自分らしく輝いて・4

数日ぶりに戻った家の中は、ずっと閉ざされていたせいか、空気も埃っぽく湿気を含んでいた。
冬場と違い外気で温められ、蒸し暑く籠った空気が呼吸を塞ぎ、肌にまとわりつくようだ。
エアコンをつける前に、まずは空気を入れ替えなくてはいけないな。
全ての窓を開け放っていると、鞄を下ろした香穂子も部屋を駆け回り、一緒に手伝ってくれている。


香穂子の手提げ鞄がフローリングの床に置かれると、中で身動きする子犬が蹴倒し抜け出してしまった。違う環境にやってくると本来は緊張するものだが、賑やかに吠え立て駆け回る姿は自分の家と変わりはないようだ。何度か来た場所だと思い出したのか、それとも・・・彼女が嬉しそうに生き生きとしているから、安心しているのだろうか。


慌しく駆け回っていた香穂子が脚を止めると、開け放ったリビングの窓を覆う白いレースのカーテンが、さっと音を立てて大きく波を描く。気持いいねと頬を綻ばせる君と窓に向かい合えば、外から吹き込む心地良い風が透明な道を作り流れて行くのを感じた。新鮮な空気だけでなく、君のお陰で眩しい光りまで注がれたようだ。


さてここはもういいだろうか・・・充分に空気が入れ替わったし、そろそろ自室に引き上げよう。


荷解きと新たに準備をしなくてはいけないが、やはり彼女が帰るまで待つべきだろうか。
壁に掛かった時計で時間を確認するが、残された時間は少なく難しい選択に眉を顰めるしかない。着替えはともかく音楽関係のものはCDの作成に関わるものが多いから、出来るだけ香穂子に見られないようにしなくては。

だが手伝いたいと申し出てくれた彼女の気持を、快く受けたいのが本音だ。
今は香穂子と過ごす時間が貴重だし、一分一秒でも長くあって欲しいから。


「・・・? 香穂子、どこにいるんだ?」


鞄を肩にかけてヴァイオリンケース持つとリビングを見渡し、姿の見えない香穂子を探して呼びかける。
すると少し離れた背後から返事が聞こえて振り返れば、ソファーの陰から這うようにひょっこり姿を現した。
身じろぐ子犬を腕の中に抱きながら、お待たせと笑みを見せる所をみると、部屋の中を走り回っていた子犬をようやく捕獲した所らしい。僅かに息を切らせて肩を上下させ、額には薄っすら汗を浮かべていた。

一緒になって駆け回る姿を想像すると、どちらがじゃれているのか可笑しくて、つい口元が緩んでしまう。
そんな俺に気づき、何を笑っているのかと唇を尖らす君は、肩で息を整えながら紅潮した顔で睨んできた。


「蓮くん、何を笑っているのかな?」
「いや・・・すまない、楽しそうだなと思ったんだ」
「もう〜人事だと思って・・・私を見ている蓮くんの方が楽しそうだよ。ちっちゃくてすばしっこいから、一度逃げると捕まえるのが一苦労なんだから。楽しいけど、けっこう大変なんだからね。蓮くんもやってみる?」
「いや、遠慮しておく。君を捕まえるだけで、精一杯だから」
「もう〜どうせ私は、いつも落ち着きないですよ〜だ!」


きょとんと小首を傾げていたが、やがて真っ赤に頬を染め顔を反らしてしまう。恥しさと拗ねる君が可愛くて、余計に頬が緩んでしまうんだ。落ち着き無い君から目を離せないというのも本当だが、捕まえるというのはもっと深く大きな意味がある。音楽と君を追い続けるのに、常に持てる全ての想いと力を注いでいるのは嘘偽り無い。
鞄と一緒に床へ置いたままのヴァイオリンケースを持つと、頬を膨らます香穂子に託した。


「これ、蓮くんのヴァイオリン・・・・・!?」
「君に預ける、先に俺の部屋行っていてくれないか? 飲み物を用意したら、荷物を持ってすぐに行くから」
「うん! 先に行って空気を入れ替えているね」


籐で編まれた底の広い手提げ鞄に子犬を入れると、肩に背負い、俺の手からヴァイオリンケースをしっかり受け取った。きらきらとした大きな瞳で託されたヴァイオリンケースを見つめ、先ほどとは違う紅潮した頬と視線が真っ直ぐ俺に注がれて・・・。くるりと背を向けた君は、弾けたいのを必死で抑えながら早足でリビングを抜けていった。


俺の分身を預けられるのはたった一人、君だけだから・・・・・・・・俺の心の声が届いただろうか。


しかし何か飲み物をと言ったは良いが、果たして何か飲み物があっただろうかと急に不安が過ぎる。
予想していた通り冷蔵庫はカラッポで、残っていたのは、あいにくミネラルウオーターのみ。
食にあまりこだわりがない上に、料理も殆ど作らない。さらに一週間以上も家を空けていればこんなものだう。
ちゃんと食べているのかと心配で怒る様子が目に見えて、とてもじゃないが君には見せられないな。

こんな時に限ってと溜息が溢れるが、何も無いよりはいいだろう。500mmサイズのボトルを二本・・・いやもう一本だなと三本取り出し、少し深めの小皿を用意して香穂子が待つ俺の部屋へ向かった。





軽く扉をノックして開けると、開け放たれた正面の窓から吹き抜ける風が、俺の身体の中を通り抜けた。
先に来ていた香穂子が、窓を開けてくれたんだな・・・。緑深い木陰が生み出す湿度の低い空気は、熱さにうだる身体や火照った心を優しく宥めてくれるようだ。窓辺に佇み外の景色を見ていた彼女は、俺に気づくと肩越しに振り返り、温かい笑顔で迎えてくれる。


「蓮くん、お帰りなさい!」
「・・・ただいま、香穂子」


「おかえりなさい」・・・それはずっと聞きたかった君からの言葉。
短いけれども「ただいま」の一言が、だからこそこんなにも照れ臭くてくすぐったい。
心に染み込んだ雫は胸の奥を熱く震わせ、熱いうねりとなって、身体全体へゆっくり満ち広がってゆく。



窓辺から駆け寄った香穂子は、何も無いシンプルなフローリングの床の上にペタリと座る。側に置いた手提げ鞄からチワワの子犬を抱き上げると顔の前に掲げ、蓮くんのお部屋だから大人しくしててね?と、神妙な面持ちで語りかけていた。嬉しそうに尻尾を振って無邪気に顔を舐めているのは、子犬なりの返事だといいのだが・・・・。
困ったように眉を寄せて隣に座らせる様子に苦笑を堪えつつ、彼女の向かいに膝を折って屈みこんだ。


「これから荷解きや荷造りだってあるのに、私こそ突然押しかけちゃってごめんね。すぐにまた出かけなくちゃいけないんでしょう?」 
「あぁ・・・だが、君とゆっくり語らう時間は充分にある、心配要らない。それと・・・すまない、暫らく留守にしていたから何も無かった。ミネラルウォーターでも良いだろうか?」
「ありがとう蓮くん、喉が渇いてたから凄く嬉しい。お水はね、私が今一番欲しかったものなの。蓮くんは、いつも私が欲しいなって思うものを必ずくれるよね。私が心の中にいるみたいで、温かい気持になれるんだよ」 


冷えているミネラルウォーターのペットボトルを差し出すと、受け取った香穂子は手の感触に目を丸くして驚き、冷たくて気持良いね!とはしゃぎ始めた。ボトルをだきしめたり、頬や首筋にあてて冷たさを楽しんでいる。
蓋を捻ると空気の弾ける音がして、両手で抱えながら美味しいねと飲み干す笑顔が眩しくて目を細めずにはいられない。気づいていないんだな、俺が一番欲しいものをくれるのは、いつだって君の方だという事を。


隣でじっと我慢しながら大人しく座る子犬の前に持っていた小皿を置くと、新たなボトルの蓋を捻ってたっぷり水を注ぎ込んだ。揺れて煌くを視線と共にそっと差し出せば、初めは警戒していたものの弾けたように食い付いた。
ぴちゃぴちゃと音を立ててあっという間に飲み干し、名残惜しそうに皿まで舐めてしまう・・・小皿では小さかったかもしれないな。再び注ぐと美味しそうに水を飲み干す姿は、まるで隣に並ぶ香穂子に良く似ていると思う。


「こっちのボトルは子犬の分だ、喉が乾いていたんだな・・・君も子犬も。あっという間に飲み干してしまった」
「いろいろ気をつかってくれてありがとう、忙しいのにちゃんと周りも見れる蓮くんを、私も見習いたいな。ふふっ・・・良かったねワルツ、今日は特に暑かったから。一杯のお水がとっても美味しいって感じられるのは、幸せだなって思うの。蓮くんにも会えたし、私の心も潤ったよ」


そう言ってペットボトルの水を更に注ぎ、子犬の頭を優しく撫でている瞳は、子供を見守る母親のように慈しみに溢れてた。引寄せられじっと見つめる俺の心に、言葉にならない甘い疼きが生まれてくるほどに。今までは元気で無邪気な君しか見たことが無かったから、新たに見つけた表情をもっと目に焼き付けておきたいと思うから。今彼女がヴァイオリンを奏でたら、どんな音がするだろうか・・・きっと温かく優しい音色に違いない。
だが何かをふと気づいたように、きょろきょろ家の中を見渡し始めた。


君を思っている最中だったら、俺の心が読まれたのではと焦ってしまう。
飛び跳ねた鼓動が頬に熱さを吹き上げ、いつの間にか緩んでいた頬を慌てて引き締めた。。


「香穂子、どうしたんだ?」
「さっきワルツを捕まえる時に思ったんだけど、広くて大きなお家だよね。一人で暮らすには大変じゃない?」
「そうだな、だが恵まれ過ぎた環境だと思う。ここは母や祖父が海外で長期間演奏活動をするために、ヨーロッパのいくつかにある家の一つなんだ。今は留学している俺が使っているが、父や母も立ち寄るし、俺たちが不在だった頃に管理してくれご家族が、今でも時折様子を見に来てくれる。完全な自立とはいえないな、出来るだけ自分でやるように心がけてはいるが・・・」
「私は家だとヴァイオリンの練習が出来ないから、学校でってなると時間も限られるし。合間にバイトしたり課題があったり・・・。高校の時は何も考えずに音楽のことだけ考えられたけど、社会に出たらそうもいかないんだね。夏休みの間だけだけど、音楽に専念できる今お世話になってる環境が、凄くありがたいなって思うの」
「だからこそ努力をしなくてはいけないし、甘える事無く真摯に向かい合い、結果を残さねばと思う。当たり前と思っていたもの程、実は難しいものかも知れないな。音楽に関われる時間もそうだが、君とこうして触れ合える事も」


そっと手を伸ばして頬を包み込むと、手の平に心地良い柔らかさが吸い付く。
離れない・・・いや、手離したくないんだなと心の声に耳を傾ければ、反らせずに絡まる互いの視線に熱さが宿る。
それが君の頬や俺の手に伝わるから、余計に奥へ潜む炎に火をつけるのかも知れない。
もう片方の手を伸ばしかけたところで、我に返った香穂子が顔を真っ赤に染めながら、そわそわと身動ぎ始める。
照れ臭さを反らすようにペットボトルを弄び、動揺で上手く空けられない蓋に苦戦しながらも水を飲み干した。


「・・・っ! けほっこほっ!」
「大丈夫か、香穂子。慌てて飲むからだ」


焦っているせいで気管に入ったらしくむせ返ってしまい、目に涙を浮かべて咳き込んでしまう。苦しげな背中をさすってやると次第に落ち着いてきたのか、ありがとう・・・と少し掠れた声で振り仰いだ。いつでも君は目が離せないなと安堵の溜息を漏らす俺の向かいですまなそうにはにかみ、やっと落ち着いたよと深く深呼吸をする香穂子。
どうやら言いたかった事を思い出したらしく、瞳を輝かせて膝を詰め、鼻先が触れ合うくらい身を乗り出してきた。


「ねぇ蓮くん、持ってきた着替えの中でお洗濯するものがあったらやろうか? お部屋のお掃除でもいいの、ずっと家を空けていたんでしょう? せっかく遊びに来たから、何か手伝いたいの」
「ありがとう、香穂子。クリーニングは殆ど向こうで済んでいるから大丈夫だ。後は着替えを交換するくらいだし・・・今から掃除では朝になってしまう」
「そうなんだ・・・ちょっと残念。ほら、こういうのって、一緒に暮らしているみたいで良いなって思ったから。あっ・・・私の事は気にせず、荷解きとかしてていいからね。お手伝いできる事があったら言ってね」
「ありがとう、今は香穂子の気持だけで嬉しい」
「そう・・・か、そうだよね、すぐまた出かけるんだもんね。私ずっとここにいちゃ駄目だよね」


切なげに揺らいだ瞳が遠くを彷徨うと僅かに俯き、手の中にあるボトルを強く握り締めた。だが振り切るよう顔を上げ、残された水を一気に飲み干すと、はーっと息を深く吐いて。空の皿を舐めている子犬を抱き上げると、籐で編まれた大きな鞄の中に入れた。座っていた床から立ち上がって腕を伸ばし伸びをすると、Tシャツの裾からお腹がチラリと覗く。まさか帰り支度をしているのだろうかと動揺しかける俺のを、澄んだ瞳が真っ直ぐ振り仰いだ。


「蓮くんお水ご馳走様、とっても美味しかった。じゃぁ私、帰るね」
「え!? 今来たばかりじゃないか」
「さっワルツ、遅くならないうちにお家へ帰ろうね?」
「香穂子、突然どうしたんだ!?」


広い鞄の底でくるくる動き回る子犬がワンと咆え立て返事をすると、中を伺いながら肩に背負い俺から背を向けてしまう。それ以上は何も言わず、振り返らず部屋を出ようとする香穂子を慌てて呼び止め、後ろから攫うように抱き締めた。腕の中の身体がピクリと震えて身を硬くし、離してと身動ぐが、今手放したらいけない気がする。
捕らえるのではなく包み込むように優しく温もりを伝えていると、諦めたのか次第に大人しく身を預けてきた。

吐息に混じる微かに震える声が、何かに耐えている心の声をも伝えてくるようだ。


「・・・・・・っ! 蓮くん離して、私帰らなくちゃいけないの」
「君が本当に帰るのは、ここだろう?」
「分かってる、分かってるけど・・・でも。今のうちじゃないと帰れなくなっちゃうよ、お世話になってる学長先生のお家にも・・・日本にも。それにすぐ出かけるから、時間無いんでしょう? 名残惜しくて手放せなかったら、遅刻だよ」
「まるで直ぐ日本へ帰るような、不吉な事を言わないでくれ。もうすぐ一ヶ月が経つから一緒に過ごせる・・・それまでの我慢だ。それに時間は・・・君を抱く時間なら、充分にある」


抱き締める腕に力を込めると、触れ合う互いの身体が熱を持ち始めてくる・・・囁くような俺の吐息も熱い。
君の激しく高鳴る鼓動が前に回した腕から伝わり、上手く紡げない呼吸を整えようと怪しく胸が上下する。
くるりと腕の中で身体を捻り正面に向き合うと、潤む大きな瞳が静かに訴え俺を射抜く。


「こうして会えるだけでも幸せだって思わなくちゃいけないのに、離れる程にどんどん求めて止まらないの。皆と約束したらけじめはつけなくちゃって・・・でも離れたくないって苦しいの」
「俺も同じだ。側に居られる温かさを知ってしまったから、また寒くなるのが正直怖い」
「それだけじゃないの、こっそり先に一人でやってきた頃と、私ってば何にも変わってない。蓮くんの姿が一目見れたり音が聞こえれば良いなって・・・少しでも気配を感じようと散歩にやってきて。会えたら良いなって思いながらもいざ会えたら、その後の事は何にも考えて無かったんだもん。蓮くんはしっかり先を見据えて真剣なのに、私ってば行き当たりばったりだね・・・自分の事ばかりですごく恥ずかしかった。もっと頑張らなくちゃって思ったの」
「踏み出せなかったのは俺の方だ。香穂子はこうして、俺に会いに来てくれたじゃないか。だから今こうして君に触れる事ができる。俺は今日、君に会えて嬉しかった・・・ありがとう香穂子」


上手く言えないもどかしい想いも、心の底から溢れる気持も言葉に託し、君に伝えよう。
目を見開いている香穂子の名前を優しく呼びかけ、頬を緩めると、くしゃりと歪んだ表情を隠すようにしがみ付いてきた。背中に感じる手の力も、胸にぎゅっと顔を押し付ける仕草も愛しくて。花の香りが漂う髪に指先を絡めると、穏やかな呼吸へ導くように同じ速度で、何度もゆっくり撫で梳いた。




駅まで送ろう・・・辛さを堪えて宥めるように囁くと、しゃくりあげる胸の中で、俯いたままの香穂子が小さく頷く。
涙を見られたくないのだろう・・・だが、どうか顔を見せてくれないか? 君がここにいるのだと、俺に教えて欲しい。


本当は君の全てが欲しいけれど、今は唇だけに留めておこう。
振り仰ぐ頬を両手で包み込み、指の一本一本で感触を確かめ気刻みながら・・・・静かに閉じられた瞳を合図に顔を傾け、唇へ覆い被さるように深く重ねてゆく。



やるべき事の優先順位と、目的を見失ってはいけないな。
一番大切なのは、今自分が何をしなくてはいけないのか・・・。
全ては俺の理想へ・・・君の音楽と君自身に追いつき、未来を手に入れる為のものだから。