子犬のワルツ・5

レンのプロデビューになるだろう1枚のCDに収められるのは、レンとカホコにとって大切な思い出の曲たちだと言っていた。音楽と実力を世界に伝えるだけではなく、誰よりも一番初めに感謝と愛を伝えたいそれは、形を変えたエンゲージリングと言っても良いだろうと思う。

ピアノ伴奏は問題ないとして、カホコが奏でるヴァイオリンの音色をイメージして作った二重奏だがら、俺たちが曲を合わせてもお互い納得いく訳がない。どんなに練習してもしっくり来なくて互いに頭を悩ます訳が、ようやく分かったよ・・・レンはこの事に気づいているのかいないのか。それでも彼女に届けたいと思うのかい?


レン、君は覚えているかい? 
俺がピアノ伴奏とヴァイオリンの二重奏を引き受けた時、君に交わした契約を。他の誰にも・・・カホコにも内緒にしたいのだと言った君に、カホコを泣かせたと分かったら即俺の方法を取らせてもらうからなと。
今回二人の為に陰や日向になると決めたからには、レンにだって内緒だろうが、徹底的にやらせてもらうぞ。

ついこの間、俺の愛犬ジーナのお手柄で無事に再会できたけれど、喧嘩をして悲しい想いをさせていたのはどうやら確かだから。俺が勝手に一人で動いても約束違反じゃ無い筈だろう?
俺は二人とも、つまりレンだけじゃなくてカホコの味方でもあるんだ。
カホコにも喜んで欲しいし、レンにも夢を掴んで欲しい・・・出来れば彼女と同じように驚いて欲しいんだけどね。


え、カホコに秘密だという約束!? それはもちろん守るとも。
サプライズや喜びを届ける形は、一つばかりじゃないんだぜ。



* * * * *




『ヴィルさんに黒いワンちゃん、こんにちは。今日はレンさんはご一緒ではなく、お一人なのね』
『はい。ジーナの散歩ついでに立ち寄ったんです。カホコに渡したいものがあったんですが、彼女いますか?』


学長先生のお宅を訪ねると、連絡もせず突然の訪問だったにも関わらず、いつものように婦人が温かく出迎えてくれた。家の中に招かれれば中から聞こえるヴァイオリンの音色・・・これはカホコのものだろう。
主人は今留守だけどカホコさんはいるわよと、そう嬉しそうに優しい笑みを向ける白髪の老婦人も、聞こえるヴァイオリンの音色に耳を澄ませていた。


案内された部屋のドアは、家中に音色が届くようにと開け放たれている。入口で佇む俺にごゆっくりしていらしてねと・・・にこやかに立ち去る婦人に礼を述べると、一歩脚を踏み入れた。しかしそれ以上はと二歩目を思いとどまり、カホコを見つけた嬉しさに元気良く尻尾を振り、部屋の中へ駆け入ろうとする黒いラブラドールの愛犬を慌てて静止した。膝を折ってしゃがみ、不満げに俺を見上げる頬を両手で挟みながら、瞳を覗き込んだ。

音色の中心にいるカホコは、白いレースのカーテンが光りを届ける大きな窓辺に譜面台を置き、瞳を閉じて心地良さそうにヴァイオリンを奏でている。


『こらこらジーナ。今は演奏中だから、カホコの邪魔をしてはいけないよ。いつもウチで言っているだろう? もう少し、ここで一緒に聞いていようか』


諌めるでもなく優しく諭すように語りかけると、俺の足元へ大人しく腰を下ろし腹を伏せて寝そべった。機嫌良くパタパタと尻尾を振るジーナの頭を撫でて立ち上がると、俺も部屋の中へ入るのを止め、扉脇の柱に背を預けて寄りかかる。


懐かしさを覚えるこの部屋は、下宿した学生たちの為の談話室。今はカホコしかいないから、彼女の為のスペースと言っても良いだろうな。壁にある棚には音楽関係の本やCD、レコードがたくさん収められており、暖炉の前にあるソファーでお茶を片手に自由に閲覧する事ができるんだ。どれもこれも学生達の為にとの配慮で開放された、学長先生の貴重なコレクション。歴史を見てきた品の良いアンティークの調度品に囲まれながら、ゆったりとした時の流れに身を任せてみたくなる。


優しくて、温かいな・・・周囲の光りや空気、溢れる緑や自然と一つに溶け合っているようだ。
以前レンが『香穂子には大きくて立派なホールのステージよりも、太陽のスポットライトを浴びて大地のステージに立つ方が似合う』と言っていたのを思い出す。なるほどな、彼女の音色は小さな箱の中では収まりきらないのだろう。何処までも自由に真っ直ぐ羽ばたいているから、きっと息苦しくなってしまうに違いない。

レンが求めて止まない音楽であり、前に進む彼を支え続けた大切な存在。
いやきっと彼女の周りにいる誰もが、この音楽を求めていると思うのに、向ける先はレン唯一人なのだ。だからこそ俺たちの心をも打ち、真っ直ぐ響く言葉が音色に乗って届いてくる。



緩やかに甘く流れるこの曲はアヴェ・マリア・・・これは調度良いタイミングだ。偶然なのか、それとも君たちが来るのを待ってたのか・・・やはり何かの縁なのだろうなとそう思う。小脇に抱えた大きな封筒を前に持ち直し、中に入った楽譜たちへ心の中で語りかけながら、自然に浮かんだ微笑を向ける。


やがて弓が大きく弧を描いて降ろされると、余韻が響き渡り静かに空へ吸い込まれてゆく。閉じられていた瞳がゆっくりと開かれ、現の世界へ戻ったのを見計らい大きな拍手を贈った。目を覚ます音にハッと我に返ったカホコが、驚いたように目を見開き扉に佇む俺を凝視している。


『ブラボー!』
『・・・ヴィルさん! いつからそこにいらしてたんですか? うわ〜ジーナも一緒なんですね!』
『やぁカホコ、素敵な演奏を聞かせてくれてありがとう』
『もしかして蓮くんも一緒ですか? またこの前みたいに、ヴィルさんの後ろに隠れてたりしてます?』



ヴァイオリンと弓を片手で持ち直すと、待ちきれず駆け寄ったジーナを迎え、会えて嬉しいと笑顔で黒曜石の毛並みの頭を撫でた。パッと嬉しそうに綻んだ笑みを浮かべたのは、つい数日前のように俺がいると蓮もいると思っていたからに違いない。予想通りに蓮くんはどこ?と言いながら扉の奥や部屋の周囲に首を巡らせ、きょろきょろと見渡している。今日は俺ひとり・・・いやジーナと二人なんだと、カホコの足元にじゃれる黒いラブラドール犬を指差せば僅かに肩を落として笑顔が曇り、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべたのを見逃さなかった。


本来ならばすぐにレンの家へ行き、久しぶりに二人だけの生活が送れる筈だったのに、あえて学長先生の家に残れと最初に切り出し、引き離したのは自分だ。大切に思うからこそ、時には辛い選択も迫られる時がある。二人も納得をしてくれたし、俺だって間違った事をしたとは思っていない・・・なのに。


期待を裏切ったような罪悪感が込み上げ、後ろめたさの刃に胸が苦しく締め付けられるのは何故だろう。
だが俺が不安な想いや辛さを見せては駄目なんだ・・・せっかく前に進む決意をしたレンや、目の前にいるカホコの心を揺さぶってしまうから。君たちから好かれる人よりも、二人を誰よりも好きな自分でいたい。

すまない・・・と言いかけた言葉を喉元で飲み込み心の中に仕舞うと、いつもの笑顔を向けた。


「甘やかしちゃイケナイって怖い顔するレンがいないから、分かりやすいように日本語でいいかい?」
「いくら蓮くんがいないとはいえ、私の為にならないですよ。でも、本当はちょっと助かります」
「じゃぁ蓮には内緒、俺とカホコの秘密だ」


悪戯っぽくニヤリ口元を緩ませると、安心とも悔しさとも言えない困った表情で、ほのかに赤く染まった頬を膨らませる。カホコに大切な事を伝えるには、まだ不慣れなドイツ語よりも母国である日本語の方が良いだろう。俺から君へのごめんねの想いも込めて・・・今日俺がレンには内緒で来たのは、その為でもあるのだから。
手元から落ちかそになる楽譜の入った封筒を抱え直し、決意を灯すように指先に力を込めた。


「すぐ近くまで散歩に来たから寄ったんだ。ジーナがカホコに会いたがって、散歩に連れてけって煩くてね」
「蓮くんの家は近いけどヴィルさんの家って、この学長先生の家からは正反対の地区っていうくらいに離れてませんか? 随分遠いお散歩ですね」
「最近すっかり遠出癖が付いちゃってね。近い場所だけじゃ満足してくれないんだ。たまには遠くへ出て、違う世界を見たくなったり、会いたい人の元へ行きたくなるのは俺たちも犬も一緒。いつもの道を一本曲がれば、そこから旅が始まるんだ。カホコだって子犬を連れて、レンの家まで遠い散歩をしょっちゅうしているんだろう?」
「蓮くんが心配するから、こっそり内緒のお散歩はもうしていません!」


火が噴出すくらい益々赤くなった頬を恥ずかしそうに拗ねてプウッと膨らましつつ、髪を揺らす勢いで振り仰ぎカホコが睨んでくる。笑みを堪えつつも頬は緩んでしまい、足元にじゃれ付くジーナまでもが返事のように首を持ち上げて咆えていた。良かったと心の中に満たされる温かさと安堵感は、元気そうなカホコに対してと、俺自身にも思うもの。ひょっとして、レンやカホコが俺を怒っているのかも知れないと・・・密かに心を支配していた闇が溶けていくようだ。


「それは良かった、俺も安心した。日課の散歩っていうのもあったけど、カホコにお願いと渡したいものがあってね。実は俺の企み事に協力してもらいたいんだ。レンを驚かす、プレゼントを贈るためにね」
「私が? 蓮くんに?」
「一人で何もしないで、ただ待っているのだけはつまらないだろう?」


これだよとそう言って歩み寄り、持っていた封筒を顔の前に掲げるように披露して見せる。食い入るように封筒を見つめたものの、分からず不思議そうにきょとんと首を捻ったカホコが、答を求めて振り仰いだ。


「じゃぁ、立ち話もなんだし、座りませんか? 私も少し休憩しようと思っていたんです。今お茶を用意しますね」


明るい窓辺にあるダークオークの小さな正方形のテーブルと二脚の椅子を俺に指し示すと、机の上に置かれたヴァイオリンケースに駆け寄り、静かに楽器を戻した。パタパタと軽い足音を響かせて部屋を駆け出る彼女の後を追うように、尻尾を振りながら付いていくジーナに気づくと、じゃれる足元に微笑を注ぎ肩越しに振り返る。


「どうしよ、ジーナが付いてきちゃう。あ!そうだ。ヴィルさん、ちょっとの間だけジーナをお借りできますか? きっとワルツが喜びます。練習の間は部屋に入っちゃ駄目って、私が追い出したら拗ねちゃって・・・今お庭にいると思うんですけど。いつもはやんちゃなのに、この前ジーナが来た時には凄く大人しくなったんですよ」
「そういう事なら喜んで。俺が言わなくてもこいつは、進んで君の後を付いていくと思うよ」
「ありがとうございます! 戻る場所はここだと分かるみたいに・・・まるで親子みたいでした。私はあの子の友達になれても、お母さんにはなれないんだなって思いました。ふふっ、ちょっと寂しかったなぁ〜」
「カホコにも、ちゃんと帰る場所と待っている人がいるだろう? 今頃くしゃみして、ヴァイオリン弾いてるぞ」
「そうですよね・・・私も頑張ります」


ここにはいないレンに想いを馳せ、幸せそうに笑みを綻ばせたカホコが、おいで!とジーナを引き連れて部屋を駆け出していく。賑やかな足音と犬の声が遠のくと、訪れた静けさの中部屋に残るのは俺一人だけ。

窓辺に歩み寄るとテーブルの角が窓を向いてひし形に置かれ、二脚の椅子が角を合わせるようにヘの字に並んでいる。向かい合わせでもなく肩を並べる隣でもなく程よい距離の椅子は、木々の葉と同じ色をした深い緑色をしたビロード張り。窓越しには緑の芝生と、整った庭が見渡せた。緑の樹が生い茂り、木陰で休むチワワの子犬が心地良さそうに眠っている。カホコがここにいて学長先生と音楽を作れば、きっと良いものが出来上がるはずだ。レンにとっても、カホコにとってもね。



秘密にしたい相手をも巻き込んで、最後にあっと二人とも驚かせるのがこの上なく楽しいから。秘密の企みごとはいつだって胸が高鳴り、浮き立つ興奮が抑えきれない。レンが俺と一緒にカホコへサプライズの贈り物をするように、カホコからもこっそり秘密の贈り物をするというのはどうだろう? それは蓋を開けた時に、俺たち皆から二人への祝福と変わるんだ。幾重にも仕組まれた最高の物を作るために必要なもの・・・カホコにもレンにも喜んで欲しい、幸せを願っているのは本当だよ。


光りと温もり、優しさを求めて心の旅をする君たちは、何て真っ直ぐで清らかなんだろうと思わずにいられない。
脇目も振らず何かに打ち込むひたむきさや、その姿の美しさが教えてくれた。
どんなに小さな事だっていい、命を輝かせてくれるものがたった一つあればいいんだと。
自分の為、相手の為にもっと強くなろうと、互いに支え合いながら生きている君たち。


俺も旅をしているんだ、君たちと同じようにね。いつの日か求めるものを掴む為に・・・。
心に描く遠い空へいる君がいつでも笑って、もう良いよと安心してくれるように。


大きな封筒から取り出した楽譜の束をテーブルの上に・・・カホコが最初に目に付く場所へ差し出し向けて置いた。それは数曲程のヴァイオリン二重奏のスコアで、一番上には先程奏でていたアヴェマリア。真面目で不器用なくらい几帳面な性格と、熱い情熱が伺える全て手書きの筆跡は、きっと君なら一目で誰が作ったものか分かるだろうな。


そう・・・これはレンが君へ贈るCDに収める為に、俺と二重奏をするはずの楽曲たち。


驚くのか、懐かしそうに瞳を細めて手に取るのか、どんな表情をするのか楽しみだ。
二人を側で見ている俺や学長先生しからないけど、彼女もレンと同じ表情やを浮かべ、温かい想いを抱くのだろうな。向かい合う二つが重なれば、俺とレンのように技術だけでは届かない、きっと大きなものが生まれると俺は思う。君たちにしか奏でられない、素敵なものが---------。