祈りの先へ・7



寄せては返す波と潮の音。打ち合わせをしていたホテルから近い海辺の公園からは、どこまでも広がる空と一つになった海を見渡すことが出来た。ワンピースや髪を靡かせる潮風を、心地良さそうに微笑みながら受け止める香穂子は、陽の光を受け輝く海原を眩しそうに見つめている。そんな君を、俺は隣で見つめずには入られない。

船が走る跡には白い潮の尾が真っ直ぐに描かれ、光と波に溶けてゆく。潮騒に耳を澄ませていた香穂子は、白い翼を持った海鳥を見つけ、嬉しそうに瞳を輝かせて振り仰いだ空を示し、俺に教えてくれる。海を見るたびに思うが、魚や鳥たちは何を目印にして、何千q以上の長い旅ができるのだろうか。

ふと口にした疑問に君は、方向音痴はいないのかな・・・迷子にならないのかなと、あれこれ考え込み眉を寄せていた。どんなに遠くからでも分かる、何か目差すべきものがあるから、迷わずに広い海を辿り着けるのかも知れないな。俺が音楽という果てしない海を超えて、君だけに向かっているように。


海には秩序や約束があり、そして人知れず影で安全を導く縁の下の力持ちのような存在がる。海に関わる全てがそれぞれ互いに助け合い、信頼しながら航行しているのだそうだ。例えば船を港に係累させている綱は、繋ぎ止める「絆」の意味もあるらしい。海の約束事が楽譜や音楽だとしたら、繋ぎ止める絆は俺たちの想いに似ていると思わないか?
二人を繋ぐ音楽を求めることは、相手を求めること。


俺が手渡した二枚にCDを聞き、想いを伝えたい一心で夜道を駆けてきた香穂子が、「私は音楽を愛しているの」と真っ直ぐに想いを告げた。新しい扉を開き一歩を踏み出す為に、多く悩み考えた末に決意した彼女の想いだ。アンコールのたった一曲だけれども、一緒のステージに立つ決意固めた香穂子は、プロとして音楽の高みを目差す俺と、同じ目線に追いつこうとしていた。


ささやかな仕草や心遣い、どんな困難にも折れることのない強さは笑顔など・・・傍にいる者を温かくする彼女の全ては、奏でる音色や音楽に繋がっている。めざましい成長は彼女のひたむきな努力や、何事にも一生懸命な人柄が表れたもの、そして音楽が好きという想いの力。出会った頃はヴァイオリンを始めたばかりの素人だったのに、今では同じステージに立ち、肩を並べて音楽を語り合えるようになったんだ。


海が見渡せる景色の良いベンチを見つけると、二人寄り添うようにを下ろした。語りたいことはたくさんあるのに、今はただ互いの温もりを感じながら潮騒の音楽を聴き、海を眺めていたい・・・そんな気持だった。だが楽しげに歌う海鳥や波の音に誘われるうちに、自分たちもヴァイオリンが弾きたくなるのはいつものことだ。降り注ぐ日差しがスポットライトのように俺たちを照らすから、少しばかり照れ臭いけれど、まずは俺から君へ想いを乗せた音色を届けよう。

彼女だけではなく、俺も変わった・・・共に成長して行ける喜びを、ヴァイオリンの音色で伝えたい。

緩やかなボウイングが海風を運び、煌めきの上を舞う海鳥たちを舞い踊らせる。楽しそうに瞳を緩め、頬を綻ばせながらヴァイオリンに聴き入る香穂子が、優しい余韻が波間に消えると同時に大きな拍手を送ってくれた。大切なたった一人の君の声援は何人分もの力になる・・・その拍手は、大きなコンサートホール満員の聴取の拍手に勝ると思う。


「香穂子、どうだった?」
「とても素敵な演奏だったよ。目の前に曲をイメージした映像が、映画みたいに浮かんできたの。心の中がポカポカして甘くて、時にはきゅんと締め付けられて・・・余韻が消えてからもまだドキドキが止まらないんだよ」

ベンチに座る香穂子に歩み寄れば、瞳を輝かせながら俺を振り仰ぎ、感じた事をあれもこれももと興奮気味に語ってくれる。隣に座っても良いかと尋ねると嬉しそうに頷き、どうぞと笑みを浮かべながら、ベンチの隣をポスポスと叩き俺を招くんだ。君の笑顔を見ていると、心も表情も自然と頬が綻び笑顔になっている自分に気付く。

そうだ、二人きりになった今なら伝えられるだろうか。俺だけが顔に熱を募らせ言葉を言い淀んでいるのを、君はきょとんと目を丸くするけれど、どう伝えたら良いか困ってしまうんだ。

「その・・・この間は、すまなかった」
「へ?」
「俺の家にやって来た君をすぐ送り届けるはずだったのに、結局引き留め抱きしめてしまい、朝になってしまったな」
「あっ!、その事だね・・・その、私こそごめんね。夜なのにどうしても想いを直接伝えたくて。我慢できず蓮くんの家に突然押しかけたのは私だもの。すぐに帰れって蓮くんは気遣ってくれたのに、離れないって駄々を捏ねたのも私だった・・・だから蓮くんは悪くないの」
「朝一番で君を送り届けた時に俺も一緒に謝ったが、あの後ご両親から怒られなかったか? その、具合は大丈夫だったろうか?」
「夜遅くに出かけるのは控えなさいって、注意されちゃったから気をつけなくちゃ。蓮くんが一緒に謝ってくれたから、平気だったよ。コンサートの準備に疲れて眠ったと、嘘をつくのは心苦しかったけど・・・でも広い意味では当たっているよね。音楽に大切な心を溶け合わせたんだもの。蓮くん熱くて優しかったし、ぎゅっと抱きしめてくれた時間はとっても幸せだったよ.。私の居場所はここなんだって思ったの、ありがとう」


頬を染めながら真っ直ぐ見つめる眼差しに吸い込まれ、呼吸も鼓動も一瞬の静寂に包まれる。だがすぐに熱さが弾けたのは、俺の膝の上に置いた手の上に、香穂子の手がそっと重ねられたから。手の平から生まれる熱が全身に巡り、腕の中で深く抱きしめた熱が身体の奥底から蘇ってくるようだ。顔に熱が募り、照れ臭さにふいと背ける俺に、我に返った君も慌てて手を離し、そわそわと肩を揺らすのが視界の端に映っている。

好きだと真っ直ぐ告げる愛しさ、労ったり励ましてくれる声など・・・君の想いが空気を震わせ俺の胸の奥まで届いてくる。俺も香穂子の隣にいるのが、とても幸せで心地良いのだと、知っているだろうか? 柔らかくなった心に翼が栄え、羽羽ばたけるくらいに、今の俺が浮き立っているのかも。


海辺の風は強く激しいことが多いが、今日の海は波も風も穏やかだ。くすぐったい沈黙と熱を冷まそうと深呼吸すれば、胸の中に青い海の香りが満ち溢れてくる。ヨーロッパでは運河はあっても海は遠かったから、こんなにも潮の香りに包まれるのは久しぶりだな。

いつもならくるくると会話や表情が変わるのに、やけに静かなんだな・・・まだ照れているのだろうか。そう不思議に思いちらりと伺えば、煌めき広がる海原を遠く見つめる俺の隣で、先程の打ち合わせでもらった書類の束を、鞄から取り出した香穂子が熱心に読みふけっていた。


「書類でもし分からないところがあれば、俺が教えよう」
「ありがとう、まずはこのドイツ語の書類を理解しなくちゃね。蓮くんと一緒のステージに立つということは、私もプロのヴァイオリニストとして、しっかり音楽に向き合いたいと思うの。この書類も出来るだけ自分で頑張ってみたいの。不安もあったしたくさん悩んだけど、蓮くんが力を貸してくれたから新しい扉を開けて、一歩を踏み出す勇気が持てたんだよ」
「悩むことは辛いが、それを乗り越えれば、悩みや迷いの中から新しい自分を発見できる。自分が成長できるチャンスだと、俺は思う。前向きに捕らえ、明るい発想で困難を乗り越える君が、いつも眩しく誇らしい。俺だって、どれだけ君から力らをもらったか数え切れない」
「蓮くんも? 蓮くんもたくさん悩んで、乗り越えてきたんだね。感じた全てが音色になるから、心に響くんだと思うの」
「自分の未熟さを思い知る事は、しょっちゅうだ。だが音楽は果てが無いが、高みを目差すほどに面白くなる・・・続けてゆくと見えることがあるし、もっと先が見たくなる」


全てがドイツ語で綴られた厚い書類の束に苦戦しながらも、興味深そうにあれこれ俺に訪ねては、ペンで書き込みをしている。くすぐったい沈黙が次第に落ち着きを取り戻し、ふと見つめ合う視線から、互いに生まれたのは優しい微笑み。そういえば、君は知っているだろうか。ヨーロッパでは会話にふと沈黙が訪れた時、「天使が通った」というらしい。俺は使ったことは無いが、悪戯好きの音楽の妖精がこのくすぐったさの中にいるのかも知れない。そう微笑むと、嬉しそうに周囲を見わたし、ファータはどこにいるのかなと探し出す君が愛おしい。


「ねぇ蓮くん。蓮くんがコンサートの準備をするときに、一番苦労するのはどんなこと?」
「そうだな・・・人によって違うと思うが、俺は選曲だろうか。どの曲を選ぶか、またどの順番で演奏するか。選曲には演奏家の考え方や姿勢が素直に繁栄されている。難しい曲だから優れている訳ではないし、感嘆だから内容が薄いという訳でもない」
「選曲かぁ・・・気に入った曲の方が、充実した練習も出来るよね。好きな気持があるから、どんな事も乗り越えられると思うの。選曲の基準があったら、参考までに教えて欲しいな」
「音楽に答えは無いが、自分自身が絶対に素晴らしいと思える曲を選ぶようにしている。選曲の条件は、その曲を深く愛しきれるかどうか・・・だろうか。音楽家に必要な、愛するその気持をくれたのは香穂子、君だ」
「違うよ蓮くん。曲や音楽を愛する気持は、蓮くんが元々持っていたんだよ。自分で気付いて大きく育てたの」


たった一曲アンコールとしてのゲストだが、プロとして同じステージに立ち、二人の夢を実現するために頑張るのだと、香穂子の意気込みも充分だ。俺も頑張らなくてはいけないな。書類の束を捲り、曲目のページで視線を止めると、ふと思いだしたように目を見開き、ドイツ語を追っていた指先を止めて俺を振り仰いできた。紙に書かれた曲目を、順に読み上げてたびに俺をじっと見つめ、大きな瞳が楽しそうに煌めいている。

その・・・じっと見つめられては照れ臭い、何か俺の顔に付いているのだろうか?


「コンサートで蓮くんが演奏する曲は、みんな愛がつまっているんだね。CDに収められた曲が殆どだけど、私にとっても思い出が詰まっている大好きな曲ばかりだから、心がポカポカ嬉しくなっちゃった」
「どれも大切だが、その中で最も大切なのは、君と奏でる愛の挨拶だ。本当は香穂子と一緒に弾ければ一番良いが、いない他のコンサートでは君を想いながら俺が奏でよう。音色に乗せた想いが届くように」
「私もヴァイオリンが弾きたくなっちゃっ。胸の中にある大好きな気持が、溢れてしまいそうなんだもの。ねぇ蓮くん、今度は私がヴァイオリンを弾いても良いかな? 愛の挨拶の曲の次に、私が愛をたっぷり注ぎたい大好きな曲なの」


それは楽しみだな、香穂子のヴァイオリンをぜひ聞かせてくれないか? そう緩めた瞳で微笑みを注ぐと、嬉しそうにうん!と大きく頷き、ベンチからすっと身軽に立ち上がる。足元に置いたヴァイオリンケースから楽器を出し、調弦を終えて俺の前に立つと、恭しく一礼をして・・・君と俺だけの小さなコンサートの始まりだ。

肩にヴァイオリンを構えれば、海から注ぐ光やそよ風も、ピンと張った弦のように一瞬息を潜める緊張感が漂う。ふわりと微笑み、弦に乗せられた弓が緩やかに甘く優しく音色を紡ぎ出した。香穂子の音色は君の声。瞳もヴァイオリンも笑顔も、俺だけに向けられるこの心地良い距離は、香穂子が願っている、大切な人のためだけに奏でる距離。大きなステージでは俺も大切にしたい。


「・・・この曲は、Eterunoか!」


ベンチに座ったまま音色に耳を傾ける俺と、瞳を交わらせながら楽しそうに奏でる曲は、CDの最後に収めた香穂子へ贈る世界でたった一つの曲・・・Eteruno。そうか、CDだけではなく夏に譜面も、一緒に渡したんだったな。練習してくれていた曲は俺の色でありながら君の色にも輝く不思議な香りを秘めている。今度は君から俺へ、互いに紡ぎ合う想いが
永遠にと繋がっているんだな。

芝生のステージと太陽のスポットライトも良いけれど、二人同じステージに立ち、早く音色を重ねたい。
君へ何度も恋に落ちるから、ありのままを伝えよう。今なら心から言える、ヴァイオリンが・・・そして君が好きだと。