祈りの先へ・6
大きく開放的な窓ガラスの向こうには、果てしなく広がる港と広い空。海をイメージしたというロビーラウンジは青い色で統一され、港や青空の続きであるかのように深い安らぎを覚える。窓から眺める景色だけでなく、紅茶が美味しい店としても知られており、港を一望できる絶好のロケーションに佇む大きなホテルはコンサートホールも近い関係もあり、外国からの宿泊客も多くもてなしているそうだ。
窓際のソファー席から眺める海は、降り注ぐ午後の日差しに煌めき、穏やかな潮騒の音楽を奏でていた。
香穂子と二人で待ち合わせのロビーラウンジを訪ねたのは、来日中のヴィルヘルムやプロデューサーがこのホテル滞在しているから。夏の休暇で既に顔見知りだが、同じステージに立つ決意をした香穂子を、コンサートの運営を全面的に引き受けているプロデユーサーに紹介し、協力してくれるヴィルヘルムに改めて紹介するためだ。
香穂子を紹介した後は、紅茶を楽しみながら改めて彼女を紹介して互いに語り合い、書類を見ながらコンサートの準備に関しての説明を行う・・・。緊張で表情を硬くしていた香穂子も、紅茶やケーキを楽しむうちに、いつしか笑顔を綻ばせるまでに心を緩めてくれていた。
海に囲まれたこの青いラウンジは、まるで船旅を楽しんでいる気分だと・・・白い船が道を描く海に魅入っているヴィルヘルム。そして爽やかなベルガモットの香りがするティーカップを手に取り、一口すすった満足そうに頬を緩めながら、視線の先を追うプロデューサーも、穏やかな笑みを浮かべている。留学先の街は広い大陸を流れる大きな運河はあるけれど、海は遠い。香穂子と過ごしたこの街の海を、俺はどれだけ懐かしさと恋しさに焦がれただろうか。
俺にはずっと待ち望んでいた懐かしい景色だが、彼らには新鮮に映るのだろう。大好きで大切な場所を気に入ってくれる・・・共感してくれる事が嬉しいと思うのは、笑顔で振り仰ぐ君も同じなんだな。香穂子のヴァイオリンが愛されると俺まで嬉しくなる気持に似ている。
『さざ波の音に身を委ね潮風を浴びながら、煌めく海の前に立つと、同じように光る粒の音たちが舞い降りてくるようだよ。広くて温かいね、この海はレンやカホコの音楽みたいだ。このホテルを予約してくれたレンに感謝しなくちゃいけないな』
『私も海が大好きなんですよ、このラウンジは始めて来たんですけど、とても素敵ですよね。海沿いの公園で蓮くんとヴァイオリンの練習をしたり、お散歩したり・・・思い出がたくさん詰まっている大切な場所だから、ヴィルさんたちが気に入ってくれて私も嬉しいです、ねぇ蓮くん?』
『うちの客間に招くと言う案もあったが、海と紅茶を楽しむならここだと両親が薦めてくれたんだ。気に入ってくれて俺も嬉しい。日中だけでなく朝や夕方、港の夜景など・・・ここからなら一日の中で、いろいろな海の顔を見ることが出来る』
『レンやカホコたちが生まれ育った場所を、いつか訪ねたいと思っていたんだ。君たちの音楽が生まれた原風景を、見る夢が叶って幸せだよ。今はね、音楽がもっと近くに感じる。楽譜を深く読み込んだり想いを馳せるだけじゃなくて、その場所を訪ねて直接感じる事は大切だと想うんだ。君たちが音楽を学ぶために、俺たちが暮らすヨーロッパへ来るのと同じだね』
海以外にもこの街には素敵な場所がたくさんあるから案内しますねと、嬉しそうにテーブルへ身を乗り出す香穂子が真っ直ぐ俺を振り仰ぐ。良いでしょう?とねだるけれど、俺だって久しぶりに君と会うのだから、本当は二人きりでのんびり過ごしたいのが正直な気持ちだ。だがささやかな独占欲は、今だけ心の中へしまっておこうか。君が楽しそうならそれでも良いかと思えてしまい、微笑みだけを返す俺の心を向かい側に座る二人はどうやら気付いたらしい。
ティーカップを手にした香穂子は、水色と香りを楽しんだ後にふぅっと吐息を吹きかけ、赤い唇をそっと近づけてゆく。ふと我に返り、吐息や唇から目が離せなかった自分に気付けば、照れ臭さに込み上げた熱が顔から吹き出してしまいそうだ。目を細めずにいられないのは、愛しさからだけでなく、輝きの眩しさもあるに違いない。
彼女の前にはティーカップやケーキと一緒に、白い眩しさを放つもドイツ語の名刺。そして深い飴色に艶めく木目のテーブルに置かれているのは、スケジュールやスタッフ、公演概要や内容の構成案、会場に関する設備の詳細まで。一際眩しい白は俺のコンサートに関する書類の束。全てドイツ語だから、読みこなすのに随分苦戦しているようだな。分からないところがあったら、後でもう一度ゆっくり二人で確認しようか。
それは日本で行うコンサートの二日目アンコールに、CDに収めた愛の挨拶の二重奏を弾くために登場してくれる、香穂子の為に用意された物。同じ書類を手にしている俺は、留学先にてスタッフと共に打ち合わせは済んでいるが、今日は香穂子の為だけの特別な説明会と言っても良いだろう。
書類の束は俺たちが持っているのと同じもの、つまり急に用意したものではなく、あらかじめ彼女の分も想定して用意されていたのだと・・・後は返事を待つだけだったのだと。ドイツ語の中で自分の名前を見つけた香穂子が、自分がコンサートのメンバーとして名前が連なっていた事に気づき、驚きに目を丸くしていたな。
香穂子の演奏は、俺の留学先を訪ねた夏のバカンス最終日に、収録先のコンサートホールにいたレーベルや音楽事務所のスタッフ全員が聴いている。CDに彼女の演奏、君と二人で響きあう音色も・・・君の音楽が皆に認めた証なんだ。君となら良い音楽が作れるのだと、世界が認めたんだ。
夏の間に学長先生の家にお世話になっていた間、運河沿いの公園でヴァイオリンを奏でる彼女を何人ものスタッフが聴いていたらしい。俺は出会えなかったが、俺が休日前にヴァイオリンを弾いていた、同じ公園の同じ運河沿いの場所という所で。チワワの子犬を引き連た、オリエンタルの少女の演奏は、いつも間に香海を越え、多くのの聴衆の心に残っていたんだな。音楽には国境はない、言葉や文化の違いも全てを超越し、一つにまとめる力がある。君もそう思わないか?
紅茶のおかわりがティーカップに注がれ、再び温かい湯気が静かに昇りだした頃。じっと俺たちの会話に耳を澄ませていたプロデューサーのビンチックさんが、俺と香穂子に真摯な眼差しで向かい合い、静かに語りかけきた。
『僕もかつては学長先生の元でヴァイオリンを勉強していたと、知っているかい? レンには、以前話したよね』
『はい。蓮くんや学長先生からもお話しを伺いました。音楽が引き寄せた縁なんでしょうか、凄い偶然ですよね。音の絆が結びつけた、この出会いは奇跡だって思うんです』
『音楽の絆・・・か。一人一人の音楽は違っていても、同じような心で高みを目差す者同士は自然と引き寄せ合い、集うのだろうな』
『僕はコンサートホールの演奏前に、カホコさんのヴァイオリンを何度か聴いていたんだよ。運河沿いの公園で、よく演奏していたよね? 楽しそうに弾く君を見たとき、なぜかまさに同じ場所で演奏していた蓮の演奏を思いだした音色も音楽性も違うのに、どこか似ていて温かくなる。だからまた出会えたときには嬉しかったよ。レンの大切な人だと知ったときには納得だったね』
互いに音楽を求め、愛する溶け合う想いが音色になり、一つに溶け合う・・・。奥深いところで似ているのだと、そんな事を言われたのは始めてだ。俺の中に香穂子の音楽があり、香穂子の中に俺がいるということ。君の音楽を聴いているとき、温かく心地良い気持になるように、君が溶け合う俺の音色も心地良いと感じてもらえたのだろうか。
トクン・トクンと高鳴る鼓動が心の弦を響かせ、震わせる。
『演奏が終わると嬉しそうに尻尾を振って、くるくる駆け回っていたチワワの子犬は元気かい?』
『はい、もうすっかり大人の犬になったんですよ。お嫁さんをもらったのだと学長先生からお手紙を頂いたんです!』
『そうだったのか・・・って、すまない! もうこんな時間だったんだね。のんびり海を眺めていたら、時間を忘れるところだったよ!』
『え・・・ビンチックさん、どうしたんですか?』
『すまないけれど、次の打ち合わせが入っているから、僕は先に失礼するよ。帰国する前にもう一度、君たち二人のヴァイオリンを聞かせて欲しいな。将来レンと結婚してヨーロッパにくる時には、名刺のメールアドレスか電話に連絡が欲しいな。運河沿いの公園で奏でる二人の休日コンサートには、ぜひ参加したいからね』
『あのっ、よろしくお願いします! 私、頑張ります!』
『カホコさんはアンコールだけのスペシャルゲスト予定だけど、君たちとなら良いコンサートが出来そうだ』
じゃぁまた後日に・・・そう慌ただしく挨拶を交わし、腕時計をみて驚きの声を上げたビンチックさんが、慌てて立ち上がり荷物をまとめ始めた。つられるように三人とも立ち上がり、その中でも真っ直ぐ見つめる香穂子が、強い光を宿した眼差しで笑顔を浮かべ、ぺこりと深く御時期をした。よろしくお願いしますと、改めて頭を下げるのは俺からも。
差し出された握手の手をまずは香穂子から、そして次に俺も固い握手を交わして。テーブルの上に乗った四人分の会計がまとまった伝票を、風のように奪い去ると慌ただしく駆け去り背中が消えてゆく。
「じゃぁそろそろ俺も退散しようかな」
「え、ヴィルさんも出かけちゃうんですか? せっかく蓮くんと一緒に街を案内しようかと思っていたんですけど・・・」
「前にも話さなかったっけ? ちょっと忍者になってくるから2日ほど出かけてくるよ。忍者の格好して写真を撮れる所が京都にあるんだ。懐かしい街を巡るデートは二人っきりで済ませたら良いよ。おっと、渡し忘れるところだった。これ、この間レンとカホコが新郎新婦役を務めたブライダルフェアの写真だよ。二人分あるから、仲良く分けてくれよな」
「写真・・・? まさか、あのイベントのなのか!?」
驚きを通り過ごし照れ臭い熱さが込み上げ、逃げ切れない熱がどんどん身体を巡ってしまいそうだ。癖のあるブロンドの前髪を書き上げ、立ったままテーブルに置かれたままの紅茶を飲み干すと、鞄から写真の束を取り出託してくる。良く映っているだろう?と自慢げに胸を張るヴィルヘルムが、ベストショットだと興奮気味に取り出したのは、まさに誓いのキスシーン。これを一体どうしろというんだ・・・・。
止める間もなく去ってゆく笑顔と背中が語るのは、出かけたい興味だけでなく、二人っきりにしてくれる優しい気遣いだと分かるから。じゃぁ俺たちも場所を変えて、今度こそ二人っきりの時間を大切にゆっくり語ろうか。そうだな、このホテルの裏にある港沿いの公園はどうだろうか? 真っ赤に照れながら、もらった写真を胸に抱きしめ隠す香穂子が、小さく俯く視線を戻し、振り仰ぐ甘い眼差しで答えてくれた。