子犬のワルツ・3

シンプルなダイニングルームには開放感溢れる大きな窓辺から、明るい日差しが差し込んでいる。
ダークオークのテーブルの上にはシルバーのキャンドルスタンド、そして透明なガラス器の中に、庭で育った花が華やぎを添えていた。この家には庭だけでなく、家の中にまで花が溢れているなと思う。玄関や廊下、先ほど香穂子と再会を果たした続き部屋のリビングにも・・・。グランドピアノの側にさり気ない花飾りが置かれていたのを思い出した。

別荘のような素朴さと気配りに学長先生夫妻の温かく優しい気性が伝わり、身も心も浄化される透明感が溢れてる。ここで奏でる音楽は、きっと心地良いのだろうな・・・。



ドイツでは昼に温かくしっかりした食事を取る事が多い。お昼の用意が出来たから一緒にどうぞと誘われ、皆でテーブルに着くと、運ばれてきたのは学長先生の奥様手作りのドイツの家庭料理。所狭しと並び白い湯気を漂わせる、香りだけでも満たされそうな料理の数々だった。気取らない素朴さと懐かしい味は、身体の中や心まで温めてくれるようだ。

いつも一人で過ごしているのと自ら進んで料理をしない事もあり、留学してから数年経った今でも、ドイツの家庭料理には日頃縁が無い。初めて食べる料理も多く、香穂子にとっても同じだと思うのだが、暫く滞在していた間に学ぶ事が多かったのだろう。俺に料理の説明をしてくれたり、味や食材について、音楽や今日あった事までを楽しそうに会話していた。


「蓮くんに会えなかった間、ここでお世話になってたの。ヴァイオリンを学長先生に教えてもらいながら、奥様にドイツの家庭料理や家の細かい事を教えてもらったり、手伝ってたんだよ。ホームステイみたいでしょう?」


いつのまに・・・そう思って驚き見つめている俺に、香穂子は少し照れ臭そうに微笑んだ。私は大丈夫、安心してと言うように。俺が知らない間にこの国に馴染み、以前よりも一回りも二周りも大きく羽ばたいて見えた。

白い皿に盛られたスープを、スプーンですくい口元へ運ぶと、香穂子がじっと顔を見つめて来る。隣の席に座る彼女は半ば身を乗り出しながら、心配そうに俺の表情の変化一つを逃さず伺っていた。
どこかで覚えがあるこの仕草は、ひょっとして・・・。


「香穂子、どうかしたのか?」
「蓮くんが今食べてるじゃがいものスープは、私が作ったんだよ。どうかな・・・美味しい?」
「そうだったのか、とても美味しい。懐かしいというか、香穂子の味がすると思っていたんだ」
「本当!?ありがとう蓮くん! まさか蓮くんに食べてもらえるとは思わなかったけど、凄く嬉しい。たくさんあるじゃがいもやソーセージの種類とか、ドイツでしか見られない食材も覚えたんだよ。他にもレシピを教えてもらったから、一緒にお家に帰ったらさっそく作ってあげるね」
「香穂子の手料理は久しぶりだから、とても楽しみだ」
「あっ、パンとスープおかわりいる?」


反応が気になっていたらしい香穂子に美味しいと告げると、嬉しそうに・・・誇らしげに笑みを咲かせた。俺のスープ皿を持ってキッチンへ行こうとする彼女へ、いつでも嫁に行けるのう・・・と。頷きながら美味しそうにスープを運ぶ学長先生に、真っ赤になって照れる彼女がパタパタと賑やかな足音を連れ、逃げるようにキッチンへ去っていく。かいがいしく世話をしてくれる香穂子に愛しさが募り、嬉しさを隠しきれ無いのは俺も同じだ。早くそんな日が来たらいいのにと、願わずにいられない。

居た堪れない照れ臭さを一人で感じていた僅かの後、どうぞ・・・とそう言って運ばれた白い湯気を漂わせるスープ皿。照れ隠しに俯きほんのり染まった頬と、再び満たされたスープを交互に見つめ、緩んだ頬のまま君の思いごと掬い取って口元へと運んだ。


辛く寂しい想いをさせてしまったが、真っ直ぐ俺の元へ来れずにいた間も、優しく温かな人々に囲まれていたんだな。ここで過ごしていた日々は彼女にとって無駄ではなかったのだと・・・家族の団欒そのものな笑顔溢れる光景が伝えていた。良かった・・・安心したと心の底から安堵感が込み上げ、胸を振るわせる。
俺の中にある後悔と傷が、少しずつ癒されてゆくのを感じながら。


食事が終ったら、香穂子を連れて俺の家へ返ろう・・・もう一人にはさせない。
決して君を離さない、寂しい思いはさせないと誓ったんだ。




我が物顔で賑やかに咆えながら、リビングやダイニングを駆け回っていたチワワの子犬が、すっかり大人しく静かになっていた。あれほど香穂子へ懐いていたのに、どこへ行ったのだろうかと部屋を見渡せば、日当たりの良い窓辺に横たわる二匹の犬達。黒いラブラドール犬のジーナの腹に寄り添いながら、気持良さそうに眠り丸くなっていた。彼女の母性がやんちゃな子犬を包み込むようで、まるで本当の親子のように微笑ましい。

月森の視線の先にあるものに気づいた学長先生が、肉料理を食べる手を止めナイフとフォークを皿に置いた。窓辺の様子を愛しそうに眺め、皺に隠れた目を細めている。食卓に集う皆も、視線を追った。


『ワシら老夫婦二人だけじゃから、犬を引き取ろうという話しは随分前からあったんじゃ。そんな時我が家へやってきたカホコが、レンのところへ行けずに寂しそうにしておってのう・・・。何とかしてやりたいと思って、ワシと妻とカホコの三人でベルリン市内のティアハイム行ったんじゃよ』
『ガラス張りの広い部屋を眺めながら、カホコさんってば・・・。私たちの声が届かない程、わんちゃんに熱い眼差しが釘付けだったのよね』
『もう〜学長先生も奥様もっ! その話は恥ずかしいから、蓮くんの前では止めて下さい〜っ』


くすくすと笑う二人に香穂子は、火を噴出しそうな程顔を赤くしている。ちらりと横目で隣を伺い、話を聞かせてくれと無言で問う月森の視線に、何でも無いのと引きつった笑顔で誤魔化し益々焦りだした。ティアハイムとはドイツ国内にある動物保護施設の事だ。日本の保健所のようなシステムは無く彼らの命は法律で守られ、捨てられたり都合により飼えなくなった動物達は、次の住居が決まるまで大切に保護される。

口を噤む彼女の代りに、いいわよね?と穏やかに微笑む婦人が答えてくれた。ガラスに張り付き夢中になって動かない香穂子の隣で、小さな女の子も同じように張り付いていた光景が、とても微笑ましかったのだという。

なるほど・・・彼女らしいな。目の前に浮かぶようで、つい笑みが零れてしまう。

子供みたいで恥ずかしかったのにと瞳を潤ませ俺を睨む彼女に、可愛いと思ったんだと瞳を緩めれば、照れれたのか拗ねたのか。頬を脹らませ、フイと視線を反らしてしまった。そんな君がもっと可愛いと思ったのは、内緒だけれども。


「とっても広くて明るくて、綺麗なところだったよ。日本の家やマンションで飼うよりも伸び伸びしてて、びっくりしゃった。前に二匹飼っていたら、一緒に引き取らなくちゃいけないんだって。ペットの本とか玩具とかも、いろいろ売ってるの。蓮くんは行った事ある?」
「いや・・・機会が無くて。そういった部分にも、慣れた環境で暮らした動物達の事を考えた配慮が伺えるな」
「あの子は、私が選んだんだよ・・・うぅん、呼んでたの。今はすっごくやんちゃで元気なんだけど、初めて会った時はね、皆が走り回っている中たった一人私達に背を向けて寂しそうにしてたの。どうして一人ぼっちなんだろうって、一生懸命耐えてた・・・声が聞こえたんだよ」


切なげに微笑む横顔を見つめながら、胸が締め付けられた。俺が動けずにいた間、香穂子はいてもたってもいられずに単身ドイツまで来てくれた。近くにいながら求め合う互いの想いは、どれほどもどかしいすれ違いを重ねていたのだろう。会いたいのに、目の前にいながら会えない辛さはどれ程のものだったろうか・・・。

香穂子は一人ぼっちの子犬に、自分を重ねていたに違いない。苦しさに耐えながら眉根を寄せる俺に気づき、ふわりと優しい笑みを浮かべた。瞳にはどんな時にも失わない、前に進む希望の光りを灯して。


「一人じゃないよってこの子に話しながら、自分にも言い聞かせてた。学長先生や奥様も優しいし、近くには蓮くんがいるんだよって・・・。一人きりでは誰もここに生まれては来なかったように、一人じゃ生きていけないんだよ。みんな誰かに助けられ、必要としながら生きている・・・それに気づける時と気づけない時があるけどね」
「香穂子・・・・・・」
「一緒に過ごせて楽しかったし、元気を貰ったの。でももうお別れか・・・ちょっと寂しいな」


肩越しに振り返り窓辺の犬達を眺めていた香穂子は、身体を戻し座りなおすと深呼吸を一つして、コーヒーカップに手を伸ばした。両手で包みながら静かに口元へ運び、心の中で感謝と別れを告げながら、気持の整理をしているのかも知れない。日本語が理解できるヴィルは俺たちの会話が聞こえるだろうが、学長先生や奥様は言葉が分からないながらも、視線を注ぎ内容を伺おうとして下さっている。音楽に国境が無いように、言葉の壁を越えて心に届く想いがのだと・・・。見守るお二人の慈しみに溢れた表情が、そう語っていた。


『ティアハイムか〜懐かしいな。ウチのジーナも子犬の時に、そこから引き取ったんだ』


パンをちぎって口に放り込みつつ、ヴィルが懐かしそうに遠く思い出を漂いながら、窓辺の愛犬を眺めていた。
だが柔らかな眼差しは、彼の正面に座る俺と香穂子に向けられると、急に鋭く引き締まったものとなる。

食事の間はいつも賑やかなヴィルが、珍しく必要最低限な一言二言しか喋らずに、ずっと口を噤んでいた。
俺たちが語らう間も、黙々とナイフとフォークを動かし続け、どこか機嫌が悪いのかと思うほど、むっと表情をしかめて。そういえば食事の途中から、向かいに座る俺と香穂子に視線を合わそうとしていなかったように思う。


『カホコがこの後レンの所へ行くのは、俺は反対だ。せかっくの再会に水を差すようで悪いけど、カホコはもう少し先生の家に残って、レンはお持帰りに時期を置いた方がいいと思う』
『えっ!? ヴィルさん、どうして・・・』
『何故だ』
『状況を忘れているなら言うけれど、元からそういう約束だったんだろう? なぁ、レン・・・』
『・・・・・・・・・・・っ!』


やれやれと呆れたように大きく溜息を吐くと、真摯な瞳が言葉無く俺を問い詰め、真っ直ぐ射抜いた。