祈りの先へ・4



先程までは俺一人だけだった空間に、夜空を超えて音色を届けていた君がいる・・・ただそれだけで、空気の色も温度も変わる。ヴァイオリンの音色も俺自身も、全てを飲み込む張り詰めた夜闇の静けさは緩み、窓の外に広がるのは穏やかな眠りを誘う星のヴェールだ。君を想い寂しさに耐えた一人の夜は、とても長く果てしない時間に感じて眠れない時もあった。だが嬉しさと期待に胸を膨らませ、興奮のあまり眠れなかった夜もある。心に沸く想いの数だけ、奏でる音色と同じく夜の形も変わるのだな。

時計が示すのは、夜も更け眠りへと誘うそんなひととき。特別な外出が無い限り、いつもなら部屋で寛いでいる時間だ。幸運なことに俺の家族は皆出かけているから、今はこの家に俺一人しかいない。もう夜も遅いのに、たった一人で俺の家に来る意味を、君は気付いているだろうか。 門の前で抱きしめた腕を緩め、香穂子を解き放つのさえ、身を引き咲かれるような痛みの幻を感じたのに。このまま部屋へ招き入れたら、きっと朝まで返せなくなってしまう・・・。


理性が残っているうちに、本当はすぐ彼女を送り届ける筈だったのに、予定が脆くも崩れたのは、すぐ隣で聞こえた小さなくしゃみが聞こえたから。自分の身体を両腕で抱きしめ、白い吐息を吐く香穂子は薄着のまま夜の寒さを凌いでいた。額に薄く浮かぶ汗は、駆けてきた証。落ち着いた今はその汗も引いているのだから、余計に寒い訳だ・・・いけない、このままでは風邪を引かせてしまう。思い立ったらすぐに行動するから、きっと部屋で寛ぐ姿のまま部屋を飛び出してきたのだろう。


どうして薄着なのかと諫める言葉が喉元まででかかったが、俺に会いたい一心で、暗い夜道をたった一人駆けてきてくれたんだ。真っ直ぐでひたむきな愛しさが、嬉しくて・・・泣きたいほどの幸せとなり、心の奥を熱く震わせる。とはいえ俺も部屋から飛び出したばかりだから、何も羽織らせる物が無くて。風邪を引かせないように、温かい飲み物で温まり一息ついたら香穂子を家まで送ろう、そう心に言い聞かせた。

今はリビングへと香穂子を通し、寛いでもらっているが、愛しい想いという小さなキャンドルの灯火は、些細なきっかけで炎へと変わる。まずは落ち着いて話がしたいのに、沸き上がり止まることを知らない情熱が溢れ出せば、君を抱き上げ自分の部屋へと攫いかねない。どこまで堪えられるか分からない理性は、まるで薄い氷の上を歩くように脆く危うい。



キッチンで用意した温かい紅茶のポットとカップを木目のトレイに乗せると、リビングのソファに座る香穂子の元へと運んだ。寒くないようにと渡したブランケットを羽織っている彼女の隣に腰を下ろし、カップをテーブルへ置くと、夕焼け色の紅茶を静かに注いでゆく。もう充分に温まったのか、羽織っていたブランケットをソファーの脇に脱ぎ去り、俺が注ぐ手元を興味津々に目を輝かせながら覗き込み、身を乗り出すのは相変わらずだな。


高みを目差し変わり続けていても、いつまでも変わらない、愛しい君の明るさや素直さにほっと心が解けるひととき。嬉しさと幸せがカップに満ちた紅茶のように、俺も心へも満ちてゆくんだ。注ぎ終わったカップをキラキラと輝く眼差しで見つめる香穂子へ、どうぞと微笑み合図をすると、想い描いた通りの笑顔でカップを包み持つ。すぼめた唇から吐息を吹きかけながら一口すする瞬間は、いつも緊張するからじっと見つめてしまうんだ。喉を通り飲み込む妖しげな動きに合わせて飲み下す自分は、君と一つに溶け合っているのだろうな。美味しいねと綻ばせる笑顔に自然と釣られて笑みが浮かぶ。


「帰りが遅くなっては心配する、家の人には伝えてきたのか?」
「えっと・・・ね、その。玄関で靴はいているところで、こんな時間にどこに行くのかってお母さんに聞かれたけど、蓮くんのところに行くとしか伝えてないの。もう周りが見えないくらい、すぐに会いたいエンジンがかかって慌ててたから、びっくりさせちゃったかも。すぐ戻るからって伝えるのがやっとだった。そうだよね、いきなり血相変えて家を飛び出したら心配するよね・・・蓮くんどうしよう」
「香穂子・・・。俺が君の家に電話を入れるから、少し待っていてくれ」


星奏学院の高校時代からいつでも君から目が離せなかったが、後先考えず真っ直ぐ向かってゆくのは、今も昔も変わらないな。香穂子の良いところでもあるし、困ったところでもあるけれど。困った眼差しですがるように見つめる香穂子へ、小さく溜息を吐き、ソファーを立つとリビングの隅にある電話の受話器を取り、彼女の家へ電話を入れた。


香穂子が確かに俺の家に来ていること、明日のコンサートで使う大切な忘れ物を届けてくれたこと。そして久しぶりに会った俺の父や母とも音楽の会話が弾んでいるから、帰るのがの少し遅くなりそうだど・・・。引き留めてしまって申し訳ないと真摯に謝り、遅くならないうちに確かに送り届ける約束をして。嘘をつくのは少々苦しいが、彼女の両親を心配させるよりは良いだろうか。携帯電話からではなく家の電話からかけたのも、ささやかだが確かに君が月森の家にいる証を伝えるためだった。

静かに受話器を置くと、隣で不安そうに俺をじっと見守り、祈るように胸の前で両手を組む香穂子へ緩めた瞳を注いだ。心配いらない、そう微笑むと緊張に強張っていた君の頬も、ほっと吐息が零れ柔らかく緩んでゆく。


「蓮くんありがとう、いろいろ迷惑かけちゃってごめんね。嘘をつくのが苦手で大嫌いな蓮くんが、私のお母さんを心配させないように、優しい嘘をついてくれたんだよね。私、一晩我慢して明日の朝一番に、眠っている蓮くんを起こしてでも駆けつければ良かった・・・」
「俺は朝が弱いから、それも困ってしまうな。眠さに霞む意識の中に香穂子が寝起きにやってきたら、夢を見たそのまま君を抱きしめ、ベッドへ引き込みかねない」
「ねぇ蓮くん、やっぱりすぐ帰らなくちゃ駄目なのかな・・・もうちょっとだけ、一緒にいてもいい?」
「ゆっくり落ち着いて話がしたい。だが二人っきりで君を抱きしめ続けたら、たったひとときでも・・・いや、朝まで手放せないだろう。俺の理性が残っているうちにというのも、理由の一つだ。さぁカップの中の紅茶が無くなったら、家まで送ろう。夜道で冷えた身体が温まる、ここの紅茶は香りが良くて好きなんだ」
「うん・・・・・・」


俺のシャツの裾をきゅっと握り締めた手の力が心をも掴み、切なげな光を灯す大きな瞳が、キャンドル程の小さな灯へ熱い風を送り大きくうねる炎へと変える。心も身体も焼き焦がすほどの、恋の炎へ・・・。共にいたい想いに応えたいけれど、将来を誓い合った訳ではなくまだ恋人同士なのだから、けじめは大切にしたい。ここで甘えたら駄目だという理性と欲がせめぎ合う苦しさに、息が詰まりそうだ。


このまま一緒に過ごしたい気持が痛いほど分かるし、思いは俺だって同じだ。向けられる想いは、ただ俺だけに・・・そんないじらしい程のひたむきさが、甘く苦しく胸を締め付け脳裏を霞ませる。大切で愛しいのに触れたくても触れられない、触れたらきっと溢れる想いに飲み込まれ、嫌だと君が言っても止められなくなる。


シャツの裾を握り締める香穂子の手を重ね包み、微笑む眼差しで心の奥まで、氷を溶かすように温めながらゆっくり解きほぐそう。やがて緩み始めた手に指先をしっかり絡め握り締めると、身を屈めた額にそっと口づけを降らす。行こうか・・・そう視線で語ると、小さく頷く香穂子の手を引きソファーへ戻った。キチリとスプリングを沈ませ静かに座る距離が、先程よりぐっと近くなったのは、解けた心の距離も近くなったからだろう。

頬を薄い桃色に染める香穂子は、そわそわと落ち着き無く肩を揺らしている。照れ臭そうに口籠もりながら俺をちらりと伺う眼差しに、君の横顔をじっと見つめながら手を握り締めたままだと気づき、熱い炎が俺の頬にも飛び火した。すまない・・・そう小さく咳払いをして手を離せば、どちらとも無く生まれる甘いくすぐったさが心地良い。


「何から話したらいいのかな、全部を伝えたいのに、いっぱいありすぎて上手く言葉にならないの。細い水道管に、想いの熱い水がどっと押し寄せ流れ込む感じみたいに。ありがとう、大好き・・・大切な瞬間なのに、小さな言葉の箱しか届けられないのがもどかしいよ。蓮くんが心へ真っ直ぐ伝えてくれたみたいに、今私にもヴァイオリンがあったら良いのにって思うの」
「焦らなくても良い、ゆっくりで。香穂子がここに来てくれたのが、何よりも確かな言葉だ。君がくれるありがとうと大好きの一言は、どんな言葉より最も強く温かい」
「部屋でCD聞いていたらね、それに重なるようにもう一つ同じヴァイオリンの音色が心に直接響いてきたの・・・蓮くんの優しい声が。透き通る心の腕で抱きしめてくれた音は、次第に私を熱く焦がしていったんだよ。蓮くんの家まで走っている間も道標みたいに先を灯しながら、近付くほどに大きくなっていったの」
「学内コンクールが終わったときに、香穂子が俺に愛の挨拶を届けてくれたときのようだな。これからCDを聞くのだと、電話をしてくれただろう? 俺も同じように曲を流しながら心の中で歌ったり、夜空へ向かいヴァイオリンを弾いていた」


本当は直接目の前で奏でられたら一番良かったが、手紙でも想いが伝わるように、形に残る音でも込めた想いは届くと信じていた。例え離れていても一緒に奏で歌えたら、溶け合う音色と心が多くの言葉を伝えてくれるに違いない。君に俺の気持ちを伝えたい、香穂子の想いを知りたくて同じ曲を奏でていたんだ。

届いて良かった・・・そう緩めた瞳で微笑むと、堅く緊張した頬が柔らかに綻び笑顔の花を咲かす。地に咲く花は光や水が無ければ花を咲かすことが出来ないが、心に咲く笑顔の花は、優しさや愛情によって咲くのだと君が教えてくれた。花が花を呼び春を導くように、笑顔の花が導く先には本当の春がある。地中で耐えながら栄養を蓄える冬が今だとしたら、花を咲かす小さな春まで後もう少し。


「香穂子、紅茶が冷めてしまうぞ。飲まないのか? 喉が渇いていたんだろう?」
「うん・・・今はその、喉が渇いていないの。無くなるのが寂しいから、紅茶を見つめていたいなって思って」


テーブルに置かれたティーカップへ手を伸ばしかけても、美味しそうに飲み干していた先程とは違い、触れる手前で躊躇ったかと思えばすぐに引き戻してしまう。そうか・・・カップとティーポットにある紅茶が空になったら、家に帰る時間と言ったのは俺だったな。紅茶が無くならなければ、まだ少しだけ共にいられると彼女なりに考えたのだろう。紅茶の入ったカップの代わりに、持ってきた二枚のCDを胸に抱きしめ、時折じっと問いかけるように見つめていた。


いつまでも減らない紅茶のティーカップが二つ。君と共に暮らせたら、ひとときの別れの辛さに身を裂かれることも無いだろうなと、無限に広がる未来図が脳裏へ過ぎる。目の前に君がいる、声をかければ返ってくるし、抱きしめれば確かな温もりを感じられる幸せを大切になければいけないのに。このままでいたいけれども、そうはいかないかない現実に戻ると、無い物ねだりをしてしまうものなんだな。

意を決して香穂子のティーカップを手に取り、一口含む俺に目を丸くして驚く気配が伝わってくる。自分のではなく君のカップを持ったのだから、驚くのも無理はないな。何をするのかと眼差しで問う香穂子の背を抱き寄せ、腕の中へ閉じ込めると、覆い被さるようにキスを重ねて。甘く蕩ける唇を舌先で薄く開かせ、口に含んだ紅茶を少しずつ流し込んでゆく。


「・・・んっ、蓮くん・・・」


自分で飲まないのならと、苦肉の策で飲ませた口移しの紅茶が、妖しく動く喉を通り過ぎてゆく。どうして・・・と甘く切なげに見つめる瞳を、真摯に受け止める静かな沈黙が揺れ動くと、吐息を零した香穂子が自らカップを手に持ち紅茶を一口飲み始めた。

沸き上がるのは、寂しいようなほっと安堵するような複雑な思い。やがて彼女も落ち着いたのか、ほっと吐息を零すと確かな光が灯り、眼差しと表情に力強い意志が満ち始める。一度決めたらどんな困難にも負けない強さとひたむきさで、前に進む君らしい輝きで。


「蓮くん、私・・・!」
「香穂子・・・」
「決めたよ・・・もう迷わないの。」


手に持っている、俺が贈った二枚のCDを祈るように握り締めながら、真っ直ぐ見つめる澄んだ瞳に吸い込まれ、捕らわれた俺が映っていた。 俺の分身である想いの全てを形にした、ヴァイオリニスト月森蓮のCD。そして二人で奏でた二重奏を収めたCD。何を問いかけているのか、君の言葉や想いをどうか俺に聞かせて欲しい。