一つのヴァイオリンのように・2
ソファーに座って明るい木目のテーブルをじっと眺めていると、目の前に温かいカフェオレの入ったマグカップがそっと置かれた。街のカフェも顔負けのワシの自慢オリジナル・レシピじゃと、微笑を湛えて言いながら。
ありがとうございますと、そう言って少し大きめのマグカップを手に取り、たっぷり入ったカフェオレをすする。
口の中から身体いっぱいに包み込まれる温かさが広がり、ほんのり甘めが心にゆっくり優しく染み渡っていく。
温かいな・・・。
ささやかな気遣いが、どうしてこんなに泣きたくなる程嬉しいのだろう。
『カホコもレンのように、プロのヴァイオリニストを目指しているのかね?』
『いえ・・・私には無理です。世界が・・・違いすぎます。プロになろうとか有名なオーケストラに入ろうとか、そんな考え全然無くて。せめて彼の夢を一緒に追いかけたいと、そう思ってます』
『素晴らしいじゃないか。まさしくパーティーで聞かせてもらった、レンと君の演奏のようだの。二人三脚の夫婦愛で夢を掴んだ音楽家や作曲家も、歴史上に何人もいる。彼らの音楽は、皆温かくて優しさに溢れている』
『ヴァイオリンは好きだから、ずっとこの先も弾いていたいんです。大きなステージじゃなくてもいい。大切な人の側で、その人の為だけに奏でられたら充分だなって思うから。でも彼のために、私に何が出来るんだろうって・・・このままでいいのかなって・・・分からなくなってしまって・・・』
マグカップを両手で包み込み、静かに揺れるカフェオレの水面を見つめながらポツポツと語私に、向かい側に座る学長先生は、目線を合わせるようにして語りかけてくる。
責める訳でもなく、急かさず焦らさず。ゆっくりと私の答えを待って・・・。
『私の目標は・・・彼です。本人に言わせて見たら、きっと目指すレベルが低いと怒られるかも知れませんが。尊敬すると同時に、追いつきたい・・・いつか追い越してやろうって気持は、いつでも持っています』
上手く言えないけど・・・それが、凄く楽しいから。
彼にとってはどうなのかは分からないけれども、私は彼の側で奏でたい。
そう言うと学長先生は、持っていた自分のマグカップを一気に飲み干してテーブルに置いた。腕を組みながらふぅ〜むと唸り、ワシには答えが出ているように思うんだがのう・・・と呟いた。
本当に答えが出ているのだろうか?
不安なのかもしれない・・・・。
共に競いたい、私にももっと上を目指して欲しいという彼の想いが伝わってくるだけに、尚更・・・・。
『演奏家として最も高い“アーティスト”と呼ばれる地位に辿り着けるのは、ほんの一握りの人間だけじゃ』
『蓮くんは、それを目指してます。でもここにいる人たちも皆、同じなんでしょうね・・・』
『じゃが、多くの者は、初めて就いたオーケストラの席に永遠座る事になり、自分の主体性が失われる事に深い悲しみを覚える。また残りの者は教育者となり、自分の中にある演奏基準の低下を覚える・・・』
メンデルスゾーンやバッハのコンチェルトに取り組んでいた頃の昔を思い出しながら、「こうした曲が何かの役に立っているのか?」と自問するのだと。
『大切なのは、自分がいる場所に価値を見出す事。全ての事には、必ず意味がある筈なんじゃ。そして理想の追求を続ける事。その為の努力が続けられなくなった時が、失望と我慢の始まりになる。まぁ、結婚と同じじゃな』
『け・・・結婚!?』
音楽と結婚の意味の結びつきが分からずに、私が目を見開いて驚いていると、学長先生はカホコもそのうち分かるよ・・・と言って意味ありげな視線を向けてくる。いや・・・君達には言うまでも無く必要ないかと、良く分からない事をぶつぶつ小声で呟きながら。
『例えばオーケストラ奏者場合は、室内楽やソロ活動に経験を生かすことも出来る。周りには洪水のように音楽が溢れているし、オケに在籍しながらでも技術を極め、素晴らしい曲や音楽家と出会う事が出来るんじゃ』
『永遠の学生って感じですね』
『そう、その通り!』
御名答!と、人差し指を立てて方目をウインクさせながら、お茶目に振舞う老紳士に、暗く沈んでいた心の底から光が差したように、自然と笑みが溢れてくる。仕草は愛嬌あるものだが、深く真摯な瞳の輝きと、私にも分かるようにとゆっくり分かりやすく語られる口調は、歴史に名を刻む音楽界の重鎮、世界の名だたる音楽家を育て上げた教育者のもの。
怖い・・・とさえ感じる凄まじい威圧感を、いまままでどこに隠していたんだろうと思える程に。
でも、怯んでなんかいられない。
せっかくの機会なんだもん。私だって、必死なんだから。
『教育者の場合もそう。教師とは、全く異なる理解レベルを示す個々の生徒に、自分の考えを常に分かりやすく伝えるというやりがいのある仕事じゃ。よく言われるように、生徒も先生となって教えてくれる。教える内容と、人間そのものに対する理解を深める努力を続ける事が大切だと、ワシは思っておる』
『じゃぁ私が、彼の側だけでヴァイオリンを奏でるのも、きっと意味があるんですよね! 私は、私の考えでヴァイオリンを弾いていても、いいんですよね!?』
勢い余って座ったソファーから腰を浮かせて迫り、手に持ったままのマグカップの中身をこぼそしうになりながら、向かいに座る学長先生に詰め寄った。
自分の中の答えが欲しくて・・・。
いや、答えは元からあったのだ。
けれども、私の考えでいいのだと言って欲しかった。
『自分のいる場所に価値を見出したときに、そこは君だけのステージになるんじゃ。豪華で広いコンサートホールにも負けずとも劣らない。君がヴァイオリニストとして目指すステージは、レンの隣なんじゃろう?』
必死な思いを隠す事もせずに真っ直ぐに見つめると、目元の深い皺に隠れて、瞳が見えなくなるくらいに、真摯な瞳がふわりと優しいものへ変わる。
『音楽を志す過程を一言で言うならば“果てしなき道”。始めの内は様々な制約に嫌悪感を覚えるかもしれん。しかしそうした制約は、人間として成長する上でとても重要で、避けては通れないものなんじゃ』
『果てしなき・・・道・・・?』
『物事には必ず意味や価値がある。オーケストラ奏者の役割、指導者の役割、君が奏でる意味と役割も。広く言えばカホコがここにいてワシと話していることや、レンの側に居ること、また暫く離れてしまう事にさえ一つ一つに必ず意味があるんじゃ。大切なのは、今の自分の役割と意味を見つけ出す事。出会いはいつだって偶然でなく、必然なのじゃから』
胸の中に熱いものが込み上げてきて、気を緩めれば瞳から涙が滲んでしまいそうで。
唇を強くかみ締めたまま、言葉は出せずに、力いっぱい大きく頷いた。
それに、この微笑や温かさにどこかで覚えがあると思ったら、蓮くんに似ているんだ。
音楽を深く愛し、真っ直ぐ情熱を捧げて真剣で。
どこまでも純粋で温かく、優しい。
この国で・・・蓮くんの周りに集うヴァイオリニストたちは、何て素敵な人たちばかりなんだろう。
『君の音色は温かくて優しくて、人を幸せにしてくれる。だからレンも、より多くの人にと望むのだろう。何よりも自分が一番幸せを感じているから。じゃが、君が彼だけにと望むのなら、それも一つの方法だ』
『蓮くん、私にもっと上手くなれって、だたそれだけを言ってた訳じゃ無かったんですね』
『君から温かさをもらったレンのヴァイオリンが、その温かさに彼の想いを乗せてより多くの人に音色を伝える。彼の音楽を聞いて同じように幸せを感じた人が、また他の誰かに優しくしたくなる・・・素敵な事じゃないかね?』
『学長先生・・・・・』
幸せの連鎖。
音色から音色、人から人へと伝わるごとに少しずつ大きく膨らんで。
彼だけではなく、音楽を通して多くの人を幸せにする可能性が私にもあるんだと。
そう言ってソファーから立ち上がると、再び窓辺に歩み寄っていく。石壁にはめ込まれ白い木枠の窓を開くと、大きく深呼吸するのが見えた。ひんやりとした空気が室内に入り込み、淀んだ空気を心の底から広い空へと連れ去ってくれるように感じる。いい風じゃな・・・と静かに呟くのが聞こえた。
風が、おいでと私の手を取り、窓辺へと誘ってくる。
大きく風を吸い込みながら、ゆっくり吐き出し深呼吸をすると、マグカップをテーブルに置いた。
本当にいい風だ・・・・。
カホコ・・・と、学長先生が窓辺に寄りかかりながら、少し離れたところにあるソファーへ座る私に語りかけた。
窓からの光でちょっとだけ逆光になるけれども、目を細めつつ影になった表情を何とか伺おうと試みる。
すると難しい顔をしているのに気が付いたのか、クスクスと可笑しそうな笑い声が聞こえた。
私、そんなに変な顔してたのかな・・・。
両手で頬を押さえながら、恥ずかしさで顔に熱が集まるのを感じてしまう。
『カホコは、ヴァイオリンが楽器の中でも最も複雑だと思っていないかい?』
『表現も、技術も、奥の深い・・・難しい楽器だとは思います』
『一見複雑そうに見えて、意外とシンプルなものなんじゃ。複雑にしているのは、まさに自分自身。いろいろな要素が複雑に絡まった糸をゆっくり紐解いて、包み込まれたシンプルを見つけてみるといい』
『知恵の輪とかパズルとかって、苦手だな・・・・』
『ほっほっ・・・・。まぁ〜そう言わずに。解いてみれば、複数だと思っていた糸も実は一本に繋がっていて、その先が大切な人へと繋がっているかも知れん』
カホコもこちらへおいで。
手招きと共に柔らかい微笑が向けられ、窓辺に走り寄ると、私が外を見やすいようにと脇に避けて場所を作ってくれた。ありがとうございますと、笑顔を向ければ、微笑が頬笑みに変わる。
瞳を閉じて心と身体を風に溶け込ませれば、下の部屋から届いてくる蓮くんのヴァイオリンの音色が直ぐ側に聞こえて私を包み込んでくれるような感覚に包まれる。
不思議だな・・・彼の音色は真っ直ぐこの部屋へと届いてくる。
まるで、私がこの部屋にいるのが分かっているみたいだ。
『講義棟裏手の緑地や大学構内の敷地には、音楽大学のシンボルであるリンデンバウム(菩提樹)が至る所に植わっておる。カホコはリンデンバウム・・・英語ではリンデンと言うんじゃが、その葉を見た事があるかね?』
『いえ・・・リンデンの木を見るのが、ドイツに来てから初めてでした』
『今度、レンと二人で見てみるといい。二人っきりでじゃ』
『二人っきりで?』
窓の白い木枠に手を置きながらきょとんと見上げると、これは取って置きの秘密なんじゃと人差し指を口に当てて内緒話のように顔を寄せてくる。ヴィルヘルム辺りが後をついてきたら、ワシが押さえ込んでやるからのうと笑いながら。一体リンデンの木や葉に、何の意味があると言うのだろう。
『リンデンバウムの花言葉は結ばれる愛。結婚や熱愛、夫婦の愛の意味も表す。恋人達を結ぶ木と言われているんじゃよ。葉もハートの形をしておるんじゃ。殆ど落葉しているが、探せば一枚くらい残っているかもしれん。ロマンチックじゃろう?』
『えっ・・・あのっ・・・・!』
『ほっほっ・・・真っ赤に照れて、可愛らしいのう。なぁ〜に、イリーナ嬢とゲオルクはワシの教え子なんじゃ。師匠として彼ら以上のおまじないをせねばと思っていたんじゃ。レンは知っているのかどうなのか・・・』
君から誘ってみるのはいかがかねと、火を噴出しそうな程に真っ赤に顔を染める香穂子に、悪戯っぽく語りかたりかける。夏になるといい香りがするんじゃよと・・・遠く懐かしそうな瞳をしながら。
今度はリンデンバウムの花が咲く頃に彼と一緒にまた来るといいと、そう微笑んで。
『ワシはいつでも、カホコのヴァイオリンを待っているよ。趣味で楽しく弾くのにも、上手く弾けた方がいいじゃろう? ワシは老後の楽しみとして、君の手伝いがしたいだけじゃ。ワシにも、君の音楽を聞かせてくれんかね』
『日本での学業の都合もあるから、今すぐにって訳には行きませんけど。いつかまたドイツに来た時には、よろしくお願いします』
『もうじきレンのレッスンも終わるじゃろう。きっと直ぐに駆けつけてくる。それまではもう少しここで、彼のヴァイオリンの音色に耳を澄ますとしようかの?』
『はい!』
蓮くん、私も見つけたよ。
大切な人の側で、大切な人たちのために・・・そこが私の目指すステージ。
真っ直ぐ目指して、その為の努力は惜しまない。
もしかしたら彼は残念がるかも知れないけれども、私は多くは望まないから。
早く来ないかな・・・。でももう少し、彼のこの音色を聞いていたいかな。