂子を守る為に、子犬にとって俺は最大のライバルだったと言う訳か。
香穂子にとって俺が大切な存在だと、ちゃんと理解しているらしい。


俺の代りに生活を共にし、側にいられる子犬が羨ましいのは正直な気持だ。
話を聞けば一緒に遊んだり食事をしたり、あまつさえ同じベットで眠っているという。心地良さそうに膝の上で丸くなり、パタパタと尻尾を俺に向けて振っている仕草や小さな見かけは愛らしいが・・・。
どうだ?と俺に対して挑戦的に見えるのは、気のせいだろうか。


子犬相手にムキになっても大人気ないが、誰であろうと香穂子は譲らない。これは一刻も早く、学長先生の家に身を寄せる彼女を迎えに行かなければいけないなと、心の中で誓いを新たにした。
子犬がいる限り、近付けば邪魔をされて触れる事も出来ないのだ。彼なりの焼もちもあるだろうが、俺たちのお目付け役という意味もあるのだろう・・・香穂子は気づいていないようだが。

俺の所に行くのなら子犬も連れて行けと言った学長先生に、しっかり行動を読まれているようで照れ臭くなる。
状況を打破するにはどうしたものかと腕を組みながら考え込んでいると、笑顔を曇らせた香穂子が心配そうに伺ってきた。黙ってしまった俺に具合悪いの?と額へ手を伸ばしかけるが、まさか拗ねているとは言えず。
やんわり手を握って留めると、緩めた瞳で微笑みを返した。


「心配かけすまない、具合は平気だから。その・・・少し考え事をしていたんだ」
「蓮くん、さっきから難しそうな顔してどうしたの? 眉間に皺寄せたら取れなくなっちゃうよ」
「・・・俺も香穂子の膝が欲しいと思ったんだ。せっかく二人きりになれたのに、まだ君に触れていない」
「やだもう〜恥ずかしいんだから・・・蓮くんには後でたっぷり・・・ね? あっ、ひょっとして子犬に焼もちやいてるでしょう〜ふふっ、可愛い。赤ちゃんが生まれても、そうやって焼もち焼く蓮くんが目に浮かぶな〜」
「なっ・・・!赤ちゃん!?」


赤ちゃんって・・・それはさすがにまだ早いだろう、何を言っているんだ君は!
無防備なところへいきなり爆弾を投げ込まれ、一気に熱さと勘違いが爆発した。火を噴出しそうな熱さの中で、鼓動が耳から聞こてくる。俺は呼吸をするのもやっとだと言うのに・・・激しい動揺で固まる俺を彼女は一向に気にした様子も無い。それはそれで有難いが・・・予想は当たるだろうと未来の自分が見えるようだ。


「あっ! ねぇねぇ蓮くん、大人しくなったと思ったらワルツが寝てるよ!」


静かになったと思ったら、背中を撫でてあやしているうちに子犬がすっかり眠ってしまったらしい。籐で編まれた大き目のバスケットの中へ起こさないようにそっと子犬を入れると、お休みと穏やかに微笑み無邪気に眠る頭を優しく撫でた。覗き込む俺に静かにねとそう言うと、人差し指を当てながら、しーっと顔を寄せてくる。
寄せられる唇と、甘くくすぐる吐息に吸い寄せられそうだ。


「眠っていれば、縫いぐるみみたいに可愛いのにね。騒いだ後には疲れちゃうから、暫く起きないと思うよ」
「やっと大人しくなったな・・・では今のうちに。ようやく君に触れられる」
「・・・うん」


膝の上で両手をきゅっと握り締めて、恥ずかしそうに俯く香穂子の頬が唇と同じく桜色に染まっている。
どんな時もずっと心の中に咲いている、君はここにしか咲かない花なんだ・・・俺だけの。
膝を詰めて擦り寄り緩めた瞳で微笑むと、上目遣いにはにかんだ笑みを向ける君。大切にそっと腕の中に閉じ込め、重なった胸から服越しに伝わる互いの体温を感じ合う。心地良く早駆けする鼓動は、これからに高まる期待と想いの証・・・。


「蓮くん、温かい・・・凄く気持ちよくてふわふわ浮き上がっちゃいそうなの」
「では君が飛んでいかないように、しっかり捕まえているから。香穂子も温かいな、固まった心の中が柔らかく融けてくる」


今まではお世話になっている学長先生の家だったり外だったり、どこにでも人の目がっあたから、二人っきりになれるのは久しぶりだ。欲しいと願っていた温もりと柔らかさが、この腕の中にある・・・君をこの腕に抱き締められるのは、どれ程ぶりだろうか。遅くならないうちに帰さなければと分かっているのに、抱いてしまったこの腕は君を離せそうも無い。


見上げる瞳が静かに閉じられたのを合図に、覆い被さるようにゆっくり唇を重ねてゆく。
久しぶりにのキスは柔らかく熱く、蕩けてしまいそうで・・・軽く触れ合わせたものの、息継ぎをすると更に深く重ね求めてしまう。どちらともなく求め深く掻き抱き閉じ込めながら、唇で鋏むように甘く噛み舌を絡め、呼吸を奪うキスを何度も交わして。僅かな息継ぎの合間に、熱い吐息で囁いた。


「今夜は、泊まっていかないか? 君を・・・帰したくないんだ」
「・・・さっきは私を帰すって言ってたのに・・・んっ・・・。学長先生のお家に帰らなくちゃ・・・約束したじゃない」
「考えが変わった、怒られるなら俺も一緒だ」
「駄目だよ・・・っ。着替えも持ってきてないし、ワルツがいるもの・・・。私と子犬二人もいなくなったら・・・きっと心配する・・・」
「・・・香穂子は、このまま帰りたいのか?」
「・・・・・蓮くんの意地悪。帰りたくないよ・・・んっ・・・私だって一緒に・・・いたいもん・・・」


駄目だと引き離すように俺の胸を押しのけようとするが、力で敵うはずも無く難なく封じてしまう。
背に縋りつく指先の強ささえも懐かしく、身体と想いに刻まれた記憶が鮮やかに蘇る・・・。
一日も早く君を取り戻そう・・・このひと時と満たされる感覚を、永遠のものにしたいと願いながら。




* * * * 




月森が通う音楽大学の学長・・・香穂子が身を寄せているケストナー家ではその夜、老夫婦二人だけの夕食となった。

食後はコーヒーを飲みながら、ゆったりとした時間に身を任せるひと時。ダイニングテーブルの上にさり気なく生けられた花と、温もりと感じさせる陶器のカップが気持を穏やかにしてくれる。

だがどこか物足りなさを感じるのは、いつもは香穂子が座っている斜め向かいの席が不在を示しているからだろうか。夕食も済んだ遅い時間だと言うのに、そういえば一緒に散歩へ出ていたチワワの子犬の姿も見当たらない。席を眺め部屋をぐるりと見渡した学長は、傍らでコーヒーを注ぐ婦人を振り仰ぎ不思議そうに訪ねた。


『カホコは遅いのう、まだ帰ってこないのか?』
『今日はレンさんのお家に泊まると、先ほどお二人から連絡がありましたわ。急に具合が悪くなってしまったそうで、一晩あちらで休むそうですよ。明日レンさんが送り届けてくれるから、心配しないでと言ってました。カホコさんをお預かりします、学長先生に宜しくお伝え下さいとの伝言ですわ』
『年頃の娘が外泊とは感心せんのう〜一体何の具合が悪いやら・・・。だからワルツを連れて行けと言ったんじゃが、あまり意味はなかったのう。レンも堪え性が無いヤツじゃ』
『カホコさんにとっては、あちらが本当のお家みたいなものですから、久々に羽根を伸ばせてゆっくり出来たのでしょう。一緒にいられるのは貴重なひと時ですから、二人を責めないでやって下さいな』
『・・・うむぅ。毎回は困るが、たまには大目に見てやるかのう。レンもカホコも納得済みとはいえ、一緒にいられるのをあえて引き離しているのはワシらじゃし。じゃが後でレンのレッスンを、厳しくしてやらねばいかんな』
『カホコさんが心配であなたが寂しい気持も分かりますが、八つ当たりはいけませんよ。ふふっ・・・すっかり娘を持つ父親のようですわね』


皺の刻まれた額に難しそうに眉を寄せて考え込む学長を、婦人がくすくすと穏やかに笑って宥めている。
どうぞとカップをソーサーごと手前に差し出せば、深い入れたての香りが漂い、黒い湖面が静かに揺れて波を描く。ありがとうとそう婦人に微笑んでカップの取っ手を持ち上げれば、カチャリと鳴る食器の音がやけに大きく響き、広い空間へと吸い込まれてゆく。テーブルを回り席へ座った婦人も、陶器が奏でる音に僅かに目を見開き、カップを手に包みながら寂しさを覗かせる笑みを浮かべた。


『静かじゃな・・・』
『えぇ・・・。いつもはカホコさんの笑顔と、ワルツの元気な鳴き声がありますからね』
『昔に戻っただけなのに、こんなに静かじゃったかのう? 賑やかさが当たり前になっておったから、静けさと寂しさが余計に身に染みるわい。カホコが帰ってしまえば、いつかは来ると分かっていても、辛いものじゃのう』
『今夜はお花を変えてみましたの、赤やピンクのお花や色合いが、カホコさんみたいで可愛らしいでしょう? それに差し色に青が加わると、不思議とお花が生き生きするんです。ですから・・・二人はきっと大丈夫ですよ』


花と食器、人との調和・・・テーブルはその人や気持を映し出す鏡だと言われている。
朝や昼は涼しげなものだったが、夕食のテーブルを彩るのは、温かな色合いでまとめられた暖色系の花たちに変わっていた。花を愛する人は植物の持つ力を知っている。そこに一輪でも花があるだけで呼吸が安らぎ、疲れが癒え、活力が湧いてくるから。


花を月森と香穂子に例えてふわりと優しく微笑みかける婦人に、もちろん信じておるぞと学長も笑みを見せて、コーヒーの注がれたカップを口元へ運んだ。



一杯のお茶にも丁寧な気持を持つこと、美味しい時間に感謝する事。
離れた場所であったとしても、今日のテーブルを囲む皆がどうか幸せでありますようにと。