自分らしく輝いて・3

灰色のビルが立ち並ぶ繁華街、中央駅の賑わう雰囲気と人ごみ。通りを行く人の歩みも、日本と変わらずかそれ以上に早い。歴史あるヨーロッパの佇まいと緑に囲まれながらも、溢れるエネルギーに飲み込まれてしまいそうになる・・・それがこの街の印象だ。ベルリンの壁崩壊後のドイツの再開発は「永い眠りから目覚めた眠り姫が、劇的な変化を遂げている」と新聞などで評されたが、グリム童話の国らしい表現だなと思う。


俺も目覚められるだろうか・・・・・いや、目覚めなければ。
本当のグリム童話は、実は残酷で恐ろしい。だが今親しまれている物語のように、その結末だって人の力で変える事が出来たんだ。音楽も俺と君の物語も、幸せな結末でありたいと願う。




『レン、本当にここで降りていいんだね。その荷物では大変だし、バスやUバーンは不便だと思うんだが・・・』
『すいません、大丈夫です。ウンターデン・リンデンとフリードリッヒ通りの交わる交差点。スイス銀行前で下ろしてもらえますか?』
『レンの家までまだ遠いだろう? 用事が終るまで私たちは待っているから、気にしないで用事を済ませておいで』
『いえ・・・他にも数件立ち寄りたい場所があるので、お言葉に甘えるわけにはいきません。こちらで大丈夫です、ありがとうございました。とはいえ、またすぐにお世話になりますが、宜しくお願いします』


そう言うと、深い藍色のBMWが滑るように交差の路肩に止まる。運転席と助手席にいるヴィルの両親に、月森が後部座席から丁重に頭を下げるとドアを開け、座席に置いてあった大きな鞄とヴァイオリンケースを持って外へ出る。扉を閉めると同時に、優しい笑顔でハンドルを握る父親がミラーの張られた黒い窓を下ろして、反対の助手席にいる婦人と共に手を振って見送ってくれた。


温かい人たちだと思う・・・ヴィルも確実に、この方たちの想いを受け継いでいると感じる程に。
再び礼を述べ深く頭を下げると、俺は車に背を向けて賑やかな街中へと歩き出した。



合宿をしていたヴィルの家から久しぶりに自宅へ戻る道すがら、荷物が多いからとヴィルのご両親に送ってもらった車を、途中の街中で止めてもらった。日本から仕送りされた生活費を受け取りに銀行へ寄ったり、楽器店や国立図書館へも立ち寄らなくてはいけない。大学にも近かったし、籠っていた間に済ませられなかった諸々の所要があった為だが、甘えてばかりいるのに気が咎めたというのもある。

だが数分も経たないうちに、やはり自宅まで送ってもらってから出直すべきだったと後悔した。


大きい鞄の荷物が時間を追うごとに重くなり、身体の一部であるヴァイオリンケースでさえ、いつもと違う重さを感じるようだ。強い日差しや、うだる暑さのせいもあるのだろう。着替えや楽譜や本など必要な物を取ったらまた戻らねばいけないのだが、今度は少し持ち運びも考えなくてはいけないな。家路はまだ遠いなと溜息を吐いてヴァイオリンケースを持ち直し、肩にかけた大きな鞄を背負いなおした。




本やガイドブックで見るのどかな風景や、俺が贈った写真や絵葉書で見た中世の街並。妖精が住んでいそうな憧れの森の中と街は余りにも違いすぎると、カルチャーショックを受けてしょげていた香穂子も、今では随分この街に馴染んだようだ。行動的な彼女は次々に新しいものを吸収し、俺も知らなかった様々な事を教えてくれる。


市(マルクト)が立つという意味のマルクト広場、そこに面して立つ市庁舎や教会。この三つを中心にしてドイツの街は成り立っているから、知らない街を訪れても広場の位置を把握すれば何とか観光出来てしまう。初めて冬に訪れた時に彼女へ伝えた俺のアドバイスを覚えていたらしく、学長先生の飼い犬であるワルツと連れ立って日々散歩に繰り出しているのだと言っていた。


俺たちは一人一人ものの見方も考え方も違う、だから面白い。
たくさん刺激を受けながら互いに成長していけるのだと、香穂子は改めて俺に教えてくれた。

だがこの国の流れは早いのか、それともゆっくりなのか・・・。
風土と歴史によって育まれた深い音楽と、心豊かな時間も確かに溢れているのだから。




所要を済ませて地下鉄であるUバーン駅へ向かっていると、観光客らしい外国人の老夫婦に声を掛けられた。
呼び止められて一瞬警戒したが、どうやら怪しい人物では無さそうだ。僅かに距離を保ったまま警戒を解くと、オペラチのケットを俺に見せながら道を尋ねてきた。周辺に似たような国立の劇場がいくつも点在しているから、行くべき目的の場所を探すにも一苦労なのだろう。


『すみません。コーミッシェ・オーパーに行きたいのですが、すぐ向こうに見える大きな建物で良いのでしょうか?オペラハウスが二つあるので、どちらか分からなくなってしまったのです』
『コーミッシェ・オーパーなら、この大通りからもう一本奥へ入ったところです。ウエスティンホテルの隣ですから、すぐ分かると思います。ちなみにあの建物は、シュターツ・オーパー(ベルリン国立歌劇場)です』
『ありがとうございます、助かりました。同じ国に暮らしていても、こちら側のドイツは久しぶりでしてね。いろいろ通りの名前などが変わったり、戸惑っていたところなのですよ』


コーミッシェ・オーパーは国立歌劇場の一つで、オペラやオペレッタをドイツ語で上演する事で有名だ。イタリア語やフランス語のオペラが分かりにくいと、敬遠しがちなドイツ人の為に生まれた劇場と言ってもいい。英語に約すとコミックだがコメディーが上演される訳ではなく、誰もが理解できて楽しめる・・・そんな親しみやすさから、若者も多く集っているのも特徴だ。数度訪れたが、ネオバロック様式の装飾が素晴らしかったのを覚えている。


誰もが親しみやすくて楽しめるとは、まるで香穂子が奏でる音楽のようだな。
路地の向こう側へ消えてゆく老夫婦の背中を見つめ、そう思った自分の頬がいつのまにか緩んでいた。
彼女へ向ける微笑のように、心穏やかな温かさに包まれながら。


しかしドイツに留学して数年が経ったが、こうしてドイツ人にも道を尋ねられる事が多くなった。
俺もこの街に溶け込んでいるのだろうかと思うが、そうじゃない。それだけこの国に暮らす外国人が多いのだ。
俺がこのまま今の生活へ溶け込みたいと言ったら、君はどう思う?
ついてきて欲しいと願う気持ちは本物だが、無理強いはできない。全ては香穂子の心次第だから・・・・・・。




忙しさや気まずさもあって、あれから香穂子と会えず連絡も取れない日々が続いている。
音楽活動のせいにしているが、単に自分が傷つくのが怖くて逃げているのかも知れない。
取れないのではなく取らないのだとヴィルに知れたら、きっと彼は自分の事の様に怒るだろう。

学長先生やヴィルの話しでは一時は元気を無くしていた彼女も、今では勢力的にヴァイオリンのレッスンに励んでいるらしい。このままでは追い越されてしまうぞと、皺を深めながら笑っていた学長先生の言葉も、あながち冗談で終らなさそうだ。


だが良かった・・・香穂子がヴァイオリンを弾いてくれて。
純粋にその事に安堵しつつ、競い合える相手がいる嬉しさに、熱さで重くなった足取りも自然と軽くなってくる。
これで君に会えたら・・・言葉が交わせたらいいのにと思う。ヴィルの家に籠ったままなのは俺だけだなと苦笑が込み上げるが、君は前を向いて進んでいるのだから俺も頑張らないと。


暫らく留守にしていたから、メールや郵便が溜まっているだろう。もしかしたら、香穂子からの連絡も入っているかも知れない。帰宅したら、この際に連絡をしてみよう。心に後ろめたさやしこりを残したままでは、音楽も君に届けられないと思うし、俺の家にようやく迎えても互いに気まずくなりかねない。何よりも、悲しい思いのまま帰国させるのだけは避けたいんだ。


行きたいところへ行ける、会いたい時に会いたい君に会える。
思うままヴァイオリンを弾いたり、香穂子と一緒にのんびり緑の中を散歩したり、それから・・・。
当たり前に思える事ほど、実はとても難しいのだな。
人から見たら些細だが、一つ一つの達成感は心が気持良いと感じる瞬間だから。
感じる喜びに感謝をしなくてはと思うし、そんな瞬間を今のうちにたくさん作っておきたい。


いつもどおりに挨拶から始めるべきが、まず何から話そうか。
君はどう返してくれるだろうかと悩みは尽きないが、いつもと変わらず笑顔だといい・・・俺も君も。





UバーンやSバーンといった地下鉄を乗り継ぎ、自宅最寄駅へ降りた頃には、午後の強い日差しもだいぶ和らできたようだ。視線を上げて風に向かい合えば涼しさが火照った頬をなぶり、身体の中心地良くを通り抜けてゆく。

豊かに茂るリンデンバウムの並木道に等間隔で置かれるベンチも、深い緑色をして景色の中に溶け込んでいた。実のらない樹でも木陰を作ることができる・・・それは大きく広げた懐のように、俺たちに癒してくれる大切な存在。だが違和感を覚えるのは、太陽が真上に来る夏のせいで、どの陰も真下に短く見えるからだろう。
影の無い並木道の先には暑さに揺らめく陽炎、違う異世界を歩いているようで少々不思議な光景だ。


並木道を抜けて久しぶりの我が家が見えると、黒いアイアン製の門の前に誰かが立っているのが見えた。
背までかかる赤い髪、しなやかなラインの浮き出るTシャツ。丈の短いデニムのスカートからすらりと伸びた白い素足にはスニーカー。肩には籐で編まれた大きな手提げ鞄を持ち、腕の中には見覚えのあるチワワの子犬を抱き締めている。

違う世界に迷い込んだ幻想なのかと思ったが、見間違えるはずは無い・・・香穂子だ!


静まり返った門の内側を伺うように、通り沿いにある窓辺をじっと見つめている。何を想っているのか知りたいと願う、物憂げな切ない瞳に胸が強く締め付けられた。声を掛けたいのに、いざ目の前にすると動く事も出来なくて。
僅かの時が止まって佇んでいると、俺の気配に気づいたワルツが賑やかに吠え立てた。


「どうしたの、ワルツ? 静かにしなくちゃ駄目って・・・・・・っ、蓮くん!」
「香穂子どうしてここに? いや・・・それよりも久しぶりだな、元気だったか?」


腕の中で身動ぐワルツを宥めながら振り返った香穂子が、俺を見て驚きに大きく見開いた。気を許したその拍子に子犬が腕から抜け出し、首に結わえたリードの先を手に握られたまま、くるくると足元を駆け回ってしまう。


「うん、元気だよ。大きな荷物だね、蓮くんはどこかに行ってたの?」
「あぁ・・・曲作りの為に、ヴィルヘルムの家で合宿をしていたんだ。着替えを取りに戻ったんだが、またすぐに出かけなくてはいけない。連絡が取れずに、すまなかったな。香穂子は子犬と散歩か?」
「そうなの、近くまで寄ったから来ちゃった。私と出歩くから、この子すっかり電車が好きになっちゃったんだよ。駅前から動かないから、ちょっと遠くへ行ってみる?って言ったら、すごく喜んじゃって・・・って、違うの」
「香穂子・・・?」
「本当は私がね、蓮くんに会いたくなったからなの。ふふっ、今日はラッキーだった」


ふるふると頭を振り、噛み締めるように俯いた表情が、心の影を振り切るようにパッと振り仰ぐ。
笑顔を頬に咲かせて駆け寄る香穂子に、堪えきれず溢れる思いのまま俺も駆け寄った。
楽譜の件があってから久しぶりだから、どう言葉を交わせば良いかも戸惑ったが、互いに踏み出した一歩の勇気で。心配せずとも普通に話せるじゃないか、俺も君も。


笑顔向け合い、自然に声が交わせる。
目の前に君がいて、話せば返ってきて・・・それがこんなにも嬉しいと思わなかった。
悲しく寂しく、苦しいのは自分だけだと、回りが見えないとそう思ってしまうけれど違うんだな。
同じ気持の誰かは必ずいる、俺と君がそうであるように。




門の前でヴァイオリンケースを置き、肩の鞄を忙しなく下ろす僅かな時間さえもどかしくて。
くしゃりと笑顔が歪み瞳を潤ませながら、俺の懐へと飛び込んでくる香穂子の背をしなる程強く深く抱き締めた。
しがみ付く腕に込められた強から伝わる、言葉と想いを離さないように。俺からも温もりを伝えるようにと・・・。