光りと影の狭間で・5

白い石造りの大講堂の階段には紙に落としたインクの墨のように点々と、数名の学生が座り込んでいる。
語り合う者や読書をする者、譜読みをする者など・・・。一番上の段に腰を下ろせば高い位置から石畳の広場が見渡せて、中心にある彫像から伸びる影が時を刻む日時計のように長い影を落としていた。

石段に腰掛けた膝の上に、両手を組んで屈めた肩を支える。項垂れ俯いたまま自分の影を眺めていたが、ふと影の先を追って視線を上げれば、夕暮れの茜色に染まっている歴史を切り取ったような建物や白い広場。そしてグラスの中の液体が変化してゆくように、少しずつ赤い濃さを増し、闇へと溶け込んでゆく幻想的な風景。
数日振りに訪れたゆっくりと流れる時間に身を漂わせながら、目の前に広がる景色をぼんやりと眺めていた。


オレンジとも赤ともいえない夕暮れの色は、郷愁を揺さぶる感傷的な気分を誘うと言うけれど。押し迫る夕闇に家路へ向かう安らぎというよりも、どこか不安になって胸騒ぎがするようだ。生まれ育った場所や環境が違うからなのか、キャンバスの絵や写真を眺めるような、どこか一枚フィルターを通したような不思議な気分だ。

正門から続くリンデンバウムのもっと奥、恐らくこの大学よりも遠くの森の中に小さな湖が見える。
いつもは森と同じ色をして目立たないのだろうが、水面に赤黒い夕焼けを映して光り輝き、あっという間に闇の中へと消えていった。


少し待っていてくれとヴィルに言われて、もうどれくらい待っただろうか。名前を呼ばれたような気がしてふと我に返れば、ぼんやり眺めいてた石造りの景色が歪み、赤い夕暮れの景色が薄い青色の世界に染まった。
まるで青く澄んだ水の中に、俺も景色も全てが沈んだように・・・。ぼやけていた焦点が間近に合うと、次々に底から生まれる小さな気泡の粒と水滴が、ひんやりした空気を伝えてくる。


屈めていた上半身を僅かに起こせば、青いものの正体がスパークリングのミネラルウォーターだと気付いた。目の前に眺めていないで受け取れよという声に顔を上げれば、いつの間にか俺の隣に座っていたヴィルが、ボトルの先端を掲げ持って軽く揺さぶっている。少し待っていてくれと言い残して消えたのは、これを買うためだったのだな。オケの授業中から終えてまでいろいろ騒いだし、日没とはいえ夏も盛りで熱さがまだ身体に残る。
そういえば喉が渇いていたなと思い出し、彼の気遣いに心の中で感謝を覚えずにはいられなかった。

ボトルを受け取り両手で包めば、ひんやりした冷たさと覆う水滴が、手の平へ吸い付くように馴染んだ。


『待たせたな。一人ぼんやりする時間ができて、少しは落ち着いたか? これでも飲んで、頭冷やせ』
『すまない、ありがたく頂いておく』
『売店に発泡性のしか残ってなかったんだ、走ってきたから中身の保障は無いぞ。蓋を空ける時は噴出さないように、気をつけろよ』
『・・・・・・・』


何事も無いようにさらっと言うヴィルに思わず眉を顰め、手元のボトルをじっと見つめる・・・さてどうしたものかと戸惑いながら。レンも飲まないのかという彼が両手を精一杯伸ばして青いボトルの蓋を捻ると、詰まった気泡が勢い良く弾ける爽やかな音と白く立ち上る煙が見える。走ったから喉が渇いたのだと、腰に手をあてて豪快に飲み干した様子に半ば呆気に取られつつ、そろそろ良いかと腕を伸ばし顔を背け、注意深くボトルの蓋を捻った。

プシュッと弾ける爽快な音が、俺の心に溜まった空気を外へと吐き出してくれて。青空と同じ色のボトルに口をつければ、ミネラルウォーターの冷たさと発砲する清涼感が喉を焼くように通り過ぎる。
我を忘れる程乾き火照っていた頭と心が、染み込む潤いのお陰で次第に落ち着いてくるのを感じた。

レン・・・と呼ばれて隣を向けば、俺はまだ一口含んだだけなのに、もう殻のボトルを振りまわして持て余していた。語る言葉を紡いでいるのか、ここには無い別な空間の景色を見ているのか・・・空をオレンジ色に染める刷毛のような遠くの雲をじっと見つめて。


『何が原因か知らないけど、喧嘩はどちらか一方が悪い訳じゃない。いつも逢える時は気にならないけど、離れていれば電話口で喧嘩するなんて良くある事さ。レンだけじゃなくカホコにも、お前の堪忍袋へ火をつける何かがあったんだろうな。でもお互いにそれに気付いたから、謝る為に歩み寄ろうとしていたんだろう?』
『手紙やメールと違って声が聞けるのは嬉しい。だが電話で会話するのは表情が見えない分、会って話すより難しいものだな。声のトーンや喋り方、呼吸など・・・ほんの些細な事でも大きな誤解を与えかねない』
『声だけで感情を伝えるのは、誰だって難しいもんさ。それだけじゃない、男性と女性では電話に対する意識が違うんだ。俺たちは必要な事を話せれば良いけれど、女性は繋がっているという感覚が大切なんだと思う。だから長話をしたり、電話をかけてから話を考えたりするんだろうな』
『まるで見てたように、ずいぶん詳しいんだな』
『時間が気持をすり替えてしまうから、謝るなら早いうちがいい・・・俺もしょっちゅうやったもんだ』


遠く記憶の中に眠る風景を懐かしみながら映していた、ブルーグリーンの瞳がすっと現に引き戻される。
思い出と現実を一瞬で切り替える瞬間・・・その素早さに目を奪われていると、振り回していた空のミネラルウオーターのボトルを真っ直ぐに向けられた。問い詰めるように俺が隠す何かを探るように、真摯な光りを宿して。


『そんなにカホコが心配で気になるなら、どうして早く謝らないんだよ。面と向かって伝えられないなら、手紙やメールだってあるだろう。それとも彼女が折れるまで待ってるのか? どっちかというとレンの方が先に折れるくせに、相変わらず頑固で意地っ張りだな』
『・・・それが出来れば悩みはしない。せめて声が聞けたら伝えられるのに・・・。ここ最近送ったメールも、返事が無いから見てもらえているか分からない』
『レンと同じようにカホコも、一度こうと決めたら絶対に曲げない所があるからな。まだへそを曲げているか、それか話したいのに話しにくくなっているんじゃないのか? 電話にでてもらえないなら、日本へ飛んで返って直接ごめんって一言えばいいだろう? 香穂子なら悩まずにお前の元へ飛んできそうだ』
『・・・・・・・どんなにしても、香穂子に連絡が取れない。彼女が今何処にいるかさえ、分からないんだ・・・』
『は!? いないのか?』


素っ頓狂な声を出して驚きに目を見開くヴィルが半分腰を浮かしかけて、再び石段に座りなおす。
それが痛く心を貫く矢となり、ようやく抑まっていた苦しさが再び吹き上げてくる。横目で感じながら重さを増す頭が自然に項垂れてゆき、両手に握ったブルーのボトルを祈る思いで強く握り締めた。



香穂子が怒って電話を切った直後から一週間くらいは毎日電話をかけていたが、大学でのレッスンやCDの収録に関する打ち合わせや収録か重なり、その時間が取れなくなってしまった。家を空ける事も多くなったから、もしかしたら彼女が連絡をくれてもすれ違ってしまった可能性は高い。
暫くしてやっと一息落ち着いたついた頃、だいぶ時間が経ってしまったがもう一度話そう・・・謝ろうと思って俺は香穂子の家に電話をした。だが電話に出た香穂子の母親によると、既にドイツへ旅立ったのだという。

以前二人で決めた・・・というより変更してもらった予定ではまだ一ヶ月も先だったし、もちろん俺の所へ来ていない。俺の所へ行ったものだと驚いていたから、思わず咄嗟に誤魔化してしまった。

そういえばヴァイオリンの先生を訪ねたいから約束も日よりも一足先に出発すると言っていたと。
出先だったからいつもの癖で、ついこちらにかけてしまったと・・・。
嘘は苦手だと自他共に認めているのに、香穂子の大切な家族に対して、なぜそんな嘘を吐いたのか俺にも分からない。

もしかしたらすれ違っていた空白の時間で、互いの情報が伝わっていなかったという事もある。
心配をかけて大事にしたくは無かったんだ・・・勘違いならいいと、俺自身がそう信じたかったから。
だが・・・・・・。


『・・・だが、心当たりを全て訪ねたが、香穂子が見つからない。念の為、久しぶりに日本の友人達へも連絡したんだが知らないというし、本当に日本を発っているようだった。確かにドイツへ入国した形跡はあるんだが・・・』
『何だって、消えたのか!?』
『まだそうと決まったわけじゃない、彼女に何かあったと信じたくないんだ。彼女の行動は今でも俺の予想を遥かに超えているから、突然やってきた事は今まで何度もあった。俺の知らない友人知人がいる可能性もある』
『カホコのヴァイオリンを学長先生が見る予定だったんだろう、ジイサマの家には行ったのか? 過去に何人もの学生を下宿させてレッスンしていたから、可能性は一番高いんだけど』
『俺もそう思って先日訪ねたんだが、最後の頼みの綱と思っていた学長先生の家にもいなかった。香穂子から連絡が来たら伝えて下さると、そう言ってはくれたんだが・・・・・・』
『兄さんと義姉さんの所にもいなかったぞ・・・お前が眉間の皺を寄せる気持が分かるぜ。特にあの先生ならカホコをそそのかして、というか一緒に結託して秘密に隠しそうだもんな』


そう言って苦虫を噛み潰したように顔をしかめて目を細めたヴィルが、ミネラルウオーターが入っていたブルーのペットボトルを、力を込めて両手で握り締める。パキリと弾けた音がすると、固めの素材にも関わらずくの字に折れ曲がった。驚きに目を見開く俺に気付いて手元を見つめると、自嘲気味に笑い肩を竦めた。
思い当たるのはどうやら彼も、過去に同じような件で学長先生に痛い目を見せられたからなのだろうか。

さぞかし振り回されたのだろうと気の毒に思うが、もしかしたら明日は我が身。
眉根が寄って溜息が出そうだが、それならばまだいい。彼女が無事でいる筈だし、音楽面の心配も無いから。

どうか無事でいてくれ・・・今願うのはそれだけだ。
香穂子の身に何かあったら、俺のせいだ。


『香穂子がこのドイツで頼れる人間は限られている。俺が訪ねた先で彼女が、意図的に秘密で存在を隠しているならいいんだが。もしも事件にでも巻き込まれていたらと思うと、夢にまでうなされ生きた心地がしなかった』
『レン・・・・・・』
『家や街中でふと香穂子の気配を感じるんだ。確かにそこへいたのだと・・・学長先生の家を訪ねた時もそうだった。視界に香穂子の姿が一瞬映った事もある、どんなに遠くても俺が見間違う筈が無い。だが気付いて追いかけた時には消えていて・・・だからこそ、余計に不安が募るんだ。自分で生み出した幻を追いかけているようで、現実と夢が混乱しそうだ。本物ならなぜ避けるのか、俺は知りたい』
『すまなかったな、レン。そんなに思い詰めていたとは知らずに、キツイ事言った。真っ先に届けたい大切な相手の一大事かもしれないとあっちゃ、落ち着いている方が難しいよな』


CDの録りは半分終っているし、残りはヴァイオリンの二重奏と最後の曲だけだった。曲に関してはあと一息。
他にもブックレットの原稿やらデザイン、撮影やらデビューに関しての打ち合わせもいろいろあるのに。
精神的に乱れていた俺のせいで演奏も何もかもが、途中で止まったままになっていた。
なのに止めていた時間を使って香穂子の情報を探し回っていた俺を、大切な時期なのにとヴィルが講堂で怒りを露にしたのは当然だと思う。

音楽と香穂子と・・・どちらを道を取っても、壁に当たって先へ進めず行き止まり。
止まるどころか、何時の間にか深い闇の中で道に迷ってしまっている。
君はどんな時でもくじけずにまっすぐ光りを求めているのに、俺がこんなでは受け止めるどころか届ける事さえも出来るかどうか。


『どうして大事なことを俺に黙ってたんだ? 一人で解決できなくても、違う見方や人出があれば上手くいく事だってあるのに、レンはいつも一人で抱え込むんだな。自分でやり遂げる意思は凄いと思うけど、必死になる程周りはお前が心配になる。たまには頼って欲しい時だってあるんだぜ、決して弱い事なんかじゃないんだ』
『香穂子も、きっとそれを俺に言いたかったんだろうな。彼女の気持を察せずに、冷たい言葉を言ってしまった』
『ひょっとして、俺に気をつかったのか? 古傷を突付くかもしれないって』
『・・・それもある』
『留学先のロシアから戻る宙で事故にあった俺の彼女と、カホコの行方不明が重なって、頭が離れなかったんだろう。だから必死になって探して焦って、自分にイライラした・・・バカだなお前。俺はそんなに弱くないし、カホコだって一人で突然思い立って来るくらいのエネルギーなら、悪運だって避けていくだろうさ。お前が信じて待たないでどうすんだ』


飲み干して空になっただけでなく、潰れてくの字に折れ曲がった青いペットボトルの口を摘んで弄びつつ。
バカだな・・・お前は、と飽きれたように少し拗ねるように。でも温かい響きを宿していて励ますように心へ染み込み広がり、大きな溜息に乗せるヴィルの言葉が揺さぶりをかける。ふわりと浮かんだ微笑に口元を緩ませながら中身の残るペットボトルを握り締めると、表面を覆う冷たさと水滴は乾き、中の気泡はすっかり消えてなくなっていた。


『カホコは確かにレンの近くにいると思うんだけどな。突発的にドイツへやってきたものの、どうしてか声を掛けられずにいる・・・そんな気がする。絶対に無事でいるさ』
『後先考えない勢いは、昔からだ。そこが俺が好きな、彼女らしいところでもあるんだが』
『俺にも似たような思い出があるさ。やっぱり電話で喧嘩して、いてもたってもいられずに追いかけた。真冬のロシアの寒空の下で凍死寸前の所を、バッカじゃないの!!って泣きながら怒られた・・・。とりあえず一番妖しいのは、悪戯と秘密が大好きな学長のじいさまだな。最近妙に機嫌が良くて、大学からの帰りも早いんだ』


大きな手が俺の頭を包むと、くしゃりと髪をかき回した。
軽く振り回されながら眉を顰め手を逃れると、ブルーグりーンの瞳が柔らかい光りを宿し、夕日の赤みを受けた頬が優しい笑みを浮かべていた。子供じゃないんだと反発したくなるが、安心しろよと言ってもらえているようで、不思議と心が落ち着いてくる。


香穂子が迷わず辿り着けるように俺はここだと呼びかければ、きっとひょっこり現われるさ。
言いたいこと沢山あっても、レンは絶対怒らずに迎えてやれよと・・・・。
俺の肩を叩き、手の平から温もりを伝えるように乗せたまま、手を悪戯っぽく瞳を輝かせてそう言った。



返事と笑みで返して飲みかけだったミネラルウオーターのボトルへ口をつけると、傾けたボトルの中にある水が夕日を受けて煌きを放っていた。喉へ流れ込む冷たさがとても心地良いのは、沈みかける寸前の真っ赤な太陽がブルーのボトルに溶け合って、光りの雫となるからだろうか。

駄目だと言っていたのに、こっそりドイツへやってきた君が届ける言葉と想いが、青の中で溶けて俺の中へ流れ込んでゆく。心へ響く優しい言葉と広がる笑顔が、温かく外側だけでなく内側までも包み込んでくれる。


君に会いたい・・・声が聞きたい。側まで来ているのなら、この腕に抱き締めて伝えたい。
すまなかった・・・と。
喧嘩をするたびに、君がどれたけ俺にとって大切かを改めて思うんだ。
だからどうか隠れていないで、早く姿を現してくれないか?