祈りの先へ・5




カップの中にある紅茶が空になったら家に帰るのだと、そう君に告げたのは俺なのに、底が見えるくらい飲み干されたカップに切なさが募ってしまう。今ポットから注ぎ足しだら、口移しで飲ませたばかりなのに勝手だと呆れられてしまいそうだな。早く帰るんだと急かしながらも、一方ではあと少しこのままでいて欲しいと願う心は止められない矛盾が心の中で渦を巻く。そんな俺を見抜くように姿勢を正した香穂子が、真っ直ぐ見つめる澄んだ瞳に俺を映した。

ヴァイオリニスト月森蓮のCD、そして二人で奏でた二重奏を収めたCD。二枚のCDを膝の上で祈るように握り締めながら、ひたむきなまでに見つめてくる。瞳は心を映す鏡だというが、香穂子は俺の瞳に映る自分の姿を見つめているのだろう。

私決めたよ、もう迷わないの・・・と。決めたのは家に帰る決心ではなく、俺が問いかけた演奏の誘いに対する応えだと瞳の強さが伝えてくる。眼差しから流れ込む熱さに胸を焼かれ、呼吸も時を止めた一瞬。互いに瞬きも忘れただ見つめ合いながら、どれくらいの時間が流れただろうか。


「帰り道にこのCDを渡してくれたとき、もう一度一緒に演奏しようって誘ってくれたよね。今夜どうしても伝えたかったのはCDの感想だけじゃなくて、その返事もだったの。たくさん練習して頑張るから、その・・・よろしくお願いします! コンサートのアンコールで私、蓮くんと一緒のステージに立ちたいの!」
「香穂子・・・本当に良いのか?もし俺が急かしてしまったのなら・・・」
「違うの、これは私が考えて決めた答えなの。CD聞きながらずっと考えてた・・・音大を卒業した将来どうヴァイオリンと関わっていたいか、音楽への想いや蓮くんの事も。でもね、悩む前から答えは決まっていたんだもの。蓮くんと同じステージに立ちたい、大切な人の傍で演奏したい・・・その為の努力は惜しまないって」
「俺のコンサートのアンコールで、ヴァイオリンの二重奏を引き受けてくれるんだな。だが、不安が消えたわけでは無いのだろう?」


よろしくお願いしますと、勢い良く深く頭を下げた香穂子の髪が、ふわりと目の前に舞った。まるで赤い花が咲くようにスローモーションで。夢でも見ているのだろうか・・・願っていた答えが現実となれば、急に駆け出す鼓動そ押さえることも出来ず、ただ浅く早くなりそうな呼吸を宥めることしかできない。

我に返ればまだ香穂子は頭を下げたままだった。華奢な両肩を包み、声をかけてそっと抱き起こすと、鼻先が触れ合う近さで生まれた春風の吐息が絡み合う。不安という言葉を聞き、微かに寄せられた眉が心の奥に抱えた苦しさを訴えかけたが、すぐに消え去りふわりと優しい微笑みに変わる。これが、どんな困難にも負けない彼女の強さなんだな。


「蓮くんに追いつきたいから、ヴァイオリンを頑張っているし、隣に並んでも恥ずかしくない演奏をする自身はあるの。でもアンコールだけに登場だなんて、サプライズなスペシャルゲスト扱いだよ。ステージに立った後の自分や周りの環境が、変わるかも知れない・・・そんな予感を感じて一歩前に進むのが少し怖かった。一緒に演奏する事で、もしも蓮くんに迷惑をかけたらどうしようって不安だったの」
「ステージを前に緊張する気持は分かる。だが香穂子だって、コンクールやコンサートは何度も経験しているだろう? オーケストラの合間に今では収録の仕事もしているのだから、香穂子だってプロのソリストとして歩んでいる。違うのか?」
「うん、でもいつもとは違うというか。きっとウエディングドレスを着た直後だからだと思うの。その・・・ね、この演奏には演奏以上の意味があるのは、私の気のせいじゃないよね。プロポーズみたいな気迫があったから、演奏というよりも私や蓮くんの人生が変わるような、大きな扉の前にいる気持ちを感じたの。CDを聴いたら、予感から確かなものになったよ」
「香穂子・・・」


揺るがない自信が持てたからもう大丈夫だと、驚きに目を丸くする俺に笑顔を浮かべる香穂子が、膝の上に置いたCDを手に取り、想いを閉じ込めるように胸へ抱きしめた。ふわふわで温かいものを閉じ込めるときのように、心地良さそうな微笑みで。確かにCDにはプロポーズと同じくらいの想いを込めたし、ヴィルヘルムや学長先生からはそう言われたけれど。一緒のステージに立つことの意味を、まさか送り先の香穂子も深く考えていた・・・もう迷わないというのはつまり答えだと、そう思っても良いのだろうか。


急激に熱を帯びる自分の頬は、顔が赤く染まっていることを伝えてくれる。照れ臭さに逸らしたい顔を、めざとく見抜かれ更に熱が募れば、頬に触れた小さく零れる君の笑い声が、心を穏やかな波で包み癒してしてくれた。
いや・・・音楽は言葉以上に想いを伝えてくれるが、やはり最後に大切なのは、心を込めた言葉なのだと思う。

香穂子の言う通り、夢のひとときの余韻が心を疼かせるから、気が焦っているのかも知れない。だが焦っては駄目だ。
確かな言葉を伝え本当の気持ちを聴くのは、まずは目の間にあるコンサートや試験を成功させた後だな。一年早く留学して音大に進んだ俺は、春になれば卒業試験が控えているが、香穂子もあと少しで将来を考えるが来ている。香穂子はどうヴァイオリンと関わっていきたいのだろう、彼女の演奏を埋もれさせてしまうのは、正直惜しい。


音楽の本場であるヨーロッパで、本格的にレッスンに励んでもらいたい・・・そうすれば、今よりもっと伸びるはずだ。
離れることもなくずっと一緒にいられる、一緒のステージでと大きな夢を見ることもなく、君が願うようにささやかな二人だけの空間でいつでも一緒に演奏が出来るんだ。卒業した後か・・・と、呟く独り言を聴いた香穂子が何の話なのかと瞳を輝かせ、興味深そうに身を乗り出してきた。


「音大を卒業すると、自動的にみんな一人の音楽家になれる訳じゃない。たった四年間勉強しただけでは言いソリストにもヴァイオリニストにもなれない。更に高みを求め自分と音楽磨き続け、多くの経験を積まなくてはいけないんだ。この先もヴァイオリンを続けてゆくのなら、超えなくてはいけないハードルがたくさん待ち受けていると思う。だが香穂子となら、俺は乗り越え同じ道を歩んで行けると、信じている・・・」
「一緒に演奏する話を公園で聞いたとき、もらったCDを聞いたとき、そして今・・・。信じてくれる蓮くんの想いが熱く震えて、新しい何かが生まれそうなくらい、心の在りかを教えてくれるの。音楽で語りかけてくれ想いに精一杯応えたいって思う。ハードルをどこまでクリアーしてゆけるかは、自分との戦いなんだよね。自分を信じることが大切なんだよね」


不安は自分で生み出す物だ、どちらに目を向けるかで心を不安でいっぱいにすることも、幸せで満たすこともできる・・・学長先生の受け売りだが。音楽を作り出すときや、君の答えを待ちながら心を固く閉ざしかけたときに、俺も言われた。たとえ不安に感じたり心配したとしても、たくさん動いた同じ心が喜びや幸せも感じることが出来る。

心に刻んだ言葉を確かめながら語る俺を、じっと見つめる真摯な眼差しに届けよう。迷いそうなときいつも大切な君や恩師が道の先を灯してくれたように、迷いの中で一歩を踏み出そうとしている君にとっての、光になれたらいいと思う。

俺にも電話があったのは知らないだろうけれも、学長先生と話をしたのなら、何かかしらの風を起こすきっかけになったに違いない。学長先生と話をしたんだろう?と、ふと思いだしたように話を振れば、どうして知っているのかと驚きながらも嬉しそうな笑顔の花が開いた。


「もらった手作りケーキやアルバムのお礼がしたくて、学長先生の家に電話をしたの。久しぶりに奥様や先生の声も聞けたし・・・いっぱい私の話も聞いてもらっちゃった。今日あった蓮くんとの演奏や、デビューのCDをもらったこととか、それに・・・二日目のアンコールで二重奏を誘われたことも。あっ、そういえば蓮くんの日本でもコンサートには、学長先生も奥様と一緒に来日するんでしょう? 楽しみだよね」
「香穂子が電話したあと、俺の所にも電話があった。君たちは結婚したのかねと、なぜワシらに黙っていたのかと、学長先生から抗議の電話が。模擬挙式のモデルをした様子や、ガーデンでの演奏している写真を、ヴィルヘルムから携帯にもらったらしい」
「えーっ、そんな! まだお嫁に行ってません、それは頼まれたモデル役だから、将来の為の予行練習ですって説明したのに・・・もう! 学長先生ってば意地悪なんだから。絶対に蓮くんに焼きもち焼いているんだよ、うん。娘を嫁にやるのが寂しいのよと奥様は笑ってたけど、気が早いよね」


困っちゃうよねと、真っ赤に染まった顔でぷぅと頬を膨らませる香穂子は、自分が出した焼き餅説に納得しながら、うんうんと何度も頷いている。頬から熱が伝わり、香穂子とソファーに並び座る側の頬が熱い。香穂子も同じように、学長先生から問い詰められたのだろうか。顔を真っ赤な茹で蛸に染めながらも、電話越しで一生懸命説明をする姿が目に浮かぶようだ。だがその、「まだ・・・」「予行練習」という表現はいずれ嫁に行くのだと、はっきり告げているのだと気付いていないらしい。

困った苦笑を緩め微笑みを注ぐと、不思議そうにきょとんと小首を傾げてくる。気付いていないのなら、まぁ良いか。


「不思議だよね、先生とお話しすると絡まっていた心の糸が解けてスッキリするみたい。蓮くんの所へ来ようと思ったのは、学長先生のお陰だよ」
「学長先生とはどんな事を話したんだ?」
「悩んだり迷っていても、答えはもう決まっているんだろう? 自分に素直になりなさい・・・必要なのは決断する勇気だって、難しく感じた時こそ自分を変えるチャンスだと教えてくれたの。想い描く理想の光がきっと導いてくれるからって。チーフにも言われたけど、夢を見るのは大切だけど手を伸ばして掴まなくちゃ叶わないんだよね」
「俺も電話で言われた、迷っているときこそ心のままに生きなさいと。そうだな、風は自分で起こさなくては何も変わらない。香穂子も言っていただろう、無邪気は無敵だと。君のチーフだけでなく、香穂子の素直さと真っ直ぐさは、どんな困難にも負けない強さだと俺は思う。心へに響く君の言葉や音楽、日だまりのような優しい温かさが俺は好きだ」
「蓮くん・・・」
「難しいことや悩みもあるだろう、だが柔らかな心を固く閉ざさないでほしい。弦から生まれる音色のように、一瞬一瞬に生まれる輝きが、君らしさなのだと俺は思うから。香穂子は、ヴァイオリンが大好きなんだろう?」


うん!と頷いた香穂子が浮かべる無垢な笑顔は、彼女が奏でる素直な音色と温かさそのもの。だからこそ音楽もこの笑顔も愛しくて、大切にしたいと思う。願わくば海を越えた遠くではなく、いつでもすぐ近くにあるように。寄り添った道の先を共に歩みたいということは、ソリストとして君を支える覚悟を、俺も求められると言うことだ。自分を信じるという言葉を胸に刻み、ソファーの隣に座る香穂子の手を重ね包む。

膝の上に置かれた温もりと柔らかさを溶け合わせ、注ぐ眼差しと共に力を込めて握り締めた。離れたくない、帰したくないのだと・・・心の奥で沸熱さと理性がざわめき合い、危うい天秤の上で揺れ始めた。

温もりを感じて無邪気に笑みを浮かべた香穂子は、悪戯にすっと手を抜き去ると、その手の平を重ね合わせ一本一本指先を絡めてくる。互いの手がしっかり握り締め合えば、心の深いところで結ばれる、音楽という見えない手も強く繋がるように感じた。


「私ね、ヴァイオリンが大好き、音楽を愛しているの。蓮くんに出会って恋してから、私も音楽も世界が大きく広がった。世界が広がると曲に対してもいろいろな発見があるから、もっともっと大好きになるんだよね。その気持をくれたのは蓮くんだよ。だからね、音楽よりも一番愛しているのは蓮くんなんだよ」
「香穂子への想いが高まると、音楽も愛しさが増す。君とヴァイオリンが一つに溶け合っているからだろうな、俺も同じように感じていた。音楽も君も、俺には欠かすことの出来ない大切な存在だ」
「大きな物を掴もうとすると、指の間から零れてしまうでしょう? でもほら・・・小さく重ねた手の中にはキラキラした音色がぎゅっと集まるんだよ。それを胸に押し当てると、すごく温かくて優しい気持ちになれるの。私にはヴァイオリンがある、だから離れていても蓮くんと、心の深いところで心の手を繋いでいられた。蓮くんへの想いが高まると音楽への愛も強くなるの。この手の強さと温もりを、私はもう離したくない・・・絶対に離しちゃいけないって思ったの」


俺が今このステージに立っているのは、香穂子がいたからなのだと。共にある俺たちの音楽は、無限の広がりを見せるのだと・・・。奏でる音色を聞けば、そしてアルバムに収めた曲たちが香穂子へ向けられたものだと気付くかも知れないが
、それも良いと思う。あともう少しでこの先寄り添う道を、共に歩む未来を音色が伝えてくれるだろう。


「二日目にのアンコールで演奏したらどうかと提案したのはヴィルヘルムだったが、俺も最初は香穂子と同じく迷っていた。だが俺も答えは心の中で決まっていたんだ。それは演奏が照明している、どちらがよいか聞き比べて一目瞭然だった。だから愛の挨拶だけは君と奏でた音色を、CDに収めさせてもらった。音色は嘘をつかないな」
「ねぇ蓮くん、もしかしてアンコールで私たちが弾くくのは、CDにも収めた愛の挨拶なの?」
「この曲をいつかステージで弾くのなら君と一緒がいいと、俺はそう願っていた。音楽家は何かを愛する気持が強いそうだ。演奏には精神的に大きな力が必要だが、動かすのはまさに音楽や曲を愛する気持。俺を動かすのは、音色が向かう先である香穂子への想いだ。大丈夫、香穂子が心配する事は起こらない。俺の音楽が生まれる愛しさの源・・・君のヴァイオリンを皆に聞いてもらいたかった」


心が気持良い瞬間、生きている喜びの実感が音になる・・・音を楽しみから音楽なのなのだと俺は思う。
まず俺たちが幸せを感じ音楽を楽しまなければ、ホールの聴衆にも伝わらない。求めているのは、ただ技術だけが冴えている演奏ではなく、奏者と聴衆が一体になれる心に響く音色。それは昼間に演奏したガーデンもステージも同じだと思わないか?

ソリストとして世界に発する、初めてのアルバムに込めた曲たちは音楽への祝福。そして人生で一番大切な人、君に巡り会えた幸せを歌う音の恋文。支え合う事が出来る人、誰よりも分かり合えて安心できて、どこまでも一緒に歩いて行けるのは。香穂子・・・君だけだから。


微笑みを浮かべながら見つめる瞳が潤み始め、涙を零さないように瞬きを繰り返し始めた。ほうっと零れた甘い吐息が花びらとなり、夜の空気が包む静けさにひらりと舞う。消えないうちに重ねた唇で捕まえて、赤い炎の色を灯す心の花芯に紡ごうか。可憐で愛しい蕾が、始まりの合図を告げる花を咲かすまであと少し・・・。

甘いキスが終わり繋いだ手に熱が籠もれば、穏やかな温もりが息苦しく胸を焼く熱さに変わる。きゅっと瞳を閉じ、何かに耐えるように膝の上で拳を握り締めた香穂子が、意を決したように瞳を開き、テーブルの上にあったティーカップへ手を伸ばし取り一気に飲み干す。カップの中身が空っぽになったからもう帰るのだと、切なげに声を絞り出し、ソファーの脇に転がるCDを拾い集め立ち上がった。


「あのっ蓮くん・・・私、やっぱりもう帰るね。突然お邪魔してごめんなさい!」
「香穂子・・・どうしたんだ急に慌てて、何かあったのか?」
「お話しも出来たし、もう良いの。これ以上蓮くんと一緒にいたら、本当に今夜は帰れなくなる」
「カップは空になったが、ティーポットには紅茶は紅茶が残っているぞ。本当に空なったわけではないから、君を帰すわけにはいかない」
「キスしたら、もっと先が欲しくなる。形に残るこのCDだけじゃなくて本物の蓮くんを抱きしめたい・・・もっともっと愛したい、音楽も蓮くんも。だから、帰りたい気持がまだちょっと残っているうちに、熱さで溶けないうちに帰らなくちゃ駄目なの!」
「香穂子、待ってくれ!」
「蓮くん・・・・・・っ、きゃっ!」


堪えきれずに目尻から零れた滴も吐息も、琥珀色の紅茶へ溶けてゆく。ティーカップの紅茶が無くなったら帰るんだと、そう言ったのは俺なのに、結局帰すことが出来ないこの結末は、まさに心の片隅で予測していた通りだ。カップがが空になりかければもティポットから注ぎ、ポットが空になりかければ、足し湯をして濃くなった紅茶を薄めて増やすのだから。


立ち上がる暇もなく、くるりと背を向け、慌てて駆け出そうとする香穂子の腕を掴むのがやっとだった。その反動で後へ強く引き戻される香穂子を、腕を掴んだそのまま胸に抱き留め腕の中へ閉じ込めれば、抱き留める重みで二人してソファーへ倒れ込んでしまう。激しく波を打つソファーのスプリングに揺られながらも、温もりと柔らかさを抱きしめた腕を離すことは出来なくて。

戒めを強める俺に戸惑いの色を浮かべ、肩越しに振り返る香穂子の唇を深くキスで塞いだ。久しぶりに触れる彼女の身体と溢れる想いや愛しさが鍵となりに、閉じ込めていた熱さが理性の扉を破り脳裏をも焼き消してしまったらしい。こうなったらもう、俺自身では止められないんだ。だから早く帰るんだと、そう言ったのに。角度を変えて何度も唇を押しつけ舌先で合わせ目をなぞると、薄く開いた隙間から舌を忍ばせ、逃げる小さな舌を追い深く絡めてゆく。


吐息も呼吸も全てを奪うキスを交わしながら、少しずつ身体を反転させ、背もたれと挟むように香穂子に覆い被さる。
頭の両脇へ腕を付き、仰向けに寝ころぶ彼女を見下ろす前髪が、ヴェールとなり淡い影を落とした。体重をかけずに支えるのは、最後に残った理性の砦だ。

嫌だというのなら、熱い苦しさの中で耐え抜き、身を引き裂いてでもここで止めるつもりだった・・・だが、ゆるゆると伸ばされた腕が俺の両頬を包み、そっと自分へと引き寄せてゆく。穏やかに微笑みを浮かべた香穂子に導かれるまま、再び重なったキスはどこまでも甘く優しく、心に響くのはドルチェの旋律。驚かせてしまったのに、広い心で受け止める香穂子の優しさに俺の方が包まれているようだ。



ゆっくり身体を沈め、口づけと心と身体と・・・全てを重ねると一度身体を離して起き上がり、桃色に頬を染めながら横たわる香穂子を抱き上げた。身軽に抱き上げリビングを抜けると階段を上り、向うのは自分の部屋。リビングで君を抱くのは、その・・・と必死に言葉を紡ぎながら語尾を濁らせれば、突然身体が宙を浮いた驚きを潜め、照れ隠しにきゅっとしがみついてくる。

扉を開けてそっとベッドに横たえた身体に再び覆い被さり、良いのかともう一度問う俺に小さく頷き、大好きだよと吐息で囁く唇が微笑みを刻む。そっと閉じられた瞳は、二人だけの熱い夜が始まる合図。