子犬のワルツ・4

香穂子の居場所が分からない・・・連絡が取れないと取り乱す俺をヴィルヘルムは叱咤し、励ましながら一緒に探してくれた。なのに真っ先に賛成してくれると思っていた人物が、一番に異を唱えている。
なぜ?と初めは驚きを隠せなかったが冷静になって周りを見ろと、真っ直ぐに射抜く瞳が心の奥へ問いかけていた。目先の喜びに心奪われて、目指すべき未来を掴み損ねるなと・・・。

ふいに俺の目の前に現われた彼女は、暗く灰色に淀みかけた世界の色をがらりと変える程、眩しく温かさに溢れていた。求めていた優しさと温もりを手に入れ、もう俺には君だけしか見えなくて。誰よりも香穂子に早く会いたかったし、冬の時よりも遥かに長い夏の休暇を一日でも多く共に過ごしたかった。

今もこのまま連れて帰りたいのだと反論したい想いが喉元まで出掛かっているが、薄皮一枚の所で堪えて言わずに飲み下し、膝の上で拳を強く握り締めた。気づかせてくれた・・・思い出させてくれたんだ。

君との予定を延ばすのは辛い選択だったが、そこまで集中しなくてはいけなかったのだと。


乗り出しかけた身を引いて背もたれに預けると、ヴィルが鋭く光らせていた目元と頬を僅かに緩める。
悟りとも諦めにも似た姿に、言おうとしていた事が俺に伝わったと理解したのだろうか。今度は香穂子に真摯な瞳を向けるが、彼女は納得いかない様子で、俺よりも勢い良く身を乗り出しながらヴィルに一歩も引かず食らいついていた。俺たちに関しては全て理解を示してくれると信じていただけに、驚きを隠せないのだろう。


『どうして、私が蓮くんの所へ一緒に行っちゃ駄目なんですか? 私が黙ってドイツに来たからですか?』
『他の時期なら手放しで喜ぶけど、今だから駄目なんだ。連絡も無しに突然やってきて、しかも行方が分からない。無事だったから良かったものの、レンや俺がどれだけ心配したか分かるかい? 君がいないと知って、レンは必死になって探していたんだぞ。ヴァイオリンを奏でられないほど取り乱して』
『・・・っ、ごめんなさい。私が蓮くんを心配させちゃったから、ヴィルさん怒っているんですね』
『怒ってないよ。謝りたくて、いてもたってもいられずにやってきたカホコの気持も分かる。俺だって何度も彼女と喧嘩して、ロシアにまで行ったから。カホコ、頼むから俺たちに時間をくれないか? この夏休みがレンや俺にとって大切な時期なんだ。まだ半分残っているのに・・・お陰で予定が大分遅れてしまっているし』
『じゃぁ会おうねって約束していた日になったら、また蓮くんに会えるんですね。でも半分?予定って?』
『ヴィルっ!』
『これこれ、それ以上はいかんよ。まだお披露目には早いじゃろう』


あっ!しまったと頬を歪めて口走ったヴィルが、慌てて口を両手で押さえる。誤魔化すようにコホンと一つ咳払いをすると、何事も無かったように姿勢を正した。気が抜けないなと安堵の溜息を吐くと、学長先生は困った顔でやれやれと肩を竦めている。熱くなると周りが見えないのはお前さんも同じじゃのうと、呆れて言いながら。
そんな俺たち三人のやり取りを、香穂子は訳が分からず、きょとんと目を丸くして交互に見渡していた。


俺のデビューになるだろうCDを作っていることは、まだ香穂子には内緒。知ったらきっと自分の事のように喜んでくれるか、もしくは秘密にしていた事を怒るかもしれない。でも想いを込めて収めた曲を含めた一枚のCD、そして掴んだ夢も全て、ずっと支え見守ってくれた君に捧げるもの。一番最初に受け取ってくれる君が見せてくれる驚き喜ぶ笑顔で、この手作りの贈り物はようやく完成するんだ。

椅子に座っていた身体を隣にいる香穂子に向き直り、優しく言葉で包むように名前を呼びかけると、小首を傾げて微笑みながら澄んだ瞳が振り仰いだ。



「香穂子・・・すまない。俺が言葉少ないばかりに、君を思いつめさせ悩ませる結果になってしまった」
「蓮くん、違うの! 私が我慢できずに、勝手に来ちゃったのがいけないの」
「俺とヴィルで一緒に音楽を作っているんだ。何を・・・という詳しい事までは、まだ香穂子にも他の誰にも言えないんだが、この夏休みに完成させる予定だ。家を空ける事も多くなって慌しくなって香穂子と過ごす時間が取れなくなるから、落ち着くまで渡欧を遅らせて欲しかった」
「連絡がつきにくくなるって、ちゃんと聞いてたのにね」
「ただ一つ言えるのは、この成功によって将来がかかっているといってもいい。俺だけではなく、いずれ香穂子にも関わる事だ。香穂子もそれを察したから、来た事を言い出し難かったんだろう?」
「うん・・・。やっと会える予定日を遅らせるほど、蓮くんにとって大切で集中したい事があったんだよね。きっとヴァイオリンに関してなのかな・・・もしかしたらコンクールとか大きな舞台なのかなって、いろいろ考えた」


せっかく会えたのに・・・と悲しそうに呟く香穂子は、潤みかける大きな瞳で切なげに見つめてくる。シュンと俯き強く唇を引き結んで、膝の上で拳を握り締めて・・・。込み上げる寂しさを必死に耐える姿が、深く抱き締めたい愛しさを募らせた。確かに今香穂子を連れて帰ったら、君を求めて夢中になるあまりに、きっとヴァイオリンどころでは無くなるだろう。一度触れてしまったら、腕の中からすぐに解放出来る自信が全く無い。

俺の家と学長先生の家は、偶然か必然か住んでいる街が近い。
離れているよりはずっといいが、それでもやはり一緒にいたい想いは変わらず、更に強まるばかり。
一刻一望も惜しくて・・・互いに離れていた時間を埋めて補い合いたい。


「俺の所へ来ても、暫くは君が一人になってしまう。ならば二人でゆっくり過ごせる約束の一ヵ月後まで、学長先生のお宅にいた方がずっといいと俺も思う。学長先生からヴァイオリンを学び、奥様から家の事を学べるんだ。温かい人たちや、小さな友人もいるだろう?」
「ここにいる間私は一人じゃないけど、蓮くんは? 蓮くんは一人なの?」
「一人じゃない。海を隔てた遠くじゃなく、すぐ近くに君がいてくれるしヴィルもいる。一日も早く君を迎え来よう」
「蓮くんが頑張る間、私も頑張らないと駄目だよね」


強くひたむきな光りと決意を宿した瞳が、真っ直ぐ俺を射抜いた。
いつどんな時も、自分よりまず俺を心配してくれる君・・・それは俺だって同じなんだ。
相手が幸せであれば自分も満たされる・・・だから安心してもらえるように、君からもらった温かさで俺の中が満ち溢れている事を伝えよう。膝の上に置かれた香穂子の手に、そっと包み重ねて握り締め、愛しさと想いを込めた眼差しを注ぐ。心のままに微笑みかければふわりと和らぎ、頬笑み返しの花が咲いた。


お二人なら、俺やヴィルとは違う意見を言ってくれるのだろうか。

ふと湧いた疑問を投げかけながら君へ問い、絡み合った視線を彷徨わせた先にあるものを、香穂子も感じ取ってくれたようで。あっと小さく声を上げて目を見開き、髪を揺らしつつ弾かれたように振り向いた。
もしかしたら・・・という二人で賭けた最後の望みを静かに受け止める学長先生が、黙って首を横に振った。


返ってくる答えは分かっていたのに、いい加減諦めが悪いな・・・俺も。
込み上げる自嘲気味な笑みは、噛み締めるほどにほろ苦さを感じさせてくれる。


『カホコがワシらの家にいてくれるのは嬉しい、ワシもヴィルの意見に賛成じゃ』
「そんな・・・学長先生まで、ここに残れって言うんですね・・・。蓮くん、やっぱり駄目みたいだよ」
『これこれ二人とも、何か勘違いしてはおらんかね。ヴィルも言い方が足りんのう。何も会ってはいかんとは言っておらんよ。お互いに時間のある時には、行き来して会えば良いじゃろう。レンがワシの家に来るもよし、カホコがレンの家に遊びに行くもよし、待ち合わせデートもワクワクじゃな。のう?』
『えぇ、カホコさんとレンさんには申し訳ないけれど、私もそう思うの。いずれお二人だけの時間がたっぷりあるんですもの、もう少し私たちと一緒にいてくれるかしら? みんな家を出ているけれど我が家は男の子ばかりでね。ずっと欲しかった可愛い娘が出来た気分なのよ』
『学長先生・・・奥様・・・』
『どうか悲しまないでおくれ、ワシと妻からカホコへのプレゼントがあるんじゃよ』


花と一緒に持ってきた包みを渡すように渡すように言われると、悪戯っぽく笑みを浮かべ、口元を緩めている。こんな時は必ず何か驚かそうと企みごとをしているのだが・・・。
眉を潜めつつも押さえ切れない嬉しさで心が躍り、俺まで鼓動が駆け出すのは何故だろう。


香穂子は笑みを交わしながら頷き合う二人に感極まり、両手を握り締めながら言葉と胸を詰まらせている。
彼女に向けられる温かや優しさが自分の事の様に嬉しくて、君が幸せであればいい・・・そう思った時に、俺も優しい温かな気持になれた。良かったなと語りかければ、光りをもたらす太陽の輝きで力いっぱいに頷く。
心のままに投げかけた言葉は彼女へのものであると同時に、俺自身へも向けたものだった。


隣の椅子に置いてあったピンク色の小さな花束と包みを手渡すと、驚きつつもはにかんで「ありがとう」と嬉しそうに受け取った。受け取ったピンク色の花束に顔を寄せ、心地良さそうに香りを楽しみ始める香穂子は、開けてご覧と見守るご夫妻にもdanke(ダンケ)とドイツ語で礼を述べる。期待を溢れさせながら包みを丁寧に広げ出し、やがて中から現われたのは籐で編まれた少し大きめの手提げ鞄だった。シンプルなデザインで底も広いから収納も程良く、内側には花模様の布地があしらわれている。


『うわ〜っ、可愛いっ!』
『肩からかけられるそのバスケットに子犬を入れれば、散歩しやすいじゃろう。動き回って大人しくないうえに甘えん坊なこやつは、散歩を強請りながらもすぐ疲れて腕の中へ行きたがるからのう』
『ありがとうございます! 子犬の散歩専用の手提げ鞄ですね、さっそく使わせてもらいます。この子小さい割りにずっと抱いてるとけっこう重いんです・・・これで散歩が楽になります。電車の中で大人しくしてくれないし、蓮くんの家に行く時はいいけど、帰りになると疲れて寝ちゃうんですよ。本当に人間の赤ちゃんみたい』
『もちろんカホコのものだから好きに使って構わんよ。いつでも気軽にレンのところへ、散歩へ行けるぞ』


俺の所へ散歩・・・?
どういう事だと眉を潜めると、悪戯が見つかったバツの悪さで肩を竦めた。


「蓮くんの家が学長先生のお宅のあるこの街の近くだって、地図を見ていて気が付いたの。ペットを連れて電車やバスにも乗れるし、犬用の切符もちゃんとあるって始めて知ったよ。ねぇ知ってた?電車の中にも犬を連れた人が、たくさんいるんだよ。この子と散歩しながら、気づいたらいつも蓮くんの家まで来ていた。いるかな会えるかな、今日こそちゃんと謝ろうって・・・いつも見てたよ」
「家にいながら時折香穂子の気配を感じていた。会いたくて幻を見ているのかと思ったが、やはり君だったんだな。どうしてすぐ俺の家に来なかったんだ? 一応鍵も渡してあったのに」
「蓮くん、いなかったんだもん・・・ドイツに来てからも連絡つきにくかったし。いくら蓮くんが一人しかいない家とはいえ、ご家族が突然くるかも知れないでしょう? 誰もいないお宅にいきなり上がるのは気後れしちゃうよ、喧嘩をしてたから尚更にね。もしこのままだったら、会う約束の日に今ついたよってテーゲル空港からこっそり連絡しようと思ってた」


首を傾けて困ったように微笑むと、それで何処へ行こうか迷った末に学長先生の所へ行ったのだという。ヴァイオリンを教えてもらう話しはしていたし、いつでもおいでと誘われていたから。念の為万が一の事を考えて事前に、ホームステイをさせてもらえるかと保険をかけてあったらしい。そういえば少し前レコーディングや打ち合わせで、郊外にあるスタジオへ籠り、一週間ほど家を開けていた事があった・・・あの時だったのか。
後から悔いても仕方が無いが。


『遠回りをしたり道が曲がりくねりながらも、全ての道は幸せに向かっている。どんな風に歩いても、俺たちがが歩く事を止めない限り』


俺と香穂子に語りかけるヴィルの眼差しは、どこまでも真っ直ぐ注がれる。だがふとすまなそうに瞳が歪み、悪かったな・・・と切なそうに呟いた。目の前だけじゃなく遠く広くを見つめるものが俺たちにも伝わり、身の回りを見過ぎて弱ってしまった、俺と香穂子の心の視力を取り戻してくれるように。




贈り物の鞄を持って椅子から立ち上がった香穂子は、日当たり良い窓辺で寄り添い眠る、二匹の犬の元へ小走りに駆けてゆく。食事の途中だがどうしても追わずにいられなくて、中座の侘びを述べてから彼女の後を追った。犬達の側でしゃがむ彼女の隣に寄り添い佇めば、黒いラブラドール犬の腹に愛しそうに・・・母親のように慈しみを込めて微笑みを向けているる。頭を乗せて眠る子犬に、ポンポンと手を叩きながら呼びかけた。


「ワルツ、ほら起きて! こっちへおいで。素敵な贈り物を貰ったんだよ」
「ワルツ?」
「この子の名前だよ、私が付けたの。元気良くて踊っているみたいだから、ピチカートとかスピッカートとかも考えたんだけど、長いししっくり来なくて。もうちょっと大人しく優雅になって欲しいなっていうのもあったんだけど、それに・・・ワルヅは大切な人と踊るものでしょう? 一緒に踊る大切な人に早く出会えますようにって、この子にも・・・うぅん私にも願いを込めたかったの」
「願いは叶ったな」


広げた腕に飛び込むチワワの子犬を抱き締めながら頬ずりする、そんな香穂子が可愛くて目を細めずにはいられない。彼女を独占する子犬が羨ましいと思うけれども、今は俺の代わりに笑顔をもたらしてやって欲しい。
嬉しそうに尻尾を振る子犬をもらった鞄にそっと入れると、広い底面とゆとりのあるスペースの中でくるくると動き回り、淵からちょこんと頭人形のようにを覗かせた。良かったね〜可愛いねと頬を綻ばせてはしゃぐ香穂子に、つられて頬が緩んでしまう。


「さぁワルツ、みんなにお披露目しようか。ありがとうって、お礼を言いに行こうね」
「俺も一緒いいだろうか、お礼を言いたいんだ」
「じゃぁ3人で一緒に!」
「香穂子、時間を見つけて必ず君に会いに行くから」
「うん・・・みんなの言う通り私はここに残るよ、ヴァイオリン頑張らなくちゃ。ドイツにいながら待ち合わせデートも素敵だし私も蓮くんに会いに行くからね、この子と一緒に」


鞄の中で見上げる子犬の頭を撫でていた香穂子が、手提げを持ち上げ肩にかける。もらった籐の手提げ鞄に子犬を入れて一緒に、今度はこっそりと散歩でななく、俺に会う為に来てくれるのだろう。


じゃぁ行こうか・・・と交し合う瞳にどちらともなく微笑が浮かぶと、窓辺で寝そべっていたジーナが起き上がり、テーブルに戻る俺たちの周りをくるりと囲むように一周した。
後ろを振り返り俺たちを待つジーナに先導され、テーブルで見守り待つ三人の所へ。
君と新たに歩み始める一歩を踏みしめながら。