子犬のワルツ・6

来客用と思われる白磁のコーヒーカップに注がれた黒い湖面には、差し込んだ光りが鏡のように映していて。窓辺の小さなテーブルに漂う、入れたてのコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込めば、窓の外に広がる溢れる緑のように心が満ちてくる。

談話室に流れるゆったりとした時間がどこかホッと安らげるのは、歴史を見てきたアンティーク家具や本たちだけでなく、所々に織り交ぜられた新しいものが新旧気取りなく融合しているからだろうなと思う。この場に身を浸すたびに、音楽にも自分にも新しい息吹を吹き込もう・・・そう教えてくれる家主の心遣いが感じられるんだ。




手に持ったカップの取っ手をゆるりと回して光りを溶け込ませると、香りと一緒に口元へ運んだ。隣で熱心に楽譜を眺めるカホコは、嬉しさと興奮を抑えきれずに目を輝かせていて、読み進めながら次第に頬が紅潮していく。真面目で不器用なくらい真っ直ぐで、熱い情熱を押さえ切れない手書きの筆跡は誰のものか・・・。
一目見て目を見開き飛びついた彼女を見ると、どうやら答えは分かっているみたいだ。


譜読みをしているのに幸せそうに笑みを浮かべて、時折口ずさみつつ譜面に向かい合う姿は、まるで恋文を読んでいるようにも見える。今は心の中で、レンとヴァイオリンの音色を重ねているんだろうな。


ある程度は予想していたけど、まさかこれほど喜んでくれるとは思っても見なくて。ここが学長先生の家の談話室なも意識の片隅から消えているらしく、俺が口を挟む隙間も無い。俺はここにいてもいいのかなと、そんな落ち着かなさまで込み上げるけれど、いや・・・君たち二人を引き離したバツだと思って耐えよう・・・うん。

しかし、レンが君の元へいつやってくるとも限らないんだ。
お願いだから、そろそろ戻ってきてくれないかい?



心の中で苦笑しつつ呼びかけて見守ると、やがて最後の一枚を読み終えたカホコが、大切そうに楽譜を胸に抱き締めた。感じた音色を閉じ込めるように瞳を閉じて深呼吸すると、ありがとうございますとそう向けられる満ち足りた笑顔。レンが重なろうとしている音色の相手はカホコだと、俺が譜読みをしても弾いても照れ臭い程に分かる真っ直ぐな想いが、しっかり伝わったみたいだな。


「アヴェマリア、カンタービレ・・・他にも懐かしいな〜この曲たち。私と蓮くんが高校の時に、良く一緒に合奏した曲なんです・・・まだ片想いだった頃からお付き合いしてからも。これ、蓮くんが二重奏に書き下ろしてくれたんですよね、筆跡で直ぐに判りました」
「なるほど、二人の思い出の曲って訳か。レンもそう言っていたよ、大切な曲たちだと・・・」
「本当ですか、嬉しいな〜。譜面を見ているだけも、ヴァイオリンの音が聞こえてきてあの時の感じが蘇ってくるんです。蓮くんの声や微笑まで見えてきそう」
「一目でレンが書いた譜面だと分かるのはさすがだね。まるでラブレターを読んでいるみたいだったよ」
「えっ・・・そ、そんなに緩んでました? やだっ、恥ずかしい! 蓮くんがいたら、もっと見せられないです・・・」


すると途端に慌て出し、真っ赤に染めた頬を両手で押さえて視線を反らすと、熱さを覚ますようにピタピタと軽く叩いた。レンが見たら喜ぶと思うんだけどな〜と、眉を潜め首を傾けつつそう言う俺に言葉を詰まらせ、火を噴出さんばかりに益々顔の赤みを増してしまう。冷静さを装おうとテーブルの上に置いた楽譜の束を手に取り、その場を誤魔化すようにトントンと揃え出して・・・この辺りの反応はレンも君も同じだから、密かに楽しかったりするんだ。

トントン・・・とテーブルに跳ねる硬くて少し早い音は、彼女の鼓動の音なのだろう。話を反らしたくて必死なカホコは、音を立てて譜面を置きコホンと咳払いを一つすると身体を向け、ニマリと頬を緩める俺を拗ねたように振り仰いだ。おっと、これ以上彼女を怒らせたらせっかくの計画が台無しだし、レンからも怒られてしまう。


「そうだ、ヴィルさん。さっき言ってた、蓮くんに内緒の秘密の企み事って何ですか? 蓮くんにプレゼントを贈るって言ってましたけど、誕生日はもう終っちゃったし、クリスマスにも早すぎですよ?」
「もっと凄いとびっきりのサプライズさ。これはある舞台の為に俺とレンで作っていた二重奏たちなんだけど、頼みと言うのは簡単な事さ。その楽曲を全部君に弾いて欲しいんだよ、俺の代わりにね」
「へっ!?」


きょとんと目を丸くしたカホコは、自分に言い聞かせるように数度言葉を反芻し始める。やがて事態を察したのか驚きに大きく目を見開くと、立ち上がりざまにバンとテーブルを両手で叩き身を乗り出した。


「えーっ! だっ・・・駄目です、そんな今年しちゃ絶対駄目ですよ! 余計な事したら、蓮くんが怒ります。音楽には誰よりも真剣な人だから、私・・・邪魔をしたくはないんです。蓮くんやヴィルさんには、まだまだ追いつかないのに、足引っ張る所じゃすまないですよ」
「ちょっと事情があって、レンのピアノ伴奏をやっているんだけど。さすがに二重奏ばかりはカホコとやりたかったんじゃないのかなって思うんだ。音は正直だ、ヴァイオリンの音色を聴けば分かる。君たちにとって思い出の曲なら尚更だ。本来奏でられるべき奏者によってこそ、曲の命が輝くと、そう思わないかい?」


楽譜の音色が・・・レンの言葉が誰に真っ直ぐ向かっているか、君には分かるだろう?
受け止め返して欲しいと願っているから、密かな願いをかなえてやりたい。未来への扉を開ける大きな舞台の成功を祈って、君のヴァイオリンと笑顔がレンへのプレゼントだ・・・レンだけでなく君にとってもね。
それは、きっと新しい可能性を生み出してくれる。
俺は君たちが作る音楽が周りの人を幸せにするのを知っているから---------。


優しく諭すように降り注ぐヴィルの言葉を受け止める香穂子は、ハッとしたように息を飲み静かに椅子へ座る。僅かに俯き、心を固めるように膝の上で両手をぎゅっと握り締めた。ゆっくり振り仰いだ瞳にひたむきな光りが宿りつつも、まだ戸惑いを隠せない揺らめきが宿っている。差し込む光りに溶け込んでいたヴィルヘルムのクセのあるブロンドの髪に、一瞬眩しそうに目を細めた。窓辺の日差しや空のように温かく注ぐブルーグリーンの瞳に、香穂子の緊張した頬に柔らかさが戻ってゆく。


「早くドイツに来たのは良いけれど、ただ何もせずに待っているのは物足りないって思ってました。頑張る目標が欲しいなって。私も蓮くんの為に何かしたい・・・でも、私で良いんですか?」
「レンの相手は君しかいない。こればかりは、技術云々じゃ一言で言い切れないからなぁ。曲に思いや感情を乗せて重ね合わせるからこそ、何倍もの大きさとなって心に届く。俺にはただの二重奏でも、カホコにとっては違うだろう? 譜読みをしている姿が教えてくれた。人の心を動かすその力は、何にも変えがたい尊いものだと俺は思うよ」
「で、でも・・・・蓮くんに迷惑がかかったらどうしよう」
「なーに心配はいらない、本番でやれとは言わないよ。肝心なところは俺がちゃんとフォローするから。レンだって“秘密だ”の一点張りでカホコに内緒の大きなプレゼントを用意しているみたいだし。だったらカホコからも用意して、お互い贈り合うってのも素敵じゃないかい?」


本番に影響が無いならとそう納得してくれたカホコが、空になっていたカップに気づき、ポットからお変わりのコーヒーを注いでくれた。ありがとうと一緒に宜しく頼むよと言えば、自分のカップに注ぎ終わった後で、どこか不思議そうに・・・困ったように微笑んだ。


「ヴィルさん、私の事怒っているんだと思ってました」
「どうして?」
「ヴァイオリンを平常心で弾けないくらいに、蓮くんを心配させちゃったから。それは一時であったとしても、私が彼の音楽を傷付けた事になる・・・。ヴィルさんも蓮くんと同じくらい音楽に厳しいし、蓮くんを大切に思ってくれるのが分かるんです・・・嬉しくて。だから、ごめんなさい・・・」
「俺にはレンもカホコも二人揃って大事だよ。喧嘩は両成敗だって、日本の時代劇映画で見たことあるぞ。カホコだって辛かったんだろう? 自分の感情を許してあげたらどうだい? 良いとか悪いとか、自分で決め付けて心を窮屈にしてしまわずにね」
「許せるものと許せないものがあります。私、思いついたら後の事考えないで真っ直ぐ行動しちゃうんです。蓮くんは香穂子らしいなって微笑んでくれますけど、内心いつもひやひやしていると思う」


確かに・・・俺でさえ驚かされるのだから、レンは毎日一瞬たりとも目が離せないんだろうなと思う。結果は良くても自由奔放で大きな翼のある彼女は、いつ何処へ飛び出すか分からない。けれどもそれが彼にとっても何よりも楽しくて、生き生きさせているに違いないんだ。大丈夫、心配しているほど心配したことは起こらないもんさ。心配の数と、実際にそれが起こった数を比べてご覧?


注いでもらったコーヒーを一口すすり、ふわりと湧き上がる温かさに押されれてカップをソーサーにカチャリと戻す。曇りかけた瞳を覗き込み、自分を責めないで・・・元気を出してと導くように笑顔で語りかけた。


「生きていう上で失敗なんか無い。全ての出来事は、次に繋がるかけがえの無い経験じゃないかな。その時点では失敗に思えても、本当の意味では失敗なんて無いんだ。俺はそう思うよ。後はカホコ自身が決める事」


答えはいつもそこに、君たちの心の中にある。
迷っていても悩んでいても、もう答えは出ている筈なんだ。後は決断できる時を待つだけ。
戸惑いを隠せない揺れる瞳を穏やかに見守り、心が固まるのを待った。
やがて波が収まった静かに透き通る湖面に、輝く光が生まれる・・・よし、きっと大丈夫だ。


「俺の秘密の企み事に、協力してくれるかい?」


生まれ出た光りが瞬く間に広がり迷いの雲を吹き去って、浮かんだ晴れやかな笑顔が力いっぱい頷いた。


「はい!宜しくお願いします。二人で蓮くんをビックリさせてあげましょうね」
「そうこなくっちゃ〜。俺はコピーをもっているから、じゃぁこの楽譜はカホコに渡しておこう。大切に使ってくれよな。学長先生は事情をご存知だから、レッスンの時にでも見てもらうと良いよ。喜んで食い付くだろうから」


たまには好奇心旺盛なジイサマに刺激を与えておかないと、向こうから堪えきれずにあれこれ突付いてくるんだ。それは困るだろう?  悪戯っぽくにやりと笑みを見せると、そうですねあの学長先生なら・・・と可笑しそうクスクスと笑い声を零す。楽譜を取ろうと手を伸ばしざまにふと思いついたのか、ポンと手を叩くと不思議そうに首を捻った。


「ねぇヴィルさん、ところで蓮くんの大切な舞台って何ですか? 演奏会? 秘密って言われてて何にも知らないんです」
「すまない、それは俺からもカホコには内緒なんだ。当日までのお楽しみ!」
「え〜これじゃぁどっちのドッキリ企画か分かりません。でも凄く楽しみ、喜んでくれると良いな。大切な人の為に何か出来るって素敵ですね、私の方がプレゼントを貰うみたいに嬉しくなってきます」
「期限は一ヵ月後。このサプライズが成功すれば、晴れて君たちはヴァカンスを一緒に過ごせるんだ。絶対にレンには内緒だぞ」
「はーい! ヴィルさんも蓮くんには内緒ですよ。私と蓮くんの二重スパイって事は、目を瞑っておきますね」


痛いところをしっかり突付く事も忘れずに、シーッと人差し指をたてて内緒の誓いを立てるカホコへ、苦笑気味にもちろんだと返事を返した。さすがにデビューのCDとは言えなかったから、舞台と言葉を濁したけれど、嘘をつけない物同士が互いに一つのものを贈り合うサプライズ。蓮と同じくらいに正直な君が心配でもあるんだけど・・・ね。

レンからカホコへ、カホコからレンへと。どっちにも絡んでいる俺は、この先忙しくなりそうだ。
この胸の高まりはなんだろう、心が躍ってワクワクしてくる・・・確かに楽しくなりそうだな。



窓の外で駆け回る二匹の犬達が騒がしく吠え立てる声に、ふと目をやれば、整った庭の奥にある門から入ってくる一人の青年の姿が。噂をすればなんとやら・・・だな、ジーナとワルツが部屋の中にいる俺たちに来訪を告げてくれたのだろう。まさに彼女が待ち望んでいた人物が、犬達にじゃれ付かれて行く手を阻まれ、困ったように眉を寄せていた。あまり目にかかれない姿に、微笑ましくてつい口元がゆるんでしまう。そんな俺を見て気づいた香穂子が窓に飛びつき、ちょっと行って来ますねと嬉しそうに玄関へと走り去って行った。



外に響いていた犬達の声が室内に響き渡り、肩越しに振り返れば先を争うように、黒いラブラドール犬のジーナとチワワの子犬のワルツが俺の元へ駆け込んできた。二匹ともにお帰りと瞳を緩めて頭を撫でれば、ドアの方へ向かって呼びかけるように一声咆える・・・。やってくる二人を招くように、そして俺に教えるように。


『やぁレン! 遅かったじゃないか。待ってたよ』
『・・・っ、ヴィル。どうして君がここにいるんだ。それに君とは何も約束などしていない』
『連れないな〜ここで会えるなんて奇遇じゃないか。俺はジーナの散歩のついでに来たんだ。先日以来遠出クセが付いたうえに、この近辺がお気に召したらしくてね』
『SバーンとUバーンを乗り継いでやってくるとは、随分遠い散歩なんだな』
『怖い顔して睨まなくても、ちゃんとこの後レンの家にも遊びに行く予定だったんだぜ。そろそろレンが来そうだなって、カホコと話していたのさ。さて用は済んだし、ワルツと違ってウチのジーナは疲れても抱えて帰れないから、そろそろ失礼するよ』


そう言ってテーブルに広げられたままの楽譜を封筒へ片付け封をすると、静かに椅子から立ち上がる。
心の窓を開けて、そこから新しい風を心へ入れるように大きく窓を開け放った。
緑溢れる整えられた庭から吹き抜ける風が、爽やかに頬をなぶり身体を通り抜けて心地良い。
深呼吸をすれば、俺たちはどこへでも行ける風になれるんだ。


『えっ、ヴィルさん。もう帰っちゃうんですか? さっき来たばっかりなのに!』
『二人でゆっくりしてくれよな。じゃぁカホコ、後は頼んだよ。レンも、あまり根を詰めすぎるなよ』
『はーいヴィルさん、任せて下さいね』
『二人とも、何の話だ?』


そう・・・、開け放たれた談話室の扉から姿を現したのは、嬉しそうに語りかけるカホコに手を弾かれて、笑みを見せていたレンだった。けれど先客として俺がいた事を知るや、照れ臭さが込み上げたのか途端に頬を気恥ずかしそうに染めて、驚きに目を見開いてしまう。眉を潜めながら不信感を露にして俺を睨むけれど、繋いだ手をカホコに揺すられ、振り仰ぐ彼女に向ける瞳は別人のように甘い。


「んーとね、蓮くんを笑顔にして喜ばそう同盟?」
「は!?」
「ねぇねぇ、それよりも蓮くんはこの部屋どう思う? 私ね、いつもはこの談話室に譜面台を持ってきてヴァイオリン弾いたり、本を読んだりするんだよ。学長先生のお宅の中で一番気に入ってるの。庭が良く見渡せるし、本もいっぱいあるし。気持ち良くって、ついうたた寝しちゃう事もあるけどね」
「風邪を引くぞ、気をつけないと。だが香穂子の気持も分かる、落ち着いて良い部屋だな・・・」
「でしょう? 学生さんたちが下宿していた頃は、皆のくつろぎの場所だったんだって。今は私専用だよ、イイでしょう〜。耳を澄ますとね、ほら・・・音楽が溢れてくるんだよ」


手の平を耳に当てて心地良さそうに瞳を閉じるカホコは、窓から拭き抜ける風に赤い髪を靡かせている。
見つめる穏やかな微笑みに包まれながら。


あまり長居をして恋人達の時間を邪魔をしてはいけないから、そろそろ本当に失礼するよ。
俺の足元に寝そべって座るジーナにおいでと合図をすると、カホコの元へ駆け寄ろうとするチワワの子犬も抱き抱えた。すっかり俺の事など目に入ってないらしい二人の脇を、そっと風に乗って通り過ぎ、談話室を後にすると開け放たれてあった扉を閉じ、壁にもたれかかる。

不満気に身じろぐ小脇に抱えてきたチワワの子犬を顔の前に掲げれば・・・おや、お前は男の子だったのか。
どうりでカホコに懐く訳だと、小さく込み上げた笑いを堪えずにはいられない。レンに焼もちやいても無駄だぞ、大切な演奏中は邪魔をしてはいけないと言われたんだろう? お前も邪魔してはいけないよ。




レンからカホコへ、そしてカホコからレンへ・・・君たちがあげた贈り物は、すぐにきっと君の心へ還ってくる。
優しい温かな気持になる時、それは贈り物が届いた証だから。