花びらを紡ぐように・1

街の中心にある大きな公園の川岸で演奏している時に出会った人物の縁で、俺はCDを出すことになった。
コンクールではなく素のままの温かく自由な音が好きだと言ってくれた、休日にはいつも欠かさず演奏を聴きに来てくれた男性は、俺も名を知っているドイツの有名レーベルの担当者だったのだ。
香穂子と街中で演奏していたあの頃のように、自由な空の下で楽しめたら自分が変われるだろうか・・・君に近づけるだろうかと。そして海の向こうにいる君に届けばいいと願いながら奏でていた偶然か必然か。
女神が微笑み訪れた幸運・・・まさに手に掴んだチャンスは、香穂子がくれたと言っても良いだろう。


演奏するのは一人でも、それを広く世界に届けるには、決して一人では出来ない作業だ。
ヴァイオリニストでありながら、ピアノ伴奏や二重奏の相手を引き受けてくれたヴィルヘルム。
そして協力してくれる恩師や学長先生たち・・・。
いろいろなプロフェッショナルが集まり、一つの作品や舞台を作り上げる一員として、俺は責任を果たしたい。
彼らとならきっと最高の物が作り出せる筈だ、俺の音楽と想いの全てを大切な君に届ける為に・・・・。


だが理想と現実の差は思った以上に大きく、高見を目指すほど見えない壁は更に高く聳えていた。





CDに納める曲は小品が中心となり、大切な香穂子と出会いから今までを語るもの。コンクールの第一セレクションから最終セレクションまで、俺と君がそれぞれ演奏した曲が合計八曲。そして一緒に音色を重ねた曲が数曲入り、想いを届けてくれた愛の挨拶、最後に俺が君への想いを込めて書いた世界にただ一つだけの曲・・・。
独奏曲はほぼ収録し終えており、残す歯二重奏と一番最後に納める俺の曲のみとなっていた。


だが些細な事から香穂子と電話越しで喧嘩をしたり、突然彼女がドイツへやってきた関係で行方が知れないと探し回ったり・・・。心の乱れが演奏に響き、上手くいかず何度も録り直す作業が続いていた。
スタッフやヴィルが万全なコンディションに戻るまで休みを取ろうと、焦る俺にそう提案した彼らの意見を受け入れたものの、途中で予定外の休止が入ってしまった間に、レーベルのスタッフたちも夏休みに入ってしまったのだ。


香穂子が夏休みを利用してやってきているように、俺の音楽大学も夏セメスターが終わり、秋から始まる冬セメスターまで長い夏期休業に入っている。俺たちだけでなく世間一般でも夏のバカンスの時期に当たっており、クリスマスの次に楽しみにしている季節の到来だ。いつもは賑やかな街中も閉まっている店があったり、人の姿もどこかひっそりした印象を受けるのは、きっと太陽を求めて出かけているからだろうか。

日本での休暇な二〜三日といったところだろうが、多くのドイツ人にとってバカンスとは日常のストレスから解放されてリラックスする為の物。多くが海外へ、しかも一カ所に二〜三週間滞在するものが圧倒的に多い。


一つ何かあると次々に事態は膨らんでゆくものらしい。ほんの数日間のつもりが、思わぬところで長期の休暇になってしまった。完成しなければ香穂子を家に呼び戻して一緒に夏休みも過ごせない・・・無事に見つかり、同じ街に滞在している今となっては一刻も早く形にしたいのだが・・・。


初めは肩を落とし途方に暮れたが、考え方を変えれば欠点も長所になる。自分自信や音楽に向き合う時間が出来たのだし、今までうやむやにしてきた大切な事に気づくチャンスが出来たのだから。
この期間を無駄にはせずに弾き込んで、より完成度の高い作品で望みたい。

ヴィルヘルムの提案で彼の家を練習場所に使うことになったのだが、フローリングの広い部屋はホールのように音響も良く、音楽大学の練習室よりも簡易だがスタジオ並に録音の設備まで整っている。家柄や環境の違いだと思うが、外見は郊外に佇む古城のようなこの家のどこに、こんな部屋があったのかと・・・訪れる度に驚かずにはいられない。


だがヴィル自身はこの部屋を使う機会はなく、主に両親や兄たちが使っているのだという。
俺は大学の練習室でも充分だからと笑う心の中で、彼なりの葛藤や考えもあるのかも知れないな。





音の重なりも響きもバランスも技術も・・・全てが申し分ない筈なのに。二つのヴァイオリンの音色が止み、弓と楽器が下ろされても、月森はどこか納得いかない様子で眉を寄せながら楽譜を見つめていた。
求めている物と違う・・・足りない物がある、どうしたら近づけるのだろうかと。


ヴィルヘルムがヴァイオリンを肩から下ろすと、そんな月森に何か言おうと口を開きかけたが、ハッと気づいて壁際にあるオーディーオ機材の棚へと足早に向かってゆく。ボタンを操作して録音を止め、小さな音を出して中身を確認すると再び月森の元へと戻ってきた。うかつにくしゃみも出来ないよなと、息を潜めていた緊張感から解き放たれたようにすがすがしい笑顔でを見せながら。しかし表情を緩めず難しい顔をしたままの月森に、行き場の無くなった空回りな笑みを、コホンと咳払いをして納めてしまう。


『もう一度、最初から合わせてもらって良いだろうか?』
『あぁいいよ、レンが納得いくまで付き合うから。レンが主旋律で俺が裏でって事は変えられないけど、そうだな。少しバランスを変えてみるかい? いっそ押さえている互いの個性を、ドカーンと解放してぶつかり合うってのは』
『・・・・・・それでは違うんだ』
『だろうな、レンが求めているのが何なのか分かるよ。だけど俺が奏でるのは、あくまでも俺の音楽だから』
『香穂子の代わりにはなれないと、そう言いたいんだろう?』
『理想を再現しようとする気持ちは分かるけど、新しいものとして割り切り作り出すかどうかじゃないのか。例えば俺の音色にレンが描いているものを重ねたら・・・心の中では重なるだろうが、実際には俺を見ていないから二重にぶれるに決まっている。音色や技術の問題でなく心がね、アンサンブルってそういうもんだろう?』


何度やっても同じだと思うけどねと、そう肩を竦めるヴィルに痛いところを突かれ、思わず返す言葉に詰まってしまった。そうだな・・・とだけ力なく呟く俺に、攻めている訳じゃないからと言うけれど、彼のいう事は間違ってはいない。遠くの理想を求める余りに足下の視界が全く見えていなかった・・・俺らしくないなと。心に沸く苦しさにただ唇を噛みしめ、眉を寄せて耐えるしかない。


演奏中は邪魔になるからと、譜面代の後方に避けてあった椅子をヴィルが手前に引き寄せた。レンも座れよと俺に声をかけて腰を下ろし、譜面をパラパラと捲りつつペンで所々に書き込みをしている。
ずっと立ちっぱなしだった事に気づいて腰を下ろすと、重力が一気にのし掛かったような疲労感に襲われた。
緊張が解けたのか想像以上に疲労したのか、一度座ってしまったら、再び立ち上がる事が出来るかどうか・・・。


『俺もカホコの演奏は何度か聴いているし、君たちの二重奏も耳にしているから、どういうものが理想なのかイメージはつく。雰囲気や曲調は似せることが出来ても、俺じゃしょせんは偽物だ。他の人にとってはレンとヴィルヘルム・フランツの二重奏でも、レンにとっては違うんだろう?』
『我が儘を言って、すまない・・・・・・。だが、妥協はしたくないんだ』
『そういう我が儘なら大歓迎さ。今は録音技術も進歩しているから、ライブの音源をその場で聞いているように再現する事もできるし、一人で二人分の演奏だって出来るんだぜ』
『・・・・・・俺だって香穂子にはなれない。それに、一人で別取りしたら合奏じゃなくなってしまうだろう』
『レンが無理なら、俺にはもっと無理だね。少し休憩にしようか、気分転換に心の空気を入れ換えれば、違った物が見えてくるかも知れないし。・・・と言いたいところだけど、あちゃー、もうこんな時間か。すっかり遅くなっちゃったな』


前髪を書き上げつつヴィルが、今日はこれ以上の音出しは無理だなとそう言って窓辺に歩み寄り、籠もった空気を入れ替える為に窓を大きく開け放った。時計を見れば夜の10時を過ぎており、いつのまにこんな遅い時間になっていたのだろうかと、時間の感覚さえも無くなっていた事に気づく。そういえば食事を取ったのも、随分遠い記憶のような気がする。

日中は30℃を超す強い日差しと熱さだったが、改めて部屋の中を見渡せば窓の外はすっかり闇に包まれ、ひんやりとした夜風が吹き始めていた。


『レン、今日は泊まっていくかい。明日もまた、朝から練習をするんだろう? 部屋は余るほどあるから好きなところを使ってくれ。ただしこのスタジオで寝るのだけは止めてくれよな、ちゃんとベッドに潜ってしっかり休むこと。レンが風邪でも引いたら、すぐにカホコへ言いつけてやる』
『すまない、ではそうさせてもらう。少し録音した演奏を聴き直したいんだが、もう少しここを使わせてもらってもいいだろうか?』
『あぁもちろんだとも。じゃぁ俺は先に部屋へ戻るから、最後の戸締まりはよろしく頼むよ。根を詰めたい気持ちも分かるけど、休息も取らないと良い音楽は出来ないぜ』


小さな気合いと共に椅子から立ち上がったヴィルは、ふわりと浮かべた笑みでポンと俺の肩を叩くと、ヴァイオリンを片付け始める。空け放った窓を閉めつつ部屋から出て行く肩越しに振り返り、「お休み、また明日」と声をかけた背を見送ると、扉の閉まる音が静けさの中で大きく響き渡った。



俺も早めに休まないといけないな、その前に少しだけ。
そう思って立ち上がった椅子にヴァイオリンを静かに置き、壁際のオーディオ機材へと歩み寄った。
これまで取り貯めたディスクは十数枚にも及んでいて、今日の朝からの分を探し出して再生ボタンを操作した。
防音になっている部屋だが念の為、夜中なのを考慮して音のボリュームは少し抑えめに。

やがて痛い程張り詰めた静けさ中に、二つのヴァイオリンの音色が響き始めた。
機材の側にあった椅子に座って、譜面を見ながら自分たちが演奏した曲に耳を傾ける。




俺の音に対して、ヴィルの音はかなり個性を押さえているものの、性格を表すように華やかで力強さに溢れいる。
それでいてしっかり支える広い存在感と、細やかな気配りなどを醸し出して。
全く違う二つの音色が重なり合っているのだが、パズルの大切な最後の一欠片が埋まらない物足りなさを感じるのは、やはり俺の我が儘なのだろうか。

これが香穂子の音色だったら・・・俺と彼女音色だったらどう聞こえるのだろうかと、そんな考えばかりが脳裏に浮かぶのを止められなかった。俺の音とどんな風に重なるのだろうか、奏でながら心で感じる物と同じだろうか?

自分たちの演奏を聞いてみたい願望は、多少なりともあるのは確かだ。演奏する立場では同時に聞くことが出来ないし、演奏した立場の感動と第三者として聞いたら、足りない何かに築けるかもしれないから。
俺が満足しなれば、きっと贈り物をもらった君も、心の底から喜んでくれないと思うから妥協はしたくない。


他人の癖や雰囲気は見えるけれども、自分のそうした事は案外棚に上げてしまっている事が多い。
生活の状況は常に巻き戻して見直す事は出来ないが、演奏の場合にはそれを録音し、あたかも別人になって聞き直す事ができる。自分の音を客観的に聞くのはかなり照れ臭さと苦しさが同時に込み上げるが、耐えなければ上へは望めない。しかし時間が経ってくると、冷静に聞けてくるから不思議だ。


どんなに技術が発達しても、生の演奏には叶わないと思う。
それは耳に残る響きや迫力だけでなく、心へ届く物の違い・・・いろいろあるけれど。
直接耳で聞いて、この目で見て、心で感じて・・・五感のすね手が一つに重なった時に生まれる物が「感動」なのだと思うから。それは聴衆だけでなく、奏者としても同じだ。



あれも駄目これも駄目と、悩んでばかりで否定的なままでは不幸な場所になってしまう気がする。
音楽は楽しいものなんだろう?と、心に問いかけてきた笑顔の香穂子にそう微笑みを向けて。
もしも不満なら、まず自分のあり方を変えなければいけないな。でもどうやって・・・?


演奏に手を加えなくてはならないのか、それとも俺たち自身を変化させなければならないのか。
しかし音はは心の表れだから、二つを切り離して考える事はできない。行動や表情や言葉、温かさを感じる笑顔など、心にイメージした歌のお陰で弓は独りでに想いを奏でてくれるのだから。


弓が弦を滑り、一つ音を奏でると重なり聞こえてくるのは香穂子の音色。
努力によって磨かれた今の音色だけでなく、まだ荒削りだったけれど、惹かれずにいられなかった出会った頃の音色まで。真っ直ぐで輝きを放ち、すとんと心に染み渡る音の欠片たちは、彼女そのものの優しさと穏やかさをもたらしてくれた。本当にヴィルの音を聞いていたのかと問われれば、はっきり答えきれない自分がもどかしい。

一人で演奏した時には味合わなかった見えない壁は高く遠く、これが一人で歩む道と二人で共に歩む道の違いなのだと思う。だがこれを越えなければ、香穂子と共に歩む未来はありえない。共に築く苦労がある分だけ、重なり完成した喜びと幸せは大きいのだと、この想いごと届けたいのに。


俺が届けたかったのは完成された曲以上に、彼女との思い出の一ページだから。
心の中に刻まれたアルバムを、一ページ一ページ開くように。
奏でる音色は二人で過ごした大切な時を、花びら一枚一枚重ねるように・・・この先の未来へ幸せを願って。


香穂子と俺の音色が重なり、生まれた音色は世界でたった一つだけの新しいもの。
どうすれば香穂子に内緒で、同じ物が作れるのだろうか・・・。
分かっていた通り、やはり彼女とで無ければ駄目なのか。




スピーから流れる俺とヴィルが奏でた音色と、心の中で重なる香穂子の音色・・・3つのヴァイオリン。
理想と現実の差を見せつけるよう意識をかき乱し、閉じた瞳と耳の中で木霊する。
渦に飲み込まれないように頭を振って意識を引き戻しながら、膝の上に組んだ両手を強く握りしめた。