一つのヴァイオリンのように・6

私が席を外していたとはいえ、出るタイミングを見計らいつつ扉の影から彼らの様子を伺っていた先程まではピタリと寄り添っていたのに、声をかけて現れた途端に二人とも飛ぶようにソファーの距離を開けてしまった。
せっかくいい雰囲気だったのにもったいないと思うが、これはひょっとしてワシのせいだろうか? レンもカホコさんも、そわそわとどこか落ち着かない様子だ。カホコさんはともかく、レンまで頬を染めて互いにわざと視線を逸らしているのは恥ずかしさを誤魔化す為なのか・・・。

いつも冷静な彼が、彼女の前だけではいろいろな表情を見せているのが新鮮で微笑ましく、何だかこちらまで胸にむず痒さのようなものが込み上げてくる。彼らをみていると、何故か心浮き立つ予感のようなものを感じさせてくれるから、つい見守るだけでは我慢できなくなってしまうんじゃ。


トレイに乗せて運んできた白い陶器の3つのマグカップからは、温かい湯気が揺らめき立ち、香ばしいコーヒーの香りが漂っている。ちょっと突っつきすぎたかのう・・・心の中でそう思いながらも、コトリと小さな音を立ててまずはカホコさん、そしてレン・・・最後に私へとテーブルの上それぞれの前に置いていき、一息入れてはどうだね・・・と優しく語りかけた。


熱く走り続けた心もホッと緩んだのか、穏やかな風が吹き抜ける。
マグカップの中身が私の入れたカフェオレだと分かると、カホコさんが嬉しそうに瞳を輝かせて声を上げた。


「あっ! ねぇ蓮くん、このカフェオレとっても美味しかったんだよ。学長先生のオリジナルレシピなんだって。私も作り方教えてもらったの!」
「そうか、ではぜひ今度、香穂子が作ったものも飲んでみたいな」
「じゃぁ帰ったらさっそく作るから、楽しみにしててね」


先程の照れくささはどこへ行ってしまったのやら。彼女はいそいそと座る距離を詰めて瞬く間に寄り添うと、間近にレンを見上げて笑みを零す瞳に彼も同じように緩めた瞳で微笑を返した。テーブルに手を伸ばして少し大きめのマグカップを両手に包むようにして持つと、口元に近づけて唇を愛らしくすぼめながら、ふーっと息を吹きかけて。幸せそうに頬を緩めながら一口すすり、美味しいねと見上げ語りかけている。
二人だけの会話はワシに秘密と言わんばかりにドイツ語では無いけれど、きっとそう言っているのだと直接心に伝わってくるから分かるんじゃ。


『カホコ、美味しいかい?』
『はい、とっても!』


顎に蓄えた髭を撫でながら、そうか、良かったのう〜と頷けば一層笑みが深まって。ふわりと私に向けられる満面の笑顔が眩しくて自然と瞳も細くなり、隣で見守るレンの表情にも溢れる愛しさが零れ出しているようだ。

彼女は不思議な存在じゃな、誰もが彼女に引寄せられていくのだろう。
ふと気付けばいつでも中心にいて楽しそうな笑顔を振りまき、それだけで周囲の空気だけでなく私たち皆の心までも温かくしてくれる。まるで彼女が奏でるヴァイオリンの音色のように。
いや・・・彼女一人だけではないのだ。
照らしたいと思うものが・・・自分を輝かせてくれるものがあるからこそ、こんなにも温かいのかも知れない。


先程も今も、彼らが何を話していたのか・・・聞こえてきたのは恐らく彼らの国の言葉だろうから私には良く分からないけれども。瞳に宿る輝きや意志、結びつきの強さが数時間前までとは違うのがはっきりと見て取れる。
きっとカホコさんが心に決めた事をレンに話したのか、それとも互いに目指すものや心に抱えるものを確認する事ができたのだろうか。


『豆や茶葉のブレンドだったりミルクの分量だったり・・・。一杯のドリンクを作るのはオーケストラやアンサンブルのハーモニーを作り出すのに似ている。それぞれの個性を殺さず最大限に生かしながら、いろいろバランスを整えたり色を差したりして溶け合わせ、たった一つ自分だけの味と風味を持った一杯を作り上げるんじゃ。個人やオーケストラによって、音色に個性があるようにな』
『奥が深いですね。それに作り手の想いがこもっているからこそ、飲んだときに心の中でもハーモニーを奏でる事が出来る』
『このカフェオレは、いわばワシのオーケストラじゃな。楽団員は素材たちで、指揮者はワシじゃ』


視線を向けなくとも分かる。私と同じように彼女を見守っていた優しい表情が伝わってくるレンの声音に、ふとカップから口を離したカホコさんの瞳も柔らかく緩み、レンや私に向けて、口の中から音楽が聞こえてくるよと嬉しそうに頬を綻ばせた。


君たち二人が奏で合う心の温かさや結びつきが、そのまま音色となって現れる・・・。
それは二人の時だけでなくそれぞれ一人の時であっても同じなのだと思った。
一人奏でる音色に、見えないけれども相手が重なり宿っているのだと、気付いているのか、いないのか・・・。





『ところでレン。レッスンはどうだったかね? 随分と熱のこもった音色が聞こえてきたが』
『・・・それが先生から、俺は力の入った弓のようだと言われてしまいました』
『ほほう、弓とな?』
『自分も楽器のように最高の状態でなければ、良い演奏ができない。それに大切なヴァイオリンとも奏でられないと・・・確かにそう思いました。俺が弓だとしたら、ヴァイオリンは、隣にいる香穂子ですから』
「あの・・・蓮くん・・・・・・」


ポソリと呟く声に私もレンもちらりと視線をやれば、一緒になって話に耳を傾けていたカホコさんが、意味を解したのかマグカップをきゅっと両手に握り締めたまま、顔を赤く染めて俯いている。真っ直ぐ心に伝えるそれはまさしく愛の告白なのだと、改めて気付いた彼も言葉を詰まらせてしまったが、別に隠す事も照れることもないじゃろう・・・本当の気持なのだから。


レンもそう思ったのか、小さく深呼吸をして彼女に柔らかく微笑みかけるとテーブルに置かれたマグカップを手に取り、口をつけて一口飲み込んだ。恥ずかしさを紛らわす為なのか、慌てて彼女も同じようにカップに口ををつけて残っている中身を一気にすすり始める。


レンが手にしたマグカップを握り締めたまま脚の上にそっと置くと、真っ直ぐ私をみて静かに語り始めた。


『過度に攻撃的なボウイングは楽器の反応を殺してしまうし、反対に力の無い弱々しい弓使いからは楽器の反応を引き出せない。つまりは人間のアプローチと同じなのだと思いました。どちらかが一方通行では心が通わせ合えないように相手を見ることが大切で、自分だけが勢い走っても駄目なんだと。そんな俺達の見えない心の声をヴァイオリンは敏感に感じ取り、歌い上げるのですね』
『そうじゃな・・・ヴァイオリンは人間と同じなんじゃ。頭・胴体に始まりネックやリブなど・・・弓にはヒールと呼ばれる部分もある。柔らかいラインや姿から、形については無理に想像を膨らませる事もないな。この形が一時的な流行によるものではない事は明らかで、ヴァイオリンの歴史を全て振り返ってみてもその外観に大きな変化は見られない。なぜだと思う? それには深い意味があるからじゃ』


じっと話に聞き入るレンと香穂子さんの瞳を交互に見つめて問いかけると、彼女は眉を寄せて首を傾けながら真剣に考え込んでいるようで。一方レンはすぐに分かったようで、何と言っていいものかと・・・困ったように言い淀み戸惑いつつも、勇気を振り絞るようにして真っ直ぐ私を見つめてきた。



『・・・・・・その、ヴァイオリンは女性の本質を、弓は男性の本質を携えている・・・という事でしょうか? 形だけでなく、音を生み出すそれぞれが持っている機能も』
『ご名答、さすがワシの教え子じゃ。それとも男の感というものなのか』
『学長先生っ・・・!』


きょとんとする彼女の隣で真っ赤になって噛み付いてくるレンに悪戯っぽい笑みをむけると、手にしていた飲みかけのマグカップをテーブルに置き、静かにソファーを立ち上がった。少し待っていてくれ・・・とそう二人に言い残して、床に響く足音を引き連れながら窓辺の陽が差し込むダークオークの重厚なデスクに歩み寄り、机の足元にあったヴァイオリンケースを持ち上げる。デスクの上でケースを広げ、中から長年愛用の半身ともいえるヴァイオリンを取り出し調弦をするとソファーへと戻り、一体何があるのかと息を詰めて見守っているれンとカホコさんへ持っている私の楽器を披露するように見せた。


「これは・・・ストラディヴァリウス! 世界に名だたる、学長先生の愛器だ。この目の前で見られるとは思っても見なかった・・・」
「えっ、蓮くん見ただけで分かるの!?」
「あぁ・・・・・・」
「やっぱり蓮くんも、こういう楽器を弾きたいって思う?」
「そうだな、いつかは俺も手にして音色を奏でたいと思う・・・名器に負けない自分自身と音楽を手に入れた暁には・・・・・・。ヴァイオリニストなら一度は抱く強い憧れだな」
「凄い楽器なんだね、きっと蓮くんなら弾く事ができるよ。でも私は今の子が一番大事だけどね」


私の膝の上に置かれた深い飴色に艶光るヴァイオリンを前に驚きと興奮を隠せないレンと、そんな彼を見て目を輝かせているカホコさん。二人ともソファーから純真な子供のように半分身を乗り出しつつ、じっと食い入るように楽器を見つめている。



弓がレンならヴァイオリンがカホコさんで・・・と互いをヴァイオリンに例えて、そうありたいと願う二人。
ヴァイオリニストとしても・・・それだけでなく君たち自身がヴァイオリンになって欲しいと心からそう思うから、ただ側にいるという意味だけに終わらない、ヴァイオリンが持つ本当の意味と世界を君たちには知って欲しい。
だから・・・・・・。


『レン、カホコ・・・自分の手を見てごらん』
『・・・? 手、ですか?』
『手の平を・・・こうかな・・・?』
『そうじゃ』


手を見てくれと私の言葉にきょとんと目を丸くしていたけれども、ニコリと笑みを向けて促せば、互いに視線で会話するようにどちらともなく瞳を合わせて。手にしていたマグカップをテーブルに置き、自分の両手の平を目の前に掲げた。





ヴァイオリンを奏でる手。
レンもカホコさんもこの手が一体先程までの話とどう繋がるのだろうかと、まるで謎賭けをされたように自分達の手をしげしげと眺めながら、眉を寄せて考え込んでいる。


私も楽器を膝の上に置いたまま彼らと同じように自分の両手の平を広げると、ちらりと視線を上げて、広げた指の隙間から二人を眺めながら、湧き上がる興奮を抑えられずに小さく口元と頬を緩ませた。




そう・・・残念ながら多くの者が気付いておらんが、ヴァイオリニストの手には凄い力が隠されているのじゃよ。
これを知ったら、果たして君たちはどう思うだろうか?