異国の地にて〜

ドイツの夏は短い。バケーションが終わり9月に入ると駆け足で秋が訪れて、再び長い冬がやってくる。
今はまだ9月だからサマータイム(夏時間)だが、10月なれば冬時間に移行して急に日が短くなる。春と同様に気温差が激しく、残暑の照りつけが厳しく汗ばむかと思えば、一足早く秋が訪れたかのような冷え込みが襲う。



玄関を開けると、朝特有の澄んでひんやりとした空気が俺を包んだ。外気を思いっきり吸い込むと、まだ起ききっていない頭が、芯から目覚めていくのが分かる。
数週間前に比べて朝晩の冷え込みがぐっと厳しくなったかなと、足早に訪れる秋の気配を自然に感じることが出来るほどには、この街に馴染んできたということか。
もう、何度季節の変わり目を感じてきた事か・・・・。
そして君に会えなくなってから、どれほどの時間が経ったのだろう・・・・。



ドイツに渡ってから、3年目の秋を迎えようとしていた。






学生は大学の寮か近くに下宿するものが大半だ。
だたし寮は職員などで大半が占められ、空きがなかなか出ないのが実情らしい。
幸いにも俺は、ベルリンの郊外に月森家の別荘があるため、ドイツにいる間はそこを住まいにしている。母がヨーロッパ公演などで長期滞在するときにも使われいるので、時折母が来ることも有るが、基本的には俺一人。
実家よりも大きな家に一人では味気ない気もするが、その辺は日本でもドイツでも変わらないらしい。
当初、香穂子にそれを伝え時には「良かった。アパートで一人暮らししている蓮くんや、ルームメイトと共同生活している姿は想像できないよ!」と、安堵の溜息を漏らされたものだ。


まったく・・・君は俺の事をなんだと思っているのか。まぁ、気楽であることには変わらないが。
そんなやりとりも、今思えば懐かしい・・・と頬が緩むのを止められなかった。



大学のあるベルリン中心部までは、自宅最寄り駅のダーレムからUバーン(地下鉄)を使って数十分。
同じドイツでも各都市によって街の雰囲気と生活環境が随分違っている。ベルリン市内だけでもそうだ。自宅のあるダーレムは、同じベルリン市内でも高級住宅街に数えられており、中心部からUバーンでほんの少し足を伸ばしたけで、都会の喧噪とかけ離れたのどかな風景と、閑静な住宅街が広がっている。
初めての電車通学が海外とは、我ながら凄いなと思う。練習時間が減るのは否めないが、都心部で窮屈な生活を送るよりはよっぽどいい。
電車通学をしてから今更だが、大きな楽器をもって電車で通学していた志水君や、遠くから通っていた冬海さんたちの苦労が、少しだけ分かった気がした。


駅までの道のりを歩く、この朝の一時はわりと気に入っている。
緑が溢れる静かな空気の中を歩くのは、ちょっとした散策気分でもあり、色々なことを思索に耽りながら歩く。
曲の構想の事、今日の授業といった音楽の事、遠く離れた日本の事・・・・・・そして香穂子の事。


こちらでは、誰も俺を知らない。
日本にいた時には、いつも決まって付きまとっていた「月森」の名前。サラブレッド・音楽一家など、俺個人ではなく色眼鏡で見られていた視線や、理不尽にぶつけられる不快な感情を受けることは無くなった。
日本を離れて辛いはずなのに心の底から音楽が楽しめるのは、諸々のしがらみから解放されたからだと思う。
あくまでも「月森蓮」として、一人の音楽家として見てくれる・・・その事がたまらなく嬉しい。


でも100%嬉しいと言い切れないのは、隣にいるはずの香穂子がいないから。
そのぽっかり空いた空間がもの足りなくて、隣に感じる空気が寒くて、心にまで風穴が空いてしまったような寂しさに襲われる事もある。
ここに香穂子がいたらいいのに・・・それは無理な願いだが。
後悔とは「後から悔やむこと」とは良く言ったものだ。
離れてから気付いたことが沢山有りすぎた。
どんなに大切だったか、どれ程君を想っていたか、そして俺のことを想ってくれていたか・・・。そして俺の音楽にとって、香穂子の存在が必要不可欠であったかを。


来てから丸2年が経ち、今は3年目に突入した。出会って共に過ごした時以上に、離れている時間の方が確実に長くなってきている。ドイツの大学は卒業後も1〜2年は、専門性を高める為のマスタークラスが有るため、まだ告げていないが正直4年で帰れるか分からない。先を見れば本当にきりがないし、足下も実に不安定だ。
日ごとに募る想いと不安。

香穂子のヴァイオリンが聞きたい・・・・奏でられる甘く優しい音色に包まれたい。
会いたい、触れたい・・・抱きしめたい。そして側にいる事を確かめて、もう二度と離したくない。
遠く離れた君を想って、何度眠れぬ夜を過ごした事だろう。






ベルリン。18世紀にプロイセン王都の座について以来、栄光と悲劇の歴史を繰り返してきた街。
歴史の授業やドキュメンタリー番組で見かける「ベルリンの壁」の映像のせいだろうか。冷戦の面影、負の遺産・・・どこかどんよりと暗いイメージを持っていたが、実際は違っていた。
戦争の傷跡を残しながら、華やかな芸術の香りと活気溢れる若者の文化が息づいている。


表面だけ見ても、きっとこの街の面白さは分からないだろう。その気になればなんでもあるのだから。
オペラやコンサート、演劇にミュージカル、古くから多くの移民を受け入れてきたベルリンらしく世界中の食も集う。クーダムやサヴィン広場も最先端の街として人気があるようだ。


歴史的建造物と近未来的な建造物が入り混ざり、その対比が面白い。
ニューヨークやロンドンにも勝るとも劣らない、ここは活気に溢れて魅力的な街。
政治も経済も文化も人も・・・・・・何もかもが激しく動いている。


ベルリンの玄関口であるツオー駅に到着し、人の波に流されるように改札へと向かう。
かつての西ドイツの玄関口だったツオー駅は、こじんまりとした高架駅ながらにも、ドイツ国内やヨーロッパ中から人々が集い、賑わいを見せている。

とその時・・・・・・。


駅舎を出た途端に照りつけた太陽の輝きに目が眩み、空いていた手で視界を覆った。
視界が、意識が、一瞬だけ真っ白に染まる。
焼け付けるような残照は、心の奥底に潜む弱さを引きずり出して白昼夢を見せた。


常に前を向いているこの街で、自分は何かを得たのだろうか?
香穂子を日本に残してきてまで決意した俺の音楽は、ヴァイオリンは・・・・前に進んでいるのだろうか?
昔の俺に戻っていやしないかと、どうしようもなく自分自身が分からなくなる・・・・。


まるで気持ちだけが取り残されたまま、自分も激しい流れに取り込まれてしまったかのように・・・。