『よし、今日はここまでだ』
『・・・ありがとうございました』



音色が余韻となって室内に響く中ゆっくりと楽器を下ろせば、出し尽くした・・・頭の中が真っ白になった・・・そんな感覚が一気に押し寄せ飲み込むように襲ってくる。半ば呆然とし、崩れ落ちそうになる身体を気力で支えながら浅く早くなる呼吸を整えていると、いつの間にか俺の前まで来ていた先生がポンと肩を叩いた。


いい演奏だった・・・。
目を見開いてハッと見上げる俺に珍しく穏やかな笑みを見せ、そう言葉を残してくるりと背を向けると、薄暗い室内に差し込んで一本の道を作る光へ身を溶け込ませるようにゆっくり窓辺に歩み寄っていく。遠ざかる硬い足音をどこかホッとした気持で聞きながらその背を見送り、譜面台に立てかけた分厚い楽譜へ、ゆるゆると手を伸ばした。


空気を入れ替える為に開け放たれた白い木枠の窓から流れ込む澄んだ空気を大きく吸い込めば、すっと身体の中に染み込み、僅かに汗ばんだ額を心地良く撫でていく。俺を優しく包む風・・・・熱く逸り出す心を宥めて落ち着かせてくれるような安らぎと穏やかさは、まるで香穂子が語りかけてくれる感じに似ている。
ひょっとして、俺の音色に耳を傾けてくれたのだろうか?







『レン・・・・・・』
『何でしょうか先生?』


楽器も片付け終わり、部屋を立ち去ろうと背を向け一歩踏み出したその時、引き止めるように呼びかけられた。
一体何事かと振り向けば、窓辺の石壁に寄りかかりながら腕を組んで外を眺めていた先生が、ゆっくりと視線を向けてくる。薄い暗闇に慣れた瞳には急に差し込んだ逆光の光は強すぎて、思わず眩しさに目を細めて眉を顰めた。だが徐々に慣れても、細めた眉はそのままで、太陽の光を背負う表情から言葉の真意を探るようにをじっと見つめ返した。


そんな俺をクスクス・・・と肩を小さく揺らして笑う声が、静かな空間を伝って耳元に届いてくる。


『全身で緊張して・・・それが音にも現れて。今の君は、まるで強く握り締められた弓のようだな』
『弓・・・ヴァイオリンの? 俺がですか?』
『強く握り締める程に弓の働きが鈍くなる。弓に負担をかけずに邪魔をしない・・・それが出来れば魔法使いの箒のように自由に操れ、ひとりでに音楽を奏でるようになる。私たちも同じだと思わないかね?』
『自分でも気付かないうちに今の俺には、余計な力が入りすぎていると・・・そう仰りたいのですね』


そんなに俺の音色は正直なのだろうか・・・目に見えて必死に振り乱しているのが分かるくらいに。
俺が力なく苦笑して小さく溜息を漏らせば、ダークブラウンの前髪を掻き上げながら困ったように微笑んで。
言った側から今度は弓の毛のテンションが緩んできているぞと、肩を竦めてみせた。


先程から預言者か占い師のように、次々と俺が隠している事を言い当ててくる。
どんなに表面で取り付く取っていても、音色を聞いただけで俺が分かってしまうのは、香穂子以外にはヴァイオリン科の担当教授である先生と、窓の下にいるというおせっかいな友人くらいだろうか・・・。




弓のコントロールは、オーケストラと指揮者の関係にも例えられる事が多い。
オーケストラを自発的に、けれども思った通りに演奏させるにはどれだけの事を控えれは良いのだろう・・・と。
それは自分自身に向き合う時・・・つまり俺の場合も同じなのかもしれない。
自分自身を羽ばたかせる為に抑えなくてはならないもの、それは焦りや不安、ともすれば空回りになりかねない強すぎる意気込みや心の弱さだったり・・・・。


不安や焦り、力みを押さえて肩の力を抜き、心を強く持てば自分らしさを失わないと・・・。
先生が言いたいのはそういう事なのだろう。



ヴァイオリンケースと譜面を持ったまま佇む俺の元へ再び歩み寄ってくるダーグブラウンの瞳を、一度大きく深呼吸して真っ直ぐ見つめ返した。押しつぶされないように・・・跳ね返されないようにと気を張っていたものの、俺の目の前で立ち止まり、頭一つ分高い位置から見下ろす瞳はいつもの冷たさ漂う厳しく張り詰めたものではなく。子供を見守る父親のような、どこか温かい光を湛えていた。


『レンの熱意と決意の程は良く分かかるし、もちろん君の為に私も大学側も、協力は惜しまない。だが私には君一人だけで、一刻も早くプロになりたいと気ばかりが焦っているように見える』
『大学を卒業するまでには、プロとしての地位を手に入れたいんです。俺には時間が・・・無いんです・・・』
『まぁ、昨今のヴァイオリン界から見ればこれでも遅出の方ともいえるかも知れないが。ところで卒業するまでという、レンが決めた期限に何か深い意味があるのかね』
『俺自身と、そして待っていてくれる彼女の為に・・・』



卒業するまでにというのは俺自身が決めた目標であり、期限だった。いつまでも君は待っていていくれる・・・そう信じているけれども、距離の隔たりという障害はやはり俺達にとって大きい。海の向こうで一人待つ君に寂しい想いをさせたく無いし、第一俺自身が君と離れているのが、これ以上は我慢出来ないのだ。


パーティーの時に俺は自分の決意から逃げて彼女に選択を迫らせようと、卑怯な問いかけで彼女に答えを求めようとした。香穂子があの時、分からないと困ったように言って答えられなかったのは当然の結果だと思う。
けれどもずっと君の側にいたい・・・俺の側にいて欲しいという願いは、もう止められなくて。強い願いを現実にする為には、一日も早くプロになるしかないと・・・俺の決意を君の前に示さなければと、そう心に決めた。



だが残された時間は、あと僅か・・・。
時が過ぎ時間が無くなるほどに、俺から余裕も無くなっていくのが分かる。

そう思って唇を噛み締め、ヴァイオリンケースを握り締める手に強く力を込めた。



『定めた目標に向かって真っ直ぐ突き進む努力と集中力の凄まじさは、レンの良いところだ。だが自分を追い詰めて力みすぎるのは良くない。ヴァイオリンの音色のように、出せる筈の本当の力も出せなくなってしまう』
『すみません・・・』
『それだけではない、弓に力が入りすぎていては、弓の訪れを待つヴァイオリンの弦と、音色が響かせられなくなってしまうぞ。レンの大切なヴァイオリンが、この部屋の上で待っているのだから』
『弓とヴァイオリン・・・俺と香穂子が?』
『弓が呼び起こし弦がそれに応えるというように、ヴァイオリンの役割はそれぞれ異なるが、二つのテンションが高められた時に初めて音に命を与える事が出来る。君は独りじゃない・・・同じ夢を追う最高のパートナーがいるじゃないか。お互いが最高の状態で力を合わせてこそ、レンが描く理想の未来を奏でられると、私は思う』 



もっと肩の力を抜いて気楽にいったらどうかね。
音楽は楽しいだろう? 君の大切な彼女がそう教えてくれたんじゃなかったのか?と。

穏やかな微笑と共に、ふわりと肩に乗せられて包み込む大きな手が温かくて、優しくて・・・。
乾きを癒す溢れた潤いが心を熱く震わし、じんわり身体全体に伝わり広がってゆく。



『大切なのは君が君らしくあるという事だよ。だから彼女もずっと待って、レンについてきてくれるんだろう? もっと信じたまえ、自分自身と彼女を・・・肩の力を抜いて。音楽の女神は必ずチャンスを引きつれ、君の元に舞い降りる・・・』
『・・・先生がご心配なさらずとも、音楽の女神はずっと前から・・・俺の側にいますから』


夢と希望と幸せと漲る力を与えてくれる、俺の前に舞い降りた音楽の女神・・・それは誰よりも大切な君だから。

想いを馳れば頬も緩んで自然と笑みが浮かび、そのまま言葉を返せば、肩に乗せられた手がそっと離れて。
おっと失礼、レンの女神は上の部屋で待っているんだったなと、悪戯っぽい眼差しで肩を竦めて見せた。 


『力だったり意思、大切な人へ向ける想いだったり・・・素早く身体が反応するにはかなりの時間を要するが、それを実際の演奏に結びつける事が出来たら、華やかなテクニックだけに頼らない、躍動感溢れる演奏が出来るだろう。本来テクニックは、ただ音符を機械的に並べる物でなく、君の中にあるエネルギーを表す為にあるのだから』






プロのヴァイオリニストになるという夢、ずっと君と一緒にいたいという夢。
夢は独りで叶えるものではない、君の為に・・・君と一緒に力をあわせて掴むものなんだ。
独りで焦り周りが見えなくなりかけて・・・俺は大切な事を忘れていた。


「叶う」という漢字の成り立ちは、十人の意見が一つに合う意味を表しているという。
力を合わせて望みどおりになる事を教えてくれる文字なんだと、ずっと以前まだお互い高校生だった頃に、国語の宿題をしていた香穂子が、俺に辞書を差し出しながらそう教えてくれたのに。
喜びも苦しみも一緒に分かち合いながら、一緒に一つの事を成し遂げる・・・素敵だよねと、笑顔を向けて。



そして迷う俺をいつでも導いてくれる目の前の恩師。
厳しさの中にも、向けられる温かさや優しさが、熱い雫となって潤みそうになる程感じるから、ありがとうございますと言うのは何だか照れくさくて、つい、いつもの調子で強がってしまう。


『先生・・・』
『どうした、レン』
『珍しくいつにもまして優しい言葉が多いので、逆に不安になります・・・』
『おい、随分と酷い言いようだな。私はそんなに皮肉屋で意地悪かね』
『いえ・・・そういう訳では・・・』


焦りを覚えて顔に熱さを感じながら言葉を詰まらせ口篭る俺を可笑しそうに眺め、冗談だ気にするなと、余裕な笑みを見せた。俺が困るのを楽しんでいる、こういうところが意地悪なのだとは、あえて言わなかったけれども。



『言ったろう、パーティーの時に君たちの演奏を聞いた妻がとても喜んでいたと。大切な人が幸せな姿を見るのは、私にとって何よりもの喜びだ。君たちの熱さに負けているとは思わないが、私からも感謝と祝福を込めて』
『ありがとうございます。その言葉を聞いたら、きっと香穂子も喜びます』
『さぁ、早く彼女の元へ行くがいい。きっと窓辺で君の音色に耳を傾けながら、迎えに来るのを待っているだろうから。こうして長話している間にも、頬杖をついて待ちくたびれているぞ』
『目の前で見たような台詞ですね。この部屋の窓辺から、身を乗り出す彼女の姿が見えたんでしょうか』
『直接・・・という訳では無いが。輪の中心で身振り手振りで熱弁を振るっていたヴィルヘルムや、一緒に集うヴァイオリン科の学生達が皆で、学長の研究室に向かって一生懸命手を振っているのが見えたんだ。恐らく学長と一緒に窓辺に顔を出していたんだろうな・・・誰かさんの音色を一番良い場所で聞くために』
『なっ・・・・!!』




慌てて窓に駆け寄り勢い良く開け放ち、身を乗り出して真上の部屋を見上げても、覆い茂る蔦が邪魔して様子を伺い知る事が出来ない。小さく舌打ちして下の緑地を見下ろせば、ヴァイオリン科の溜まり場にヴィルや仲間達が大勢集っているのが見えた。
確かに俺ではない、更に上の部屋の者へと視線を向けて手を大きく振りながら・・・。


『あっ、レンだ・・・!』


誰からともなく声が上がって二階の窓から身を乗り出す俺を指差せば、一斉に驚いた視線が注がれる。
鋭く睨む俺が分かるのか、バツが悪そうに固まった表情は、まるで悪戯を見つかった瞬間の子供のように。

音楽を愛し楽しい事が大好きで、どこかの妖精のような彼らが揃って駆け出していく方向はこの講義棟の中。
こうしている場合では無い、彼らよりも先に香穂子の元へ辿り着かなければ。
俺の勘が正しければ、きっと香穂子のいる学長室へ向かっているに違いないから。



『おやおや・・・レンが顔を出した途端に皆、一斉にいなくなったようだな。同じ方向へ駆け出して一体何処へ行くのやら・・・。君も早く行かなくていいのかね』
『・・・失礼します!』


言われた側から周りが見えなくなっていると気付いたけれども時既に遅く、思いっきりその状態を言った本人の前で晒していて。恥ずかしさやら居た堪れなさ、ヴィルたちへの矛先やらで身体の熱が急速に高まっていくのが分かり、窓の白い木枠を握り締める手にも力が籠るばかり。背後に気配を感じるが、振り返るタイミングすら掴みにい。


背後から楽しげに外を眺める呑気な声音にハッと我に返り、慌てて窓を閉めると、先生は丁寧にも脇にどいて道を空け、どうぞとドア導くように腕で指し示す。顔に再び集まりだす熱を必死で抑えながら一礼し、ヴァイオリンケースを持ち直すと、大またで早足に部屋を駆け抜けた。


くっくっ・・・と堪えきれずに漏れる笑い声を背中で聞きながら。













一つのヴァイオリンのように・4