子犬のワルツ・2

空に聳えるコンクリートや石造りの建物は、いつしか緑に囲まれた一軒家たちに変わっていった。
小道へと車が入り門を潜った先は、一年中深い緑を保つ、ベルリンの中心から少し離れた旧西地区の地区の閑静な住宅街。さぁ着いたぞとにこやかな笑みでそう言って、運転していた学長先生が運転席から振り返り顔を覗かせた。


車のドアを開けると真っ先に、窓から頭を乗り出していた黒いラブラドール犬が表へと飛び出した。開け放った窓から身を乗り出す愛犬が落ちないようずっと膝に乗せていたヴィルが、開放感溢れた様子で背もたれへと崩れるように脱力する。重かった〜脚が・・・腰がと嘆きながらゆっくりと降り立ち、腕や身体を気持良さそうに伸ばしている。遅れるように後部座席にいた月森も、運転席へ向かって礼を述べてからドアを開けて降り立った。


館の隣には豊かな大木が趣を添えていて、玄関前には訪れる人を温かく迎えるように花たちが植えられていた。リンデンバウムや松が伸び伸びと枝を伸ばし、広々とした芝生の緑が目に喜びを与える・・・。暮らす人の心が伝わるように手入れが行き届いて、花や自然に溢れた家・・・確か裏にはベンチやブランコもあったと思い出した。童心に帰って自然と戯れる事の出来るこの場所は、森に佇む別荘という雰囲気に近い。


ここに、香穂子はいるのだろうか?

学長先生のお宅を訪ねるのも二度目だから、幾分か余裕が出て周りが見えるようになってきた。まだ見慣れない景色を注意深く眺めつつ、心を空気に溶け込ませるように彼女の気配を探っていると、少し先から甲高い口笛が聞こえてくる。ふと視線をやればヴィルが駆け回る愛犬を口笛を吹いて呼び寄せ、駆け寄ったジーナの頭を膝を折って撫でながら語りかけていた。


『よしよしジーナ、ご招待なんだから大人しくしているんだぞ。しっかし、随分遠い散歩になっちゃったなぁ〜。でもお前、遠出が出来るなんて今日は幸運だぞ。迷子になったら戻れなくなるから、ちゃんと着いて来いよな』


ヴイルと犬にとっては、家の方向が正反対だから確かに遠出になるだろう。朝訪ねてきた俺の家までも、近い距離ではなかったはずなのに・・・。だが俺にとって見覚えがあるのは以前一度訪ねただけでなく、俺の暮らしている街と同じ方向、つまりは近くだったからだ。世間は広いようでいて、意外と狭いものだと思った。


『レン、すまないが荷物も持つのを手伝ってくれんかのう?』


名を呼ばれて振り返ると、学長先生が俺に向かって車のところで手を招いていた。
ヴィルは犬とじゃれて手が離せないから、空いているのは俺だけという事になるのだろう。組んでいた腕を下ろして車に戻ると、後ろのトランクを開けるために運転席に潜っていた学長先生が肩越しに振り返った。


『突然お邪魔して、すみません』
『なに、誘ったのはワシじゃ。気にせんでくれ。帰りも送るから心配はいらんよ。後ろの席に置いてあった荷物と花束を持ってくれんかのう。トランクの中にも買い物の荷物があって、ワシ一人では持ちきれんのじゃよ』
『分かりました。俺の隣にあった花束と、大きな紙袋ですね。これだけで良いのですか? 他に重いものがあればそちらを持ちますが・・・』
『二つだけで大丈夫じゃ、ワシよりもレンに持っていてもらうのが一番良いと思うからのう』
『俺に・・・? どなたかへ贈り物ですか?』


後部座席のドアを開けて取り出したのは、色鮮やかな大輪の花がまぶしい小さなブーケと、少し大きめの包みが入った手提げの紙袋だった。贈り物ようにどちらも綺麗に包装してあり、赤いリボンが巻かれている。この荷物があったからジーナが後部座席に座れずに、ヴィルの膝の上に座るはめになったのだが・・・。
何故だろう。わざと俺に気付かせようと主張して置いてあるように見えて、ずっと気になっていたんだ。


『良いところを突いて来たのう。じゃが今は内緒じゃ、そのうち分かる』
『学長先生は、いつも内緒事が多いですね』
『いきなり答えを言ってしまっては、面白くないじゃろう。焦れた分だけ出会いが嬉しいように、考えた時間があるから答が分かった時に楽しいとは思わんかね。言いたくてウズウズしているのを堪えるのは、身を裂かれんばかりに辛いが、君たちの事を考えているんじゃよ』
『そうでしょうか? 先生ご自身が一番楽しんでいるように思えます』
『見抜かれたか、さすがじゃな。こらこら、睨んで警戒せんでも、君にとっても悪い話でないのは確かじゃよ。じゃが・・・そうじゃな、今回ばかりは黙っておれんかった・・・』
『・・・・・・・・』
『ワシは他の荷物を持っていくから、ヴィルと一緒に先に行っていてくれんかのう? 連絡はしてあるから大丈夫じゃ』


先ほど一瞬浮かんだ辛そうな表情は、何を語ろうとしていたのか。俺の心中を見透かしたように悪戯な笑みを見せ、にやりと口元を歪ませる。俺の前を横切りのんびり後部座席のトランクへ歩いてゆき、荷物を纏める為に中を探り出してしまう。これ以上は語れない、話しはもう終わりだとでもいうように・・・。
いつまでも立ち竦んでいる訳には行かないので、小さく溜息を吐くと花束と荷物を抱えて車を後にした。



赤茶色の石が敷き詰められた細い小道を歩くと、風に乗って甘く優しい香りが鼻腔をくすぐる。手に持っている小ぶりな花束から漂うもので、ピンクや赤といった可愛らしい色や素材で纏められていた。だがそれを見て脳裏に香穂子が浮かんで離れないのは花束の印象なのか、それとも心に灯る予感なのだろうか。


つるバラの茂る黒いアーチを潜り、手入れの行き届いた前庭を通り過ぎると、辿り着いた玄関扉脇の呼び鈴を押した。暫く待った後にドアノブからロックの外れる金属音が聞こえて、重い木の扉がゆっくりと押し開かれる。
隙間から漏れ聞こえたのは、家の中にいる甲高い子犬の声と楽しそうにじゃれ合う笑い声。そして少し下の方から聞こえてきたのは、お帰りなさいという穏やかな声だった。

現われたのは白髪で小柄の老婦人・・・学長先生の奥様だ。ふわりと浮かぶ笑顔や雰囲気が柔らかく、優しそうで温かい。この館の庭や緑、学長先生の奏でる音楽に似ているなと思った。花束と荷物を持っている俺と犬を連れて扉の前に佇むヴィルに気付くと、交互に顔を眺めながら嬉しそうに頬を綻ばせて笑みを見せた。


『まぁ!いらっしゃい、お話は聞いているわ。黒いワンちゃんとヴィルさん、お久しぶり』
『お久しぶりです。奥様もお元気そうで安心しました』
『隣の方は先日にもいらした日本の学生さんよね、確かレンさん・・・だったわよね。また会えて嬉しいわ』
『先日はありがとうございました。今日は、散歩中に学長先生に声を掛けられたんです。お言葉に甘えてすみません、突然お邪魔してしまって・・・』
『いいのよ、気にしないで。我が家は年寄り二人だけですもの、若い方のお客様は大歓迎よ。ちょうどお昼の支度も出来たのよ、今お茶を入れるわね。あら、可愛い素敵なブーケをお持ちなのね』
『学長先生から荷物持ちを頼まれました。どなた宛かは伺っていません』
『我が家の愛すべき子犬ちゃん達への贈り物ね、きっと喜ぶわ。でも・・・そうね、もう少し持っていてくれるかしら? 私たちよりあなたから渡してもらえた方が、嬉しさも大きいはずだから』


さぁ黒いワンちゃんも一緒に上がってちょうだいなと、そう言って膝を追って屈みこみ、足元に大人しく座るジーナの頭を優しく撫でる。静かに立ち上がると家の中を手で指し示しながら、どうぞと誘ってくれた。くつの泥を落として中に入ると、廊下の奥の部屋から聞こえる子犬の鳴き声と、じゃれつかれているのか楽しそうに笑う若い女性の声が聞こえた。そして合間に聞こえた日本語。


「ふふっ・・・! こら、くすぐったいってば」


まさか、そんなっ・・・! この声の主が誰であるか、聞き間違えるはずが無い。何処かで聞いた響きに、信じられない思いで一瞬思考が停止し、心に刻まれた記憶と重ねながら神経の全てを集中させた。

声が聞きたい願い会いたいと望んで探し続けた君は、やはりここにいたんだな。
だが焦っては駄目だと・・・様々な想いが自分の中で鬩ぎ合う苦しさの中で拳を強く握り締める。
ヴィルの足元を大人しく着いて来た飼い犬のジーナが、声に反応してピクリと耳を立て、呼びかけに応えるように一声咆える。彼女も何かを感じ取ったのか・・・呼び止めるのも聞かず一目散に部屋の奥へ風のように駆けて行った。


『あっ! おいこらジーナ、勝手に余所様の家で動き回っちゃ駄目だろう!』
『ほっほっ、楽しそうじゃのう。いや嬉しいのかな、次は君たち・・・と言った所かのう。何にせよ元気があるのはいい事じゃよ、今回は叱らずにそのままにしてあげなさい』


伸ばした手は虚しく空を掴み、大きく溜息を吐いたヴィルが追いかけようと一歩を踏み出した時。待ちなさいと背後から止めたのは、いつの間にか俺たちい追いついていた学長先生だった。二人で同時に振り返れば、数個ほど抱え持った買い物袋に埋もれるように、隙間から顔を覗かせていた。


『誰か他にもお客が来ているのか? それとも新しい下宿人?』
『ん〜両方かな? ワシにとっては大切な家族じゃ』
『何だそれ。この前来た時には子犬なんて飼っていなかったよな。って事は鳴き声が聞こえるその子犬を、レンが預かるって事か?』
『会えば分かる。君たちも良く知っている筈じゃから』


語りながら俺たちの脇を追い越した学長先生が先導する婦人の隣へ並び、ただいまとにこやかに顔を見合わせた。二つの空気が瞬く間に一つに溶けて漂う温かさが二倍になり、見ているだけで優しい気持になれる。シンプルで素朴だけど品があって、安らぎと優しさに満ちている家から感じる印象そのもので、・・・いや、お二人の空気が家や音楽に染み渡っているのだと思った。


リビングに入ると俺たちに背を向けるように床へ座っていたのは、小柄で赤い髪をした少女・・・学長先生が仰るように、確かに東洋系。先に駆け出した黒いラブラドール犬のジーナが、嬉しそうに尻尾をふりながら、飛びつかんばかりの勢いだ。犬の反応や背格好から言っても香穂子に間違いない・・・。だが振り返って顔を見るまでは・・・俺を見た時に彼女がどう反応するかと、鬩ぎ合う葛藤が鼓動を早め息苦しさを増してゆく。

腕の中から飛び跳ねて逃げた子犬を追いかけようと、くるりと少女が振り返える。リビングの入口に佇む俺たちに気付いて目を丸くすると、途端に瞳を和らげ嬉しそうに頬が綻んだ。


・・・・・・・っ、香穂子!


名前を呼びたいのに、驚きと安堵感が大きすぎるからなのか、上手く声が出てこない。
俺も今すぐに駆け出したいのに辿り着けないのは、逸る俺を押し留めるかのように入口前に三人が固まっているから。俺を隠し目の前に立ち塞がる退かない背中が言葉なく語っている・・・感情のまま走っては駄目だ、落ち着く時間も必要なのだと。彼女の動揺を煽らない為とは分かっていはいるが、もどかしさと焦りすら覚え、震えだす吐息を必死で抑えるしかない。驚いているのは、彼も同じだろうが。


『学長先生、お帰りなさいー! あっ奥様との後ろに見える頭ってヴィルさんじゃないですか? お久しぶりです』
『・・・・・カホコ! いつドイツへ来たんだよ、俺たち探してたんだぞ。今まで何処行ってたんだ!? レンがどれ程心配したと思ってるんだ!』
『えっと〜その・・・あっ! って事はこの黒いラブラドール犬はやっぱりジーナなんですね』


おいでと両腕を伸ばし、胸に飛びついてきた黒いラブラドール犬に押し倒されそうになるのを堪え留めて。久しぶりだね、会いたかったよと頬を擦り付けながら強く抱き締めている。足元では戻ってきた子犬が構って欲しいと言わんばかりに、一生懸命彼女を見上げて咆えていた。


どうやら狭い入口を三人に塞がれているから、一番後ろにいる俺には気付かないらしい。
気が抜けるというか少し寂しい気もするが、お陰気持もだいぶ冷静になってきた。俺の名前を聞いて一瞬見せた彼女の動揺が痛く心に刺さったが、だからこそ。あのまま香穂子の元へ駆け込んだら、溜め込んだ感情を思いっきりぶつけていただろう。せっかく無事が分かって再会できたのに、彼女を傷つけ自分も苦しむ事になっていたと思う・・・もうたくさんだ、辛い想いをするのも、させるのも。

再び目の前にしたら、また想いが溢れてしまうかもしれないが・・・。


数日前に尋ねた時に香穂子はここにいないと言われたのに、なぜ彼女はここにいるのだろうか。どう見てもここ数日ではなく、だいぶ前から生活を共にしている馴染み具合が感じられるから、俺が尋ねた時には間違いなくこの家にいたのだろう。問い詰めようと二人を見たが、学長先生も奥様も、愛しそうに目を細めて香穂子を見守っている。溢れ注がれる慈しみは、客人というより実の孫娘のように・・・。音楽と温かさに溢れるこの家で大切にされていたのだと伝わり、良かったなと安堵感が込み上げた。彼女の意思か、それとも学長先生たちの考えなのか。俺に黙っていたのは深い理由があるに違いないと、そう思いたい。


大きく一つ深呼吸をして、気持を落ち着けよう。

学長先生が言っていた子犬とはどちらなのだろう? 
香穂子が抱きかかえているのは小型のチワワ種で、毛は整った薄茶色をしている・・・赤ではない。
秘密や内緒が好きな学長先生らしくないが、となるとやはり彼女の事なのだろうか。
早駆けする鼓動の音が耳から聞こえて、握り締めた手にはじんわり汗をかいてきた。持っていた花束と大きな包みの入った紙袋が滑り落ちそうになり、抱えなおした際に花の甘い香りが語りかけるようにふわりと覆う。

そうか、これも学長先生が香穂子へ贈ろうと買ったものだったんだな。
やはり良く見ていらっしゃる・・・花束を見て香穂子が脳裏に浮かんだのも、納得がいった。中身は知らないが、彼女の笑顔を望む思いはお二人も俺と同じ。だから俺に持っていてくれと言ったんだな、街中の偶然の出会いに感謝しなければ。ずっと黙っている俺を振り返った学長先生を、瞳の奥まで貫くように真っ直ぐ見つめた。


『学長先生・・・。こちらへ来る前に言いましたよね、子犬を引き取って欲しいと』
『確かに言った、赤い髪をした東洋種じゃと・・・チワワでなく、もちろんカホコの方じゃ。この前はすまなかったのう、本当は別の部屋にいたが彼女の希望で居留守を使った。悪戯でも悪気があった訳でもないんじゃ、彼女なりに考え悩んだ結果じゃから、どうか責めないでやってくれ。君が悩んでいるのも知りながら、今まで黙っていてすまなかったな』
「・・・・・・・・っ! 香穂子」


いつもの陽気な笑みは硬く潜め、皺の奥に隠れた瞳がすまなそうな切ない光りを宿して見つめ返す。
学長先生の言葉も何処か遠くに聞こえながら、視線はその先にいる香穂子に引寄せられていた。
リビングの入口を塞いでいた三人がすっと脇へ退き、目の前に道が開けるタイミングももどかしく、かき分けすり抜けながら弾かれたように駆け出した。

俺の中にある扉も大きく開かれ、光りが差し込む。


「香穂子っ!」
「えっ・・・れ、蓮くん! 嘘っどうしてここに!」


月森がリビングに駆け込み香穂子の前に膝を折ると、持っていた花束と包みを勢いのまま床に放り投げた。
驚きのあまり大きく見開いた香穂子の瞳に映る月森の真剣な眼差しに射抜かれ、呆然とする手元が緩んで抱きかかえた子犬がすり抜け落ちる。


「行方が分からず連絡も取れない・・・心配したんだぞ。ずっと香穂子を探していた、何かあったのではと不安に押しつぶされそうだった。だが、無事で良かった・・・」
「蓮くん・・・ごめん、心配させてごめんね。ずっとごめんねを言いたかったの、会いたくて我慢できなくて・・・駄目って分かってたけど早く来ちゃた。でも蓮くんの邪魔しちゃいけないってドイツに来てから気づいて、迷っているうちに時間だけがどんどん過ぎてたの。まさか、こんなに心配かけてるなんて知らなかった、だから余計に言い出しにくかった・・・ごめんね・・・」
「もう、いいから。俺も、すまなかった。香穂子の声が聞けたら、会えたらまず最初にその言葉を言おうと思っていた。少し、やつれたか・・・?」


押さえ切れない涙をしゃくりあげながらも、俺を真っ直ぐ見つめる香穂子の頬をそっと包み込んだ。
脱ぐっても脱ぐってもとめどなく溢れる涙は、どこまでも透明で清らかに澄んでいて・・・。
俺の乾いた中にすっと染み込んでゆく・・・光りと温かさを取り戻すように。


甘い苦しさと熱さに背中を押され口を開くよりも早く、攫うように香穂子を腕の中に閉じ込めていた。
背がしなる程強く抱き締め、首元に顔を埋めて温もりと存在を確かめるように。
吐息と抱き締める指先を微かに震えるのは、安堵と歓喜に高まる心のせいなのか。
震えごと俺の想いが伝わるのが、おずずと縋りつく彼女の腕からも、微かな震えが伝わった。