子犬のワルツ・1

ドイツ、特にベルリンでは犬を連れた人たちが沢山いる。路上やカフェ、電車内が犬で溢れ返っていると言っても大げさじゃないくらい、街中でよく出会う。ドイツで人気のジャックラッセルテリアの他、フォックステリア系の雑種やプードル、ライカミックスなど・・・ここに様々な国の人が集うように犬の種類も実に様々だ。


リードをつけずに街を歩く彼らに初めは驚いたが、犬達は誰もが咆える事無く、大人しく賢い。
主人の先に立って歩くが、分かれ道にや横断歩道になると止まって後ろを振り返り、主人が来るのをちゃんと待っている。セカンドバックや買い物籠を口に咥えたり、自分のリードを束ねて咥えながら歩く姿も見られた。

それだけでなく、ドイツ人は特に綺麗好きで衛生観念が発達した国民なのに、レストランへ犬を連れてくるのが許されるのは意外だった。電車やレストランでは、命令されなくても進んで座席の下に座っている。


人間と同じように接するドイツ人の犬に対する接し方をみていると、義務を押し付けるだけでなく、適度の自由と権利を認めてやる必要があるのだろうと思わずにいられない。


さすがに食料品を売る店には入れないから、動物持ち込み禁止の店の前で健気に主人を待つ犬の姿も多い。
待ちきれずに店内に入り込んでしまうが、起こられてすごすごと元の位置へ戻る犬。寂しいとばかりにクウクウ鼻を鳴らしている犬・・・人と同じように犬にもいろいろなキャラクターがあって面白いと思う。

扉を向き一心に待っていた犬がピクリと顔を上げて嬉しそうに尻尾を振ると、出てきた男の子へ飛び出すように駆け寄っていった。心が和むのは、俺に笑顔で駆け寄る香穂子に似ていたから・・・といったら君は怒るだろうか? となると屈みこんで頬を綻ばせながら、待っていた犬を抱き締めている姿は俺なのかも知れないな。
ペロペロと顔を舐められてくすぐったそうに笑う声に、笑みが零れて自然と俺の口元も緩んでしまう。

一人の少年と小さな一匹が過ぎ去る後姿を見送っていると隣から声を掛けられ、足元にふさふさしたものがじゃれてまとわり付いてくるのを感じた。


『すまない。今、何か言ったか?』
『レン・・・何ニコニコしているんだい?って言ったんだ。せっかくの休日なのに男二人と犬一匹なのが嫌なのは分かるけど。黙って余所見ばかりしてないで、お前の為なんだから少し協力しろよ。そりゃぁ〜気分転換も兼てこいつの散歩に付き合えって、朝から家に押しかけてレンをたたき起こしたのは悪かったけど・・・』
『・・・・・・・・・・』


大人しく足元へ座る犬へ、放って置かれて寂しいよなぁ?と、拗ねた口調で首を傾けるのはヴィルヘルム。
そして手に握った赤いリードの先にいるのは、彼の家の飼い犬である黒色で中型のラブラドール。
真っ黒く艶光る毛並みに映える赤い首輪、ついているシルバーのタグは納税犬の証だ。


朝から騒がしく鳴る呼び鈴に、てっきり俺は香穂子が来たものだと思って慌てて飛び起き、寝起きのまま勢い良く玄関を開けた。しかし玄関へ立っていたのは、笑顔と共に焼きたてのパンを土産に携えてきた彼らだった。
香穂子じゃなかった・・・と、一瞬表情に出してしまったのを気付かれたようで。
玄関先で呆然と佇む俺に、期待させてすまなかったなと、切なげな笑みに胸が締め付けられた。


わざわざ犬と一緒に電車へ乗り、離れた俺の家まで来てくれたのに・・・悪いのは勝手に勘違いした俺なんだ。
帰ってくれと追い返すわけにもいかず結局朝食まで作ってもらい、流されるままに外へと連れ出されてしまう。
最近はずっと煮詰まっていたから、たまには気分転換も良いかもしれないな。

そう思って大きく息を吸い込んでも心は休まることが無く、目に映る街の景色の中から香穂子の姿と気配を感じ取ろうと、視線は遠くへ近くへと彷徨い巡らせている。


数日前に俺が街中で香穂子を見たのが確かこの辺りだったと話したから、今日はヴィルが日課の散歩も兼てやってきたのだ。一人では無理でも人手があれば、もしかしたら見つかるかもしれないから。
俺の脚へ心配そうに鼻先をすり寄せてくるヴィルの犬に、大丈夫だよと瞳を緩めて頭を撫でた。
本当に飼い主と良く似ている・・・そう思ったのは秘密だけれども。


『どこへ行っても犬を連れた人とすれ違う・・・犬と犬好きが多い街だなと思ってたんだ。一人で歩いているとさして気にならないが、こうして一緒に歩いていると見えるものが違ってくる』
『確かに多いよな。一人暮らしをしている人が多い事も理由らしい。それにドイツ良くも悪くも人間関係がドライだからな。この国で暮らす多くの人にとって、文句を言わずひたすら従順な彼らが重要なパートナーなのかも知れない。まっ、こいつはいつも文句は言うし意見するしで、俺たちと変わらず対等だけどな』


赤いリードの先にいる相棒の黒いラブラドールを見る瞳は、口で言うよりも優しく愛しさに溢れていた。
言葉から通じる彼の想いが伝わったのだろうか。俺の脚にすり寄せていた鼻をヴィルへ向けると返事のように尻尾を振り、黒曜石の輝きで真っ直ぐ見上げている。


『鎖に繋がれ、寂しそうな表情で道行く人を眺める日本の犬を思い出すと、対等に接してもらえるドイツの犬は幸せだと思う』
『だけど人権ならぬ“犬権”の尊重も、行き過ぎに繋がる事だってあるんだぜ。人間には厳しいのに犬に対しては大甘のドイツ人に良く会う。レンも見たことあるだろう?“入居者求む。犬猫はOK、ただし小さい子供のいる夫婦はお断り”って。・・・おいおい、人間の子供は犬猫以下なのかっての!』 
『これから甥っ子か姪っ子ができる君の身としては、困った話だな。心が痛むだろう』


そうなんだよと苦虫を噛み潰したように眉を潜めたヴィルが石畳の歩道の脇で膝を折ると、飼い犬の黒いラブラドールも心得たように彼の前へ向き合い座り込む。香穂子が持っていた物か身に着けていたものを貸して欲しいと言われ、不審感を露にしながら俺が託した薄いピンク色のハンカチをポケットから取り出し、犬の鼻先へと差し出した。

『さぁジーナ。お前に警察犬の真似事は難しいだろうけど、レンの為に少しだけ頑張っておくれ。このハンカチの持ち主であるカホコを探して欲しいんだ。冬に会ったことあるだろう? 出来るかい?』


探偵気分で浮き立っているのはヴィルだけでなく、黒いこの犬も一緒らしい。鼻先を寄せて暫く匂いを嗅ぐと、返事のように元気にワンと一声鳴いた。そうかそうか〜お前も頑張ってくれるんだなと、満面の笑顔で頷きながら頭をなでる様子に、たったそれだけで会話が通じ合うのはさすがだと思う。俺にとっては遊びじゃないんだと思いつつももうこれ以上縋るものは無いから、見つけて欲しい切なる願いを託せずにはいられない。


香穂子を探したいのは、どうやらこの犬も一緒なのだろう。この前の冬に香穂子が初めて俺のいるドイツへ来た時にも、お互いに随分懐いてたから。じゃれて離れようとしないジーナにすっかり情が移ったのか、日本へ帰る前に彼女は、「この子もらっていい?」と抱き締めながら必死に訴えていたものだ。さすがに俺もヴィルも「それだけは・・・・すまないな」と苦笑を浮かべて困ったのも、今となっては懐かしい思い出だ。


『俺が手渡したピンク色のハンカチは、香穂子の忘れ物だ。だが一度綺麗に洗ったし、だいぶ日も経っている。彼女を断定するには難しいと思うが、君に託せそうなのはこれしかなかった・・・すまないな』
『捜査にハンカチは一番無難だな。という事は、俺に渡せない物なら他にもいっぱいある訳か?』
『・・・あったとしても、君には渡さない』


悪戯っぽくにやりと向けれれる笑みは気づかない不利をしてやり過ごすと、首輪につけている赤いリードが勢い良く引っ張られた。わっ!と驚いた声が上がり、しゃがんだまま転びそうになるのを堪えて立ち上がると、慌ててリードを握りなおす。


『お前もう見つけたのか、早いな! さっすが飼い主の俺に似て賢いな〜!』
『・・・・・・・・』


何かを見つけたのか、脇目も振らず目的に向かって走り出すジーナを追ってご満悦な笑みを浮かべて走り出すヴィルを、特に返事はしなかったが俺も後から彼らを追いかけた。
休日で込み合う街の人ごみを器用に抜け、敷き詰められた自然の石が作り出す歩道の凹凸に時折足を取られそうになりながら。やっと香穂子に会える・・・彼女が見つかる・・・溢れそうなその思いだけを胸に秘めて。


しかし立ち止まってここだといわんばかりに元気咆えたのは、花屋の店先に佇み、俺たちに背を向けている一人の老紳士の前。やっぱり人違いか・・・と呟き肩を落とすヴィルと、全速力で走らされ上がった息を肩で整える俺を、ジーナはあくまでも自信たっぷりな表情で凛と見上げて尻尾をパタパタ振っている。


一体何を根拠に・・・それ以前にこの老紳士は誰なんだ。
だが何処かで会った気がする背格好なんだが。


背中を見つめて考え込んでいると、咆えずに大人しくしている周囲の犬達の中で、唯一咆けたたましくえる黒いラブラドールに人々の注目が集まり出す。やがて目はどう躾けているのかと飼い主にも向けられ、ヴィルだけでなく一緒にいる俺にまで非難の視線が注がれた。なぜ俺まで・・・というやり場の無い想いを込めて溜息を吐きヴィルを睨んでしまう。俺も協力すべきなんだろうが、こればかりは見守る事しか出来ないんだ。

すぐに黙らせるからと言って赤いリードを強く引き一喝すると、急に動きを止めてシュンと大人しくなってしまった。ジーナにしてみれば頑張って探し当てたのに、どうして怒られなければいけないのかと不満げにも見える。


老紳士へ謝罪を述べる間リードを託された俺は、拗ねてそっぽを向くジーナの頭を撫でていた。
黒く艶光る心地良い毛並みを、心で語りかけるようにゆっくり・・・奥を見抜く真摯な黒い瞳の横顔をじっと見つめて。俺はお前を信じたい・・・もしかしたら、あの人が香穂子の行くへを知っている可能性もあるから。


『私の犬が突然吠え立ててしまい、驚かせて申しわけありませんでした』
『いやいや構わんよ。元気があって良いことじゃよ・・・おっ!? そういう君はヴィルヘルム君じゃないかね、一緒にいるのはレンじゃないか』
『あ〜っ、学長先生〜!!』


ヴィルが叫んだ名前に反射的に振り向いて立ち上がれば、『やぁレンじゃないか』とにこやかな声。
そこにいたのは大学で見かけるスーツ姿でなく、シャツにジーンズというラフな格好をして微笑む学長先生だった。見たことのある背格好だと思ったらやはり・・・だが、俺たちは香穂子を探していた筈なのに、どうして学長先生がジーナの鼻先に引っかかったのだろうか。

花屋の店員から小さなピンク色のブーケを受け取ると、ここで会うとは奇遇じゃのうとそう言いながら、皺に隠れた瞳を笑顔で細めつつ俺たちへ歩み寄ってくる。


『休日に君たちが一緒にいるなんて珍しいのう〜。散歩かな、この黒いラブラドールはレンの犬かい?』
『いえ・・・ヴィルの飼い犬です。気分転換をしろと、俺を連れ出しに彼らが家までわざわざ来てくれたんです。先生はお買い物ですか?』
『まぁ・・・そんな所じゃ。最近我が家で子犬を預かってのう・・・可愛い子犬たちの為にいろいろと見繕っていたんじゃが』
『なぁ学長先生、カホコ見なかったか? こいつの散歩もあったけど、俺たち人を探しているんだ。彼女を探していたら、ジーナがいきなり走り出して行き着いたのが、学長先生だったって訳』


こいつ俺に似て感が冴えるから、是対に何か知ってると思うんだけど違うかい?と確信を得たように。
託されていたリードを受け取り、俺と学長先生の間へ割って入ってきたヴぃるが、伝えたかった言葉を代りに届けてくれる。教育の場である音楽大学だけでなく、現役の音楽の世界へ今も大きな影響を与えている巨匠を前に、ヴィルは怯む事無く真っ直ぐに見つめ返して。


君たちには敵わないのう・・・。
諦めにも似たような小さな溜息とに混じった呟きが聞こえ、やがて小さく肩を竦め腕にはめた時計を見る。
君たちこれから時間はあるかねと言われて互いに顔を、見合わせ了承の返事を伝えた。
まだ時間は昼前だし、ランチを何処で取るとかその後何をするとか、全く考えていなかったから。


『これから家に帰ろうと思っておったんじゃが、せっかくだから我が家で昼を一緒にどうかね。車があるから乗っていくといい・・・レンもヴィルも、黒いその子も』
『え!? 奥様の手料理をご馳走して頂けるんですか!』
『ヴィルは食べ物の事になると、途端に嬉しそうな尻尾が見えるようじゃのう』
『一度食べたら、あの美味しい味は忘れられないよ。まさに故郷の味・・・温かい家庭の味と雰囲気は、心もお腹も幸せにしてくれる。俺の家はいつも冷たい食事が多いから、本気で下宿を考えた事もあるんだ』


目を輝かせるヴィルの前には料理の数々が浮かんでいるらしく、少しうっとり遠くを見ているようだ。そろそろ空腹になる頃か・・・と思いをはせながらそんなに美味しいのか問えば、レンも一度食べてみるといいと強く迫られる。香穂子を探しに以前一度、学長先生の家へ伺った時に食事も・・・と勧められたが落胆が大きくて、あの時は落ち着いて食事をする心理状態じゃなかったからな。


車を止めてある大通りの道路脇へと向かいながら、学長先生の後を付いてゆく。
落ち着いた路地裏の通りを抜けると、人ごみの騒がしさが次第に車が激しく行きかう賑やかさへと変わっていった。路上駐車の取り締まりが厳しいから、本来は正規の駐車スペースへ止めるべきなのだが、ベルリンでは駐車禁止の標識が無い場所での路上駐車が基本だ。


『ちょうど良かった、ワシも君たちに頼みたい事が会ったんじゃよ。君たち・・・というよりレンにと言った方が良いかのう』
『俺に・・・ですか?』
『何、警戒するほど難しい事じゃない。さっきワシの家で子犬を預かっていると言ったろう、その子の犬をレンに引き取って貰いたいんじゃ。手放すのは惜しいが、ワシも早く何とかしてやりたいんじゃよ』
『俺は確かに一人ですが、留守にする事も多いです。自分だけで精一杯なのに、もう一つの命を預かる大役は受けられません』


俺の言葉を背中で聞きながら、あったあった、この車じゃよと示したのは左ハンドル黒いBGW。

右側通行のドイツは、車は殆どが左ハンドルだ。右折が面倒くさいんだよなと、車に目を輝かせながらも隣でヴィルが苦そうな顔をしている。ロックが解除されて開いた後部座席のドアから乗り込みざまに、その点なら心配要らないよ、と意味ありげに学長先生から笑みを向けられた。


助手席で大きく空けた窓から顔を出すジーナを、シートベルトを締めたヴィルが、膝に乗る背中ごと落ちないように抱えている。座り心地の良さと振動の少ない空間は、まるで移動する部屋と言ってもいいだろう。眠気さえも誘われるようで、近代的な建物と歴史ある石造りの建物が混ざる車窓の流れを、ぼんやり眺めていた。


こんな事をしている場合じゃないのに・・・でももしかしたらと。
混濁して飛びかけた意識が引き戻されたのは、前方で交わされる会話が耳に飛び込んで来たから。
犬好きな彼がどんな子犬なんだい?と興味深気に聞くと、学長先生がこう答えていたからだ。


----------小柄で愛らしくて、赤い髪をした東洋系じゃよ。


『突然やってきた子犬は、もともとワシが預かる予定じゃったが本当は別に行きたい場所・・・会いたい人がいるんじゃよ。その為に遠くから一人で旅をしてきたのに、近くまで来てもあと一歩の勇気が出せないでおる』


うちのジーナ大きいから驚かないかなと心配そうにヴィルが言えば、会いたがっていたからきっと彼女も喜ぶじゃろうと声音に笑みを混じらせた。その子は女の子なのか・・・ウチのジーナと一緒だなと安堵するヴィルだが、しまった・・・つい口が滑ってしまったと慌てて誤魔化す学長先生を俺は見逃さなかった。


まさかそんな!
先日訪ねた時には、彼女はいないと言われたのに・・・・・・・・。