自分らしく輝いて・2

蔦の茂る壁一面には、白く小さな花が覆って星のように咲き乱れていた。窓の下にある木のベンチは、つくりは古いけれどもしっかりしていて、ガーデニングの風景写真みたく庭へ溶け込んでいる。二人座るとちょうど良い大きさのベンチに学長先生と並んで座れば、そよ風に乗って甘く華やかな香りが私たちを包んでくれた。

ポッカリ穴の開いた窓から部屋の中を覗くように垂れ下がっているのは、お花も練習室の音色に耳を傾けているのかな。お花に音楽を聞かせたり話しかけると綺麗にに咲くと、どこかで聞いたことがあったけど。練習室のあるこの一角だけひときわ花が溢れているのは、音楽を栄養に育っているからだと思う。そう言ったら皺に隠れた瞳を緩めた学長先生が、嬉しそうに背中で見守る白い花たちを肩越しに振り返った。

音楽が聞こえるだけでなく、庭の景色が広く美しくみえる絶好のポイントなのだと、ちょっぴり自慢げに胸を張っている姿は無邪気な少年のようで。きっと奥様と並んで座りながら、のんびり庭を眺めているんだろうな・・・。
浮かぶ優しく温かな光景にさっきまでの不安も和らぎく、すりと笑みが零れてしまう。



『ここ数日元気が無いようじゃったが、どうしたんじゃね? レッスンも何処か集中できておらんし、今まで出来てたのに些細なミスが多い。。何か気になる事があるのかね、それともまたレンと喧嘩したかのう? どんなに明るく流布待っても、カホコのヴァイオリンが寂しそうじゃ。まるでこの家にやってきた時へ戻ったかのように』
『大丈夫です・・・って言っても、学長先生は何でもお見通しなんですね。うぅん、ヴァイオリンの音色が嘘を吐かないのかな。嬉しい事も悲しい事も、私ってば本当にありのままが出ちゃう』
『それはカホコの良いところじゃ。ずっと大切にして欲しいとワシは思っておるぞ。じゃが心に溜め込むのは良くない。少しずつ自分を歪めてしまう』
『う〜ん・・・今の私には、ドイツ語で上手く説明できないです』


話を聞いて欲しいと願っていたのに、いざとなると上手く言葉に出来ない自分がもどかしい。首を傾けつつ困ったように見上げると、隣に肩を並べる学長先生も困ったのう〜と皺を寄せながら一緒に眉を顰めた。
でもあまり困っていないのはすぐに分かり、カラカラ涼しげに笑うと、額や目の周りに刻まれた皺がいっそう深まり優しい印象になる。心地良い緑の風が私の中を通り抜けるように、心が温まりホッと緩むのを感じた。


『じゃぁ日本語でも構わんよ』
『それじゃぁ、学長先生が分からなくなっちゃいます』
『じゃが言葉にするという行為は、自分にも相手にとっても大切じゃ。どんなに時間がかかっても構わん。カホコなりのペースと言葉で、気持ちを整理しながら教えてくれんかのう』


すっと引き締まった表情と真摯な瞳で、決して焦らせず押し付けたりせず、聞き役徹して辛抱強く私の言葉を待ってくれている。口調は穏やかだけど、揺るがない静かな厳しさがあった。

気持ちを日本語で普通に言葉にするだけでも難しいのに、まだ上手く操れないドイツ語なら尚更だ。
辞書でもあればと思うけど、蓮くんと同じ道に寄り添うためには・・・この先を考えるなら逃げてはいけない。
日本と違って一歩海を越えれば、以心伝心なんて通じないのだから。

陸続きのヨーロッパ、特にドイツでは自分の意見や考えをちゃんと主張しなくちゃいけないのだと、街角の些細な出来事でも感じたし学長先生からも言われてた。自分を持つことは音楽にも繋がるのだと------。


足元の木陰に座る子犬のワルツも、じっと見上げてくれている。
大きく息を吸ってゆっくり吐くと心の中の自分に向き合って、慎重に言葉を選びながらポツポツと語り始めた。





『蓮くんと喧嘩したんじゃありません、でも私の事呆れているかも。私が失敗しちゃったせいで、ヴィルさんと計画していた蓮くんへの秘密のプレゼントが本人に見つかっちゃったんです。蓮くんやヴィルさん、みんなに迷惑をかけちゃった。蓮くんの方が自分を責めて気にするから、私のせいで、彼の演奏の脚を引っ張る事になるって・・・大事な時なのに。それが不安で心配でした』


夏のバカンスが明けると、留学して最終学年が控えている蓮くんにとって、最も大切なものに違いない。
ヴィルさんから預かった譜面が、二人が今取り組んでいる楽曲たちだというのは、楽しそうに・・・でも真摯に取り組む姿からも分かった。今は言えない、内緒だと言われているから詳しく知らないけれど、ひょっとして私に関わるのかなって時折思う。


嬉しかったのは一緒にヴァイオリンが弾けること。

『これは俺じゃ無くて、本来カホコがレンと弾くべきなんだ』とこっそり譜面を渡された譜面は、出会って共に過ごした高校時代を思い出す、私と蓮くんにとって大切な想い出の曲だったから。それだけではなく、追いついてもすぐ遠く高みへと飛んでいってしまう、彼の隣に並べる道ができたと思ったから。

私は私なりのやり方で・・・そう思っても心のどこかで寂しかったり、焦っていたのかもしれない。


『チャンスは自分で捕まえなくちゃ駄目なんですね。都合良く振って湧いた美味しい話には、上手くいかない何かがあるのかなって思いました。言いたくてウズウズしちゃうし、自分のおっちょこちょいが悔しいです』
『そうだったのか。レンとヴィルが何をしているかはワシも知っておるよ、というか関わっておるからのう。こればかりはカホコに申し訳ないが、彼らと同じく内緒じゃ。レンの意思はしなくては』
『・・・学長先生まで、私に内緒なんですね』
『いずれ分かる。青い果実よりも、熟して甘くなった果実の方が美味しいじゃろう? 隠し事はしないに限るが、良い効果をもたらすものと悪いものがある。しかし秘密に事を運ぶのは難しいのう』
『秘密の企みごとや、こっそり内緒が大好きな学長先生でも、難しい事があるんですね』


茶色の帽子を脱ぎ、首にかけてあったタオルで顔の汗を拭う学長先生が、もちろんじゃとそう言って。小さく笑う私に、皺に刻まれた瞳を穏やかに緩めた。




壁沿いに置かれたベンチは、張り出した屋根のお陰で涼しい日陰になっていた。でも一出れば夏世強い日差しが容赦なく照りつけていて、芝生田機微の緑が眩しく輝いている。日本と違って湿度が低いから、暑い事には変わらないけど過ごしやすい。ヴァイオリンは喜んでいるけれども、お庭の花たちはちょっと元気が無さそうかな、後でお水をまかなくちゃ。

冬に太陽が顔を出さない分、この国の人たちは太陽が大好きだ。暑くないですか?と訪ねたら、赤く焼けた顔へ脱いだ帽子で仰ぎながら風を送っている学長先生が、もっと外にいても構わんよと爽やかに笑う。
私も一緒に日光浴して真っ黒になったら、きっと蓮くんがビックリしちゃうよね。


『太陽は好きじゃが、やはり日陰は涼しいのう。老体には堪えるが止められん』
『のぼせすぎると、血圧上がっちゃいますよ?』
『な〜に、これくらいは平気じゃよ。ワシだって思い通りに全てが運ぶとは限らん。人生におけるサプライズは、音楽と同じなんじゃ。カホコ、演奏をする際に聴衆の心を掴むには、何が必要じゃと思うかね?』


仰いでいた帽子を膝の上に置き、私に問いかけてきたのは音楽の質問だった。
どうやったら上手く内緒にして驚かす事ができるかという話だった筈なのに、演奏と関係があるのだろうか? 
学長先生だからきっと考えがあるに違いない、そう思って咄嗟に思考を切り替え考えを巡らせた。


『ん〜と、胸にぐっとくる感情かな。例えば感情を音に乗せるヴィヴラートとか、弓の使い方。音の強弱かな』
『そうじゃな。聴衆の心を掴むにはデュナーミク、つまり音の強弱の幅と変化の素早さ両方を。完全にコントロールする必要がある。レッスンでも言っておるじゃろう? デュナーミクの瞬時の変化の前では、何らかの前触れは禁物。次の行いを聴衆に悟られる事は、演奏から活気を失わせるんじゃ』
『デュナーミク・・・』


演奏におけるデュナーミクは、内緒の贈り物を知られちゃいけない・・・でも驚かせて喜ばせたいのにっていう、抑えた心を溢れさせる私達に似ている。猛烈な感情を内面に秘めながらも、自分の理性によって押さえ込むデュナーミクは、周囲を気遣い外交的な面と、自らの個性をはっきりさせたい葛藤が表現されたものなのだ。


感情は音楽にも素直に現れるから、レッスンの時学長先生に良く注意をされたっけ。もっと情熱的に・・・葛藤してとか拳を握り締められても、どうしたらいいのか分からなくて最初は困ったけど。音楽を奏でるというのは自分をみつめ、技術だけじゃなくて精神的なものを極めなくちゃいけないんだね。そう考えると、蓮くんはやっぱり凄いなって思うの。


『ワシら人間に社会は、個性が強すぎると互いの友好関係を妨げてしまうじゃろう? 同じように楽器にむりやり音を出させる演奏家は、楽器の可能性を妨げておるんじゃ。楽器そのものは演奏者の助けを借りる事無く、詩人に音楽を奏でたいと望んでいる。演奏に対する努力や技術を身につけるというのは、楽器の願いを実現する事。デュナーミクもその一つじゃ』
『いろんな事を経験して自分のものにして、そうすればやるべき事が自然と動いてくる。練習あるのみ・・・なんですね、ヴァイオリンも私たちの生活も』
『何もしないままでは音楽は生まれない。聴衆の心を掴むデニュナーミクを自分のものとする為に練習を重ねるように、それは心を届けたいと願う気持ちや贈り物も同じじゃとワシは思う』



『時には立ち止まる事も必要じゃ、自分の立っている場所を確かめる為に。迷った時や動けない時、上手くいかないことにだってちゃんと意味があるのだから。大切なのは自分たちがどうたいかじゃよ、カホコの想いを大切にして欲しいとワシは思っておる』
『学長先生・・・・・・』
『失敗だと思って、くよくよしてたらいかんよ。そう思っているのは案外自分だけだったりするからのう。焦った時こそ耐えなさい、耐え抜いてそして信じて待ちなさい。地中に眠る種のように、花は必ずここに咲く』


「・・・・・・!」


胸に手を当てていた学長先生の大きな手の平が、私の頭に優しくふわりと被さった。
宥めるようにポンポンと軽く叩き、光りを湛える瞳で語りかけてくれている。


ここに咲くんじゃと優しい笑みを湛えて、学長先生は自分の胸に手をポンポンと叩き押し当てた。
私も手の平を自分の胸に当ててみた・・・温かくて脈打つ鼓動。この中に私の種が埋まっていて、いつか花が咲くんだね。大切に育てよう、私という綺麗な花を咲かせたい。

土や水、光りや温かさや、雨や寒さまで・・・いろんな条件が必要なように。どんなに焦っても、咲きたい思いだけじゃ花は咲かない。嬉しい事楽しい事だけじゃなく辛さも悲しみさえも、みんな必要なものなんだね。




自分の想いを大切にしよう、身の回りや将来のこと、前向きに良いイメージを持ち続けて。進む想いが、その先の人生を作って行くのだから。まず私がやらなくちゃいけないことは・・・・。
膝の上に置いていた拳を握って空を振り仰ぎ、力を取り戻すように瞳を閉じながら太陽の光りを浴びた。


よし、私は大丈夫!
心に言い貸せてゆっくり瞳を開くと大きく一つ深呼吸をして、隣で見守る学長先生を真っ直ぐ振り仰いだ。


『私頑張ります、まずはヴァイオリン! 学長先生、後でレッスンのお時間頂いてもいいですか?』
『あぁもちろんじゃとも。日曜大工で汗だくになってしまったら、先にシャワーを浴びさせてくれんかのう』
『はーい! じゃぁ先に、この白い花の壁の向こうにある練習室で待ってますね』


飛ぶようにベンチから立ち上がった勢いのまま、駆け出そうと数歩踏み出したところで踵を返し、くるりと後ろを振り返った。ありがとうございました、そう言って深く頭を下げた私に、すぐ行くからのうと手を振って見送る学長先生は、白い花に埋もれたベンチに溶け込み絵画の中にいるみたいだった。


涼しかった日陰を出れば、再び強く照りつける日差しに思わず立ち止まり、眩しさに手を翳して目を瞑った。
でもさっきよりも痛いものではなく、どこか楽しげに笑っているように見えるのは、全てを語り終えたらもやっとしていた心の中が、透明に透き通ったからだろうか。


軽い驚きに目を見開き遠く庭を見れば、返事のように木々がざわめき、頬をなぶる爽やかな風が吹き抜ける。
泣いた後のスッキリした感じのように・・・雨上がりの街のように雲が晴れて綺麗になっていた。