祈りの先へ・2
いきなり国際電話が掛かってたかと思えば開口一番、君たちは結婚したのかね、と。内緒の悪戯を叱るように問い詰められ、驚きに寿命が縮みかけたのは俺の方だ。説明しようと口を開きかければ、なぜ黙っていたのか・・・反対されるのかと思ったのか、近くで祝ってやれないのが寂しいと切実に訴えられる始末。どこまで本気なのか、それとも俺を試しているのか・・・娘を想う父親の気持ちそのものな学長先生に、明日の始発で日本に行くとまで言い出す始末だった。
香穂子のヴァイオリン演奏を聞くために、演奏のアルバイトをしているゲストハウスを訪ねたこと。ちょうどその日がブライダルフェアで、急遽俺と香穂子が新郎新婦のモデル役を務めることになったいきさつ・・・。二人の演奏だけという予定だったが、いつの間にか衣装と一緒に舞台が整えられてしまったことなど。順を追い時間をかけて辛抱強く、細かく離すうちに、少しずつ電話越しの空気が穏やかに緩んでいったんだ。いや、途中からどこか楽しんでいるような気がしたのは、気のせいだろうか。まぁいい、誤解が解けたのなら。
『なんじゃ、そうならそうと最初から言ってくれれば良いのに。驚きすぎて寿命が縮むと思ったわい』
『・・・ですから学長先生、俺の話を聞いて下さいと言ったんです。まぁ、突然誓いのキスとケーキ入刀の写真を見せられたら、信じるなという方が無理ですが・・・』
『二重奏もぜひその場で聴きたかったのう、CDに収めた曲を演奏したんじゃろう? 妻はこの写真をプリントして飾るのだと張り切っておる。まぁ後でヴィルが良い写真をくれるじゃろうが。ドイツには母親から娘に託す品や、婚礼で幸せを呼ぶジンクスがたくさんあるからのう、もし本当なら妻と一緒にすぐ日本に駆けつけるつもりじゃった』
電話越しにからからと楽しげに笑う学長先生は、すまんと言いながらもあまり悪びれた様子はない。ずっと机の脇に佇んだままだった事に気付き、携帯の受話器を耳に当てたままベッドに移動し、力が抜けたように腰を下ろした。携帯電話で写真を送ってきた彼は、良かった・・・感動的な挙式と二重奏だったと煽るだけで、何も真相を語らなかったらしい。深く溢れかけた溜息が喉元まで込み上げたが、電話越しに聞こえないように押さえながら、ゆっくりな呼吸へと変えた。
一度電話を切った直後に転送されてきた写真たちは、確かにウエディングドレスは香穂子でフロックコートは俺。手の中に灯る小さな思い出に、改めて照れ臭さや嬉しさなどが込み上げ熱く駆け巡り、写真だけをこっそり保存したのは黙っていよう。小さな写真から語りかけてくる、夢がひととき叶って嬉しそうな香穂子の笑顔。いつかこのひとときを確かなものとして手に入れたい・・・そう心に誓ったのは俺だけでなく、きっと香穂子も同じだと思う。
一度深呼吸してから送り主へ宛てて通話ボタンを押し、俺たちに間違いない事を真摯に告げてから、随分と長い時間が過ぎた気がする。だが緊張から解放されれば、思ったほど動いていない時計の針に苦笑してしまう。我に返れば流していたCDの曲も、最初の曲を聞き始めた所だったのに、いつも間にか後半にさしかかっていた。電話をしていた間に、もしも香穂子が俺宛に何か電話かメールをよこしたのでは・・・。忘れかけていた焦りと緊張が蘇り、早く駆け出す鼓動と共に呼吸も浅く速く締め付けられてゆく。
耳から聞こえる自分の言葉・・・香穂子へ届けるヴァイオリンの音色を聞きながら、落ち着くんだと自分に言い聞かせるしかできない。電話の背後で流れるCDに気付いた学長先生は、ささやかな音だけで俺のCDだと気付いたらしい。ずっと押さえていた溜息の代わりに一つ深呼吸をすると、電話越しから珍しそうに目を見開く声が聞こえてきた。
『どうした、レン。珍しく、心が乱れておるのかね』
『学長先生には敵いませんね。その・・・不安と期待が押し寄せて、緊張していたんです。どうして分かるんですか?』
『電話は声だけに神経を集中するから、直接会話をするよりも音の違いを敏感に感じるんじゃよ。声の調子や呼吸など、お前さんもカホコと電話をするときは、声から相手の全てを感じ取ろうとするじゃろう?』
『なるほど、確かに音は目に見えない感情を伝えてくれますよね。奏でるヴァイオリンも、俺たち自身も・・・。香穂子に俺のCDと、ヴィルヘルムからもらった俺と香穂子だけの二重奏を収めたCDを渡しました。彼女が聞いていると思うと、どうにも落ちつかなくて・・・』
『そういえばさっきカホコと電話で話したときにも、これからお前さんのCDを聞くのだと嬉しそうにしておったぞ。CDにサインをもらい忘れたと残念そうにしていたから、後で書いてやりなさい』
ヴァイオリニスト月森連として初めてのCDに本人のサインをもらうのだと、張り切る香穂子が目に浮かび、つい頬が緩んでしまう。だが香穂子にCDを渡したのが今日ということは、俺と話す前に学長先生は彼女と電話で話していたことになる。ということはまさか、ヴィルヘルムが送った写真のことで、彼女も同じように問い詰められたのだろうか?
いやそれよりも、先に話していたのなら真相を聞いているはずなのに、わざわざ俺を諫めるような電話をよこした・・・という事になるな。考えるほど混乱してしまうが、絡まる糸を解けばつまり、学長先生に試されたという事実に気付き、照れ臭さが一気に熱となって溢れ出す。知っていてあえて、俺が緊張しているタイミングを見計らってきたのだろう。
『誤解の無いように言っておくが、カホコからワシにお礼の電話があったんじゃよ。出発の時に託したアルバムや妻が作ったクーヘンを、渡してくれてありがとう。最初に電話を取った妻が、なかなか受話器を離してくれなくてのう。その時にウエディングドレスの写真も聞いたが、電話越しにも分かるほど真っ赤になっておったわい。レン・・・お前さんが素敵だったと、思いっきりのろけられてしまったわい』
『だから俺の所にも電話をしてきたんですね。真相を知っていたのにわざわざ俺を問い詰めるとは、学長先生も意地が悪いです』
『レンもカホコもあの笑顔は演技ではなく、心からの幸せが溢れたものだとワシは感じたよ。真っ直ぐなレンのことじゃから、気持は本物だったのじゃろうのう? レンが真摯な想いかどうか、ドイツの両親として決意の程を知りたかったんじゃ』
嬉しさや喜びなど全ての感情は音で表すことが出来るから、耳を澄ませば大切な人の音が真っ直ぐ心へ響いてくる。音楽で結ばれた絆は深く熱いから、支え合う力と包む温もり、見えない優しい声が遠くからでも分かるんだ。このタイミングは偶然ではなく必然で、いつも迷いかけた時や人生の分岐点に立つとき、迷わないようにそっと照らしてくれる光。空のように広く海のように深い温かさを、香穂子も感じていたのだろうな。
この瞬間をいつか確かなものとして手に入れたいと誓ったこと、きっと彼女も同じだと信じていると。想う心のままを真っ直ぐ告げれば、電話の背後に流れお前さんのCDと同じくらい、聞いてるワシらが照れてしまうくらい真っ直ぐじゃのうと、はにかむ声が聞こえてきた。波立つ心はいつしか穏やかさを取り戻している事に気付いた。
『ドキドキしているのはレンだけではないぞ、電話越しのカホコも同じじゃった。じゃが心配はいらない、ドキドキするのは生きているからなんじゃ。緊張したり喜んだり、時には不安になったり・・・心が一杯動くのは良いことじゃとワシや思う。動いた心の分だけ、幸せで満たすことが出来るから。まさかCDを渡すときにプロポーズでもしたのかね』
『・・・っ、違います。今はプロとして一歩を歩み続け、コンサトツアーを成功させることが先です』
『本当に正直じゃのう、あれらの曲を渡した時点で同じじゃと思うが・・・知らぬ派本人ばかりかな。まぁいい、ところで日本のコンサートのアンコールで一曲、カホコと合奏するそうじゃな。日本の聴衆には素敵なサプライズになりそうだのう。その時にはワシらも日本へ行く予定じゃ。で、カホコは何と返事をしたのかね?』
『CDを渡したときに、一緒に演奏したいと伝えましたが、少し考えたいと言っていました。俺も答えは急ぎません。音に込めた想いたち・・・CDを聞いてからもう一度返事を聞かせて欲しいと、そう言ったんです』
自分の曲を聞いて緊張していたのは、彼女の返事を待っていたから。君との想い出が詰まっている、奏でる曲の一つ一つが心のアルバムを紐解き、新たな誓いと想いを重ねて行く。淡い花の色が少しずつ濃さを増すように、若葉が深さを増し濃く茂る葉になるように。今の俺が出来るのは香穂子を信じ、自分の全てを出し切ること・・・音楽も君へ届ける想いも優しさも強さも全て。
ただこの瞬間にある清らかない・・・それが自分らしさだと君が教えてくれたから。俺は自分らしく奏でよう、答えは自然に付いてくる。無邪気は無敵なのだと君が言っていたように、自分の心に嘘をついていない分、素直な自分が一番強いのだろう? 瞳を閉じて呼吸をヴァイオリンに重ねれば、音の翼と一つになり、高く自由に羽ばたける・・・君の元へ。
『躊躇っているのも迷っているのもみんな自分だから、必ず出口は見つかるはずじゃよ。レンだって最初にヴィルから提案された時には迷ったじゃろう? 駄目かも知れないと自分で限界を設けしまったから、道を閉ざし抜け出られなくなる・・・。カホコにも言ったが、答えはいつでもそこに・・・自分の心の中に出ているはずなんじゃよ。』
『音楽も心も、自分で自分の限界を決めてはいけない。それ以上に高みを目指せなくなる・・・・そういう事ですよね』
『そうじゃ、迷ったら真っ直ぐ歩きなさい。迷っている時ワシらは人生の分岐点に立っていると、前に言ったことがあったな。そういうときこそ心のまま、真っ直ぐにな。おっ、曲が二重奏に変わったな』
『・・・愛の挨拶ですね。夏に渡欧した香穂子が、帰国する直前に共に奏でた曲。この後が彼女へ向けたEterunoです』
『既に日本行きの航空券とホテルは予約してあるから、出来ることなら二人が同じステージで奏でる姿を見たい。風は自分でつくるものじゃ、あとは春風を待つのみじゃな。最後の曲が終わるまで香穂子からの電話はないだろうから、焦ることはないぞ』
電話越しに悪戯な笑みを浮かべる学長先生に、全てを見抜かれている熱さが身体中に駆け巡ってゆく。良い返事を楽しみにしておるぞと、静かに微笑む吐息が空気を震わせ、余韻を描くヴァイオリンのように電話が切れた。
最後の二曲が、カホコを動かす力になると信じている・・・あとは彼女が決断できる時を待つだけ。込められた本当の願いは、一緒のステージで一曲演奏する以上に広くて大きい。大切な場所のアンコールで共に奏でれば、周囲から注目が集まるのは必至だと香穂子も感じているからこそ、悩んでいるのだと分かる。音楽的なことや、恐らくそれ以外のプライベートなことでも。
努力を積み重ね磨かれた香穂子のヴァイオリンを、音楽には厳しいレーベルのプロデューサーや事務所が認めたからこそ、ヴィルの無謀とも言える企画も実現をしたんだ。香穂子が不安に思っているようだが、誰しもが温かく優しい君の音色を多くの人に届けたいと、自信を持っているのだから。
俺を変えて導いてくれた大切な存在・・・人生においてもパートナーなのだと、そう伝えられたらどんなにか良いだろう。たった数分間だけではなく、道を寄り添わせたこの先もずっと、共に奏でていたいのだと。大切な人の傍でいつでも奏たい、香穂子が願う二人で歩む未来というステージで。
甘い旋律が音と音の会話を繰り返しながら、見つめ合う俺たちとヴァイオリンの呼吸が重なれば、音も心も一つに溶け合う。愛の挨拶が終わり、やがて世界でたった一つの曲が流れ始めた。
星に願いをかけることはいつでも出来るから、祈るだけでなくまずは一歩を踏み出さなくては・・・Eterunoに向かって。
だから君も共に手を伸ばさないか? ポケットに入れたままの心の手を空に差し伸べ、描く夢を掴もう。