光に向かって・1




夏時間から冬時間に代わり、11月の声を聞いたヨーロッパの空は、毎日厚い鈍色の雲に覆われている。今日は珍しく天気がよいが、ここしばらくは太陽の光や空の青さを見たのは、数えるほどしか無かったな。留学してから迎える数度目の冬・・・。気分転換に外へ出られない分、いつもなら部屋の中でゆっくりと練習したり読書をしていただろう。だが今年は、大学の講義やレッスン、コンサートや収録の仕事など・・・いつもの冬とは違う慌ただしい日々が続いている。


一番の冷え込みと言われた今朝から予想はしていたが、厳しい寒さと日照時間の短さは何度経験しても慣れる事はない。寒さは防寒着や部屋の中で防げるけれど、心に吹き込む寒さや長い暗闇が、君と遠く離れる寂しさを感じさせるから。もしかしたら、息をつく暇もなく一日の時間が過ぎるのは、寂しさを感じずに済むから良いのかもしれないな。

だが眠るためだけに深夜遅く帰宅し、ふと訪れた休息のひと時に浮かぶのは、俺に元気をくれる香穂子の笑顔。慌ただしい時間の反動が大きいほどに心にぽっかり穴が空き、余計に君が恋しくなると気付いたのはつい最近の事だ。一人で過ごす時間が少なくなり、君に想いを馳せる時間やゆとりがないと、潤う水の涸れた心がざわめきだす。心の乱れは演奏に現れるから、どんなに忙しくても気持を落ち着かせるのが、プロのソリストとして歩むこれからの課題になるだろう。




講義を終えた後に練習室でヴァイオリンを弾き、図書館で課題のレポートをこなし、それでも少し余ってしまった時間は何かするには短すぎる。何かに打ち込み始めたら、きっと夢中になり、僅かな時間の経過など分からなくなってしまうから。やっと一息つけたのだから気分転換に、景色が変わりゆく大学の広い緑地を散策してみようか。そういえば留学先に戻ってから散策や運動、読書など・・・自分をゆっくり見つめ直す時間が無かったかも知れない。

一緒のステージに立って欲しいという願いと共に、想いの結晶である俺のCDを、香穂子へ渡す為に日本へ一時帰国をしたのはつい先日。あれからまだ数週間しか経っていないが、スケジュールが詰まりながらも、彼女と過ごした時間は安らぎと充実感に溢れていたのを思い出す。あの時君と奏でた音楽は、とても気持ち良い最高の演奏だったな。


音楽大学の構内に多く植えられた、樹の殆どはすっかり葉を落とし、針金の枝だけになった身体を寒そうに震わせている。頬を切り裂く冷たい風に身を竦ませると、コートの襟を立ててマフラーに顔を埋めた。冬の早いヨーロッパは寒いだろうから風邪をひかないようにと、一時帰国をした日本を発つ時に、空港まで見送りに来てくれた香穂子がくれた大切な贈り物。香穂子が隣にいるような温かく優しい気持ちになれるのは、毛糸の柔らかさだけでなく、これをくれた彼女の心が込められているからだと思う。

つま先立ちで背伸びをしながら俺の首に巻き、マフラーの後や先端まで丁寧に整えてくれて。行ってらっしゃい・・・と寂しさを堪えた笑顔を精一杯浮かべ、だがそっと頬を包む両手の平が俺に吸い付いたまま、いつまでも離れなかったな。次第に潤み出す瞳に気付きながらも、ずっと君の温もりを感じていたくて。言葉に出来ない想いを見つめ合う眼差しに託し、旅立つ最後の瞬間に口付けを交わすまで、ただ甘く優しい沈黙に身を浸していたな。


森が最も美しく黄金色に輝く秋や、命が芽吹き花が咲く爛漫の春は、あっという間に次の季節へ移り変わってしまう。ずっとこのままでいたいと思うひとときは、なぜあっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。いや・・・必ず季節は移ろい巡るように、俺たちの冬ももうすぐ終わる。今は枯れた草や木に覆われた大学内の緑地も、この下では冬に蓄えた栄養で花や樹が少しずつ大きくなり芽吹きの時を待つんだ。俺たちの夢も叶えるために、掴むためにある・・・そうだろう?



向かう正面から流れる雲の隙間に、顔を覗かせた光が真っ直ぐ降り注ぎ、スポットライトのように真っ直ぐ俺を照らす。まだ午後も早い時間だが、ゆっくりと傾きかけるオレンジ色の眩しさに目を細めつつ、ゆっくりと光の中へと身を溶け込ませ進んでゆく。進む道を少しずつ切り開きながら、この光の先に待つものをこの手で掴み求めるように。光が煌めく滴となってストンと心に吸い込まれ、弾けた透明カプセルから溢れたのは優しい温もり。蓮くん・・・と、愛する人の声を伝えくれた。


この先すぐ控えているヨーロッパ二カ所のコンサートと、クリスマスに日本で行われるコンサート。それはプロのソリストとしてのデビューだが、夢を手に入れたゴールではなく新たに歩み始めた一歩の始まりだ。年が明けたら卒業試験に向けて、本格的に取り組まなくては。

学生生活の終わりが迫りつつある寂しさと、これからに対する期待や緊張感が交錯し、時には迷いそうになる・・・学生としてではなく、音楽家としてどう生きてゆくか。だがそんな俺を照らし導くのは、どんな時も信じてくれる香穂子の想いと、久しぶりに再開した香穂子が、数ヶ月会わないだけで見違えるほど、音楽も君自身も磨きがかかっていた姿だった。

言葉や仕草に現さなくてもどんなに努力を重ね頑張ったか一目で分かるし、目の当たりにしたときに感じた新鮮な驚きと喜びは、今でも強くこの胸に焼き付いて離れない。俺は留学のために一年早くヨーロッパの音大に入学したが、星奏学院を三学年の卒業まで全うした香穂子も、将来の進路を決める時期に来ているようだ。


俺と一緒のステージに立つ事を決めたときに、彼女の中でもぼんやり霞んでいたものが、しっかりと強い形を描いたと・・・力強い光の宿る眼差しで告げてくれたから。俺が進む先を照らし導く、この光のような君に恥ずかしくないように、俺も頑張らなくてはいけないな。


この光の先に、君がいるんだな。どんなに離れていても空は一つで繋がっているように、俺たちもヴァイオリンで・・・音楽で繋がっている。そうだ、今ここでヴァイオリンを弾いてみようか。久しぶりに顔を覗かせる冬の青空は濃く爽やかに澄み渡り、真っ直ぐで素直な君を想わせる・・・俺だけを照らし包んでくれる光も、きっと海の向こうで君が想いを馳せてくれている証だと思うから。心のこもった音色は、どんなに離れていても届くのだろう? 

悪戯好きだが音楽を愛する妖精も、ひょっとしたらこの音大のどこかにいるかも知れないな。君が大切なときに何度となく俺に音色を届け支えてくれたように。光に溢れる森の中で演奏すると、楽しそうな笑顔で演奏する香穂子を思い出すな。彼女が奏でる弾む音色が、俺の身体の中へ溢れてくる。


少し先で何人かの学生が思い思いに練習に励んでいるが、距離があるから邪魔にはならないだろう。周囲を伺い、小道の脇に点々とあるベンチを見つけて鞄やヴァイオリンケースを置くと、楽器を用意して調弦を始める。ヴァイオリンの弦を整えながら、同時に自分の気持ちも整え落ち着かせて・・・。先程までは頬を裂く程に冷たかった風も、息を潜め俺を見守ってくれているのか、風向きを変えて柔らかなそよに変わっていた。これなら、音色を遠くまで運んでくれそうだな。


今日はどんな曲を君に奏でようか、そう問いかける心の奥に小さく灯った光が、内緒話のように俺にそっと君のリクエストを届けてくれる。手にしたヴァイオリンへ緩めた瞳で微笑みを注ぎ、合図を送るとヴァイオリンを肩に構え、静かに弓を弦に降ろした。奏でる曲は甘く優しい旋律を奏でる、ベートーベンのロマンス二番。

毎朝の恒例として、俺の携帯電話に香穂子が送ってくれるメールには、おはようの挨拶と近況報告、それにコンサートに向けての打ち合わせなどが綴られている。もちろん俺からも、香穂子の朝に合わせて「おはよう」を毎朝届けている・・・朝だけでなく夜眠る前や、街で心に残った景色を携帯電話の写真に収めたときなども。今朝届いた彼女の「おはようメール」に、今は大学で行われるコンサートで弾く、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲に取り組んでいると書いてあったから・・・だろうか。やり遂げて欲しい声援と、愛しい君への想いを弦に乗せて奏でよう。


物理的な距離は遠いのに、香穂子が近くにいるような感じがするのは、心の距離や絆が深まったからだろうか。それにヴァイオリンを奏でれば・・・ほら、目を閉じた瞼のすぐ目の前に君がいる。芝生に腰を下ろし、じっと俺のヴァイオリンを聞きながら、日だまりの笑顔で音色に身を浸して。