バカンスの持つ意味・前編

今ベルリンには16の大学があり、学生数は約13万人とドイツでは最も多い。
国内やEU諸国からだけでなく、俺のように世界中から集まってくる。
ありがたいことに、大学は全て公立なので授業料も入学金もかからない。だからどの大学を出たかというより、何を勉強してどのような資格や肩書きを持っているかで、社会の地位と給料が決まる国なのだ。
それに入学の門戸は広くても卒業するのが難しいから、早くからやりたいことを見定めて、自分で努力しなくてはならない。


9月に入って新学年を無事迎えることが出来たから、卒業まであと2年・・・。
折り返し地点のこれからが、一番大変な時になる事は間違いないだろう。
ソリスト、オーケストラ、作曲・編曲・・・課題や履修科目に追われながら、ヴァイオリニストになる為の道を模索する日々。1日の大半を練習にあてて、高校時代よりも更にヴァイオリン中心の生活だが、圧倒的に時間が足りない。
もっと時間が欲しい・・・心の中で生まれる微かな焦りと不安。
4年という期間は長いようで、以外と短いものだと思った。






彫刻が施された黒いアイアン製の堅牢な正門をくぐると、リンデン(菩提樹)の並木道が真っ直ぐに続いている。
石畳の突き当たりにはこの音楽大学の大講堂。白い石造りでギリシャ神殿風の柱を持ち、正面入り口の屋根部分には、ゲルマン神話に出てくる音楽の神々達の彫像が建ち並び、学生達を見守っている。
星奏学院も洋風でクラシカルな造りだったが、その規模と重厚感は比べものにならない。
まるで講堂というよりも、プロイセン帝国時代の宮殿といった造りだろうか。


入学式や卒業式、学園祭といった日本で一般的に行われている年間行事は殆どないから、今日から新学期とはいえ、大学構内の雰囲気はいつもと変わらない光景が広がっている。
ほんの少し違うといえば、久々に会った友人とバカンスの出来事で盛り上がる学生達の姿や、青空の下で通りの脇に蚤の市のように広がっている新本・古本の書店。


俺も何冊か買わなければいけないな。
音楽史、音楽理論、楽典・・・もちろん全てドイツ語だが。
今の内に買っておこう・・・真っ直ぐ講堂へと向かう予定だったが、教科書や参考書を探す新入生や、新学年を迎えた学生の姿で賑わう中へと足を向けた。


同じ内容なら新書より古本だろう。
先輩達の書き込みなどがあって、下手な参考書よりもよっぽど役に立つから。
そう思って棚に並んでいる本を物色していると、耳慣れた声に呼びかけられた。


『レン おはよう! 久しぶりだな』
『おはよう、元気そうじゃないか』 


肩越しに振り向いた先にいたのは、同じヴァイオリン科の友人だった。
彼は俺と同じ歳で、生まれも育ちもベルリン育ちという生粋のベル−リーナー(ベルリン人)。
良くも悪くも人間関係がドライなこの国の中で、彼には渡独当初から随分力になってもらった。


しかし最初の印象は良い方では無かったな、と思う。どうやら俺は、こういう出会い方のパターンが多いらしい。
癖の少し混じった柔らかいブロンドの髪の毛と、笑ったときに出来る目尻の笑いじわが印象的で、親しみやすさを醸し出している。


『随分日焼けしたんだな。今年のバカンスは何処へ行ったんだ?』
『そう、よくぞ聞いてくれました。スペインだよ、スペインに3週間!』


語りたいくらいに楽しい休暇を過ごしたのだろう。聞いてくれと、顔に大きく見えない文字で書いてある。
苦笑しつつそのまま読み上げると、彼は嬉しそうに瞳を輝かせて身を乗り出した。
この元気さと明るさを、以前いつも感じていたな・・・と纏う空気に思い当たり、それが遠く海の向こうにいる香穂子に似ているのだと気が付いたのは、つい最近の事だ。



多くのドイツ人にとってバカンスとは、日常のストレスから解放されてリラックスする為のもの。1カ所に2〜3週間滞在するのが圧倒的に多い。
バカンスを過ごす国として最も人気があるのがスペイン。その理由は日本でいう所のハワイだと思えばいいだろう、典型的なリゾート地だ。スペイン以外ではイタリア、オーストラリア、フランス、ギリシャの順になっていると聞く。
冬が厳しいドイツに住んでいると、暖かな太陽の光を求めて南の国に殺到するのかが分かる気がする。


『3週間もスペインだけにいて、何をするんだ?』
『別に何もしないさ。でも最初の1週間はまだ学校の事などが頭に残っていて、本当にリラックス出来ない。やっと2週間目に入ると、ドイツの事を忘れて気分転換が出来のさ』


でも行く先々でドイツ人ばかりだから“ここは何処の国だっ”て思ったよと、癖のある髪を掻きながら笑った。


『スペインの民族音楽を、いろいろ聞き歩いて来たよ。それに、足を伸ばしてフランスの国境付近にあるパンプローナという街にも行ったんだ』
『パンプローナ・・・サラサーテの故郷か』


パンプローナはスペインのピレネー山脈麓にある街だ。
スペインの作曲家で、ヴァイオリニストであるサラサーテの曲は、俺も何曲かレパートリーがある。曲の多くに見られる伸びやかさとダイナミックさ、開放的で情熱的。その中にも哀愁が漂っていて、スペインの民族音楽が持つ醍醐味が散りばめられている。



『灼熱の太陽と焦熱的なフラメンコのリズム・・・曲の生まれた原風景を、しっかりこの身体に刻んできた。今ならサラサーテの曲が、本当の意味で弾きこなせそうだよ』
『有意義なバカンスで良かったな。後でその成果を聞かせてくれないか』
『もちろんだよ、ちゃんと向こうにもヴァイオリン持ってったんだぜ。ところでレンは何をしてたんだ?』
『野外で行われるサマーコンサートに行ったり・・・そんなものか。』


さらっと答えると、彼は驚いて目を見開いた。そんなに驚く事なのだろうか・・・。


『また、日本には帰らなかったのか!?一度も帰ってないじゃないか』

『あぁ・・・何せここからは地球の反対側だ。そう簡単に帰れる所じゃない』
『遠いといっても、飛行機で12時間足らずじゃないか。キップだって、取ろうと思えば格安で手に入るの時代なのに』
『物理的な距離の問題だけではないんだ・・・』


俺の言葉に溜息を付くと、わざとらしく大きく肩を落とした。
その様子に少しムッとしつつも、ゆっくり上げられた表情の変化に反論の気持ちは収まった。
それまでおどけて笑顔だった瞳が、すっと真剣な表情へと引き締まっていた。


『会いたい人とか待ってくれてる人が、いるんだろう? どうして会いに行かないのさ。俺には、レンがわざと帰らないようにしているようにしか見えない』
『君には関係ない。これは俺の問題だ』



こればかりは誰にも干渉されたくない。
ブルーグリーンの瞳を真っ直ぐに見据えると、跳ね返すように俺を射返してきた。


『そうだな、俺には関係ない。ただし、友人として一言いわせて貰うよ。仕事や学業も大切だが、それだけが人生じゃないというのが、この国のポリシーだ。なぜ俺たちドイツ人がバカンスを大切にするか知っているか? リゾート地で太陽の日差しを満喫するのも理由の一つだが、他にも大切なことがあるのさ。』
『どんな理由なんだ?』


口調に少しだけ棘が出ているのが自分でも分かる。
大人げないと思いつつも、苛立ちを押さえることが出来なかった。
それでも彼は気にせず、話し続けた。


『恋人や家族と一緒に過ごすプライベートな時間を充実させるのには、以外とエネルギーが必要だろう? 
仕事ばかりしていたら疲れてこのエネルギーが無くなってしまうじゃないか。その逆もしかり』


『相手の為にどれだけ時間を割くことができるか、どれだけ時間を共有することができるかが、お互いの関係を維持するのに大切になってくると思うんだ。そういう意味でも、バカンスの持つ意味は大きいんだよ。ドイツだけじゃない、レンの日本だって同じじゃないのか?』


何か言わなければ・・・・君になにが分かるんだと。
心の中に子供じみた反論や反感が沸き起こりつつも、言い返すことが出来ない。
彼が言うことも、あながち的を外していないから。

だからこそ、自分の気持ちや考えが言葉にならなかった・・・。


あえて日本に帰らないようにしていたのは事実だ。
まだ帰れる時期じゃない・・・そう思ったから。
会いたい人・待ってくれいる人。
香穂子に会えるものなら、今すぐにでも会いに行きたい。
モノトーンだけという長く厳しい冬を過ごすにつけ、太陽の様な香穂子がどれだけ恋しいと思ったことか・・・。

いつも心の中に沸き起こる葛藤と、そうさせてはくれない現実の狭間で、俺はもがき苦しんでいる。


『自分を追いつめても、良い結果は出ないぞ・・・』


ポンと肩に乗せられた手が、やけに重く感じた。
よりによって、ヴァイオリンを乗せる方の肩にという所が、無言のメッセージとプレッシャーを強く伝えてくる。
いつもなら気丈に振り払っている手を、除けることが出来ずに受け止めていた。