自分らしく輝いて・1

私がお世話になっている学長先生こと、ケストナー家の裏手にのびのびと広がる庭には、一年中絶えないといわれる緑が溢れていた。この辺りでは白い花の庭と呼ばれて評判らしく、今が盛りと溢れる凛とした白い花たちの中に混じる、可憐な甘さのビタミンオレンジや、思わず笑顔になる黄色、微笑みのピンク色など。太陽の光りをたくさん浴びた花たちが、蕩ける幸せと優しさで香り語りかけてくる。


白い花の庭に面した練習室の窓下に小さなベンチがあるものの、柔らかい芝生の上に直接ペタリと座り込む香穂子が子犬の遊び相手をしていた。無邪気に周りをくるくる駆け回るチワワの子犬を眺めながら口元に微笑を浮かべるものの、時折遠くを見ては大きな溜息を吐き肩を落としてしまう。
クーンと甘える声音に足元を見ればワルツが心配そうに振り仰ぎ、座った膝にすり寄っていた。


「私は大丈夫だよ、ちょっとボーッとしちゃったの。心配かけてごめんね。ふふっ、ワルツってばくすぐったいよ」


元気を出してと小さいながらにも一生懸命なのが伝わってくるから、綻ぶ頬が止められない。手を差し伸べると嬉しそうに尻尾を振り、小さな舌を覗かせてペロペロと舐めてくる。まだやんちゃな盛りとはいえ、以前よりも賑やかに咆えなくなり、大人しくなったように思う。散歩へ出ても、ずっと抱きかかえたままなのは一苦労になってきた。
嬉しい成長の速さにすっぽり包んでしまえる頭を撫でれば、手触りの良い整った毛並みが心地良い。


ほんの僅かな期間で子犬は大人へと成長していくのに、同じ頃にこの家へやってきた私はどうなんだろう?


これを弾けば蓮くんが喜ぶと、そうヴィルさんから託された蓮くん手書きの譜面・・・二人で共有した時間と思い出の証。数曲あったヴァイオリンの二重奏は、どれも想い出の詰まった大好きで大切な曲たちだった。だからこそ内緒の贈り物をしようという秘密の計画に胸が躍り、とにかく彼に喜んで欲しくて。隣に並んでも恥しくないようにと練習に励んでいた。なのに、うっかり譜面を落としてしまい、蓮くん本人に見つかってしまった自分の迂闊さが恨めしい。


譜面に込められた作曲者の想いを、忠実に拾い集めながら譜面を見て触れて奏でれば。私へと溢れ伝わってくる、温かくて心地良い彼の言葉を心でしっかり受け止めた。

譜面が手元にあった時間は短かったけれど、懐かしい曲に新たな私たちを重ねられたし、音色は幸せな思い出となって私の心に刻まれている。返してしまってから数日が経ったけど、楽譜が無くても私の心の中にしっかり刻まれている。何小節目のどこからと言われても、ちゃんと間違いなく弾ける自信があるくらいにね。


ここにいなくても隣に寄り添う蓮くんお気配と音色が、私のヴァイオリンに重なるから。
二人でどこまでも飛んで行けると思えた、楽しかった胸の高鳴るひと時をもう一度と願ってしまうのに。


持っていていいと言ってくれたけど、今の私が持つべきものじゃないし、何よりも彼の優しさに甘えちゃいけないと思った。自分の力で掴まなくちゃ駄目なんだもの・・・でも蓮くんやヴィルさんを困らせたから、これ以上は弾いていけないような気がして、どうしても躊躇ってしまったのも本当の気持ち。弾きたくてたまらないのに、あんなに夢中だったのに・・・頑張ろうという意思に反して灯が消えたような寂しさに包まれていた。


蓮くんに会いたいな・・・今すぐに。
会って、私の言葉を伝えたい。


演奏活動で家を空けているって言ってたけど、あの日から会えなくなってしまったのが一番寂しいんだと思う。
どこへ行ったかも分からないし私から連絡も取れないから、伝えたい言葉も想いもあるのにあなたへは届かない。長い間会えなかったんだから、それに比べたら数日なんてへっちゃらな筈なのにね。
私に残された気持ちを伝える方法は、ただヴァイオリンを弾く事だけ。


耐えられていた我慢が砂の城のように崩れるのは、今は海を越えてあなたの側にいるから。
腕の中に抱き締められて、すぐ側に大好きな温もりがあるって覚えてしまったから。
会えないと分かると、余計に会いたい気持ちが募ってしまう。


怒っているのかな・・・飽きれているのかな。うぅん、私を責めるならまだ言いの。
蓮くんは優しいから、譜面を見つけてしまった自分を責めているかも知れない。
困らせたり脚を引っ張りたくて夏休みに渡欧した訳じゃないのに、きっと演奏にも影響しちゃう。

蓮くんは悪く無いの、ごめんねって謝りたいのに---------。


一度深みにはまると、抜け出すのは至難の技だ。だからこそ部屋の中ではなく、広い青空と緑の下にいようと思って外へ出たの。 太陽の光りを受け止める葉にもいろんな形があるけれど、どれもエネルギーの固まりなんだよね。ほら・・・こうして瞳を閉じて静かに空を振り仰ぎ、緑から零れる太陽の光りを浴びていると、みんなが私に元気を分けてくれる気がするんだよ。でも夏の強い日差しは時に悪戯で、私を迷いに誘い惑わすの。


今年の夏は、海を隔てた電話越しに喧嘩をした始まりから悪かったのかな。
互いに絡み合ったと思ってもすれ違うばかり、まるで掛け違ったボタンがどんどんずれていくのに似ている。


じゃぁ最後に余ったボタンの行く先はどうなるの?
もしも最初に余ったボタンが蓮くんで、最後に余ったボタンが私だったら?


そこまで浮かんだ考えを打ち消すようにふるふると頭を振り、耐えるように自分を両腕で強く抱き締める。
弱気なっちゃ駄目! 音楽と私たちを諦めちゃ駄目だよ、きっと何か良い方法がある筈だから。
でも焦る時ほど上手く考えが浮かばないし、こんな時に限って学長先生のレッスンは用事があるからお休みと言われてしまった。家の中にはいるのに、朝から慌しく動き回って姿をさっぱり見せないの。





「・・・・・・・・・!」


俯きながら膝の上でぎゅっと両手を握り締めると、芝生の絨毯に座り込んだ周囲が突然陰り暗くなった。
誰かが背後に立ったみたい、そう気付いて振り向くのと私に声がかかるのが同時だった。



『カホコ、ここにおったのか。どうしたんじゃ庭の真ん中に座り込んで、ワルツの遊び相手かね』
『学長先生・・・・・!』


ニコニコと穏やかな笑みを湛えていたのはこの家の主で、ドイツホームステイしている私の保護者代わり。こう見えても、蓮くんやヴィルさんが通う音楽大学の中で一番偉い学長ことケストナー先生だった。私は音楽大学とは関係ないけれど、蓮くんたちがそう呼ぶからいつのまにか学長先生って呼んでしまっている。

座る私に視線を合わせるように身を屈めて覗き込み、両手を膝に当てて支えていた。



大学や演奏活動で見かけるスーツ姿と違い、家だからもちろんラフなポロシャツにジーンズ姿。今日は更に違った装いで周りに淵のついた茶色の帽子を被り、前に大きなポケットの着いた深緑色の作業エプロン、手には軍手をはめていて首には白いタオルをかけている。帽子から覗く白髪が陽の光りに透けて溶け込み、逆行の眩しさもあって思わず目を細めてしまった。


驚かせてすまんのう・・・そう言って笑うと目や口の周りの皺が一層深まり、日曜大工か園芸好きなお爺さんみたいで、世界的に名前を残す名ヴァイオリニストには見えないの。でもそんな親しみやすい気さくさが、温かいこ家にも先生が奏でるヴァイオリンの音色にも現われているんだなって思う。

ただじっと見つめる私を察しているのかいないのか、微笑む瞳の広さと深さにホッと気が緩んでしまい、あれもこれもと込み上げる想いが上手く言葉にならずにいた。見計らったようにタイミング良く現われるって蓮くんも言っていたけど、本当に不思議な人だ。

ちょっとだけ頼りたい時には絶対に姿を現さないのに、もう駄目って時にふらりとさり気なく側に居るの。
私たちを遠くから見て、頑張れるかを試しているのかのように。


私の隣にしゃがみ込むと、はめた軍手を外してエプロンの前ポケットにしまい、首のタオルで顔に吹き出た汗を拭っている。夏の日差しに焼けてほんのり顔が赤くなっている所をみると、ずっと外にいたんだろうか。
懐に駆け寄って飛び跳ねるワルツを抱き上げると、頭や背をあやすように撫でていた。



『ヴァイオリンのレッスンを休みにしてすまんのう。もうすぐ終わりそうだから、後で時間が取れそうじゃ』
『朝からお忙しそうでしたけど、学長先生は何をしていたんですか』
『むぅ、ワシか? 裏庭の扉が壊れたから修理しておったんじゃよ。ついでの新しく塗りなおそうかと思ってのう』
『裏庭のって、えーっ! 両脇に石壁から続いた支柱があって、錆びてたけど黒っぽい鉄がアーチを作る小さな門がありますよね。ひょっとしてあれですか』
『そうじゃよ、最近立て付けが悪くて開閉しにくかったじゃろう。電気ドリルで穴を開けて金具を付け替えたし、もう大丈夫じゃ。ペンキも塗ったから新品同様に生まれ変わったぞい』
『・・・ドイツの男性って何でも直しちゃうんですね。この間は、お隣のおじさんが洗濯機を直しに来てくれましたよね!? 学長先生も、お部屋の壁紙自分で張り替えてましたし・・・凄いです』


蓮くんだったら、手を大事にしろって怒りそうなのに。驚いて目を見開く私に、この国では普通すぎて誰も驚かんよと事無げに言ってのけた。確かに、去年のクリスマスに初めて渡欧して蓮くんの家にお世話になった時には、確かヴィルさんが水道周りの修理に来たんだっけと思い出した。


お庭の手入れは主に奥様だけど、学長先生の日曜大工やペンキ塗りの腕前は職人並だ。
地下室にはいろんな大工道具が揃っているし、何か壊れても大抵は自分達で修理してしまう。
この家もそうした積み重ねなのだと、以前に奥様と学長先生が誇らしげに話していたのが印象的だった。


『どこで習うんですか? 蓮くんは、いつもヴィルさんや修理の専門家を呼んでますけど。どうしてもいない時には、蓮くんが来る前に別荘として家を管理してくれていたご一家に頼んでるみたいだし、自分でやっているのを見たことないんです。といっても、えっと・・・ずっと一緒に暮らしている訳じゃないですけど』
『不器用なレンには、ちいとばかし無理じゃろうな。自立して数年立つから簡単なものは、ヴィルに教えられてだいぶ慣れてきたと思うんじゃが。ワシらは父親から教わるんじゃ、仲間同士で教えあったり助け合ったりもする。修理屋に頼むより自分で修理した方が安いし、好きなんじゃ。出来上がった時の喜びと満足感がある』
『作る楽しみは、音楽と同じですね』
『そうじゃな。昔は万が一の時の為に、王様と言えども手に職を持っていたんじゃ。王様達の精神が今も尚、この国の人たちに・・・ドイツの人や風土に根付いているとワシは思う』


結婚する二人が安いけど古い部屋を借りて、自分達が壁紙変えたり棚を作り、綺麗な新居にするという話はここに来てから頻繁に耳にしている。豊かだけどみんなで物を大切にしているんだね、おごらず甘えずで心の引き締まる良い国だと思う。そういう心の豊かさが、生活や風土に根ざした音楽にも現われているように思う。
ちょっとだけ蓮くんの受け売りだけど、私もそう感じたよ。

でも蓮くんと私だったら、二人だけで綺麗なお家が作れるかな? 
大丈夫かなって、遠い先を夢見て心配になっちゃうのは内緒ね。


学長先生が抱き上げていたワルツを庭に離すと、弾け飛ぶ玉のように勢い良く駆け出して行った。
強い夏の日差しにも負けずに芝生を転がり回るチワワの子犬を、皺の奥の瞳を細めて見つめている。


暑さを和らげる爽やかな風が頬をなぶり、火照った身体を通り抜けるのを感じながら、視線の先を追って私もはしゃぐ子犬を見つめていた。