一つのヴァイオリンのように・5
中庭側に面した小さな窓から差し込む光が、薄暗い廊下に長い縞模様を描き出していて、その光と影を交互に受け止めながら一番奥ある部屋を目指して駆け抜けた。部屋が真上とはいえ中庭を有した口の字型の建物なので、香穂子が待っている学長先生の研究室に辿り着くには、階段までもぐるりと回らなけらばならない。
いくら興味があるとはいえ、まさかヴィルたちヴァイオリン科の彼らもここまでは追ってこないだろうと思いつつも、僅かばかりの不安と早く彼女の元へ行きたい逸る気持が、休むことなく全速力で走る俺を更に駆り立てる。
階段を駆け上り角を曲がった時に、誰もいなかった事に心から安堵感を覚えたものだ。
深い木目の扉の前で立ち止まり、止まりきれない駆けて来た勢いのまま手を掲げて2度軽くノックすると、俺の訪れを伝えてくれる軽やかな音が響き渡った。
返事を待つ一瞬の間に大きく深呼吸して、あがった息を気持を整え彼女に会う準備をする。
中から遠く聞こえたどうぞ・・・という声に心が跳ね上がるのを感じながら、細かい装飾の施された金のドアノブに手をかけゆっくり重い扉を押し開けば、ふわりと溢れてくる楽しそうな2人分の笑い声。
つられて一緒に口元を緩ませながら中に入り、静かに扉を閉めた。
「蓮くん、お帰りなさい!」
突き当たりにある窓辺で学長先生と2人、外を眺めながら語らっていたらしい香穂子は、俺に気が付くとパッと嬉しそうに頬を綻ばせて転がる子犬のように真っ直ぐ駆け寄ってくる。いつもの癖でつい抱きとめようと伸ばしかけた手をさり気なく戻し、同じように俺の胸へ飛び込もうとしていたのか目の前で慌てて踏みとどまった彼女に、ただいま・・・と微笑を向けた。
さすがにここでは、まずいだろうから・・・・・・。
「すまない、待たせたな」
「レッスンお疲れ様。あっ!蓮くん汗かいてるよ、もしかして走ってきてくれたの?」
「えっ・・・あぁ・・・その。早く、香穂子に会いたくて」
嬉しい!と笑顔を弾けさせてポケットからハンカチを取り出した彼女は、少し背伸びをするように手を伸ばして俺の額にそっと押し当ててきた。吐息がかかるほど間近で見上げながら額・・・頬・・・と優しく撫でるように丁寧に拭ってゆく感触と甘い視線に、胸の奥底から温かさとくすぐったさが湧き上がってくる。
このまま浸っていたい・・・そう思うけれども、身体が焦れてどうにかなってしまいそうだ。
「蓮くんのヴァイオリン、聞こえたよ。レッスンしてたのはこの部屋の真下だったんでしょう?」
「君には場所を伝えていなかったんだが、学長先生に教えてもらったのか?」
「最初にね、蓮くんの音色が聞こえたの。すぐ近くなんだけどどこだろう・・・って探してたら、この真下だよって教えてくれたの。音色で分かるなんて凄いねって驚いてたよ、フフッ・・・ちょっと嬉しかった」
「そ、そうか・・・・・・」
「蓮くんの演奏を特等席で、ず〜っと聞いてんだよ」
「特等席?」
「そこの窓辺。響きなのか建物の構造なのか分からないけど、直ぐ側で聞いてるみたいだった。目を閉じるとね、ヴァイオリン弾いてる真剣な姿が浮かんできたの。きっと蓮くんが私に伝えてくれたんだよね」
君に届いていたのだと、ずっと聞いていてくれたのだと。
俺に届いた優しい風は君に似ていたと思ったけれども、確かに君の想いだったのだな。
ハンカチで額の汗を拭いながら俺を見つめて柔らかく微笑む大きな瞳に吸い込まれ、まるで2人だけの内緒話をするように小さく囁きあう。いい場所見つけちゃったと嬉しそうに白い木枠の窓を指し示す香穂子に、ありがとう・・・と零れる熱さと甘さにのせてそう言えば、何気なく顔を上げた彼女と視線が絡む。
きょとんと瞳を丸くした一瞬の沈黙の後、俺の首筋を拭っていた手をそのままで、頬がみるみるうちに真っ赤に染まってゆく。もう大丈夫だよ!と急にそわそわ落ち着かないようにハンカチと身体を離すと、恥ずかしそうに小さく俯きながらきゅっと胸元でハンカチを握り締めた。
『ほっほっほ・・・仲睦まじいの〜』
『え・・・ あ、学長先生!? すみません・・・ご挨拶もせずに・・・その・・・』
『いやいや構わんよ、ワシに気にせず続けてくれ。レンと同じくらいに香穂子も君を待っていたのだから』
『・・・続けてくれと、そう言われても困ってしまいます・・・』
甘い空気を裂いて現実に引き戻したのは、のんびりとした笑い声だった。
俺も香穂子もハッと我に返って振り向けば、いつの間にか側に来ていたのかずっと黙って俺達を見守っていた学長先生が、顎に蓄えた豊かな白いひげを弄びつつ、皺の奥にある目を細めてうんうん・・・と満足そうに頷いていた。
先ほどのレッスンといい、そんなに俺は香穂子の事しか見えていないのだろかと、気まずい恥ずかしさが込み上げてくる。顔の集まる熱を感じながらちらりと視線で隣を見れば、それはどうやら彼女も同じのようで、耳や首筋までも真っ赤に染めながら、胸元のハンカチを両手で更に強く握り締めていた。
『随分早かったのう、しかも息を切らして。取り乱している君を見るのは実に珍しい。さしずめ可憐な花に群がる蜜蜂どもを追い払ってきたのじゃろう、花守は大変じゃな。しかし気持良いくらいに散って行ったのう〜』
『ご覧になっていらしたのですか・・・まぁ、そんな所です』
香穂子を可憐な花に例えるのはまさにその通りだとしても、ヴィルたちが蜜蜂とは・・・。
花を守る俺も実は蜜蜂の一匹なのかも知れないなと思い苦笑していると、香穂子が俺の腕を引っ張り、こそこそと小声で質問を投げかけてくる。
「ねぇ蓮くん、bine(ビーネ)ってみつばちの事? お花とみつばちってなぁに?」
「特に深い意味は無いんだ、ものの例えだから。でも・・・申し訳無いが香穂子には内緒」
「え〜っ、何でドイツ語教えてくれないの?」
言える訳が無いだろう・・・というか言いたくないのだから。
皆が君という花に吸い寄せられているなんて。
きょとんと首を捻って不思議そうな顔をする彼女に、どうしても・・・と柔らかく微笑み、ふわりと髪を撫でて宥めながらさりげなく話を逸らす。蓮くんのケチと、はじめは頬を膨らましていたものの、それ以上は特に深く追求してこなかった。
二人とも立ち話もなんだから座ったらどうかね・・・と薦められるままにソファーへ腰を下ろすと、飲み物を用意するからと言い残して学長先生が続きの部屋へと消えていった。二人で沈黙に身を浸せば穏やかな沈黙が包む空間の奥から、お湯が沸く音と香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。
蓮くん・・・とポツリ呟くように呼びかけられ、どうした?と包まれる穏やかさのまま香穂子を見れば、彼女は遠く窓の外を眺めていて。ゆっくり振り向きながら柔らかい日差しのような笑みを向け、少し座る距離を詰めつつ膝の上に置かれた俺の手の上にそっと自分の手を重ねた。
「私ね、本当は今日ここに来るまで凄く不安でどうしようかなって迷ってたけど、やっぱり来て良かったよ」
「そうか、俺も楽しそうな君を見て安心した」
「蓮くんがいつも勉強している場所がとても素敵な環境だとか、楽しいお友達や温かい先生達に囲まれているのが分かって、何かこう・・・胸のつかえが気持ち良く取れた感じ。それにね、蓮くんがレッスンしている間に学長先生に私の話を聞いてもらってたの。迷ってた事、決めかねてた事・・・いろいろすっきりしちゃった」
「不思議な人だと思う・・・言葉の一つに重みがあって、でもすっと溶けるように心に染み込むんだ。俺も以前迷っていた時に、闇から抜け出すきっかけを貰った。あの人が奏でる音色が、時代を超えても人々に愛され続けている理由が分かった気がしたよ。音楽や人間、自然が大好きなのだと・・・慈しむ想いが音色から溢れてくるから」
俺もそうありたいと思う。
俺の大切な人たちは皆誰もが温かく優しい音色を奏でるんだ・・心の中をそのまま表したような色で。
その中で最も大切なのは、隣にいる君だけれども。
瞳を緩ませながら重ねられた彼女の手を挟むように手を乗せれば、何かを思いついたようにパッと手と身体を離し、上半身ごと捻って俺の方に向き直る。姿勢を正し真っ直ぐ見上げる瞳は一本の光が通ったように澄んで輝いており、彼女の中で今までに見られなかった揺るぎ無い決意が漂っていた。
「蓮くん・・・私ね、決めたよ」
「決めたって、何を?」
「ヴァイオリンは続けるよ、この先もず〜っとね。でもプロにはならない。蓮くん、やっぱり残念に思う?」
「香穂子が決めたのなら俺には何も言う事は無いが、もったいない・・・と思うのは確かだ」
「私は、側にいる大切な人の為に奏でられればそれでいい。蓮くんがプロとして大きなホールの舞台を目指すのだとしたら、私が目指すステージは蓮くんの隣だから」
「香穂子・・・今、何て・・・・・・」
「私だけのステージに立って最高の演奏をする為なら、これからも頑張る・・・努力は惜しまないよ。楽しく弾くのにも、上手く弾けた方がより楽しいだろう?って学長先生に言われたの。だからね、もしまたドイツに来た時にはよろしくお願いしますって・・・」
目を見開き、信じられない思いで香穂子の言葉を聞いていた。
そうであったらいいと願い、これまでもずっと信じていたけれども、改めて彼女の口から直接聞かされる言葉は、まるで俺の前に示した揺るぎ無い決意と誓いのようで。湧き上がる熱い想いのまま、最後まで聞くのを待てずに引寄せ、強く抱き締めた。いくら今席を外して俺達以外いないとはいえ、ここが大学構内の・・・しかも学長先生の研究室だという事も忘れて。言葉にならないものは、この腕の強さで俺の気持を伝えたかったから・・・。
君はいつも一瞬で俺の心を塗り替えてしまう・・・たくさんの想いでいっぱいにしてくれる・・・・・・。
どんなに暗闇の中で迷っても立ち止まっても、側にいてくれると思えば、例え微かな光だとしても掴み取って前に進む事が出来る。君と一緒に夢を語ればどんな事だって叶えられると・・・そう力を与えてくれるんだ。
身じろがずに大人しく腕の中に収まる香穂子は、胸の中から俺を見上げて、はにかんだ笑みを向けてくる。
やがて自分に冷静さが戻ってきた頃、突然・・・すまなかったと、そう言って静かに腕を解き身体を離した。
「私のヴァイオリンを聞いてくれた蓮くんが、今度は世界中の人たちに音色を届けてくれる・・・私と蓮くんの二人分の想いを乗せてね。それを聞いた人が、また他の誰かに優しくしたくなったら、とても幸せだって思わない?」
「音楽を通して多くの人が幸せになれたら、素敵だな。それも学長先生から?」
「うん、素敵でしょう! 私の思っていた事、やろうとしている事は決して無駄じゃないんだって教えてくれたの。私、これからもっと頑張れそうだよ。だって蓮くんと同じように、私も最高の舞台を目指さなくちゃね」
「夢を叶える・・・か」
「え!?」
「昔・・・まだ俺達が高校生だった頃、香穂子が教えてくれたんだ。覚えていないか? 叶うという字は力を合わせて望みどおりにする事なのだと。きっと俺の力だけでは駄目なんだ、君の力が俺には必要だ」
「もちろん覚えてるよ。蓮くんも覚えていてくれたなんて、嬉しい・・・。私の夢も、蓮くんと一緒じゃなきゃ駄目だから、二人で一緒に夢を叶えようね」
絡む視線が温かさを心に伝えてくれる。
希望と光を引き連れながら・・・。
そろそろ話は終わったかのう・・・・と、相変わらずタイミングが良いのか悪いのか。
慌てて寄り添っていた身体を飛ぶように離して、ソファーに座りなおす俺達を、続き部屋の扉から身体半分出しながら悪戯っぽく瞳と口元を緩ませていた。互いの想いもお茶も熱い方が良いじゃろう・・・とそう言ってお茶目にウインクしながら、トレイで運んだ3つのマグカップをソファーの前にあるテーブルへと並べていく。
俺も香穂子もちらりと視線で会話しながら、ただただ顔を赤くするしか無いけれども、コトリと音を立てて目の間に置かれたマグカップから立ち上る湯気が、優しい温かい気持にさせてくれる・・・そんな気がした。