一つのヴァイオリンのように・3

音楽大学の最も奥にある、つたに覆われた離宮を思わせる石造りの講義棟。レッスンの為この講義棟へ足を運ぶのも久しぶりだ。森に囲まれ他の校舎とは一棟だけ離れており、百年以上もの年月を経ている為なのか、ここの空間だけ独特の雰囲気が漂い、時間の流れも違う気がする。

所々黒く変色した石壁の薄暗い室内はシンプルだが重厚な質感を持っており、白い木枠の窓から光が差し込めば、一枚の絵画のように白と黒の陰影を作り出す。漂う静けさ奏でる響きは教会や大聖堂のように荘厳で、時の長さと重みを感じさせてくれるだけでなく、曲が生まれた時代へ・・・作曲者が込めた想いの場所へと、俺を時の旅に連れて行ってくれるようだ。




パンパン・・・・。


曲を遮る手の音が響き渡り、ふと現実に引き戻されて弓を止めた。

俺の前にある譜面台の向こう側。蓋を閉じたグランドピアノの椅子に座り、音色に耳を傾けながら譜面を追っていた先生が静かに視線を向けてきた。髪と同じダークブラウンの瞳は、静けさの中にも鋭さとほの暗い炎を宿していて。無防備な状態で真っ直ぐ射抜かれると、俺でも思わず身が竦んでしまう事もある。窓を背にして立つ俺から見るとダークな色合いのスーツに身を包んでいるせいか、この部屋の光と闇が生み出す不思議な空間に溶け込んでいるようにも見えた。


久しぶりのレッスンだから、腕が落ちたなどと言われるのでは・・・。
気迫に押されないように俺が全身で緊張しているのが伝わったのか、鋭い光を放っていた目元がふわりと和らぎ、やがて先生はくすくすと可笑しそうに笑い出す。ヴァイオリンを肩から下ろし、駄目出しではないのだろうかと真意が分からず眉を潜めて見つめ返すと、聞こえてきたのは思いもかけない予想外の台詞だった。


『先生・・・?』
『あぁ・・・すまないな、つい我慢できなくて。音は嘘を付かないと言うが・・・レン、君は本当に分かりやすいな』
『は!? どういう事でしょうか、先生』
『おや、無意識かね。周囲を切り裂く程に張り詰めていたり、深く沈んで乱れたり、そうかと思えば生きる喜びに満ち溢れた輝きや、こちらが照れくさくなる甘い音色を響かせる・・・。真っ直ぐで、実にシンプルだ』
『・・・それは褒め言葉、と受け取って良いのでしょうか?』


先生はいつもすぐに答えを言わずに、まず謎かけをして俺達に「考える」という事をさせる人と言ってもいい。それに俺達を煽って燃え立たせるような教え方をする。面白いレッスンだといつも思うしやりがいもある、そのお陰で自立した一人の音楽科に成長できるようにしてくれたのだから。
だが時には分からない自分がもどかしくて、答えが直ぐに欲しい時だってあるんだ。

からかうような含みさえ感じる響きにムッとしつつ僅かな苛立ちを見せれば、先生はやれやれと困ったように小さく溜息を付く。わざとらしく肩を竦めると、真上を指差した。


『そんなに愛しい彼女の事が気になるかね。君の音色のベクトルが、指導者である私にではなく、この上にある学長の研究室に真っ直ぐ向かっている』
『なっ・・・!!』
『心配しなくとも、君の大切な彼女は学長がお相手して下さってる。早く会いたい・・・その気持は分かるが、こうまで見せ付けられては。妬けるを通り越して、真っ黒に焦げてしまいそうだ』
『べっ・・・別にそんなんでは・・・・・・』


なぜ分かったのだろう・・・というかそこまであからさまだったのかと思うと、顔だけでなく耳にまで熱が集まってきて、さすがに照れくさくなってくる。本当の事だけに、言葉を詰まらせ濁す事しか出来ないそんな俺に、パーティーの時にもじゅうぶん堪能させてもらったがねとそう言って。恐らく真っ赤になっているであろう俺を楽しそうに眺めながら、口元をニヤリと歪ませた。



『・・・せ、先生もいらしてたんですね。あの時はご挨拶が出来ずに申し訳ありませんでした』
『構わんよ、あの人の多さでは仕方が無い。私の妻がイリーナ嬢の同級生でね、一緒に来ていたんだ。君たちの演奏を聞いて彼女も心をときめかせていたよ、また恋がしたくなったと・・・ね。困ったものだ』
『・・・・・・』


今、先生の秘密に関するもの凄い事を、さらっと聞いてしまった気がするが・・・気のせいだろうか。
先生は俺の父よりは年上に見えるし、イリーナさんは香穂子よりも僅かに年上のはず・・・・・・。
いや、あまり深くは考えないようにしよう。今は他人に構っている時ではないのだから。





今、香穂子は先生の言う通りにこの部屋の丁度真上にある学長先生の研究室にいる。授業の空き時間や昼休みを一緒に過ごした後、彼女をそこへ送り届けてからレッスンへとやってきたのだ。パーティーの時からそうだったが、俺の心配を余所にまるで祖父と孫娘のようにすっかり二人は馴染んでいたから、逆に笑顔で送り出されてしまったけれども・・・。




授業やレッスンの間は俺達の事情を察して学長先生が香穂子の身を引き受けて下さっているが、俺にとってこんなに嬉しい事は無い。正規の学生ではなく、表向きはあくまでも学長先生個人のお客様扱いだから同じ講義を受ける事は出来ないけれど。たとえ短い間だとしても君と一緒に大学へ通う事が出来るのだ。
どれほどこの日を願い、夢に見たことか・・・。


それだけではない、香穂子のヴァイオリンに大きな可能性を感じ取って、師事をしようと自ら申し出て下さったのだ。これからも君の音色が聞きたいと、側に居て欲しいという思いは変わらない。この先もヴァイオリンを選ぶかは彼女次第だから俺は何も言えないけれども、あの人と話をする事は、香穂子の進むべき将来にも、きっと良い変化をもたらしてくれるに違いないと思うから。



俺は彼女の居場所を知っているけれど、彼女は俺がどの部屋でレッスンをするかは知らない。
だから心細く無いようにと俺はここにいると伝えたくて・・・俺の音色を聞いて欲しくて・・・。
レッスンの最中だというのに、気が付けば彼女へ音色を向けていた。

いや・・・単に嬉しいのかもしれないな。
初めて一人で訪れた時以上に新鮮で、希望に満ち溢れている感じさえするんだ。
目に映るもの全てに目を輝かせて嬉しくはしゃいでいるのは君だけではなく、この俺も一緒なのだと思う。




『午前中にレッスンのあったヴィルヘルムが、ご丁寧にパーティーの写真をアルバムにして持ってきてくれた。お陰でレッスンよりも、写真鑑賞会に時間を取られた程だ』
『アルバム・・・ですか?』
『レンの甘く蕩けた音色と表情を皆に見せられないのが残念だと、悔しがっていたよ。アルバムにしてまで見せたかったのは自分の身内なのか、はたまた君なのか。今頃はこの真下の溜まり場で、自慢のアルバムを披露しながら熱弁を振るっているんじゃないか?』
『・・・・・・っ!』
『学長も会えばその話ばかりだし・・・。楽しみ好きな学長は、君の彼女が訪ねてくるのを待ちきれなくて、昨日からソワソワしていた程だ。おっと、そう怖い顔して窓の外を睨むものではないよ。どうせ今からでは遅すぎる』


諦めるんだな、と。
とどめのような一言を心に刺され、怒りとも諦めともいえる大きな溜息を付いた。
どうりで朝から皆が俺を見る視線が、いつもと違うと思っていたが、全ては彼の仕業だったのか。
俺はともかくとして、香穂子をどうしようとういうのだ。事と次第によっては、ただでは済まさない。
そう思って窓の外に溜まっているであろう彼らに対して視線を向けていると、コツンと足音が響いた。




足音に視線を戻せば、先生がグランドピアノの椅子から立ち上がり、ゆっくり俺に向かって歩みを進めてくる。一歩一歩近づくたびに足音が、闇に溶け込んでいた姿が少しずつ光の中に現れて。俺の目がふと暗く陰り、目の前に立ち止まった先生の表情からは、先程の笑いの色はすっかり消え失せていた。


『音色を届ける相手がいることは大切だ。だが今は私のレッスンに集中して欲しい。君を彼女の元へ送り届けたくても、帰せなくなってしまう』
『すみません』
『別に悪いことではないが、愛を語り合うのなら私のいない所でで二人っきり、後でゆっくりやってくれ。早く終わらせたかったら、曲に集中する事だな。君自身も、正直それどころでは無い筈だろう? この大曲に挑みたいと言い出したのはレンなのだから』


そう言って譜面台に立てかけた俺の楽譜を指先でポンポンと叩く。



確かにそうだ・・・正論過ぎて、俺には反論の余地が無い。
何の為にこの曲に挑もうと思ったのか、決意をしたのか。



切れるほど唇を強くかみ締めて見据える楽譜は、シベリウスのヴァイオリン協奏曲 ニ短調。
チャイコフスキーやメンデルスゾーンと並び、世界中で頻繁に演奏されるヴァイオリン協奏曲の一つ。


第1楽章にきわめて強い意志が示され、規模が大きく壮大で幻想的。だが技術面からは大変な難曲といわれており、パガニーニやバルトークよりも数倍以上に難しいというのが実感だ。ヴァイオリンを専攻している人すら、曲を聴いたくらいではあまり難しいとは思わないだろう。だが第1楽章の終わりと第3楽章に入った時に、この曲の本当の難しさに直面して青ざめた奏者はどれ程いるだろうか。

先生にこの曲に挑戦したいと言ったら「本当に難しいぞ、それでもやるのか?」と珍しく釘を刺された。
もちろんそれは承知の上での事だ。



『このシベリウスのコンチェルトのように、一つのフレーズを通して一定の音量が求められる場合、私たちは常に二つの力の間に立って演奏に挑まねばならない。レン、弦の振動を決める大切な二つの要素は何かね?』
『弓に乗せる速さと重さです』
『そうだ、基本だな。ある時には重さで遅さの埋め合わせをし、またある時には速さで軽さの埋め合わせをする。3小節目のC#の低音と5小節目のGやAの音は特に注意しろ。それに最後のコーダ部分、Allegro molto vivaceからのオクターブをこのテンポで行き来する難しさは格別だ。だがここで躓いているようでは、最も難しい第3楽章は弾きこなせないぞ』
『・・・はい』


第3楽章は全楽章中最も難局といわれており、付点のリズムで始まる第1主題にはパガニーニのカプリースを思わせる様な3度の重音で駆け上がパッセージ。第2主題には、2重音3重音4重音を素早く行き来する左指ののテクニックが要求される。


譜面台越しに分厚い楽譜のページを繰りながら次々と指摘する注意点を聞き漏らすまいと、神経を集中させて意された箇所をかみ締めつつ譜面にペンを走らせていく。頭の中では音を鳴らして、曲をイメージしながら。


『高いFから2オクターブ下がった直後のE#の破壊的な音の表現だが、弓を引き始める瞬間ただぶつければ良いと言うものではない。音を発する前の一瞬の静止を大切にしろ。この静止をおろそかにすると音に明瞭間が生まれない、弦をしっかり捕らえる感触が得られず音に芯が無くなる。獲物を捕らえる動物の動きをイメージするんだ』


動物のように・・・。
じっとしている動物たちは気を集中しているのではなく、むしろ漂わせて発散させている。しかし猫が鳥を目にした時やトカゲが虫を見つけた時・・・彼らの身に急激な変化が現れ、猫の足やトカゲの舌に素早い動きが導きだされる。静止を蓄えるその状態が、鋭く短い音を表現する、アタック直前の素早い弓使いに求められるのだ。


楽器を構えて指摘された箇所のフレーズをさらい、こうだろうか・・・と試行錯誤しながら何度となく繰り返して弾いてみる。暫くして、譜面台を挟み俺のすぐ側で黙ったまま見守っていた先生に、何時に無く深い真摯な声音で呼びかけられた。止めた弓を静かに降ろして視線を向ければ、真っ直ぐ俺を見据えたダークブラウンの鋭い双眸が射るように俺を射抜いた。

部屋に漂う冷たい静けさが、渦を巻きながら俺達の周りを取り囲んでゆく。


『注意力散漫な状態で行われる練習や演奏には全く意味が無い。注意力を持続しながら行われる2分間の練習は、気を散らせたり頭を空っぽにの状態で行われる200回の反復練習に匹敵するものがある。第1楽章を最初から通すぞ、本番だと思って集中しろ』


プロになりといと思うなら、尚更だと。
そう言うとくるりと踵を返し、背を向けて譜面台の少し先にあるグランドピアノへと足早に戻っていった。だが今度は鍵盤前の椅子には座らず、閉じた蓋の上に置かれた先生のヴァイオリンの所で立ち止まり、俺を振り返ると腕を組んでじっと佇んだ。しかしただそれだけなのに、凄まじいまでのエネルギーが俺へ向かって押し寄せてくるようだ。

一人だけに押されているようでは、ホール満員の大観衆のパワーの前に立った時などひとたまりも無いかも知れない。決して逃げずにしっかり受け止め、押されぬように。そして俺も受け止めた以上のエネルギーを演奏に変えて送り返さなければ・・・。


まさに、聴衆と奏者との想いのぶつけ合い。


聞く体制に入ったそれは、俺の用意次第で、いつでも始めろという事だろう。
深く・・・低く・・・射抜かれる鋭い視線と共に投げかけられた言葉が、俺の心に楔となって突き刺さった。


練習における最大の問題は、集中力の持続だ。あちらこちらに心が飛んでしまい、この場所、この時間に意識を保つ事が難しい。緊張しすぎるのも良くないが、これから演奏を行うべき人間が、自分が今緊張しているという事実を忘れてしまいたいと思っているようでは、舞台に上がる前から自分自身に真実を語っていないことになる。こういった態度は、必ず演奏にも表れてくる。





そうだ・・・まずは曲に集中しなくては、全てはそこから始まるのだから。
この曲を俺の持てる技術、心に宿る想いと言葉の全てを込めて作り上げるのだ。
でなければ夢も掴めないし、その暁に君へ心の底からの想いを伝える事も出来ない。

何としてでも成功させたいものがある。
そして夢をこの手に掴みたいから。

半端な状態で伝える想いは、きっと本物で無いと思うから・・・いつでも俺の本気を君に届けたい。
俺はここで立ち止まる訳にはいかないんだ、俺だけでなく君の君にも。



若い頃ヴァイオリニストを志し、その後作曲家としての道を歩む事になったシベリウス唯一のヴァイオリンコンチェルト。一度楽譜を全て見ていくつかの注意すべき点を意識しなおし、曲をイメージする。
俺はこの曲で彼が志したヴァイオリニストになって見せると、心に誓いながら。
自分の中に曲の世界を作り出す為に大きく深呼吸して瞳を閉じると楽器を構え、静かに弓を下ろした。








研ぎ澄まされた緊張感の漂う、ヴァイオリンの音色が響き渡る。



歌う時に旋律の内容がもたらす感情にしたがって呼吸を操るように、ヴァイオリンは弓で呼吸をする。
その呼吸は常に自然に、そして時には激しく。

フラジオレッドの音のたちあがりと同時に息を吸い始め、続く給付で最大限にまで息を吸い込んだ後、3泊目から次の音を弾くまでの間に全て吐き出す。フォルテッシュモに向かって音楽全体が高まっていく部分でも、その音楽の流れに添って、徐々に息を吸い、肺を膨らませてゆく。

まさにヴァイオリンとの一体感。
どこまでが俺で、どこまでがヴァイオリンなのか・・・。