祈りの先へ・3


君たち二人の時間を邪魔して悪かったなと、すまなそうに小さく微笑む学長先生が電話を切ると、コンポから流れていた自分の演奏もちょうど終わりを告げたところだった。例えCDだとしても部屋を満たしていたヴァイオリンの音色に、温かい余韻が宿るのは、香穂子と奏でた愛の挨拶の二重奏があったから・・・そして君へ向けて届けた俺の想いを形にした曲があったからだろうか。


CDから数曲流れ始めた頃から電話を始めたのに、気付けばもう全ての演奏が終わっているのだから、いったいどれだけの間、学長先生と話していたのだろう。時計を見るとだいぶ時間が経っている事に驚いたが、つい先程までは落ち着き無く高まっていた鼓動や気持も、今はすっかり落ち着いている事に気付き、ふと笑みが零れてしまった。

あの人は遠くからでも、俺たちの事が見えているのかも知れないな。ディスプレイを閉じた携帯電話をベッドの上に置きながら、ふと笑みが零れてしまう。きっと俺の前に電話を終えた香穂子も、不安の雲を消し去り、心に光を取り戻しているのだと思う。音が止んだ俺の部屋は静けさが戻ったが、香穂子に渡したCDはもう一枚。収録の合間にステージで、香穂子と俺が奏でた二重奏だけが収められた音源も、聞いてくれているだろうか。


音は香りと同じく一瞬で通り過ぎてしまうが、だからこそ心へや脳裏へ深く刻まれる。音色によって蘇る思い出と、新たな感情・・・香穂子は俺の音楽や二人で奏でた音を聞きながら今、何を感じているだろうか。君の言葉や想いが今すぐ知りたい、出来ることなら部屋を飛び出し、君の元へ行きたい。衝動のままに立ち上がり、部屋の扉へ向けて踏み出した一歩を理性で留めながら、落ち着くんだと必死に自分に呼びかけた。

緊張が不安は静まったが、絶え間なく溢れる泉のように込み上げるこの衝動を押さえなければ。深く深呼吸しながら瞳を閉じ、手の平を握り締めて耐えると、ケースの上に置いあったヴァイオリンへと向かう。重なる心が一つに溶け合った君の声が・・・心に宿す想いが声が聞きたいこんな時は、互いを繋ぐヴァイオリンを奏でよう。呼び起こしそして答える弓とヴァイオリンの、心地良い一体感に身を浸し呼吸を重ねれば、離れていても君の傍へ行けると思うから。


最高の状態でピンと張られたヴァイオリンの弦は、弓が降ろされるのを今かまだかと待っているようだ。伝わる振動によって楽器の中の空気が震え、音を生み出す。だが弦も弓も一人で振動することは出来なくて、互いに異なった二つが合わさることで音を生み出すことが出来るんだ。俺は香穂子に出会わなければ、本当の音楽を奏でることが出来なかった・・・君はどうだろうか? 

楽器を肩に構え左足に重心を乗せると、静かに弓を降ろし、弧を描くもボウイングが音の呼吸を始めた。現を滑る弓はヴァイオリンの呼吸であり、一体となった俺の呼吸・・・そして歌う心の声。


以前君が初めて俺の留学先を訪ねたとき、俺の講義やレッスンが終わるまで、音大を訪ねた君を学長先生が預かってくれたことがあったな。香穂子を迎えに行ったその時に学長先生から、ヴァイオリニストが作り出す音の世界は、無限の可能性に満ちている・・・宇宙を作り出すのだと大きな話を聞いたのを覚えているか? 弓が男性を現しヴァイオリンが女性で、二つが合わさることで、音の命の誕生を無限に繰り返すのだと。


あの後、俺も見つけたことがあるんだ。丸の隣にもう一つ丸を繋げて描くと、それば無限や永遠を現す象徴になるだろう? 弓先から始め全部を使い切ったあと、弓を持つ右腕は大きな円を描くんだ。その円の同じ始点に再び弓を戻す・・・ヴァイオリンを奏でる弓の動きは、身体と心を自由に解放してくれる、まさに滑らかさや無限を現す円を描いているのだと。君と俺が奏でたら丸は二つになり、生み出す音の世界は無限に広がる・・・いや、二人で歩む未来までもが。


海を越え離れた場所から一人で奏でていても、いつも君の音が傍にあると感じていた。今日久しぶりに音色を重ねたように、見つめ合う瞳と心ごと二人で奏で合えば、音で交わす会話になるんだ。「大好き」「ありがとう」と素直な言葉と笑顔で香穂子が真っ直ぐ届けてくれるように、俺も心から素直に伝えたら、もっと幸せな気持になるだろう。君への想いを形にした自分のCDを聞いて多少照れ臭かったが、胸の奥へ宿った温かな光を感じ改めてそう思った。


自分で喋る言葉・・・奏でるヴァイオリンの音色は自分でも聞いているのだと、教えてくれたのは君だ。だから素直な気持ちで届けよう。コンサートのアンコールで共に奏でたい、その願いが彼女にとって大きな意味を持つのだと、だからこそすぐに返事が出せず悩んでいることを知っている。だが、願わずにいられない・・・。

他の誰でもない、香穂子とだけしか生み出せないたった一つの世界がある。こうした一体感が技術だけでは伝えられない、豊かな音の世界を生み出すのだと俺は思う。Ereruno・・・曲に込めた想いのように香穂子、君とならばこの先俺たちの道が寄り添った先でも、一歩一歩を積み重ね永遠を築けると信じている。


俺は俺のために強くなろう、心もヴァイオリンも全て。だから君も君のために強くなって欲しい。弓とヴァイオリンのように支え合いながら、生み出す音の命は自分のため、お互いのため、他の誰かのために・・・そして想いは巡り、再び俺たちに返ってくる。ほら、ここでも永遠を紡ぐ丸が二つ隣り合っているだろう?

ヴァイオリンと一体となった呼吸に、ふわりと温かな空気が舞い降り、胸に響く音色が重なるのは香穂子の気配に違いない。包み込む温もりが鼓動を高鳴らせ、だんだんと大きくなるのは、まるで彼女が近付いてくるのを知らせているかのようだ。




そんなことがふと脳裏に過ぎったからだろうか、練習しているときには気にも止めない携帯電話の着信にすぐ気が付いたのは、心の扉をコンコンとノックする香穂子の声が聞こえたからだと思う。

何故か分からないが、声を聞く前から電話の向こうにいるのは香穂子だと、見えない何かが俺に知らせてくれていた。こんな夜遅くに・・・まさか急いでヴァイオリンを置き、逸る心を抑えながら電話を取れば、ディスプレイに表示されていたのは間違いなく香穂子の名前。震えそうな指で通話ボタンを押し、向こうにいる気配や吐息をも感じ取ろうと、耳に押し当てながら全ての神経を研ぎ澄まさせた。


「もしもし、蓮くん? あの・・・突然電話しちゃってごめんね、今大丈夫?」
「あぁ、構わない。香穂子から電話が掛かってくるような気がしていたんだ、声が聞けて嬉しい。香穂子、どうしたんだ?
「夜遅くにごめんね、どうしても蓮くんの声が聞きたくて・・・伝えなくちゃって思って・・・」
「焦らなくて良い、ゆっくりで。上手く言おうとしなくて良いから、思ったままを俺に教えて欲しい」
「蓮くん・・・・・」


出来るだけ穏やかに優しく語りかけると、携帯電話の向こう側で小さく空気が揺れ動く気配が耳に届いた。微かだが聞こえるのは、くすんと鼻をすすり涙を堪え声を詰まらせる音。ひょっとして泣いている・・・のだろうか。あのねと言葉を発したきり口籠もっしまったのは、必死に自分の中と戦っている証なのだろう。すぐに駆けつけて抱きしめたいが、涙を見せまいと強がるだろうから、ここはじっと見守るしかないのがもどかしい。

声が聞けてほっと安堵したと同時に込み上げる緊張に、鼓動が高鳴り呼吸も浅く速くなる・・・とにかく落ち着かなくては。彼女に伝わったらきっと心配させてしまうし、焦らせては駄目だ。


「香穂子・・・その、泣いているのか?」
「な、泣いてなんか、ないよ・・・大丈夫だもん」
「我慢しなくて良い・・・電話だといつも以上に相手を感じ取ろうとするから、隠そうとしても分かる。空から雨が降るように、流れる涙は心を潤す。雨上がりの空が綺麗に透き通るように、きっと香穂子の心もすっきりすると思う」
「ありがとう蓮くん、蓮くんには敵わないなぁ。心配させたくないから隠していたけれど、やっぱり分かっちゃうんだね。でも心配しないでね、悲しくて泣いていたんじゃないの。嬉しくて感動して、幸せで・・・今まであったことがうわ〜っと込み上げたら、心の底から熱い滴が目から震えて来ちゃったの」
「俺が渡した二枚のCDを、聞いてくれたんだな・・・」
「うん! 聞いたよ。ヴァイオリニスト月森蓮のCDと、ヴィルさんがたちが作ってくれた、私たちだけの演奏が収められたCDもね。もう、蓮くんずるいよ・・・ずるい」


ずるいという言葉には頬を膨らませ唇を尖らすように、拗ねて甘える気配があるから、本気で嫌がっているわけでは無いのだと分かる。堪える涙が声を震わせ始めてしまい、必死に嗚咽を堪えているのが痛々しくて、何も出来ない自分がもどかしい・・・。だが俺たちの演奏が彼女の心を動かしたからだと思うと、苦しささえも甘い痺れに代わり、胸に熱い想いが込み上げてくる。


「伝わったよ、蓮くんの気持。小さな言葉の箱には収まらないくらい大きくて、熱い想いが真っ直ぐ私の胸に届いたの。しかも世界中に発売されるデビューCDなのに、ブックレットに書いてあったEteruno の紹介文・・・愛する君に捧げるって、もう! あんな熱いラブレターもらうなんて予想もしてなかったよ〜」
「驚かせてすまない。香穂子がいたから、今の俺がいるのは香穂子がいる。だから初めてのCDは君へ捧げる作品にしたかったんだ。ヴィルヘルムやプロデューサや、先に聞いていた学長先生からも、照れ臭いと同じ事を言われた。まるでプロポーズだなと・・・それくらいの覚悟と想いを込めた」
「びっくりしたのはそれだけじゃなかった。愛の挨拶だけ私との二重奏なんでしょう? 音色を聞いた時にもしかしたらって思ったの、でも確信が持てなくてもう一枚のCDを聞いたら涙が止まらなかった・・・。ブックレットの最後にも、私の名前があるんだもの。チーフも蓮くんもヴィルさんも、みんなサプライズが上手いんだから!」
「気付いてくれたんだな、良かった・・・」


ほっと緩む優しい吐息が、キャンドルの炎のように仄かな明るさを生み出し、君と俺に温もりとなってじんわり広がるのを感じる。穏やかに包む夜の空気へ静かに溶け込むと、電話越しに頬を染めていた少彼女が、小さく微笑んでくれる気配が俺の微笑みを引き出すんだ。


ソロの曲の他に数曲だけ混ぜた二重奏の中で、たった一曲だけは香穂子と奏でた曲をCDに収めた。ヴィルヘルムは全部を香穂子と奏でた曲にしたかったらしく、収録の合間に奏でた二重奏をスタッフと協力し全て音源に収めていたそうだ。二人だけの演奏が収められた、たった一枚のCDも、そんな彼の企みから生まれた贈り物だった。

二つの音源を比べながら随分議論を交わしたな。想いが先走っても、香穂子自身がプロとしての演奏に相応しいと納得しなければ意味がないし、お互いに譲れない考えや作品へのこだわりもある。だがたった一つこの愛の挨拶だけは、他の誰とも奏でたくはなかった・・・思い出が詰まっているだけに、香穂子とだけしか生み出せない音色があったから。


穏やかに見守る沈黙と優しい問いかけが、余計に空気を震わせ波を大きくしている事に気付き、俺だってどうしたらいいか困ってしまうじゃないか。目を閉じると泣き顔が瞼の裏に浮かんでくる・・・それでも一生懸命笑おうとする君を抱きしめたくて、俺は見えない心の手を必死に伸ばすんだ。


「言葉に出来ないけど、それでも伝えたくて・・・ありがとうって言いたくて、どうしても声が聞きたかった。私も蓮くんが大好きだって伝えたかったの。携帯から伝えようとしたんだけど、どうしても会いたい気持が止められなくて溢れたら、じっとしていられなくて・・・」
「・・・は!? まさか家を飛び出したのか・・・おいっ、香穂子。今どこにいるんだ?」
「えっとね、蓮くんの・・・家の前・・・」
「・・・・・・っ!」


耳に神経の全てを集中すれば、声の響きの遠さが室内とは違う。夜風に囁く葉の音や、背後に通り過ぎる車の音が、確かに彼女が外へいることを教えてくれた。浅く速く聞こえる呼吸を整えようとしているのが不思議だったが、夜道をたった一人走ってきたんだな。を冷え込みが厳しくなり、一人で夜道を歩くには危ない時間なのに・・・なぜもっと早くに気付けなかったのだろう。香穂子にもしもの事があったら、そう思うと胸が締め付けれられ息苦しさに襲われる・・・まずはこの目で確かめなければ。

携帯電話を耳に当てたまま素早く窓辺に駆け寄り、勢い良く開け放った窓から身を乗り出せば、通りに面した門の前に佇む香穂子が夜闇の中で見る。携帯電話を耳に当てていて、俺の部屋を見上げている・・・間違いない。遠く窓から見えた俺に気付き手を振る香穂子に、今すぐ行くからと手短に伝え電話を切ると、部屋を飛び出し玄関に向かった。


一度決めると後先考えず真っ直ぐ行動するところが、彼女の良いところであり困ったところでもあるが。それだけ熱く心を動かしたからからなのだと、その真っ直ぐさが眩しく誇らしく感じていた。今は・・・伝えたかった想いと二人で紡いだ心の音・・・全てを受け止めた君を動かしたのが俺だという事実が、泣きたいくらいの嬉しさや喜びになり、津波となって俺を飲み込んでゆく。もう夜も遅い時間だというのに、一人でやって来たんだ、心のままに動き風となって。


自分に翼があるのならどんなにか良いだろうかと、遠い異国で広い空を見ながら思うことがある。音色だけでなくこの身ごと君の元へ飛んで行けるし、二階にある俺の部屋からすぐに舞い降りる事が出来るのに。玄関に辿り着く僅かな間さえもどかしいが、今度は俺が風となり君の元へ行こう。


玄関のドアを開けて外に飛び出せば、通りに面した門の前で小さな外灯に身を寄せながら、二枚のCDと携帯電話だけを胸に抱きしめている香穂子がいた。静けさを打ち破るように香穂子と名前を呼べばはっと気づき、身を乗りだしすがるように門へと駆け寄り、細い柱を握り締めている。門越しに手を重ね、交わる瞳で言葉に出来ない想いを伝え合うと、素早く脇の小さな通用門を開けて通りに飛び出した。


「香穂子・・・!」
「蓮くん・・・!」


俺が駆け寄り腕の中へ攫うのと、子犬のように転がる香穂子が胸に飛び込むのがほぼ同時。涙でくしゃりと歪んだ顔を胸に伏せながら、迷惑かけてごめんねとしゃくり上げて謝る背中を、そっと抱きしめ優しく包み込もう。迷惑なんかじゃない、俺こそありがとうと伝えたいんだ。いつどんなときでも真っ直ぐ飛び込む君が、俺の中に高みを目差す光を灯してくれるから。


君を深く抱きしめるのは久しぶりだな。柔らかな身体と温もりに身を委ね、花の香りがする髪に鼻先を埋めながら、泣きやまない背中をあやし続けた・・・どうか笑顔を見せてくれないか? 


耳元で囁くと最初は躊躇っていたが、微かにしゃくり上げたまま、ちょこんと照れ臭そうに振り仰いでくれた。小さくはにかみながら掲げたのは、香穂子を俺の元まで導いてくれた二枚のCD。涙で赤く染まった目尻にそっとキスを降らし、光る滴を吸い取ると、くすぐったそうに身をよじりながら微笑む声が耳朶をくすぐる。


落ち着きを取り戻してくれた安堵感と同時に、再び鼓動が忙しなく高まりだした。抱き締めた胸から伝わってしまいそうだが、今はそれでも構わない。想いのままに駆けるほど君を動かした先に、共に奏でる願いも届いたと信じても良いのだろうか・・・香穂子の答えが俺は聞きたい。